2022年7月24日(主日)聖霊降臨後第七主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)
「主よ、主よ、と言う人が皆天の国に入るのではない。天にまします我が父の御旨を果たした者だけが入る。」(マテオ7:21)
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
今日、私たちの主は、「主よ、主よ、と口先だけで言うのではない」と、そして「その実を付けなければならない」ということを教えて下さいました。それでは主の御望みの、御旨とは何か?ということを黙想致しましょう。
特に主の御旨は『主の祈り』の中でよく現れています。そこで、今日は、主の祈りを一緒に黙想することを提案します。
今日は聖霊降臨後第七の主日であって、七月でもあります。また主の祈りには七つの願いがあります。ですからこの七つの願いと聖霊の賜物との関係を黙想しながら、私たちが「主よ、主よ」と主の祈りを唱えながら、私たちがどのような実りを付けることを御望みなのか、聖霊の七つの賜物と一緒に関連付けて黙想することを提案します。
⑴第一に、「天にまします、我らの父よ」と呼びかけた後に、私たちが子供として、天の御父にお祈りをしようと呼びかけた後に、最初に、一番大切な祈りをこう祈ります。
「願わくは、御名の尊まれんことを。」
これは、主の御名が明らかに私たちの間において輝き出て、宣言されて、そして聖なるものとして知られて、敬まれることを望みます、祈ります。これが「御名が尊まれんことを」、御名が聖とされることを、と祈る意味です。
「聖なるもの」というのは、ただ一時的だけではなくて、「常に、恒常的に」聖なるものであるということです。そして「この世に属さない、この世のものでは実用的なものではない」ということを意味しています。なぜかというと、地上というのは、御恵みによって耕されないと、あざみや茨を生み出すような呪われたものとなってしまっているからです。「この地のものではない、この地上のものではない」ということが、「聖なるもの」ということです。この御名が聖なるものとされて、そして私たちがこの御名を愛するように、そして尊ばれるように、と求めます。
なぜかというと、「救いは主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした」(使徒行録4:12)
聖ペトロがこう断言しています。
御名が尊まれるということは、ですから常に、この地上のものとは切り離して求められるということですから、私たちはこの御名を畏敬するように、畏れ愛するようにと促されています。
これは聖霊の賜物として与えられる、「主への畏れ」です。愛を込めて主に対して、罪を犯して主を悲しませることがないように、と恐れることです。また地上のものからますます離脱するので、私たちはこの地上の事においてますます貧しくなります。
ですから主はこうも仰います。「心の貧しい人は幸いである。天の国は彼らのものであるからである。」
⑵第二に、「御国の来たらんことを」と祈ります。
主を畏れるのみならず、聖霊は「孝愛」の賜物をも下さって、そして天主をまさに本当の父親であると考えさせます。すると隣人たちを兄弟姉妹として考えさせてくれます。つまり私たちの家族です。
私たちは同じ天主なる父のもとにある家族の一員として、一つの国の一員として、愛して生活することを求めさせます。ですから「御国の来たらんことを」というのは、天国の兄弟姉妹の栄光の御国の来たらんことを求めて、期待しつつ、この世において天主を父として、孝愛を以って実践する、ということです。
聖パウロはこう言っています。「幸福な希望と、偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれを待ちつつ(expectantesbeatam spem et adventum gloriae magni Dei et salvatoris nostri IesuChristi)、この世において、思慮と正義と敬虔とをもって生きるため」(フィリッポ2:11)と。
ですから私たちは兄弟姉妹として、この地上のことについてイライラすることなく、柔和を持つようになります。天国の栄光を求める、御国を求める人は、ますます柔和になります。
主はこうも言われます。「柔和な人は幸せである。彼らは地を譲り受けるであろうから。」
⑶第三に、私たちは「御旨の天に行わるるごとく、地にも行なわれんことを。」御旨が行なわれることを祈ります。
「御旨」とは何かというと、私たちが聖なる者としてよく生きる為に、天国に行く為に、この地上をよく生きる為の知識です。それは知識は、「自分の考えだけではなくて、自分の考えに信頼して全ては判断すべきではない。天主の知識を、賜物を通して生きなければならない」と教えています。
つまり「私たちの意思ではなくて、御旨が行なわれんことを」と、「知識」の賜物は教えてくれます。なぜかというと、私たちは病気にかかった患者のようだからです。罪という病に犯されているからです。その病気の患者は、やはりお医者さんがこうしなさいと言えば、その言われた通り、お医者さんの通りにすれば病気が治ります。それと同じように、天主が知識の賜物を通して、御旨を果たすように、主の御旨の通りにやりなさい、ということによって、私たちは罪が癒されます。
私たちは同時に、罪に対して悲しみ、罪を犯したということをとても悲しみます。この地上が罪で溢れていることを悲しみます。
ですから主はこうも言われます。「悲しむ人は幸せである。彼らは慰めを受けるであろうから。」
⑷第四に、私たちは「日用の糧を、今日我らに与え給え」と祈ります。
聖書には「パンは人の心を固める、強める」とあります。「私は、私の食べる糧は、パンは、父の御旨を行うことである」と言っています。
例え知識を持っていたとしても、その御旨を行なう為に臆病になってしまうことがあります。その為に私たちは、「剛毅」の賜物が必要です。力強く、主の御旨のパンを食べる、というこの力強さが必要です。ですから聖霊は同時に私たちに、「我らの日用の糧を、今日我らに与え給え」と祈らせてくれます。
「正義に飢え渇く人は幸せである。彼らは飽かされるであろうから」とも主は言われます。
⑸第五に、「我らが人に許すごとく、我らの罪を赦し給え」とも祈らせます。
知識を持って、そして剛毅を持っている人がいますが、しかし時にして、自分の力に頼りすぎてしまって、自分のやろうとしたことを成せないで終わってしまうことがよくあります。
ではどうしたら良いでしょうか?
聖霊は剛毅を与えて、知識も与えますけれども、それを成し遂げることができる為にどうしたら良いか、ということも、助言を与えてくれます。「賢慮」の賜物と言います。
聖霊は私たちにどのようにアドバイスをするかというと、ダニエルの書にはこうあります。「王よ、私の助言を嘉納せよ、施しをしておまえの罪を、貧者を憐れんでおまえの不義を贖いたまえ。」Dan. IV, 24, cum dicitur: consilium meum placeat tibi, rex. Peccata tua eleemosynisredime.
これはダニエルが王に言った言葉ですが、「施しをしてお前の罪を贖え。そして貧しい者を憐れんで、お前の不義を贖え」と。
ですから聖霊のアドバイス、最善の助言は、「施し」と「憐れみ」です。
賢慮の賜物を通して、聖霊は私たちに憐れみ深くこう祈るようにも励ましてくれます。「我らが人に許すごとく、我らの罪を赦し給え。」
また私たちの主はこうも言われます。「憐れみのある人は幸せである。彼らも憐れみを受けるであろうから。」
赦せば赦される、ということです。
⑹また第六に、「我らを試みに引き給わざれ」と祈らせます。
私たちは罪の赦しを乞い求めました。罪を悔悛しました。その後で、私たちは決して罪に陥ることがないように努力しなければなりません。罪の機会を避けるようにしなければなりません。誘惑に陥らないように祈らなければなりません。
聖霊は私たちに、もはや罪を犯さないように、光を与えて助けて下さいます。これが「聡明」の賜物です。私たちがもしも、誘惑に陥らないように聡明にするならば、私たちの心は清く保たれます。
主はこうも言われます。「心の清い人は幸せである。彼らは天主を見るであろうから。」
⑺最後に私たちは、「我らを悪より救い給え」と祈ります。
罪の赦しを受けて、そして罪を避けることを私たちは祈りましたけれども、最後に、全ての悪から守られるように祈れ、と教えて下さっています。全ての悪というのはもちろん、罪を含めた病とか、困難とか、色々な悪です。しかしそれと同時に、天主はこのような悪が私たちに起こることをお許しにもなりもします。なぜかというと、この悪から善を引き出すことができるほど、天主は全能であって、そしてここに天主の最高の知恵があるからです。天主の上智があるからです。
ですから、この「悪から救い給え」と言うことは、「悪を善に変えて下さい。悪を忍耐することによって、これを徳に変えて下さい」と祈ることができます。
これが、聖霊の「上智」の賜物です。悪を善に変えるという知恵の賜物です。そうすることによって私たちは、平和という最高の至福に辿り着くことができます。順境においても、逆境においても、忍耐を通して平和を得ることができるからです。
天主はどのようなことがあっても、順境も逆境もいかなるものも、天主を害することはあり得ません。最高の善であるからです。ですから悪を善に変えることができる上智の賜物を持つ人々は、天主に似たものとなると言えましょう。天主の子らとなると呼ばれると言えましょう。
ですから私たちの主はこうも言われます。「平和の為に働く人は幸せである。彼らは天主の子らと呼ばれるであろうから。」
では最後に、マリア様にお祈り致しましょう。マリア様は聖霊の七つの賜物を最高度にお持ちでした。そしてマリア様こそ、この賜物に満たされて、主の祈りを唱えていたに違いありません。そしてこれを唱えることによって、主の御旨に適う者となることができますように、マリア様の御取次ぎを乞い願いましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。