Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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「ロザリオの秘密」聖グリニョン・ド・モンフォール著 十一番目のバラ「使徒信経」(クレド)と十二番目のバラ「天にまします」

2021年11月11日 | カトリックとは

第二連 
ロザリオの祈りのすばらしさとそれを構成する祈りについて

十一番目のバラ:「使徒信経」(クレド)

ロザリオの十字架の部分で唱えられる、クレドまたは「使徒信経」は、すべてのキリスト教の真理の聖なる要約である。信仰は、すべてのキリスト教の聖徳、すべての永遠の聖徳、そして全能の天主に喜ばれるすべての祈りの根源であり、基礎であり、始まりであるため、これは大きな功徳を持つ祈りである。
「天主に近づく者は、天主が存在しておられること、天主を求めるものに報いをくださることを信じなければならない…」天主に近づこうとする者は、まず第一に信じなければならず、その信仰が大きければ大きいほど、その祈りはより大きな功徳を持ち、より力強く、より天主を讃美するものとなる。

この使徒信経を一字一句説明するためにここで時間を取ることはしないが、最初の数語である「Credo in Deum 我は、[天地の創造主、全能の聖父なる] 天主を信じ奉る」という言葉が、私たちの霊魂を聖別し、悪魔を撃退する手段として驚くべき効果を発揮することを言わずにはいられない。なぜなら、この三つの言葉には、信仰、希望、愛の三つの対神徳の行為が含まれているからだ。

聖人たちは、「私は、天主を信じます」と言うことで、生前であれ、死の瞬間であれ、特に信仰、希望、愛に対する誘惑に打ち勝ったのである。この言葉は、殉教者である聖ペトロの最後の言葉でもある。異端者に剣で無残に頭を二つに割られた聖ペトロは、ほとんど息絶えていたが、死ぬ前にどうにかこの言葉を指で砂になぞることができたのである。

聖なるロザリオには、イエズスとマリアの多くの神秘が含まれている。信仰こそがこれらの神秘を開く唯一の鍵であるため、私たちは非常に敬虔に使徒信経を唱えることでロザリオを始めなければならないし、私たちの信仰が強ければ強いほど、ロザリオを祈ることによってより多くの功徳を得ることになる。

この信仰は生き生きとしたものでなければならず、また愛に基づいたものでなければならない。言い換えれば、ロザリオを正しく唱えるためには、天主の恩寵の状態にいるか、少なくともそれを求めている必要がある。つまり、ロザリオを唱えることで、感覚的な信心や精神的な慰めを求めてはならない。また、心の中が無数の無意識の散漫で溢れていたり、霊魂に妙な嫌悪感を感じたり、体にほとんど継続的で圧迫感のある疲労を感じたりするからといって、ロザリオを諦めるべきではない。感情も、慰めも、ため息も、恍惚も、想像力の継続的な向上も必要ない、信仰と善意だけで十分なのだ。“sola fides sufficit.”「信仰だけで足りる。」

十二番目のバラ:「天にまします」第一部

「天にまします」あるいは「主祷文」には大きな価値がある。それは何よりも、その作者が人間でも天使でもなく、天使と人類の王である、私たちの主であり救い主であるイエズス・キリストであるからだ。

聖シプリアノは、私たちが恩寵の命に生まれ変わることができるようにして下さったその救い主であるキリストが、私たちの天の師でもあり、私たちにどのように祈るべきかを教えるのはふさわしいことだ、と述べている。

この主祷文の美しい秩序、優しい力強さ、そして明快さは、私たちの師である天主の叡智に敬意を表している。短い祈りではあるが、非常に多くのことを教えてくれるので、無学な人にも十分理解できるし、学者にとっては、私たちの信仰の神秘についての絶え間ない黙想の源となっている。

「天にまします」には、私たちが天主に負うべきすべての義務、すべての聖徳の行為、そして私たちの精神的・肉体的な必要性に対するすべての願いが含まれている。

テルトゥリアヌスは、「主祷文」は新約聖書の要約である、と述べている。トマス・ア・ケンピスは、「主祷文」はすべての聖人の望みを超えたものであり、すべての詩篇と讃歌の美しい言葉を凝縮したものであり、この中で私たちは必要なすべてのものを天主に求め、最高の方法で天主を讃美し、地上から天へと霊魂を引き上げ、天主と一体となるのである、と述べている。

聖ヨハネ・クリゾストモは、師が行なったように、また師が示した方法で祈らなければ、師の弟子にはなれない、と言っている。さらに、聖父なる天主は、限りがある人間の私たち自身が作った祈りよりも、聖子から学んだ祈りに喜んで耳を傾けてくださるのだ、と述べている。

私たちは、永遠の聖父が聞いてくださるという確信を持って、「天にまします」を唱えるべきである。なぜなら、それは聖父がいつも聞いてくださっている聖子の祈りであり、私たちはそのメンバーだからである。天主は、主祷文を通してなされる私たちの願いを必ずかなえてくださる。なぜなら、このように価値ある聖子の御言葉で表現され、聖子の功徳によって強められ、聖子の要請によってなされる願いを、このような良き聖父が拒否することは考えられないからである。

聖アウグスティヌスは、私たちが敬虔に「天にまします」を唱えるたびに、私たちの小罪は赦される、と言っている。義人は一日に七度失敗するが、主祷文の中には七つの願いがあり、それは彼らが失敗しないように助けてくれ、霊的な敵から守ってくれるのだ。主は、私たちがどれほど弱く無力であるか、またどれほど多くの困難に陥るかを知っておられるので、主祷文を短く簡単なものにしてくださった。だから私たちが敬虔に、そして頻繁にこの言葉を口にすれば、全能の天主はすぐに助けに来てくださると確信することができる。

天主の聖子自らが私たちに与えてくださった、私たち全員に唱えるよう求められた祈りに、ほとんど注意を払わない敬虔な霊魂の持ち主の皆さんに一言。今こそ、あなた方の考え方を変える時である。あなた方は、人間が書いた祈りだけを好んでいるが、ーーまるで、全世界で最も聖霊に息吹かれた人でさえも、イエズス・キリスト御自身よりも、私たちがどのように祈るべきかについて詳しく知っているかのように!他の人間が書いた本の中の祈りを探しているのは、まるで主が言われた「祈り」を口にすることを恥じているかのようである。

これらの本に書かれている祈りは、学者やお金持ちの上流階級の人々のためのもので、ロザリオは女性や子供、下層階級の人々のためのものだと自分を納得させている。あたかも、自分が読んでいる祈りや讃美が、『主祷文』にあるものよりも美しく、天主に喜ばれるものであるかのように!主が与えてくださった「祈り」への関心を失い、代わりに人が書いた祈りを取り上げることは、非常に危険な誘惑である。

信者が天主を讃美するように聖人たちが書いた祈りを否定するわけではないが、人となられた叡智が発した祈りよりも後者を好むのは堪忍できない。この祈りを無視することは、あたかも泉を通り越して小川を追いかけ、澄んだ水を拒んで、代わりに汚い水を飲むようなものだ。なぜなら、「主祷文」と「天使祝詞」で構成されるロザリオは、恩寵の泉からこんこんと湧き出るこの澄んだ常に流れる水であり、一方、本で探す他の祈りは、この泉から湧き出るちょろちょろした小さな水の流れに過ぎないからである。

主祷文を注意深く唱え、すべての言葉を吟味し、黙想する人々は、自分たちが必要とし、望むことができるすべてのものをそこに見出すことができるので、確かに自らを祝福された存在と呼ぶことができるだろう。

この素晴らしい祈りを唱えるとき、私たちは始めに、「我らの聖父よ」という甘美な呼び名で主を呼ぶことによって、天主の聖心に触れる。天主は最も親愛なる聖父であり、創造においては全能であり、世界を司る方法においては感嘆すべきものであり、御摂理においては完全に愛すべきものであり、常に、また贖罪において無限に善良である。天主を聖父とする私たちは皆、兄弟であり、天国は私たちの祖国であり、遺産である。このことは、私たちが天主と隣人を愛し、この世のものから離脱することを教えるのに十分すぎるほどだろう。

だから、私たちは天の聖父を愛し、何度も何度も天の聖父に向かって言うべきなのだ。

《天にまします、我らの聖父よ》

御身の存在の無限さで、
御身は天と地を満たし給い、
あらゆるところにましまし給う。

御身は聖人たちのうちに、御身の栄光によってましまし給い、
呪われた者のうちには、御身の正義によって、
善良なる者のうちには、御身の聖寵によって、
そして、罪人たちのうちにも、御身が彼らを忍び給う忍耐によってましまし給う。

我らは御身に乞い願い奉る。

我らが御身から来たということを、
我らがいつも記憶するようにさせ給え。

我らが、御身の本当の子供たちが生きなければならないように、
我らが生きるように恵み給え。

我らが御身に向かって道を定め、決して逸れることがないように恵み給え。

我らのすべての能力と
我らの心と霊魂と力とを、
御身に向かって、そして御身のみに向かって、
用いることができるように恵み給え。

《願わくは、聖名の尊まれんことを》

預言者ダビド王は、主の聖名は聖なるものであり、畏敬の念を抱かせるものであると言い、イザヤは、主なる天主の聖なる御稜威を絶え間なく讃えるセラフィムの讃美が、天にいつも響いている、と言った。

私たちはここで、聖なる天主の偉大な属性を全世界が知り、崇敬することができるように願う。私たちは、異教徒、トルコ人、ユダヤ人、野蛮人、そしてすべての異端者によって天主が知られ、愛され、礼拝されるように、そしてすべての者が、生き生きとした信仰、確固たる希望、燃えるような愛によって、そしてすべての誤った信心を放棄することによって、天主に仕え、天主を讃美することができるように願う。このことから、私たちはすべての者が聖人となるように祈る、ということになるが、それは私たちの天主御自身が、全き聖なる御方であるからである。

《御国の来たらんことを》

御身の恵みによって、
御身が我らの霊魂に君臨し給え。

そは、死後、
我らが完全で終わりのない至福のうちに、
御身のもとに、
御身の御国において、
御身と共に支配するためなり。

主よ、我らはこの至福が来たらんことを固く信じ奉る。
我らはそれを望み、期待し奉る。
なぜなら、天主なる聖父(おんちち)が、その偉大な善良(やさし)さでそれを約束し給い、
天主なる聖子の功徳によって、我らのためにそれを贖い給い、
光である天主なる聖霊が、それを我らに知らせ給うたがゆえなり。

《御旨の天に行なわるるごとく、地にも行なわれんことを。》

テルトゥリアヌスが言っているように、この祈りは、天主の御計画を妨害する人々を恐れるという意味では全くない。なぜなら、天主の御摂理がそれを予見し、あらかじめ天主の御計画に適うものでなければ、何事も起こり得ないからである。全世界のどのような障害も、天主の意志が実行されるのを妨げることはできない。

むしろ、私たちが「御旨の天に行なわるるごとく、地にも行なわれんことを。」と言うとき、私たちは天主に、天主が私たちに適していると思われ、この世で送られるすべてのことを、謙虚に受け入れることができるように願っている。また、掟によって私たちに知らされている天主の聖なる御旨を、天の諸天使や諸聖人たちが行なっているように、すべてのことを、すべての時に、速やかに、愛情をもって、忠実に行うことができるように助けてくださるように願う。

《我らの日用の糧を、今日我らに与え給え。》

主は、精神的なものであれ、現世的なものであれ、必要なものはすべて天主に求めるように教えられた。日用の糧を求めることによって、私たちは自分の貧しさと不十分さを謙虚に認め、すべての現存する財産が天主の御摂理から来ることを知り、私たちの主に敬意を表わすのだ。

「糧」と言うとき、私たちは生きるためにただ必要なものを求める。もちろん、これには贅沢品は含まれない。

「我らの日用の糧を、『今日』我らに与え給え」と言うのは、現在のことだけを考え、明日のことは御摂理の御手の内に委ねる、ということである。

そして、「日用の糧」を求めるとき、私たちは毎日天主の御助けを必要とし、その天主の御助けと御保護に完全に依存していることを認めるのだ。

《我らが人に赦すごとく、我らの罪を赦し給え。》

聖アウグスティヌスやテルトゥリアヌスは、すべての罪は全能の天主に対する負債であり、天主の正義は最後の1銭まで支払うことを要求している、と述べている。残念ながら、私たちは皆、このような悲しい負債を抱えている。

どれほど多くのものであっても、私たちは信頼を持って、自分の罪を心から悲しみ、天主の元に行き、こう言うべきである。「天にまします我らの聖父(ちち)よ、我らの思いの罪と言葉の罪を赦し給え。また、御身の正義の御前では我らを永遠の有罪とする、我らの犯した罪と過失とを赦し給え。」
「我らがあえてこのように願うのは、御身が愛と憐みに満ちた我らの聖父でましますからであり、また、御身への従順のために、御身への愛のために、我らに罪を犯した全ての人々を赦して忘れたからです。」

《我らを試みに引き給わざれ、》

「御身の恩寵に忠実であるにもかかわらず、世と悪魔と肉の誘惑に屈することを赦し給うな。」

《我らを悪より救い給え。》

「罪の悪、そして、私たちが当然受けるべきだと知っている一時的な罰と永遠の罰の悪より。」

《アーメン。》

聖イエロニモによると、この言葉は、全能の天主が私たちの願いを叶えてくださることを保証するために、私たちの願いの最後に付ける承認の印のようなもので、あたかも天主御自身が答えてくださっているものであるかのようだ、と言っている。

「アーメン。あなたの求めた通りになるように、あなたが求めたそのことをあなたはまさに得たからである!」

これが "アーメン。 "という言葉の意味である。



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