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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

月の初水曜日 聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

2017年09月06日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、9月6日は、初水曜日(月の初めての水曜日)です。

毎月の初水曜日には「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフは、この世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失ならんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔さ良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.

ファチマの牧童たちはすごい!ロザリオの十字軍へのご協力を心から感謝します。

2017年09月06日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年 9月 06日現在、
日本から今までの総計で、ロザリオ 25,621環、犠牲 67,820回が報告されております。天主様に感謝!愛する兄弟姉妹の皆様のご協力に感謝します。

マニラからは総計として、ロザリオ343,757環、犠牲133,287回が報告されています。

韓国からは、ロザリオ11250環、犠牲750回が報告されています。

今回のロザリオの十字軍では、数はあまり集まらなかったかも知れませんが、私たちは特に意向をはっきりさせることができたと思います。

ファチマの子供たちの模範は、すごいと思います。実際にやってみて彼らのすごさが分かります。一日や一週間だけではなく、聖ジャシンタや聖フランシスコは、死ぬまでやり通したのですから。

犠牲を捧げるのは、口で言うのは易しく、できるだろうと想像するのも簡単ですが、実際に少しでも実践するのは、本当に犠牲やつらさが伴います。ファチマの牧童たちから、なんと遠くにいることでしょうか!

このロザリオの十字軍によってファチマ100周年が準備できたことを感謝すると共に、この十字軍に寛大にご協力してくださった愛する兄弟姉妹の皆様に心からお礼申し上げます。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
ロザリオ十字軍の報告をさせていただきます。

2017年1月から8月22日までの ロザリオ 258環
  小さな犠牲 868回です。
たくさん、たくさん感謝です!

【報告】
アヴェ・マリア!

小野田修道院長様

ロザリオ十字軍で1年間捧げたロザリオの数をご報告します。
416環でした。
ご報告が遅くなり申し訳ありませんでした。

犠牲の数は正確にはできませんが、金曜日だけにすると50回と
ご報告させていただきます。

ファチマの巡礼のご報告読ませていただきました。
大変お疲れ様でございました。

私は10年前にファチマとリスボンに行ったことがあるのですが、
大変なつかしく思い出されます。
リスボンのここからフランシスコザベリオが東洋、日本に向かって
旅立たれたのだなあと想像したのも同じです。

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ロザリオ十字軍の報告をいたします。
ご報告が遅れまして申し訳ありません。

7月と8/1~8/22まで  86回でした。


【報告】
ロザリオの十字軍のご報告 7月1日~8月22日

アヴェ・マリア・インマクラータ!

小野田神父様、こんにちは、

ロザリオの十字軍のご報告です。

7月1日~7月31日
ロザリオの祈り 99環
犠牲 136

8月1日~8月22日
ロザリオの祈り 87環
犠牲 104

ご報告が遅れて大変申し訳ございません。
前回2014年のロザリオの十字軍に参加させていただいてから、ロザリオの祈りを毎日することができるようになりました。以来、たくさん唱えることばかりでなく、意向を持つことと黙想を心がけるようにしました。
それで今回のロザリオの十字軍では、数を増やすことがなかなかできませんでしたが、7月に入ってからは、少しくらいは無理をしてお祈りをお捧げしようと決めまして、数を増やすようにしました。たとえ、からだでもって唱えるだけに終始してしまうことになってもそうすること、その時間をとることと決めて、聖母マリア様、聖ヨゼフ様に特にお願いを持ってこれを実行しました。
結果、数を増やしても、より意向を持っておいのりできたと思います。黙想がそれてしまったりすることも少なくなったと思います。その日その日にロザリオの祈りを数多くしようとするのは、正直億劫な感じが出ることがしばしばありまたが、そんなときは、この経験を思い起こして積極的になれます。わたくしのほんのささやかな経験ですが、感謝しきれない思いです。今もこれでもって引き続き同じ意向でロザリオの祈りを続けております。

 今回はできるだけ犠牲をお捧げしたことをカウントいたしました。犠牲をお捧げするときに「イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人の回心のため、また聖マリアの汚れ無き御心に対して犯さるる罪を償うためです。」と言うことと、数をカウントすることでもって、犠牲をお捧げしようとしている自分自身と向き合うこと、それは、ほんのちょっとした自分の中の何かから逃げ隠れしたい感じやごまかそうとしているかもしれないことを受け入れる機会を与えていただいていることに思い至るようになり、恥じ入るほかはないのですが、正直になれることは大きな安心につながり、励みもいただいていたと思います。
 自分の心や体の習慣の悪いところを少しでも償うことができれば・・・と思うばかりでした。「今この犠牲をしなければならないのは自分がよくないからでは?!」と思うこともありましたが、それでもお捧げさせていただきました。今回のロザリオの十字軍では、犠牲をお捧げすることがより真実に正直になる助けとなっていたと思いました。自分に正直になるなら、誇れるものは何一つ無く、恥と後悔しか無い・・・。これがわたくしの実態ですから、償いや犠牲をお捧げしていくほかに無いのです。汚れきっているこの自分でもって・・・。こんな自分を挽回して頑張ろうとする前に。
 ファチマの牧童たちが、お弁当も食べず、水も飲まずに犠牲をお捧げしていたことを、この夏の時期しばしば思い出し、倣うようにし、彼らにお取り次ぎをお祈りしました。十字架のイエズス様の御渇きに加えて幼い彼らの空腹とのどの渇きをも思い起しました。渇きや空腹は忍耐をするのにわかりやすく味わえますから。終生いつもいつもいつも彼らの渇きと忍耐をを忘れないで生活したいと思っております。
以上です。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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