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聖ピオ十世会 創立者 ルフェーブル大司教の伝記 20.5.1.慎重 の徳

2013年04月18日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅴ. 模範的司祭の思慮分別


慎重の徳

  賢明な人と強固な人の両側面を兼ね備えながらも、この指導者はさらに、大いなる分別を持つ司牧的熱心の司祭であり、まったく超自然的な効率性をもつ司祭でもあった。

 ある日、自分の神学生の一人が、自分の祖父の扱いにくい状態について彼に説明した。この老人は、エコンの友であり恩人でもあったが、以前から信仰を失っており、それに忠実に、彼はもはや信仰の勤めを実践していなかったのだ。ところで、今や彼は重病となり、家族は彼の救霊に懸念を抱いた。

 この若き神学生の嘆願に対して、堅振で巡回中の大司教は、老人を訪問する為に回り道をした。エコンへの帰路、大司教は断言した。

「ですが、良い心の状態でしたよ、貴方のお爺さんは!」
「大司教閣下、閣下は彼に改心についてお話にならなかったのですか? 告解をする事についてとか?」
「おお、とんでもない。」
「. . では、四終【死、私審判、天国、地獄‐訳者】についてはどうですか? 」
「おお、とんでもない、だめです、だめです。」

 その時、彼は『そんなことは特にやってはいけない!』という趣旨を頑固に示した。

 大司教は説明した。「いいですか、そんな必要はありません。そんなことをしたら、これしか得ることができなくなる危険があります。つまり、拒絶するように挑発する事です。そしてもし、不幸にも彼が滅びるとしたら、貴方は彼が受ける私審判をさらに厳しくするだけですよ。あなたはお爺さんから、冒涜と積極的な拒絶という危険を冒すかも知れませんから、そんなことは特にしてはなりません。」

 この神学生は殆ど納得出来なかったので、霊的指導者のブルク(Le Boulc’h)神父の所へ話をしに行った。ブルク神父は、彼を元気付けて、こう言った。
「もちろん、大司教様は彼の為にお祈りになったから、間違いなく貴方のお爺さんは救われるでしょう。」

 あの老人は、生来の率直さにより、ずっと前から他人に成したあらゆる悪事を償ってきていたのである。しかし、信仰は戻らなかった。人々は祈り、そして待った。最終的に、彼が昏睡状態に陥る少し前、彼の友人である一人の司祭が言った。
「彼を訪問しに行ってきます。彼に、祝福をあげますと言って、秘蹟による赦しを授けるつもりです。」
 神学的に言って、これは余り正しいやり方ではなかった。
彼は出かけて行き、最後にこの病人に向って言った。
「では、貴方に私の祝福を与えます。」
 すると司祭は思い直して、正直に言おうと決めた。
「いや、むしろ貴方に赦しを与えます!」
 こうして、彼はこの老人に赦しを与えたのだ。それから、この老人は司祭の手に接吻して言った。
「私は、この手がして下さった事に信頼します。」

 それだけだった。天主は印をお与えになったのだ。ルフェーブル大司教の祈りと賢明さは、思慮を欠いた熱意なら間違いなく失敗に終わっていただろう場面で成功を収めたのである。

 彼は、公教会が常に捜し求めている、公正かつ思慮深い司祭、つまり霊魂に秩序をもたらし、自己の霊魂と身体に秩序を保つ天主の役務者なのである。若者として、若き聖職者として、宣教師あるいは司教として、マルセル・ルフェーブルは正に、秩序を回復させる人であり、それを通して、人々とものごとに平和をもたらしたのだ。

 フリブールに結集した若者たちに向けて1969年10月15日に行われた、彼の最初の霊的講話は、このことをまったく良く表していた。
「神学校に入学する上での心構えはどうあるべきでしょうか?」と彼は尋ねた。
ルフェーブル大司教は自分でこう答えた。

「私がここに来たのは、自分の中で、原罪と世俗の精神によって秩序付けられていない異に秩序をつけて整える為。私が来たのは、あらゆる誤りを自分の精神から捨て去り、自分が無であることと、天主こそが全てであるという事を学ぶ為。天主に、聖主イエズス・キリストに従属する為です。更に私が来たのは、後日、霊魂たちに秩序を取り戻させる事が出来る様になる為です。秩序の源である第一の正義とは、先ず天主に当然与えなければならないことを返すことです。そして第二の正義とは、隣人への愛です。つまり隣人の中にある天主から来たものを愛する事であり、隣人を天主に導く為に愛する事なのです。【神学校に入学した限りは、こういう心構えを持ちなさい。】」
 
 統轄教区と教皇使節職において、また聖霊司祭修道会又は聖ピオ十世会において、マルセル・ルフェーブルがもたらした秩序とは、単なる外的な規律よりはむしろ精神的方針付けの指導を提供することによった。あらゆる秩序は、ある目的を想定しての物事の配置から生まれる。これぞ、大司教の確立した秩序である。この秩序は天主に向って定められたのだ。

  ルフェーブル大司教はまた、自分の内に、スピーク神父が描写したような、完璧な司祭の肖像を具現化した。

「天主に対する礼拝と聖なる事柄に対する尊敬に生きる深く宗教的な人、 [彼]は外面の礼節によるのと同様に、内面の高潔さと誠実さとにより群を抜いている。」

  何時であろうが何処にいようが‐霊魂を反映すると共に、この霊魂において映し出される‐肉体的・外面的態度の全ての挙動において、ルフェーブル大司教は完全に慎み深い人であった。何故なら天主への敬愛と信心に満ちていたからだ。正義と節制はマルセル・ルフェーブルにおいて協調していた。枢要徳の全ての拡がりにおいて、節制は、あらゆる事柄において適度な程度を定める判断力を与える。聖パウロは、さらにトレント公会議は 、この節制の徳が司祭特有の徳であると評している。

 スピク神父はさらに言明した。
「それ[節制]は、節度、慎み、慎重さ、さらに単純さにより構成される。従って、司祭にとって最も重要な徳の一つは思慮分別なのである。言い換えれば、品行における節度と節制に密接に結びついた判断における正しい判定と概念の正しさである。そこから聖霊の賜物の助けにより(ガラツィア人5章23節)自己の欲望及び衝動的欲求を掌握しつつ、完全に自分自身を征服した人間の節度である‘egkrateia 克己’(ティト1章8節)が生まれて来るのである。」


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