Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

木は、その実りによって知らされる。

2016年08月21日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年7月3日(主)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年7月3日 聖霊降臨後第7主日のミサ 
小野田神父説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年7月3日、聖霊降臨後第7主日のミサをしております。

今日は嬉しいニュースがいくつかあります。

1つは、今日皆さんの前でステファノ・ロムワルドさんが条件付きで洗礼を受けて、プロテスタントからカトリックへと回心しました。どうぞステファノ・ロムワルドさんの為にたくさんお祈り下さい。9月の司教様がいらっしゃった時に、堅振の秘跡を受ける予定です。

もう一つの嬉しいニュースは、ポールさんとソレーンさんの赤ちゃんが、昨日朝生まれました。女の子でジャンヌちゃんです。赤ちゃんのお母さんも元気だという事です。どうぞお祈り下さい。

この6月から昨日までにかけて、聖ピオ十世会では19名の新しい司祭、と21名の新しい助祭が叙階されました。どうぞこの新司祭たちの為に、新しい助祭たちの為にお祈り下さい。

今日のこの御ミサの後に、14時半から公教要理の時に今回は「愛徳について」、16時からは主日の第2晩課、明日は朝の7時からミサがあります。この7月はちょっとイレギュラーになっておりまして、2回目のミサは次の第2主日です。7月10日にやはりここでミサがあります、どうぞいらして下さい。8月には聖グリニョン・ド・モンフォールによる聖母の黙想会がありますので、是非いらして下さい。


「木は、その実りによって知らされる。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日イエズス様は、「偽りの預言者に気を付けよ。彼らの実を見てそれを木を判断せよ。悪い木は悪い実を、良い木は良い実を結ぶから、ただ、『主よ、主よ、』と口先だけで言っている者が、天の国に入るのではない。実りをもたらしたもの、天主の御旨を果たした者だけが、天の国に入るのだ。」というお話をしていました。よく私たちはこの、「実りによって木を判断せよ。」という事からよく、このイエズス様の話は、どうやったら正しい宗教と間違いの教えを区別する事ができるか、カトリック教会の生み出した聖徳、聖人たちの数々、奇跡の数々、或いは殉教者、童貞女童貞など、多くの聖徳を示してそのカトリック教会の実りを示したり、或いは聖伝の教えの実りを示したり、その木の良さについて話す事がよくありますけれども、今回は、聖パウロの書簡を見ると、やはり実りについて言っているのではないでしょうか、「あなたたちは罪の肢体であって、その罪の実りは『死』だ。しかし善の実りは『永遠の命』だ。」

そこで今回は皆さんに、この「実り」というのは何なのか。一体人間の実りというのは何なのか、人間を木に例えると、「実り」というのは何なのか。それでこの良い実りをもたらすには一体どうしたら良いのだろうか。良い実りをもたらす秘訣は秘密は何なのか。それでその実りをもたらす原理を考察すると、このちょうど7月のイエズス様のいと尊き御血の聖なる月の信心にピタリと合っているテーマが現れてきます。イエズス様と、イエズス様に一致している、イエズス様の御血を受けているという事です、御血の功徳を受けているという事です。そこで今回は最後に、遷善の決心を立てる事に致しましょう。良い実りを受ける為の遷善の決心を立てましょう。

では、「実り」というのはどういう事でしょうか?まず木を考えて、それを人間にあてはめます。

「木に実がなる」というのは、これが木が成長して成長して植物が成長して、その大体最後に成長の過程の最後に、この実りを付けます、実を付けます。この実には大体普通、私たちが特にラテン語で「fructus」と言う時には、甘い、英語で特に、「fruits“フルーツ”」と言う時には、甘い何かがあります。ただの実りというか果物であって、甘い甘みがあります。それでその実は木から生まれた実であって、その甘い実りを人間がそれを収穫します。

その事を人間に当てはめると、人間の、人間から生み出されるものがやはり実りであって、人間がそれから収穫する何かが実りと言われます。

ところで、植物でもそうですけれども、畑にあるもの、或いは木から出たもの全てが全て収穫されるわけでありません。収穫されるのはそれが私たちに利益のあるもの、私たちに喜びを与えてくれるもの、或いは何かそれを採ろうという意図があったものを収穫します。

人間の場合もやはり、人間の行動がもしもそれが自分の意図に適っていれば、「あぁ、満足した。嬉しい、これができて嬉しい。」と思います。ですから何らかの人間の行動で嬉しいと思ったり、喜びがあったものが、それが人間の行動の実りとなります。人間がそれをもともとそうしようと思った事です。究極の目的というのは聖パウロの言うように、「人間の最後、究極の目的であり、永遠の命」です。これこそが私たちが求めている甘美な実りであって、それこそを求めています。

ではどうやったらこれが良い実りとなるのでしょうか?聖パウロが、やはり言っているように、罪の実りと正義の実りがあります。天主に反するものと天主に沿うものがあります。これはどういう事かというと、イエズス・キリストに結ばれているか結ばれてないかによって、それが良い実りとなるか悪い実りとなるかの違いがあります。イエズス様は言います、「『主よ、主よ、』と言うだけの者でなく、主の御旨を果たす者が天の国に入る。」と。ここではイエズス様は言います、「信仰だけではなくて、更に愛徳を持って主の御旨を果たした者が天国に入る。」と。

これはイエズス様は別のところで、10人の乙女について話をします。5人の賢い乙女と5人の愚かな乙女です。5人の賢い乙女は油と灯を持っていました、ランプだけでは駄目だったのです、油を持っていてからこそ、花婿が来た時に花婿と一緒に入る事ができました。しかしランプだけを持って油の準備をしなかった者、つまり信仰だけを持って愛徳のなかった者は、イエズス様から花婿から、「私はお前たちの事を知らない。」と言われるに違いありません。

何故、では信仰と愛が必要なのでしょうか?イエズス様はこう仰います、「私は葡萄の木であって、あなたたちはその枝だ。もしも私に付いていなければ、あなたたちは何も実を結ぶ事ができない。私に留まれ。」私たちがイエズス様に、信仰と愛徳を持って愛を持って留まっていない限り、最高の実りである天国に行くという事はその実りは結ぶ事ができないのです。しかしイエズス様と結ばれているのであれば、私たちがどのような小さな者であっても、もうこの世では馬鹿にするような小さな者であっても、それは関係ありません。大切なのは、イエズス・キリストに繋がっているかどうかです。大切なのは、天主の目にどのように映っているかどうかです。大切なのは、私たちがイエズス・キリストの為に、イエズス・キリストと繋がって、イエズス・キリストの為に、イエズス・キリストを愛するが為に、この仕事を、小さな事をするかしないかによります。

これはどういう事でしょうか?これは、「意向によって、同じ行為が意味が違ってしまう」という事です。例えばイエズス様に対して接吻するという事はとても良い事のように思います。しかしイスカリオトのユダは、イエズス様に裏切りの為に接吻をしました。つまり同じ行為であっても、その意味が全く違うのであって、実りも違うという事です。

イエズス様に繋がれば繋がるほど、それは聖霊にも繋がります。ですから聖パウロは、私たちはイエズス様と繋がる限り聖霊を受けるので、「聖霊の実り」という事についても話しています。

では良い行いというものはどういう事があるでしょうか?公教要理によれば、主に良い業には3つがあるといます。1つは「祈り」であって、もう1つは「断食」で、もう1つは「施し」であるという事です。

「祈り」というのは、ただ朝のお祈りだけではありません。私たちの心を天主にあげる全てが祈りです。例えばミサ聖祭に与る。或いは秘跡に与るなどです。これはどういう事かというと、イエズス様は私たちを、イエズス様の幹に接ぎ木されたという事です。私たちの中に特に洗礼の秘跡の後には、イエズス様の命が入っているという事です。私たちがイエズス・キリストの神秘体の一部となって、その命を生きている、共に生きているという事です。これは信仰と愛によってこれが達成されます。

しかもこれは私たちの三次元の場所によって制限されるものでありません。この私たちがイエズス様と一体になっているという事は、時を超える事です。ですから例えば洗礼の秘跡を受ける時に私たちは、イエズス様の御血潮を受けて、イエズス・キリストと共に葬られ罪に葬られ、イエズス・キリストと共に復活する事になります。私たちがミサ聖祭に与る時には、2000年の場所と時を超えて、ちょうどカルワリオのふもとにいる事になります。全く同じ霊的な価値を持つ事になります。丁度イエズス・キリスト様が皆さんの事をカルワリオの十字架の上でご覧になっている、その事が今起きています。

2000年前にもしもゲッセマニの園でイエズス様が苦しんだとしたら、それは2000年後の今の、2016年7月3日の今の私たちが犯す罪を、裏切りを見て苦しまれているのです。

もしもイエズス様がこのゲッセマニで慰めを受けるとしたら、私たちの愛や犠牲や償いを見て、イエズス様に対してなされる祈りを見て、イエズス様はゲッセマニのその時に慰めを受けられるのです。

十字架に付けられながら、時を超えて今の私たちをご覧になっています。今の私たちに十字架の上からお恵みを与えようとされています。現代の言葉で言えば、例えばタイムマシンとか、或いはワープするとか、或いは何かこうSFの専門用語があるかもしれません。しかし時を越えた永遠の天主に於いてはその事ができるのです。

「断食」についても同じです。断食というのはただ単に私たちがご飯を食べない、1食減らすだけではありません。私たちが好奇心を放棄して、或いは禁じられた情欲を制限したり、或いは無駄なおしゃべりをやめたり、或いは無駄なインターネットのチャットをやめたりとか、或いはしても許されるような事だけれども、どうしてもしなければならない事ではないというものは、イエズス様の為に断食する、それを放棄する、などという事によって、イエズス様はそれを非常に、イエズス様の為になされた事であれば非常にそれを喜ばしく思います。

それを例えば、イエズス様が鞭打たれた時に、御体から御血潮がタラタラと流された時に、その私たちが罪を放棄した、罪をやめた、罪を犯さなかった、という事によって、より少なく鞭打ちの痛みを感じられるのです。

私たちがイエズス様の為に屈辱を、侮辱を忍耐した、嘲りを捧げた、という時には、茨の冠を被せられたイエズス様は、それだけより少なく苦しみを感じます。

2000年の時間と場所を越えた一致があるのです。神秘体の一致があります。

「施し」についても同じです。施しというのは教会に献金をするだけではありません。そうではなくて、「隣人の為に、私たちの持てる愛徳を施す。」これが施しです。イエズス様は言いました、「私の為に、この最も小さな者に為すものは、私に対して為す事だ。」パウロは叱られました、パウルは昔サウロという名前でキリスト教徒を迫害していた時がありました、「サウロ、サウロ、お前なぜ、お前は私を迫害するのか。」

では今日はどのような遷善の決心を立てれば良いでしょうか?

「私たちはイエズス様といつも一致している」という事を自覚する、まず自覚する事を提案します。これは朝起きた時に、私たちが一日の全てを捧げる、イエズス様の為に、苦しみと小さな仕事を捧げる、全てを捧げる、受けるべき受ける事ができるような全ての贖宥を受ける、のみならず、私たちがイエズス様と共にいる、という事を自覚する事を提案します。私たちが罪を犯せば犯すほど、イエズス様を実はそれだけ苦しめてしまう。しかし私たちがイエズス様の為に苦しめば、祈りを捧げれば、イエズス様はそれだけ喜ばれる、今喜ばれる、その時を超えて喜ばれる、という事を提案します。

第二は、この私たちの聖徳の実りの為に、聖徳の原理であるイエズス様と共に繋がるのみならず、このイエズス様の為に全ての日常生活を捧げる、特に苦しみと祈りを捧げる、という事を提案します。特にカトリック教会の為にお捧げ下さい。今、苦しみ、受難を苦しむ教会の為にお捧げ下さい。

最後に、マリア様こそが、全き最高の実りをもたらした御方でした。御胎内の実りもそうですし、その御胎内の実りを十字架に付けた、禁断の実りを、禁断の木の実を取ってしまった罪の償いをした、この十字架の実りであるイエズス・キリスト、またミサ聖祭の実りであるイエズス・キリストを生み出した方であり、そのご生涯は全て、天主の御旨に適ったものでした。マリア様は言います、1つだけ私たちに、そのカナの召使いを通して私たちに言います、「彼の言う事を何でもしなさい。」そうした時に、私たちは水のようなものですけれども、ぶどう酒の、最高のぶどう酒を生み出す事ができるような、良い実りをもたらす事ができるに違いありません。

今日は皆さん日本語が分かる方だけですので、今日は日本語だけで終わりたいと思います。

「木は、その実によって知られる。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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