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聖アウグスチヌス:キリストの体にいなければ、キリストの霊によって生きる者はいない…キリストの体に入れ!

2022年07月04日 | お説教・霊的講話

2022年7月3日 聖霊降臨後第四主日 東京の説教

レネ神父さま

親愛なる兄弟の皆さん、

魚の驚くべき豊漁(ほうりょう)は、奇跡として、本当に起こったことですが、それはまた、特に最初の数世紀の間に起こった非常に多くの人々の改宗および教会の拡大という、霊的な奇跡のしるしでもあります。

初期のキリスト教徒が魚のシンボルを用いたのは、ギリシャ語で魚という言葉、「ἰχθύς ― イクテュス」が、「Ἰησοῦς Χριστός θεοῦ υἱός σωτὴρ (イエスース・クリストス・テウー・ヒュイオス・ソーテール)― 即ち、救い主なる天主の御子イエズス・キリスト」の頭文字になっているためです。この魚のシンボルは、迫害時代の初期キリスト教徒の家に見られます。

また、私たちの主イエズス・キリストご自身が、「天の国は、海に投げられて、いろいろなものを拾い上げる網(あみ)に似ている」(マテオ13章47節)と言っておられます。実際、改宗者の中には、改宗前にそれなりの人だった人たちもいれば、大変な罪人だった人たちもいました。私たちの主イエズス・キリストの恩寵(おんちょう)は、その両者を改宗させる力を持っているのです!

魚は実際、新たに洗礼を受けた人たちを表しています。なぜなら、特に初代教会では浸礼(しんれい)による洗礼式が行われていたからです。ですから、けさは、私たちの洗礼の恩寵について思いを巡(めぐ)らし、私たちの洗礼に忠実に生きる恩寵を願い求めましょう。

洗礼は天主の恩寵の一つであり、私たちは、まったくそれを受けるに値(あたい)しません。このことは、最も良い洗礼である、幼児洗礼を受けたすべての人々にとって、きわめて明白なことです。幼児たちは、洗礼以前に、洗礼を受けるに値するものを何も持っていなかったのですから。幼児たちの両親が、この偉大な賜物における天主の道具だったのです。自然の命という賜物に値する者が誰ひとりいなかったように、超自然の命への誕生という天主からの最初の恩寵に値する者は、誰ひとりいないのです。このことは、その後の人生で洗礼を受けたすべての人にも当てはまります。人はそれぞれ、洗礼以前の自分の罪と、その最初の恩寵と召し出しに値しなかったことを思い出すことができるでしょう。「あなたたちは、その恩寵により、信仰によって救われた。それはあなたたち自身によるのではなく、天主の賜物である」(エフェゾ2章8節)。

洗礼は始まりであり、新しい誕生です。「まことにまことに私は言う。水と聖霊によって新たに生まれぬ者は、天の国に入れぬ」(ヨハネ3章5節)。聖ヨハネが「その方を受け入れた人々にはみな、天主の子となれる力を授(さず)けた」(ヨハネ1章12節)と言っているように、洗礼によって、私たちは「新たに生まれ」、新しい命を受け、天主の命にあずかり、天主の子となったのです。聖パウロが、天主は「イエズス・キリストによって私たちをご自分の養子(ようし)にしようと予定された」(エフェゾ1章5節)と言うように、私たちは天主の養子になるのです。

ここに、非常に重要な真理があります。洗礼によって、私たちは天主の子となりますが、天主にはただ一人の子、すなわち「御独(おんひと)り子」しかおられません。どうしてそのようなことが可能なのでしょうか? この方は、生まれによって御独り子であり、この方のみが、御父と等(ひと)しい天主の本性を完全にお持ちになっています。私たちはキリスト・イエズスにおいての養子です。つまり、私たちの主イエズス・キリストの肢体(したい)として、聖パウロも「子は体のかしら、つまり教会のかしらである」(コロサイ1章18節)と言うように、キリストの神秘体の肢体として、私たちは養子なのです。

洗礼の恩寵は、ただ私と天主の間だけの孤立(こりつ)した恩寵ではなく、むしろ他のすべての肢体とともに、キリストの神秘体において一体とされることによってのみ、受けられるものなのです。聖アウグスティヌスは、その点を教理として発展させています。

「キリストの霊によって生きたいのなら、キリストの体になれ。キリストの体にいなければ、キリストの霊によって生きる者はいない…だから、キリストの霊によって生きたいか?キリストの体に入れ!…キリストの体は、キリストの霊によらなければ、生きることはできぬ!」1。キリストの体とは、つまり、カトリック教会のことです。

聖アウグスティヌスは、私たちの主の言葉を説明して、こう言っています。「私の与えるパンは、世の命のための私の肉である…もし信者がキリストの体であること(すなわち、教会の良い肢体として生きること)をおろそかにしないならば、信者はキリストの体を知っている…これは、使徒パウロが、私たちに説明していることである。『パンは一つであるから、私たちは多数であっても一体(即ち、一つのパンであるご聖体にあずかるすべての人)である』【コリント前書10章17節】。ああ、あわれみの秘跡よ! ああ、一致のしるしよ! ああ、愛の結びつきよ! 生きたいと思う者には生きる場所があり、命の源がある。来て、信じよ、そうすれば、一体とされて生きることができる!」。これが私たちの内におられるキリストの命です。それは生きた信仰によるものであり、キリストの神秘体に一体化された命です。その命は、ご聖体によって養われ、私たち全員をキリストにおいて、一つの体に結びつけるのです。

聖アウグスティヌスは、続いて、道徳的な勧告を与えます。「他の肢体と一緒にいることを拒(こば)むな。切り落とされるに値するような腐敗(ふはい)した肢体になるな。恥(はじ)となるような腐敗した肢体になるな。清くあれ。他の人たちにふさわしくあれ。健全であれ。神秘体から離れるな。天主からの天主のために生きよ。後に天で治(おさ)めるために、今は地で働け!」。

さて、この聖アウグスティヌスの一節は、先日の教皇フランシスコの使徒的書簡「デジデリオ・デジデラーヴィ」(Desiderio Desideravi)で引用されています。その中で、教皇は典礼の内的生活を強調しています。それを、聖伝のミサに適用するならば、そこにはいくつかの重要な真理があります。例えば、単に外的な儀式ではなく、内的な方法で典礼にあずかることが重要であることです。また、すべてのミサは、私たちの主イエズス・キリストとの出会いであるべきことです。私たちは主を探し求めますが、それ以上に、主は熱心に私たちを求めておられます。それに対する私たちの応答は、自らを主に対する完全な捧げ物とすることであるべきです。キリストとの結びつきは、キリストの体の他のすべての肢体との結びつきでもあります。私たちはみな、キリストにおいて一つになり、同じご聖体にあずかる私たちはみな、一つの体になるのです。礼拝は、このキリストへの、そしてキリストと共にある従順にあるのです。

教皇は、「典礼の神学的理解の再発見」を望んでいますが、しかしそれは、正しい神学に忠実であろうとすれば、聖伝のミサにおいてのみ可能なことです。新しいミサでは、「過(す)ぎ越(こ)しの神秘」の近代主義的な新しい解釈が見られます。これは、十字架から復活へと重点を移し、あたかも私たちが十字架によってではなく、むしろ復活によって救われたかのような解釈です。このような新しい考え方は、聖書と、教父たちや教会の不変の教えの、両方に反しています。

教皇は、「祭儀挙行(さいぎきょこう)の美しさ」を望んでいますが、それは新しいミサではなく、聖伝のミサに見られるものです。「美は、真理と同様に、常に驚きを生み、それが天主の神秘に言及されるとき、礼拝につながるのです」と教皇は言っていますが、それは聖伝のミサに見られるものなのです!

しかし、教皇は聖伝のミサを完全に消し去り、新しいミサに置き換えようとしています。これはうまくいかないでしょう。この50年の歴史を見れば、新しいミサは、第二バチカン公会議の誤謬(ごびゅう)を世界中に広める手段でした。もし新しい典礼がなかったならば、公会議の誤謬は少数の神学者にとどまり、その影響は最小限だったことでしょう。しかし、この新しい典礼は、近代主義のウイルスを世界中に広めて、特に召命(しょうめい)、福音宣教、修道生活、さらには司祭や信者の道徳に壊滅的(かいめつてき)な影響を与え、マッカリック枢機卿(すうききょう)のような非常に高い地位にいる人にさえ多くのスキャンダルがあり、非常に多くの現代の誤謬や不道徳が反論されない状況となっています。

私たちの主は、私たちに、「木はその実(み)によってわかる」(ルカ6章44節)と言われました。新しいミサの実は、教会にとって非常に苦(にが)い実でした。新しい典礼のせいで、教会のすべての肢体が苦しんでいます。教会に新しい活力(かつりょく)を与えることは、聖伝のミサ及び典礼と、聖伝の典礼に具現されている変わることのないカトリック信仰に完全に立ち戻ることによってのみ、可能となるでしょう。

聖アウグスティヌスの、まさにあの一節を例にとってみましょう。教皇は次の言葉だけを引用しています。「ああ、あわれみの秘跡よ! ああ、一致のしるしよ! 愛の結びつきよ!」。これは実に素晴らしい言葉です。しかし、教皇は、 肝心の言葉を引用していません。「キリストの体にいなければ、キリストの霊によって生きる者はいない…だから、キリストの霊によって生きたいか?キリストの体に入れ!」。

皆さんお分かりのように、これらの言葉は、現代のエキュメニズムを非難しているものです。近代主義者たちが教父たちを引用しているときはいつも、本来の一節を確認することが、常に有益です。近代主義者たちは教父たちに不忠実ですから、非常に多くの場合、近代主義者たちが何かを引用するのを避けていることがわかるでしょう。

忠実の恩寵を願い求めましょう。特に昨日(きのう)お祝いした童貞聖マリアのご訪問で、聖エリザベトが聖母に言った次の言葉の恩寵を、願い求めましょう。「ああ幸せなこと!信じた方は」(ルカ1章45節)。聖母は「信実(しんじつ)なる童貞」です。聖母は信仰を持ち、ご自分がお受けになったことに忠実で、「注意深くそのことを心にとどめて考えつづけて」(ルカ2章19節)おられました。

アーメン。








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