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【参考文献:ヴィガノ大司教】NON SERVIAM(私は仕えない): ヘロデからダボスまでの革命の歴史

2023年01月25日 | カトリック・ニュースなど

【参考文献:ヴィガノ大司教】NON SERVIAM(私は仕えない): ヘロデからダボスまでの革命の歴史

2022年12月16日(金曜日)

NON SERVIAM: A History of Revolutions from Herod to Davos

カルロ・マリア・ヴィガノ

DESIDERATUS CUNCTIS GENTIBUS(諸国の民にとって待ち望める者):天主のみ言葉がご托身になったことは、教会と国家に対するキリストの主権の始まりである

Discite justitiam moniti, et non temnere divos.
Vendidit hic auro patriam, dominumque potentem
imposuit, fixit leges pretio atque refixit;
hic thalamum invasit natæ vetitosque hymenæos;
ausi omnes immane nefas ausoque potiti.

警戒して正義を学べ、神々を侮るなかれ。
これは黄金のため祖国を売り、過酷な専制君主を置き、
報酬のため法を作り、また作り直しし者、
禁じられたる婚姻のため、娘の寝室に侵入せし者、
みな最悪の非道をあえて試み、実行せし者なり。

- Æn., VI, 620-624
「アエネーイス」第6歌620-624

1.前文

キリストの王権に関する教理は、カトリック教会と「公会議の教会」との〈区別〉(discrimen)を構成するものであり、実際、その区別は、カトリックの正統と新近代主義の異端の間の〈あの〉分岐点です。なぜなら、非宗教主義(laicism)や自由主義的な世俗主義(liberal secularism)の信奉者たちは、私たちの主の主権が世俗(市民)の領域に及ぶこと、それによって、権力者の恣意や操作されやすい民衆の意志に従属することを世俗(市民)の領域から排除することを受け入れることができないからです。

しかし、権威が超越的な原理に基礎を置くという考えは、キリスト教とともに生まれたのではなく、ギリシャ・ローマ時代の遺産の一部です。同じギリシャ語のἱεραρχία【hierarchia 聖なる支配】は、一方では「神聖なものの管理」を示していますが、他方では権威の「神聖な力」のことも言っており、この言葉に付随した約束事は、まさに、国家が責任を負う公職であるλειτουργία【liturgia 典礼】なのです。

同様に、この原則の否定は、異端思想やメーソン・イデオロギーの専権です。国家の非宗教性(laicity)はフランス革命の主要な主張であり[1]、プロテスタンティズムはその神学的基盤を提供しましたが、その基盤は後に、自由主義や無神論的唯物論の出現により哲学的誤謬へと変化したのです。

時間の経過を超え、空間の境界を越えて、人類をキリストの啓示の完成へと導く、完全に首尾一貫した調和のとれた全体像というこのビジョンは、かの文明に特有のものであり、ディストピアの名の下にかの文明は除去され取り消されることが望まれたのです。なぜなら、ディストピアは、本質的に不敬であるがゆえに非人間的であり、また、高慢さと天主のご意志に対する反逆のせいで至高の善を永遠に奪われた、敵対者【悪魔】の抑えきれない憎悪に由来するものであるからです。

私たちの同時代の人々が現在の危機の理由を理解できないのは、驚くに当たりません。御摂理の教育的介入のおかげで歴史の過程で築かれた知恵と記憶という遺産を、彼らは奪われることを許してしまったからです。御摂理は、すべての人々の心に、人生のあらゆる局面を導くべき永遠の原則を刻んでいたのです。

この素晴らしいπαιδεία【paideia教育】によって、天主から遠く離れ異教の闇に浸っていた諸国民は、歴史における超自然の次元の突然の出現、すなわちキリストの到来を、自然の手段によって、前もって準備することができました。キリストにおいてすべてが復興され、すべてが天主のκόσμος【cosmos 宇宙・世界】の一部であることが示されるのです。

ウェルギリウスは「アエネーイス」を不完全なものとみなして破棄するよう遺言で残していましたが、アウグストゥスがその出版を命じたとき、ちょうど帝国全土で〈ローマによる平和〉(Pax Romana)が始まったところでした。天主の御子のご托身を歓迎し、人類をサタンの奴隷状態から救うために、世界に与えられた平和です。その荘厳で神聖な平和の響きは、今日も「ローマ殉教録」の壮大な言葉に響き、ご降誕祭前日の朝、私たちは再びそれを聞くことになります。

Ab urbe Roma condita anno septingentesimo quinquagesimo secundo, anno imperii Octaviani Augusti quadragesimo secundo, toto orbe in pace composito… Jesus Christus æternus Deus æternique patris Filius, mundum volens adventu suo piissimo consecrare, de Spiritu Sancto conceptus, …in Bethlehem Judæ nascitur ex Maria Virgine factus homo.

(ローマ市の創建から752年、皇帝オクタヴィアヌス・アウグストゥスの治世の第42年、全世界は平和であった。…永遠の天主、永遠の御父の御子であるイエズス・キリストは、その最も愛すべきご来臨によって世界を聖別しようと望まれ、聖霊によって宿り給うた。…そして、ユダのベトレヘムで童貞マリアから生まれ、人となり給うた。)

救い主のご誕生のわずか40年前、ウェルギリウスは、ローマに留学していたヘロデの息子たちと交際する機会を得ました。彼は、彼らから、旧約のメシア預言と、彼の牧歌第4歌に歌われている、間近に迫った〈幼子〉(Puer)誕生の告知を知ることになったのです。

Jam redit et Virgo, redeunt Saturna regna,
jam nova progenies cœlo demittitur alto.
Tu modo nascenti Puero, quo ferrea primum
desinet, ac toto surget gens aurea mundo,
casta fave Lucina: tuus jam regnat Apollo.[2]
今や乙女なる女神も帰りきて、サトゥルヌスの王国はもどってくる。
今や新たな血統が、高い天より降りてくる。
さあ清らかなルキナよ、生まれ出る子供を見守りたまえ。
この子とともに、ついに鉄の種族は絶え、黄金の種族が
全世界に立ち現われよう。今や、あなたの兄アポロの世が始まる。
【小川正廣訳】

また、ダンテが「神曲・煉獄篇」(Purgatorio、第22歌70-72)の中で詩人スタティウスが【ウェルギリウスの詩を】回想するところを紹介しています。

Secol si rinova;
torna giustizia e primo tempo umano,
e progenie scende da ciel nova.

新しき世紀は来りぬ、
正義は、人間の原初の時は、帰り来りぬ、
天上より新しき子孫は降り来たまいぬ。
【平川祐弘訳】

キリストの出現を待ち望むこの不安の中で、アウグストゥスは、ウェルギリウスの詩に、一世紀にわたる内戦の後、平和が実現した世界への憧れを見いだし、その詩を破壊から救いました。アウグストゥスは「アエネーイス」に、天主のご意志とそれに由来する祖国(Patria)と家族への絆を尊重する限りにおいて、御摂理によって歴史の偶発的な出来事に挿入され、永遠に固定された天主のご意志に参加しているという、信心深い(pius)と自認する人々のモデルを見いだしたのです。

私たちは、たとえ信仰を持っていなかったとしても、まっすぐで正直な人の霊魂が、崇高な運命に感動する理由を簡単に理解することができます。崇高な運命の前では、嘘つきで偽りの神々は沈黙し、シビュラ【アポロの巫女】は無言になり、アラチェリ(Aracœli)の神託は引き下がるのです。次に、運命(ラテン語ではfas 英語ではfate)には動詞fariを参照しており、この動詞は「語る」という意味で、天主のみ言葉、つまり御父によって発せられた永遠の御言葉を指していることが分かります。キリスト信者は、父としての非常に多くの善意によって、すなわち、人類の贖い主であるキリストの光に向かって闇の中をさまよう人類に寄り添っているこの御摂理の手によって、喜びを感じ続けているのです。

歴史と歴史に対する天主のご介入に関するこのビジョンには、言葉にできない何かがあります。霊魂に触れ、霊魂を善へと駆り立てて、英雄的行為の希望を、そのために戦い、自分の命を捧げるべき理想への希望を目覚めさせる何かがあるのです。

このように現世と永遠、自然と恩寵が完璧に結びついた上で、世界は約束されたメシア、平和の君、罪と死に勝利する〈平和の王〉(Rex pacificus)、〈諸国の民にとって待ち望める者〉(Desideratus cunctis gentibus)を歓迎し、認めることができたのです。高間の部屋からカタコンベまで、最初のキリスト信者の共同体から真の天主の礼拝のために改造されたローマのバシリカ【聖ペトロ大聖堂】まで、主が使徒たちに教えられた祈りが掲げられています。〈御国の来らんことを、御旨の天に行わるるごとく、地にも行われんことを〉(adveniat regnum tuum, fiat voluntas tua sicut in cœlo et in terra.)。こうして、異教徒の帝国がキリスト教の発祥地となり、独自の法律と市民的・社会的影響力をもって、福音の伝播と霊魂のキリストへの改宗を可能にしたのです。確かに、素朴な霊魂ですが、博識な人々、ローマの貴族、帝国の役人、外交官、知識人の霊魂もあり、彼らは、〈敬虔なるアエネーイス〉(pius Æneas)のように、自分たちが御摂理にかなった計画に関与しており、その市民の聖徳、贖いがなければ不完全で不毛だったはずの、その正義と平和への熱望に意味を与えるよう求められていることを、何とかして理解したのです。

2.国家の「御摂理的」役割

救いの経綸は、この「中世的」かつキリスト教的な事象のビジョンにおいて、個人が天主の御摂理のこの偉大な計画の一部となる特権を持つことを認めています。歴史の中で天主のご介入における人間の〈積極的参加〉(actuosa participatio)――親愛なる革新主義者の言い回しを借りることをお許しください――、その参加においては、各人の自由は、道徳的選択に直面しており、それゆえその選択はその人の永遠の運命にとって決定的なものです。善と悪の間の、つまり、天主の御旨に合わせる(御旨の行われんことを fiat voluntas tua)か、天主に背いて自分の意志に従う(私は仕えない non serviam)かの間の選択です。

しかし、まさに各個人が御摂理の行動に従う際に、私たちが理解するのは、どのようにすれば、これらの個人で構成される地上の社会が、今度は天主のご計画の中で役割を担い、そのメンバーの行動が、支配者の権威によって、同じ目的を追求するために彼らを結びつける共通善(bonum commune)へと、より効果的に導かれるのが可能になるのか、ということです。

国家は、完全な社会として、すなわち、〈なしとげられるべき一つのもの〉(quid unum perficiendum)の追求に必要なすべての手段を自ら所有している社会として、それゆえ、それ自身の機能を持っています。つまり、主要には市民らの善のため、市民らの正当な利益の保護、外敵および内敵からの祖国の保護、社会秩序の維持のために秩序づけられた機能です。言うまでもなく、文明人は、ジャンバッティスタ・ヴィーコの極めてキリスト教的なビジョンに従って、先人のなした試みと失敗とを経験することで、歴史の研究の重要性を理解して、真の進歩を可能にし、アリストテレス・トマス主義的思想の有効性を認めてきたのです。何故なら、抽象的な哲学理論を創り上げてそれを基礎とするのではなく、まさに現実の知識を基礎として発展したからです。

この〈善政〉のビジョンは、シエナのプッブリコ宮にあるアンブロージョ・ロレンツェッティによるフレスコ画に象徴的に表現されており、中世社会の深い宗教性を裏付けています。確かに制度の宗教性ですが、しかしこの宗教性を共有し、自らのものとした人々は、公的機能を身にまといつつ、自分たちの役割を創造主によって社会に刻み込まれた天主の秩序(正確にはκόσμος)に一致した表現として考えたのです。

このローマ帝国の歴史的役割については、「アエネーイス」(第6歌850-853)にその例があります。

Tu regere imperio populos Romane memento
hæ tibi erunt artes, pacisque imponere morem,
parcere subjectis et debellare superbos.

だが、ローマ人よ、そなたが覚えるべきは諸国民の統治だ。
この技術こそ、そなたのもの、平和を人々のならわしとせしめ、
従う者には寛容を示して、傲慢な者とは最後まで戦い抜くことだ。
【東道男・高橋宏幸訳】

あるいは、

だがローマ人よ、おまえは采配をふるい、諸国民を治めよ。覚えておけ、
これこそがおまえの技(アルテース)なのだと。平和の礎(モーレース)を与え、
従うものは懐(なず)け、仇なすものは平らげよ。
【杉本正俊訳】

【直訳】ローマ人よ、おまえは命令により諸国民を統治するを覚えよ。
この技術はおまえのものとなるだろう、平和の習慣を押し付け、
従う者らには赦しを、傲慢な者らは平定せよ。

ローマを偉大にしたのは、この御摂理にかなった使命の自覚でした。しかし、その没落を決定づけたのは、道徳の堕落によってこの任務を裏切ったことでした。

3.非宗教性という概念と権力の世俗化

プロテスタントの偽の宗教改革以前のどの時代でも、西洋諸国の支配者と臣民の双方にとって、「国家の非宗教性」(laicity of the state)という概念は全く考えられなかったため、それ【国家が宗教を持つ】以外には不可能でした。ルネサンス後期以降になってやっと、無神論の理論化によって、個人が神的なものに公的礼拝を捧げる義務から解放されることを許す哲学的思想の形成が可能になっただけであり、メーソンの原理は、啓蒙主義に始まり、フランス革命、神授の君主制の転覆、カトリック教会の激しい迫害に続く世俗社会の強制的な世俗化を通じて、広まっていきました。

今日、現代社会は自らの非宗教性を主張することを利益と考えていますが、ギリシャ・ローマ世界では、神々に対する反抗は不敬のしるしであり、その権威は上から認可され承認された権力の表現である国家に対する反乱のしるしであると考えられていました。〈警戒して正義を学べ、神々を侮るなかれ〉(Discite justitiam moniti, et non temnere divos)と、奈落(Tartarus)に投げ込まれ、休むことなくこの警告を叫び続けるように宣告されたプレギュアースを戒めています(「アエネーイス」第6歌620)。私たちがキリスト教の普及を当然の前提として受け継ぎ、中世が認識し評価した古典文化は、それゆえ、〈神々を侮るなかれ〉(non temnere divos)という義務に基づいており、祖国への裏切りから専制政治の確立まで、経済利益のための法律の公布や廃止から市民生活の最も神聖な戒律の侵害まで、〈宗教〉(religio)の欠如がいかに国家の破滅の原因となるかを示しています[3]。このような懸念がいかに根拠のあるものであったかを示すものとして、あえて現代社会の廃墟を思い浮かべてみましょう。この廃墟では、母親の胎内の罪なき人々の殺害、ジェンダー論や子ども時代の性教育による子どもの堕落、小児性愛者のロビー活動による地獄の儀式での子どもの搾取といった前例のない恐怖を合法化することができ、そのロビーの悪名高いメンバーは権力の座に就き、今のところあえて誰も非難しようと試みはしないのです。現代世界は、悪と死に身を捧げる悪魔の手先のセクトに支配されています。このような醜悪なものに目をつぶって沈黙している人々は、天主の御前で復讐を叫ぶ恐ろしい犯罪の罪深い共犯者なのです。

4.権威の神聖さ

フランス革命までは、天主の御名の下において、支配者は権威を行使することにその正当性を見いだし、同時に統治される人々は、権力の濫用から自分たちの権利が保護されると考えていました。なぜなら、社会全体が唯一の主の最高権力の下に位階的に秩序づけられており、主は、まさに王や君主、教皇や高位聖職者の裁判官でさえあるという理由から、〈恐るべき御稜威の王〉(Rex tremendæ majestatis)として認識されていたからです。教会で描かれる最後の審判の場面では、王冠【王】、三重冠(ティアラ)【教皇】、ミトラ【司教】が地獄の描写の中に点在しています。

この権威の神聖さは、もともと中立的な存在として生まれた権力に後から付け加えられた概念ではありません。それどころか、あらゆる権力は、イスラエルでも異教の国々でも、その起源を常に神性への言及に見いだし、西欧世界ではキリスト教の出現と皇帝テオドシウスによる国教としての承認によって、超自然的な任命の完成を獲得したのです。こうして、東方の皇帝は、ビザンチン帝国でラテン語を話す宮廷では〈チェザル〉(Cæsar)でしたし、ロシアの〈ツァーリ〉(Czar、царь)とブルガリアの〈ツァール〉(Czar)も同じく〈チェザル〉でした。最後に神聖ローマ帝国があって、その最後の君主である福者カール・フォン・ハプスブルクは、第一次世界大戦によりフリーメーソンによって転覆させられました。

将来の君主、貴族、聖職者を教育することは、彼らの知的、実用的な指導をするにとどまらず、確固たる原則や規律を守る習慣、情熱をコントロールする能力や統治の徳の実践を保証する特定の道徳的、精神的な育成を必然的に提供するものとして最も高く評価されました。社会制度全体が、権威を行使する者に、王たるキリストの御前での責任を自覚させたのです。キリストは、この世の王権と霊的王権の唯一の保持者であり、地上の彼の役務者たちは厳密に代理の形で行使しなければなりませんでした。このため、例えばシュヴァーベン公フリードリヒ二世の場合に起こったように、教会の霊的権威が君主の現世的権威に優越することによって、ローマ教皇は権力を濫用する王の臣下たちを、【王に対する】服従義務の絆を解くことができた【教皇は国民が権力を濫用しているフリードリヒ二世に従う義務がないと宣言した】のです。

5.あらゆる権威に及ぶ世俗化

世俗の権威の世俗化に続いて、最近では宗教的権威の世俗化も進んでいます。宗教的権威は、第二バチカン公会議によって、その神聖さが大幅に剥奪されました。それは、外面的にだけではなく【理論的にそうでした、つまりその理論によれば】、教会の権力は洗礼の力だけから下【天主からではなく民】からやって来るとされ、【この権力は洗礼を受けた】「司祭的な民」によって【一部の】代表者たちに委任され、「座長を務める」さまざまな任務がこの代表者たちに対して授与されるという、カルヴァン主義のセクトと同じように冒涜的な(そして革命的な)見解に利するためでした。

この逆説は、ここでさらに明白になります。なぜなら、世俗化は、真の宗教の権利を認めない世俗社会内部での寛容の力学を教会に持ち込み――それによって教会の本質を歪め――、寛容の力学を教会自らのものとすることによってこの力学を正当化する結果になるからです。この観点から、今日、「シノダリティーに関するシノドス」が民主的で議会的な調子で宣伝している非常に深刻な逸脱は、公会議が理論化した原則を実践しているにほかなりません。公会議のために、非宗教性――すなわち、地上的権威とその超自然的正当性の間のつながりの断絶――が、あらゆる人間社会に及ぶべきであり、同時に、あらゆる「神権的」誘惑も時代遅れで不適切なものとして排除すべきであるとされているのです。

必然的に、家長(paterfamilias)から教師、判事から政府役人に至るまで、この世俗化のプロセスの及ばない権威は存在しませんでした。【以前は】権威に服してそれに従う者たちの義務、また、知恵と慎重さをもって権威を執行してそれを行使する者の義務は、天主の父性を想起させていました。そのため、【反乱しようとする者たちにとって】権威は不当なものとされなければなりませんでした。何故なら、反抗は主として父なる天主の権威に反するものだからです。「1968年」の革命は、「革命」の小枝に過ぎませんでした。その中では、最低限の社会秩序を保証するために、功利主義や利便性のために自由主義が温存してきたものは、ついに解体され、西洋諸国を無政府状態に導いたのです。

6.秘密結社の破壊転覆的行動

かの悪名高いセクトは、王座と祭壇とが同盟を結ぶ力を知っており、カペー朝を皮切りに、支配者を腐敗させ、貴族をその仲間に引き入れようと陰で画策していました。実際には、すでにドイツ諸侯領ではプロテスタントの異端が、そしてヘンリー八世のイングランドでは英国国教会の離教があり、教皇権とそれに忠実な正統な君主に反対するグノーシス派の新入会者たちの秘密集会が活発に行われていました。

しかし、革命とは、カトリック諸国から信仰を奪うため、自分たちのイデオロギーの目的と経済の目的のためにカトリック諸国を奴隷にするために、秘密結社がカトリック諸国を攻撃した主要な手段であることは確かであり、文書化されています。フリーメーソンが行為するところはどこでも、それは同じ道具と同じ宣伝を使います。その理由は、公共機関の世俗化、国家宗教の廃止、教会の特権とカトリックの教えの廃止、離婚の合法化、姦通の非犯罪化、ポルノやその他の悪徳の蔓延を実現するためです。なぜなら、日常生活のあらゆる面で、そのキリスト教的世界は消去され、最も卑しい快楽の充足に専念し、聖徳、誠実さ、正義を嘲る不敬で無宗教の社会と取り替えなければならなかったからです。これらは自由主義思想の「成果」で、最も忌々しい反聖職者主義は、これを「進歩」と「自由」と呼んでいるのです。

教導権が秘密結社に対して無数の非難をしてきたことは、国家の平和と霊魂の永遠の救いに対する脅威【から守るという理由】によって十分に正当化されました。教会が世俗の【国家】権威と結びついている限り、フリーメーソンの行動はゆっくりであり、フリーメーソンはその犯罪的意図を隠すことを余儀なくされました。

フリーメーソンは忍耐強く潜入活動を続けたために、また、19世紀末に近代主義のおかげでその潜入が完了したために、教会の権威は腐敗し、フリーメーソンは、反抗的で姦淫を犯す聖職者たち――彼らは知性と意志を迷わされ、そのため容易に奴隷状態となって脅迫されるようになってしまったので――の共犯をあてにできるようになったのです。彼らの教会内での昇進は、聖ピオ十世の先見の明のある警戒によって阻止されたのですが、衰弱したピオ十二世の教皇在位の最後の数年に静かに再開され、ヨハネ二十三世の下で勢いを増しました。彼自身もおそらく教会ロッジのメンバーだったのかもしれません。各個人の腐敗が、その人たちの属する組織の崩壊につながるということを、私たちはまたもや見ることになります。

7.市民的・社会的・経済的革命

1789年にフランスで始まった革命は、同じ方法で実施されました。まず貴族と聖職者の腐敗、次にあらゆるところに潜入した秘密結社の活動、次に君主制と教会に対するメディアのプロパガンダ、そして同時に、国際大金融の投機と欧州の経済システムの変容に対する国家の対応の不十分さによって、貧窮し税金を負担していた人々を扇動するための、街頭暴動や抗議行動の組織化と資金調達です。その際、フリーメーソンの破壊転覆的理論を真の革命に転換させた主なテコは、貴族と教会の資産を横取りすることに最大の関心を持つ階級に代表されます。それは、不動産、調度品、美術品などの貴重な遺産を売り払うためだけではなく、それまで大部分は自然のリズムと古風なシステムに従って作物を生産させていた広大な土地の利用を始め、従来の社会経済構造を根本的に変革するためでした。

実際、フランス革命の後、第一次産業革命が起こり、蒸気機関の発明と生産の機械化によって、労働者や農民が畑から大都市に大量に移動し、彼らは安い労働力に変えられました。彼らは、自立した生活手段を持つ可能性を奪われ、新しい税金や関税によって悲惨な状況に追い込まれました。19世紀全体は、革命のイデオロギー的母体が、経済的利益と金融支配に本質的に結びついた教理的な異端に基づいていることを確認している時代です。

第二次産業革命は、パリ会議(1856年)からベルリン会議(1878年)までの間に起こったもので、主に欧州、米国、日本が電気や大量生産などの新しい、強制的な技術革新を行いました。

第三次産業革命は1950年代に始まり、中国やインドにまで及び、主に技術革新、IT化、テレマティクス化【カーナビのような移動体に通信システムで情報をリアルタイムで提供すること】、そして〈ニューエコノミー〉、〈グリーンエコノミー〉、情報統制へと拡大していきました。これにより、科学技術が人類の物質的幸福をもたらす可能性を確信する新実証主義の文化的風土が形成されるはずでした。大衆を操作するという行為は、社会がどのようなものになり得るかという想像力に十分なスペースを与え、SFという映画のテーマを通じてそれを示唆するものでした。

2011年以降、物理的世界、デジタル世界、生物的世界の相互浸透が進み、第四次産業革命がついに始まりました。人工知能(AI)、ロボット工学、モノのインターネット(IoT)、3Dプリンター、遺伝子工学、量子コンピューターなどの技術の進歩が組み合わさったものです。このディストピア的プロセスの理論家は、世界経済フォーラムの創設者兼会長である悪名高きクラウス・シュワブです。

8.全体主義の前提としての権威の世俗化

霊的権威と現世的権威の間の調和と位階的相補性を人為的に分離することは、それが実行されるたびに、専制政治や無政府主義の前提を作り出す不幸な操作で終わりました。その理由はあまりにも明白です。キリストは教会と国家の両方の王であり、その理由は、天主から出ない権威はない(ローマ13章1節)からであり、また、道徳律が不在である条件下では、国家は天主のご意志とは無関係に自らの意志を押し付けることができ、したがって〈天主の国〉(Civitas Dei)という天主の〈秩序〉(κόσμος)を破壊して、〈悪魔の国〉(civitas diaboli)という恣意性と地獄の〈混沌〉(χάος)に置き換えてしまうからです。

今日、西洋諸国は、その決定について天主にも人民にも責任を持たない権力者の人質となっています。なぜなら、彼らは上からも下からも正当性を得ていないからです。世界経済フォーラムの破壊転覆的なロビー活動によって準備され実行されたクーデターは、外圧を用いて政府を独立した地位から、事実上追い出し、国家から主権を奪ったのです。しかし、新世界秩序の支配者たち(彼らに関することはすべて〈新しく〉、打倒すべきことはすべて〈古い〉のです)は、自分たちが最終的な勝利に近づいていると信じて、その計画を明らかにした傲慢さのために、これが消滅するプロセスが今、露呈しています。確かに保守主義だとして非難されない知識人でさえ、クラウス・シュワブやその手先がなしている国家統治への耐えがたい干渉を非難し始めているほどです。数日前、フランコ・カルディーニ教授は、こう宣言しました。「経済と金融を管理する勢力は、今や政治家階級を選び、腐敗させ、決定し、それによって政治家階級はビジネス委員会(comitato d’affari)と化しています」(こちら)。そして、この「ビジネス委員会」の背後には、国家経済を損なうような盲目的な利益追求の目的があるだけでなく、人口を細かく管理し、強制的に人口を減らし、公共サービスの完全民営化のために病気を慢性化させるという不穏なプロジェクトがあることもよく承知しています。この〈グレート・リセット〉を統率する精神は、過去数世紀のブルジョワジーや高利貸しを動かしていたものと同じで、貴族や聖職者が利益の源泉と見なしていなかった広大な土地を利用することに関心があるのです。

おれはあいつがだいきらいだ、キリスト教徒だからな。
だがそれより気に食わんのは、謙遜ぶってばか面さげ、
ただで人に金を貸しやがって、ヴェニスのおれたち仲間の
金利を引き下げてることだ。[4]
【小田島雄志訳】

このような人々にとって、人類とは、迷惑な邪魔者であって、彼らの犯罪的な目的を追求するために利用し、道具化しなければならないものであり、またキリスト教道徳とは、金融の手の中にある【金融資本がコントロールすることが可能な】政府を確立するにとって忌まわしい邪魔物なのです。今日これが可能であるとすれば、それは彼らの妄想に歯止めをかける超越的な道徳的基準も、この私的利益への卑劣な隷属から免れている権力も存在しないためです。そして、ここで私たちは、現在の状況が本質的に権威の危機であり、拝金主義のエリートによるグローバル・クーデターがもたらす脅威について、個人の理解を超えたものであることを理解します。

9.キリストのご誕生

救い主のご誕生は、至聖なるマリアの童貞のご胎内に至聖なる三位一体の第二のペルソナがご托身になったことにより、永遠が時間と歴史の中に入り込んできたことを表しています。真の天主にして真の人間である私たちの主のペルソナにおいて、天主の権威がダヴィド王家の子孫の権威に加わり、十字架の犠牲による人類の贖いは、蛇が起こさせた原罪によって破壊された天主の秩序を恩寵の経綸において回復させるのです。

まぐさ桶に横たわる幼子なる王は、羊飼いたちや博士たちの礼拝のために、君主の特権であったうぶ着に包まれてご自身を示されます。それがしるしである(et hoc vobis signum、ルカ2章12節)。[5]主は星々を動かし、天使たちに讃美されながらも、ゴルゴタで、また黙示録の幻視で、栄光の玉座が十字架であるように、まぐさ桶をご自分の玉座として、ベトレヘムの貧しいうまやを自分の地上の宮殿として選ばれます。私たちの主は、王、司祭、預言者の称号を認められ、東方の賢者たちから讃美を受けますが、すでに、自分の権力に対する脅威を主に見いだす者から逃げなければなりません。愚かで残酷なヘロデは、〈non eripit mortalia, qui regna dat cœlestia〉(天主は地上の国を取り除かず、天上の国を授ける)ことを理解しません[6]。今日の権力者たちは愚かで残酷です。彼らは何百万人もの罪のない人々を虐殺し、その身体と霊魂に対して行われた虐殺において、死の専制政治を強化しようとし、人々を奴隷にすることによって、ご自身の御血でこれらの霊魂を贖われた王の王、支配者の主に対する反逆を再び起こそうとします。

しかし、ベトレヘムの幼子が、人間と天主との位格的結合において御子の神性を現されたのは、その謙虚な主権の確認においてなのです。全能の天主と乳離れしていない赤ん坊の弱さが、最高の裁判官のすさまじい裁きと生まれたばかりの赤ん坊の泣き声が、天主の御言葉の不変の永遠と赤ん坊の沈黙が、天主の御稜威(みいつ)の栄光の輝きとパレスチナの寒い夜の動物のための避難所の粗末さが一体となった神性です。

神性と人性、権力と弱さ、富と貧困を見事に結合させた、この一見矛盾したものの中に、私たち全員、特に権威を構成する人々が、私たちの霊的生活と生存のために引き出すべき教訓も見いだすことができます。

主権者、君主、教皇、司教、行政官、教師、医者、父親でさえ、永遠の領域から、天主の御子の神聖な王権から由来する力を享受しています。なぜなら、彼らはその権限の行使において、それが意図されたものに忠実である限り、それを正当化する者の名において行動するからです。〈あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人である。そして、私を拒む人は、私を送られたお方を拒むのである〉(ルカ10章16節)。ですから、世俗および教会の権威に従うことは、天主がお決めになった位階的秩序に従うことなのです。このため、権威を濫用する者に従わないことも、その中心を天主に置き、その代理人である地上の権力に置かない秩序を守るために、同様に必要なことです。そうでなければ、私たちは権力を持つ者を崇めることになるからです。その者が天主に服従している限りにおいてのみ、敬意を払う資格があるのです。しかし、今日、権力の座にある者への敬意は、王であり教皇であるキリストへの正当な従属の絆を持たないばかりか、むしろ、キリストの敵です。また、民主主義というキメラによって喧伝される人民主権とされるものが、自分たちの権利が守られていることを訴える相手がいないその人民に対する巨大な欺瞞であることが証明されているところです。一方、天主を簒奪させることを容認してきた人たちが主張できる「権利」とは何でしょうか? 貧しい者、追放された者、孤児、未亡人のための正義を保証する唯一の存在である超越的なものとはもはや何の関係もないことを受け入れたとき、権力が専制政治に変わることにどうして驚くのでしょうか?


10.キリストにおいてすべてを復興させよ Instaurare omnia in Christo

世界経済フォーラムの犯罪者から「シノドスの道」の異端者まで、邪悪な者たちの見かけ上の勝利は、最終的な敗北を運命づけられながらも、道を踏み外した人類への罰の道具として御摂理によって許された悪という厳しい現実を私たちに突きつけます。なぜなら、貧困、疫病、計画された危機によって引き起こされた悲惨さ、経済的利益によって動かされた冷酷な戦争、習慣の腐敗、「人権」として認められた無実の人々の虐殺、家族の解体、権威の崩壊、文明の解体、文化と芸術の野蛮化、聖徳と善に対するあらゆる衝動の消滅、これらはすべて、徐々にしかし常に同じ方向に実行された裏切りに欠かせない結果にすぎず、常にこれから起こる最悪のことの序章でしかありません。それは、天主への侮蔑、天主の御稜威(みいつ)に対する〈私は仕えない〉(non serviam)の邪悪な挑戦なのです。これは、サタンが、永遠に敗北するであろう戦いに勝つことができるというサタンの思い込みの大きさに比例して、さらに冷酷で猛烈になります。

眠り給え、幼子よ、泣き給うな。
眠り給え、天の幼子よ。
大嵐はあえて
御身の頭上にて猛威を振るうことなし。
かつての地の上で使われたる
戦いの駿馬のごとく
まさに御身のみ顔、翼を広げん[7]

すべてをキリストの下に集める(エフェゾ1章10節)とは、自然界と超自然界の秩序、私的領域と公的領域の両方において、罪によって破壊された秩序を再構築することであり、革命が「傲慢」(ὕβρις、hybris)の妄想で奪った王の王冠を、王の王に回復させることです。さらにそれを行う前に、第二バチカン公会議のイデオロギーおよび現在の「教皇職」の背教によって引き裂かれた三重冠を教皇に回復させることです。

教皇や王、大司教や国家の統治者、教会の信者や国家の市民は皆、恩寵によって動かされた「再生」(palingenesis)の中で、キリストに、王にして教皇であるキリストに、王の民の真の権利の唯一の復讐者に、弱者と抑圧者の唯一の保護者に、死と罪の唯一の征服者に戻らなければなりません。そして、キリストのもとに戻るこの旅において、謙遜は、主が私たちのために示してくださったカルワリオへの道を放棄することによって、私たちが引き受けた滅びの容易な道を、どのように逆戻りさせるかを知る上で、私たちを導いてくれるでしょう。それは、主が最初に歩まれた道であり、主が秘跡の恩寵を通して私たちに伴われ、復活の栄光のための唯一の前提である十字架に至る道です。

新世界秩序の死と罪のイデオロギーに制限を設けることができると考える者、邪悪な者が小児性愛、変質者化、性別の取り消し、子どもや弱者や高齢者の殺害という恐怖を広めることを防げると考えている者、この道を歩み続けることで物事を変えることができると考える者は、欺かれているのです。革命のせいで、世界が地獄になったのならば、反革命の行動によってのみ、世界は今よりも邪悪でなくなり、致命的でないものに戻ることができます。第二バチカン公会議と改革された典礼のせいで、位階階級が異端者、堕落した者、姦通した者の受け皿となったのならば、公会議前まで使徒たち、教父たち、博士たち、聖人たち、教皇たち、司教たちが行っていたことに戻ることによってのみ、天上のエルザレムの像に戻ることができます。滅びの道を歩み続けることは、事実、滅びに至ります。奈落の底に向かう競争が速いか遅いかの違いだけです。

私たち一人一人がキリストへの帰属を強めることができれば、社会はもっと早く主のもとに戻り始めるでしょう。そして、私たちを贖うためにご托身になった天主への無条件の帰属は、羊飼いや博士たちとともにまぐさ桶のふもとで幼き王を謙虚に礼拝することから始めなければならないのです。

眠り給え、天の幼子よ。
諸国民は、知らず、
誰が生まれたるかを。
されど、彼ら
御身の尊き遺産となる、
その日は来らん。
いと謙遜に眠り給う御身、
塵のうちに隠され給う御身。
彼ら、御身が王たるを知らん。[8]

私たちが恩寵に触れられて、地上の地獄という救いのビジョン――もしもグローバリズムのディストピアが確立される間、私たちが惰性で傍観するならば地上が地獄のようになってしまうと理解すること――に心を動かされて、私たち全員に、本当の王を認める祝福の瞬間が訪れますように。そしてその時、王を認めつつ、私たちは王の聖なる旗のもとで、サタンに対する恐るべき勝利者――無原罪の聖母(Immaculata)――とともに人類の敵に対する歴史的な戦いを戦うことができるのです。いにしえの蛇の頭を踏み砕き、その呪われた手下どもの頭をも踏み砕くのは、一被造物――女性、童貞、御母――【つまり聖母マリア】でしょう。

アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ
2022年12月17日
Sabbato Quattuor Temporum Adventus
待降節の四季の斎日の土曜日


[1]フランス憲法の第1条は、共和国は「不可分の、非宗教的、民主的かつ社会的」であると、明示的に述べている。

[2]今や乙女なる女神も帰りきて、サトゥルヌスの王国はもどってくる。
今や新たな血統が、高い天より降りてくる。
さあ清らかなルキナよ、生まれ出る子供を見守りたまえ。
この子とともに、ついに鉄の種族は絶え、黄金の種族が
全世界に立ち現われよう。今や、あなたの兄アポロの世が始まる。
【小川正廣訳】

ウェルギリウス「牧歌」第4歌6-10

[3]【別訳】
忘れるな。正義と神を蔑(なみ)せぬことを学べ。
黄金のため祖国を売り、僭主の権勢を
敷いた者、金に動かされて法律の改廃をなした者、
娘の閨房に押し入って、禁断の婚礼をなした者など、
すべてが道に背く凶悪な暴挙に及び、この暴挙をし遂げた輩だ。
【東道男・高橋宏幸訳】

「正義の何たるかを学んで、わしのようにならぬようにせよ。神を侮ってはならぬのじゃ」。
ほかには、黄金で国家を裏切り、実力者に権力をゆだねし者、
金銭で法を定め、あるいは廃止せし者、
娘の寝室に侵入して禁断の婚(まぐわい)を遂げし者など
ここにいる者はすべて、暴戻な手段で非道を犯した悪者たちばかりです。
【杉本正俊訳】

ウェルギリウス「アエネーイス」第6歌620-624

[4]シェイクスピア「ヴェニスの商人」第1幕第3場(シャイロックの言葉)

[5]この点では、「聖書辞典」(Studium、1963年)にあるモンシニョール・フランチェスコ・スパダフォーラの聖書解釈学的研究を参照。

[6]「クルデリス・ヘロデス」(Crudelis Herodes)。御公現の第一晩歌の賛歌

[7]A・マンゾーニ「降誕祭」99-105

[8]A・マンゾーニ「降誕祭」106-112

英語版

NON SERVIAM: A History of Revolutions from Herod to Davos

イタリア語版

Mons. Vigano: Messaggio di Natale, Cristo Re delle Nazioni e il Gran Reset.

フランス語

Desideratus cunctis gentibus - L’Incarnation du Verbe de Dieu inaugure la Seigneurie du Christ sur l’Église et les Nations, par Mgr Viganò



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