地獄の永遠性についての説教
ドモルネ神父
今日の書簡の中で、聖パウロは、「罪の払う報酬は死である」(ローマ6章23節)と述べています。聖パウロは、地獄という永遠の死について語っています。今日の福音書の中で、私たちの主イエズスは、「良い実をつけぬ木はみな切って火に投げ入れられる」(マテオ7章19節)と言っておられます。私たちの主イエズスは、霊的な聖性の実をつけない人々について語っておられるのです。彼らは地獄の火の中で罰せられることになります。
今日は、地獄について、特に、地獄の永遠性についてお話しします。
1.地獄の本質と存在
地獄とは、死後に永遠の罰を受ける場所のことです。地獄は、悪魔のため、そして大罪の状態で死んだ人々のための場所です。地獄での主な苦しみは、滅びにあります。滅びとは、至高の善であり、かつ絶対の幸福の源である天主から、永遠に引き離されている状態のことです。苦しみの他の原因には、自分の過失で地獄にいるという自責の念、肉体と霊魂を燃やすものの、燃やし尽くすことのない神秘的な火、滅びた人々をあらゆる方法で苦しめる悪魔などがあります。聖書や神学、アヴィラの聖テレジアやファチマの子どもたちに与えられた地獄についての啓示、滅びた人々の、天主の許可を得たうえでの地上への出現といったすべてのものが証言するのは、地獄の苦しみは私たちの想像を完全に超えるものであるということです。
このような地獄は実際に存在するのでしょうか、それともカトリックの聖職者が人々を怖がらせて支配するために作り出した架空の産物なのでしょうか。私たちが、地獄が存在することを知っているのは、おもに啓示によってです。聖書は何度も地獄について語っています。例えば、世の終わりの公審判で、私たちの主は悪しき人々にこう言われます。「呪われた者よ、私を離れて悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入れ…そして、これらの人は永遠の刑罰を受け…るであろう」(マテオ25章41、46節)。また、私たちの主イエズスは、人に罪を犯させるような人々は、「ゲヘンナの不滅の業火に入る。そこではうじが失せず、その火が消えぬ」と警告されました(マルコ9章43-44節)。
2.地獄の永遠性と正義
私たちは、この世で生きている間に罪を犯しても罰せられなかった悪しき人々のために、死後、罰を受ける場所があるべきだということは、簡単に理解できます。しかし、私たちは、地獄が永遠であることにショックを受けるかもしれません。しばらくの間続いただけの罪を、永遠の罰によって罰することは、釣り合いがとれておらず、したがって不公正ではないのでしょうか。これにどう答えればいいでしょうか。
罰は、罪の期間に比例して評価されるものではありません。殺人者は1分で無実の人を殺すことができます。彼の刑務所での罰は1分だけでしょうか。それは不条理です。罰は、罪の重大性に比例して評価されます。ですから、大罪の重大性が、その罰の重さを決めるのです。大罪を犯す人は、天主の法を、重大なものとして、意識して、意図的に破ります。その人は、自分が望む何らかの利益を得るために、天主と天主の法を拒絶します。その人は、この利益を天主よりも重要視します。それは一種の偶像崇拝です。例えば、情欲に溺れている人々について、聖パウロは次のように言っています。「彼らの天主は自分の腹であり、自分の恥に誇りを置いている」(フィリッピ3章19節)。このように、大罪は、天主に対する重大かつ直接的な侮辱です。ところで、天主は無限に優れておられます。ですから、大罪という侮辱は、無限の重大性をもつものになります。したがって、このような罪に対する正当な罰は、何らかの方法で無限に厳しいものでなければなりません。聖トマスは次のように述べています。「被造物は無限という質を持つことができないがゆえに、罰が無限の強度を持つことができないため、期間が無限でなければならない」。
3.地獄の永遠性と御あわれみ
さらに反論があるかもしれません。たぶん地獄での永遠の罰は不公正ではないかもしれませんが、それは天主の善性や御あわれみにふさわしいものでしょうか?聖書は、天主はすべての人にあわれみ深いと言っています。例えば、天主についてこう言っています。「あなたは、すべてのものに、あわれみを下さる、すべてが出来るのだから。」(知恵11章24節)。これにはどう答えればいいのでしょうか。
地獄での罰は永遠に続きますが、それは天主の御あわれみに限界があるからではなく、天主の御あわれみを拒絶した、滅びた人々のせいです。私たちの地上での時間は、猶予を与えられた時間です。私たちは、善を行うか悪を行うか、天主のご意志に従うか拒絶するかを選ぶことができます。罪人は自分の罪を悔い改めることができ、天主はその御あわれみによって、罪人を赦し、掟を守らせ、永遠の幸福に到達させるご用意がいつもあるのです。しかし、死後、猶予の時は終わります。私たちは永遠に、つまり連続した今という時間に、入ります。私たちは、死の時と同じ心構えのままとなります。聖書はこの現実を、次のような明確な例えで表しています。「木が、南か北かに倒れると、 倒れた所に横たわる」(伝道11章3節)。つまり、大罪によって天主を拒絶し、その状態で死んだ人々は、死後も天主を拒絶し続けるのです。彼らは自分の罪を悲しむことはありません。彼らが邪悪な意志を永遠に持ち続けているように、彼らの罰も永遠に続くのです。天主の御あわれみも彼らを助けることはできません。これは、彼らが自分で選んだことなのです。
しかし、それでも、私たちはこう言うかもしれません。「天主は滅びた人々の苦しみを喜ぶことはおできにならない。では、なぜ天主は滅びた人々を消滅させ、天国の聖人だけを存在させられないのでしょうか?」。しかしこれは、天主の正義と知恵に反することになります。滅びた人々は、天主に対して重大な侮辱を行いました。彼らは痛悔していません。もし彼らが消滅させられたなら、天主に対する彼らの侮辱は、実際には罰せられないままになってしまいます。彼らが引き起こした騒乱は、治められないままになってしまいます。天主はその善性において、滅びた人々の苦しみ自体は喜ばれないものの、その正義において、罪人がふさわしい罰を受けることを喜ばれるのです。
結論
親愛なる信徒の皆さん、私たちは地上にいる限り、地獄に落ちる危険にあることを覚えておきましょう。霊的指導者たちの勧めに従って、想像力を働かせて、しばしば、自分自身を地獄に置いてみることにしましょう。永遠に、天主から離れる。永遠に、火の中で燃える。永遠に、悪魔に苦しめられる。永遠に、自分の体と魂のすべてにおいて、ひどく苦しみつづける。…このように考えることが、誘惑に打ち勝つ助けになります。私たちの主イエズスが、地獄という現実を、前もって私たちに明かされたのは、このためです。
聖母が、私たちを常に成聖の恩寵の状態に保ってくださいますように。