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「助産婦の手記」30章 今こそ自分で作ったスープを飲みほさねばならぬのだ!

2020年08月22日 | プロライフ
「助産婦の手記」

30章

『世の中に空席が出来るように、一度戦争がなければならないですね! 人があまり多すぎるんです。若い人たちは、もうどこへ行っても職にありつけないんです。若者をどうすればいいんでしょう……』
『でもヘルツォーグ奥さん、もし戦争があると――あなたも、いま、十七と十六のお子さんが二人おありですね……もし、お子さんがそのとき出征して、弾丸にあたって死なれたら……そうなったら、いかがですか?』
『ああ、私の子供たちの番になるまでには、長くかかるでしょう。今日では、戦争は六週間で終ってしまうんですよ……』
『しかし六週間のうちでも、戦死者と傷痍(しょうい)者とは、どうしても沢山できるでしょう。もし、あなたのお子さんがそうおなりにならなくても、ほかのお母さんの子供がそうなるのでしょう。』
『でも、今のままでは、二進(にっち)も三進(さっち)も行きません。人は皆、もっとよい時節が来るように戦争がもう一度なければならないと言っていますよ……』
『ヘルツォーグ奥さん、あなたはもう覚えてはいませんか、一八七〇年の戦争不具者たちが、蔵の市やその他、街角に坐って、物乞いをしていたのを? そんなことを言うだけでも罪ですよ……』
『まあ、これは御免なさい……でも、今度は、そういう人たちの保護のため、何か条件をつけるんですね、そうすれば、きっとよく世話ができるでしょう……』

ヘルツォーグ奥さんは、その長女のお産が近づいたので、世話をしにここに来ているのである。いま彼女は、ちょうどコーヒーを運んで来て、私たちのいる寝室に坐りこみ、そして自分の博識を振りまわしたのであった。というのは、こういうわけだ。旦那さんのヘルツォーグ氏は、工場に勤めていた。彼は、仕事じまいの後とか、特に土曜日や日曜日の朝には、時おり、村人の髭を剃ってやったが、そのとき、彼のベターハーフたる妻は、石鹸の泡を塗る習慣だった。その際、彼女はもちろん、男たちの会話のあらゆる断片をつかまえ、そしてそれを彼女一流の話術で、再び人に話して聞かせるように努めたのであった。

一度、戦争がなければならない!
それは、一九一二年のことでめった。この考えが、どこから来たのか判らない。風に吹き寄せられたように、それは突然やって来た。繰返し繰返しそれは現われた。一つの定見のように、それは人々の頭の中に、しっかりこびりついた。人々は、一体、自分たちが何を言っているのか、全然知らない。その背後には、何十万人にとっての不幸、困苦、死など、およそ何が横たわっているかを考えない。もっとよい時節に対する非合理的な希望が、こういう口癖を作っていた。人が普段、よく『もう、二進も三進も行かない。』と言うように――人々は『また戦争がなければならない。』 という恐ろしい言葉を、語りはじめたのである。

この村ばかりではない。先週、私たちは年次助産婦大会を州の首府で開いた。この折りにも、またこう言われた。人々が到るところで、戦争のことを、そして戦後のもっとよい時節のことを語っているのは、非常に注目すべきことだと。今日となっては、こう言いたい。大きな事件は、その影をあらかじめ投げるものである、と。しかし、当時においては、人々はその意味を解く術(すべ)を知らなかった。一体、私たち助産婦というものは、新しい子供が生れて来ようとしているときに、非常にしばしば心配に満ちて、人生の入口のところで、辛抱づよくそれを待ち受け、そしていかなる母の悩みが、子供の誕生と結びつけられているかということを、每日見、かつ聞いているのであるが、この私たち助産婦にとっては、いかに人が根拠も理由もなしに戦争のことを、破壊のことを云々することができるかということは、二重に理解できないのである……
『弾丸は、全部あたるものじゃありませんよ。それに、人によっては、一度暫らくの間、性根(しょうね)をすえて白刃の下に身をさらすことも、為めにならないことはないでしょうと、ヘルツォーグ奥さんは、三杯目のコーヒーを飲みながら、しっかりと言った。『大酒飲みの習慣が、なくなるかも知れませんね……』
話がこの具体的な事柄に向って、そんなに急転換をしたので、私はそれを外らすことができなかった。私は驚いて、若い母の方を見た。しかし、彼女は、それを全く冷静に受け取った。恐らくきょうは、母親と同じ意見なのであろう。有名な酒飲みの夫との三年の結婚生活は、どんな薔薇色な雲でも、どんな黄金色の希望でも、恐らく黴(か)びさせることができるであろう。

さて彼女は、結婚してから三年になり、そして四番目の子供を生もうとしている。十ヶ月每に一人できたわけである。しかし、それは不幸な憐れな子供たちで、数週間ずつ早く生れた。一番上のが、まだ独りで自分の脚で立っていることができないのに、もう四番目のが生れるのである。ここに困難があり、粗末な取扱いが生じるわけであるが、こんなひどいのは、私も見たのは稀れであった。どこも、かしこも、汚物とぼろばかり――そして、その外には何もない。たぶん最も必要な家具があるだけで、他のすべてのものは、すでに飲みつぶされていた。三人の子供は、一つのベッドに寝ているが、その布団は、いつも濡れているのに、ちっとも乾されないから、もう半分腐っている。一番上の子供にしても、まだ実に不潔だから、年下のは、全くお話の外である。ベッドの敷布も、ぼろで出来ている。お祖母さんは、もう余程以前から、子供たちを少なくとも一時、自分の手許に引き取ってやりたいと思ったのであるが、お祖父さんは、それを許さなかった。彼は、かつては、あらゆる手段をつくして、その娘の結婚に反対したのであるから、今さら娘を助ける気にはなり得なかった。今こそ娘は、自分で作ったスープを飲みほさねばならぬのだ!

彼女の夫は、評判の酒飲みであった。しかし非常に狡猾で意地悪かったので、誰も彼に近づくすべを知らなかった。彼は工場の技師で、職場では不思議にも自分の職務をよく果した。しかし每晚、泥醉して帰宅し、妻を虐待した。それも、彼女が私に語ったところによれば、夜だけではないようだ。もし彼女が逆らおうとでもするなら、恐ろしい場面となって、彼女は、結局、暴力に屈服したのであった。彼女は小柄で弱々しい女だったのに、彼は逞しく頑丈な奴であった。そこで彼女は、結婚して数年たつうちに、抵抗を全く放棄したのである。それに、その家では、実社会で非常にその例が多いように、妻は夫に依存していた、何だかんだといっても。次ぎのことは、私の解き得ない一つの謎であるが、しかし一つの事実である。というのは、妻が夫から最も人格を無視した取扱いを受けていながら、よくも夫を簡単に放棄し、捨て去ることのできぬぐらい、そんなに強く夫に結びつけられていると感じておれるものだ、ということである。この話の場合には、さらになお、一つの道徳的要素が加えられている。

『リスベートさん、もし私が離婚して、ここを去ってしまうと、あの人はどうなるでしょうか? 完全に破滅してしまわないでしょうか? なおもっと、ほかの娘たちを不幸にしないでしょうか? 私は一度あの人と結婚したんです。あの人は、いつかは、このことが判るでしょう。もし私が、もう一度、そうせねばならぬのでしたら、すると……でも、それはもう出来てしまったことなんです……』
彼女は結婚する前に、いろいろ忠告を受けたのであった。主任司祭、教頭、医者のウイレ先生、それに私も極力、その男との結婚を彼女に思いとどまらしめようとした。というのは、彼は結婚前からすでに、本当の酒飲みだったから。彼女の父は、あらゆる手段を尽して反対した。私たちは、彼女に来たるべき不幸を、極彩色で描いて見せた――ところが、実際の状態は、いま現に示されているように、それとは全然ちがった遙かにひどいものであった!
『ああ、それでも、もし私が結婚してあの人についていれば、あの人は変わって来るでしょう。私のために、人が変わるでしょう。あの人は、正しい家庭を持っていないために、酒を飲むに過ぎないんです。私は、あの人の酒飲みの習慣を直せるでしょう……愛は、どんなことでもできるのです……』と彼女は、結婚前に、あらゆる道理のある忠言に対して耳を籍(か)さなかった。酒飲みというものは、周知のように、美しい約束や、うまい弁解を、非常に物惜しみせずに、するものである。彼女は、全く彼のために欺かれたのであった。結婚してから二三週間は、何のこともなかった。それから不幸が起り、そして、それは子供が出来るたびに、ますます大きくなった。彼は生計のために、すでによほど以前から妻に心配をかけた。そこで彼女は、結婚前と同様に、また勤めに出た。彼女は、彼を決して拒んだことはなかったのに、夫は妻に対して忠実を守らなかった。それは、すでに三番目の子供が膿漏痲のため、殆んど目くらになったことで判る。私は、なおも四番目のが生れるということが不思議なのである、そして、その子はどういう状態なのであろうか……?
私たちは、今年、硝酸銀の滴剤を手に入れたが、それは、あらゆる新生児に対して予防薬として使用するようにという指示を受けた。それも指示であって、服務規則ではなかった。村会は、その薬剤を私が使うのを承認しなかった。この村では、その必要はないということだった。しかし、私はそれを用意して置いて適用した。この一年間に、それがこの村でも、必要であったことが、すでに六回も起った。もつとも、私はそれを黙っていなければならぬのであるが――
終に、子供が生れた。憐れな赤児! どんどん拡がる水泡疹のような著しい水泡で、被われていた。しかし、その子が生後一時間で死んだのは、その子の状態から考えれば、最もいいことであった。私は、非常洗礼を間に合うように授けた。
ぼろぼろに破れたベッドの中では、三人の憐れな子供たちが、はい廻って泣きわめいていた。一人は盲目であり、他の二人は、せむし病で、栄養不良な、精神薄弱のように見える子だった。母親は、生れた子供が死んだので、泣いた。もっとも、早くも数日間のうちには、五番目の子が宿っていることが認められるであろう――もしも性病が、その間に不妊症を引き起させなければ。そのような子供たちの道徳上の性質は、どうなるのであろうか? 彼等の遺伝的素質は、どういう状態なのであろうか? そのような場合に、最も悲惨な生命でも、無いよりは増しだと主張するのは、まことに超人間的な信仰である……
私は、その母親に言っておいた。あなたは病気なのだから、手当てを受けにウイレ先生のところへお出でなさいと。残念ながら、彼女は、私のあらゆる期待に反して、五番目の子供をはらんだとき、やっとマルクスのところへ行った。彼が、どういう具合に彼女を説き伏せたのか、私は知らない。とにかく、彼は手術を施した――そして、その憐れな母親は、そのために出血して死んだ。マルクスは、その同じ日の夜、スイスに向けて出発した。彼が良心の上に疾(やま)しく感じているのは、あえてこの村だけのことではない。多くの婦人が、他国から彼のところへ来た。





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