アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年7月2日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2016年7月2日、マリア様のご訪問の祝日を祝っています。
今日この御ミサの後に、いつもの通り公教要理の勉強があります。今回は「希望の徳」について、皆さんと復習をしたいと思っています。希望には、希望のしすぎがあるのか、或いは無いのか。希望とは一体、何を希望して、希望の反対は何なのか等、皆さんと一緒に考えていきたいと思っています。
7月はレネー神父様のご予定で少しイレギュラーになっております。次のミサは来週の金・土、それからレネー神父様の主日は、その2週間後の主日です。どうぞお間違えのないようになさってください。つまり7月の15日の主日がレネー神父様で、7月の8日・9日、金・土と私がもう一回この次に、第3週の主日がレネー神父様となっています。どうぞお間違えのないようになさってください。
8月はマリア様の聖グリニョン・ド・モンフォールによる黙想会があります。その為に40人ほどの場所を確保しているのですけれども、まだ残念ながら20人にも足りていません。そこで是非多くの皆さんにですね参加して頂き、お友達や親戚の方や知っている方を是非誘って頂き、特別な機会ですので参加するように仰って下さい。この今まで参加した事がなかった方でも、参加するように是非お願い致します。
「その時マリアは立って、急いでユダの町を通って走り、エリザベトの家に行き、彼女に挨拶した。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日はマリア様のご訪問の祝日です。このご訪問の祝日には色々な黙想のポイントがありますが、特に今回は、マリア様が天主の御母となって御告げを受けて、最初になさった、その最初に起こした行動が、ご訪問だった、聖エリザベトを訪問された、という事を黙想する事を提案します。
一体、マリア様とは一体どなたなのか。聖エリザベトとはどのような方、どのような状況に置かれているのか。マリア様が聖エリザベトを訪問した時起こった、何がどの様な奇跡が起こったのか。マリア様はそれで一体何をなさろうとしたのか。それでは、そのような事は2000年前に起こった事だけで、私たちには関係がないのか、あるのか、など。もしも関係があるのであれば、私たちにマリア様はどのような事をなさろうとしているのか。では、私たちはそのようなマリア様に対してどうしなければならないのか、など黙想したいと思います。
最初のポイントは、マリア様が御告げを受けて、大天使聖ガブリエルから、「恵みに聖寵に満ち溢れた者よ、あなたに挨拶します。天主は御身と共にまします。」と挨拶を受けました。マリア様はもちろん、天主様からの特別の選びによって、御母聖アンナの体内に宿るその御受胎の最初の瞬間から、聖寵に充ち満ちの方でした、無原罪の御宿りでした。しかし一体、聖ガブリエルが、「聖寵に充ち満てる御方、あなたに挨拶します。」と言った時、一体これは何を意味したのでしょうか?
これは、マリア様はもちろん罪の無い御方で、聖寵の充ち満ちを受けたのですけれども、更に今までなかったやり方で、より多くの聖寵の充ち満ちを受けるだろう。しかも今までは天主三位一体という事が、「天主は唯一の御方だ」という事しか私たちに知らされていなかったけれども、これからは「三位一体」という天主の最も内面的な秘密について、マリア様を通して明かされる、「天主御子が人となる」という事を意味していました。マリア様がその充満を更に受ける、という意味の挨拶でした。
「天主の御母となる」という特別の地位と、特別の称号、特別のお恵みを受けました。その御マリア様が、「はい、私は主の婢女です。仰せの如く我になれかし。」と、それに同意を致します。聖トマス・アクィナスによれば、「これは天主の本性と、人類人間の本性とが結合するその瞬間だったので、この結合にはあたかも婚姻であるかのような一致が見られ、ですから人類の代表としてマリア様は、その結合に同意の言葉をしなければならなかった。」と言っています。マリア様は全人類を代表して、ご自分の名前において、全人類の名前においても、「仰せの如く我になれかし。」と仰ったのでした。
この天主の御母となったマリア様はすぐに立って、今まで石女であった、人々から軽蔑されていた聖エリザベトを訪問します。この前シュテーリン神父様のお説教の時に黙想の時に、「なるほど。」と思った事がこれでした。
聖エリザベトは老人になって、母となる事ができませんでした、子供がありませんでした。これはユダヤの女性にとっては大きな屈辱でした。「きっとエリザベトは罪を犯した女に違いない。」と思われていたかもしれません。「何か呪いを受けた女かもしれない。」と思われていたかもしれません。「母親になる事ができないという事は、一体何という不名誉な事だろうか。天主からの祝福を受けていない証拠だ。」と思われたに違いありません、軽蔑されたに違いありません。しかもその夫ザカリアも、司祭として神殿に入って、お祈りを捧げて香を焚こうとする時に、それからその夕の祈りが終わって出てくれば、啞になって来たではありませんか、天主からの罰を受けて。「きっとザカリアもエリザベトも本当に罪深い人たちだったろう。」と人々の目から見られたかもしれません。実際は、主の前に歩く、聖なる人々であったにも関わらず。
この人々から疎外された、人々から全く小さなものとして見られていた者たちに、老人に、マリア様はすぐ立ち上がって、「あぁ、エリザベトが今身ごもっている。助けに行かなければならない。」と、すぐに奉仕に出かけたのでした。何というマリア様のご謙遜。何という愛徳でしょうか。マリア様は全人類の救いの為に、人類を代表して、「はい。」と言ったのみならず、「天主の御母である」という地位にもかかわらず、聖エリザベトの奉仕の為に、あたかも奴隷であるかのように、召使いであるかのように、女中であるかのように働く為に行ったのでした。
ここにマリア様の2つの役割が見えるのではないでしょうか。1つは、「天主の御母となる、全人類の救霊の為に働かれるマリア様」と同時に、「肉体の弱さも、人間の持つ条件の惨めさをも助けたいと思う、愛徳のマリア様」この2つは実際、マリア様において全く一致しているのです。
マリア様がイエズス様を体内に宿しつつ、「急いで」と聖書には書かれていますが、山を通って、何日間かの旅を危険な旅をして、聖エリザベトの家に訪問した時に、挨拶をします、「こんにちは。」
すると聖エリザベトはマリア様の声を聞くと、体内の子供が喜び踊るのを感じました。皆さんもご存知の通り、洗者聖ヨハネはその時に罪を、原罪の汚れを赦されたのでした。聖エリザベトは聖霊に満たされて、マリア様が天主の御母であるという事を知ります。「一体なぜ主の御母が、私に来る事になったのでしょうか!天主の言葉を信じたあなたは何と幸いであるか!」と、聖エリザベトは全てを知っていました。
マリア様がなさった最初の奇跡がこれでした。霊的な奇跡であって、洗者聖ヨハネの罪を赦す事でした。マリア様が天主の御母となったのはまさにこの事でした。私たちを天国に連れて行くという事でした。罪の赦しを与えるという事でした。天国への道標と天国へと導く道となる事でした。マリア様は天主の御母となったその最初の瞬間から、これを実践されました。
そればかりでありません。マリア様は聖エリザベトのあたかも女中であるかのように、身の周りの世話をして、肉体労働もされました、奉仕もしました。マリア様のこの私たちの「霊的な」のみならず、「物質的な肉体的な」事さえも心配してくださる、という事は、その第二の奇跡に、最初の奇跡に、第二の物体的な奇跡に表れています。それがカナの婚宴でした。
「この人たちにぶどう酒がありません。」と。霊魂の救いとぶどう酒と一体何の関係があるでしょうか。婚宴で人々がお酒を飲んで、楽しむか楽しまないかが一体何の関わりがあるでしょうか。しかしマリア様はその事をも心配しておられたのでした。「年を取った聖エリザベトがきっと苦しんでいるだろう。」という事を心配されたように、「あぁ、お酒がなくてこのきっと新郎新婦もきっと恥ずかしい思いをするだろう。何とかしてあげたい。」その為にイエズス様にお願いして、奇跡さえも起こすのです。「婦人よ、私の時はまだ来ていない。」それでもマリア様の介入で奇跡が行われました。
このご訪問を見ると、マリア様の私たちの母としての愛情がよく伝わってきます。ある神学者の話によると、「天主の御母としてマリア様は、天主から全てを受け取り、人類の母として霊的な母として、私たちに全てを与える。天主から受けた全てを、マリア様は全て与える。」
第一のエヴァ、全ての人類の肉体的な母であるエヴァは、アダムをそそのかして罪を犯しました。アダムをそそのかして「罪を犯すように」と誘いました。呪われた蛇の、堕天使の言葉を信じて、天主から「取っていけない」と言われた木の実を取って、それを食べてしまいました。そこで天主はその時に「お前と女の間に敵対を置く。」と宣言をしました。
第二のエヴァはこれと、第一のエヴァと全く反対をいって、その第一のアダムとエヴァの罪の償いを果たすべき御方でした。大天使聖ガブリエルの言葉を信じて、「全てその通りこの身になる」という事を信じて、その身に起こる事を全て受け取る事を望みました。天主の御旨が果たされる事だけを望みました。マリア様が望んだ事は、「主の御旨を果たす。主の婢女の事をする。」という事でした。そうやって、第二のアダムを十字架の木の上に付ける事に同意しました、釘付けする事を同意しました。第二のアダムとエヴァは2人で、十字架の木の下におりました。ちょうどそれが、第一のアダムとエヴァが禁断の木の実の下において、罪を犯したその反対でした。
罪の償いをした時に天主は、この時は第二のアダムすなわち天主がこう言いました、「女よ、汝の子ここにあり。」人類に向かって、聖ヨハネを通して全人類に向かって、「汝の母ここにあり。」と宣言されました。マリア様が私たちの母として私たちに、単に救い主の母となるという事を人類を代表して宣言したのみならず、ただ単にこの1人の老人、或いは1つの婚礼のカップルの為に心配したのみならず、マリア様は全人類の救いと、その全ての事について心を砕く母として宣言されました。
第二のエヴァの役割はこれです。贖われた全ての者たちの母として、特別の役割を果たすという事です。幼きイエズスの聖テレジアが、「私は全ての天国を、この地上に善をもたらす為に使いましょう。」と言ったのであれば、マリア様はどれほどの心を以て私たちに善を果たそうと、善をなそうと心を配って心を砕いている事でしょうか。
マリア様はちょうど聖エリザベトになさったように、私たちにもイエズス様を以て訪問されます。もしも私たちがお恵みを受ける事ができるとしたら、イエズス様からのお恵みを受ける事ができるとしたら、それはマリア様が運んで下さるからです。マリア様は私たちの救霊のみならず、全ての事について気を配って下さいます。
では私たちは今日、一体どのような決心をすれば良いでしょうか?
マリア様のご訪問を受けて、マリア様に、「天主の御母が私たちを訪問して下さるとは何という事でしょうか!」マリア様の御愛を受け止める事を提案致します。
それと同時に、マリア様がなさっている事を私たちも真似る事を提案します。洗者聖ヨハネはマリア様を通して、マリア様の御取り次ぎによって罪を赦された後も、祈りと犠牲の、償いの生活をしました。「私は小さくなり、イエズス・キリストが大きくならなければならない。」と仰っていました。私たちも聖ヨハネにならって、ますます私たちが小さくなり、イエズス・キリストが私たちに於いてますます大きくなりますように。マリア様の御取り次ぎを乞い求めましょう。
またマリア様は私たちに、1つ命令をしました、「あの人の言う事を何でもしなさい。」そうして初めてカナでの奇跡が起こりました。この言葉は私たちにいつも有効です。マリア様が私たちに言うのはこの事です、「イエズス様の仰る事を全てしなさい。」イエズス様はこう仰ったではないでしょうか?「主の御旨を果たす者は全て私の母であり、私の兄弟である。」「私の母はどこにいるのか?主の御旨を果たす者がそうだ。」と。
マリア様は、主の御旨を全て果たしました。主の御旨を完璧に果たした方が天主の御母聖母マリア様です。マリア様はそれと同じ事を私たちに命令しています、「このイエズス様の仰る事を全てなさりなさい。」と。その時に私たちは奇跡を起こす事ができます。マリア様の御取り次ぎによって、奇跡が起こります。
では今日のこのご訪問の祝日において、初土曜日において、マリア様の御心の中に深く入る事に致しましょう。マリア様のご訪問を受ける事に致しましょう。
「マリアは立って、急いでユダの街を通ってエリザベトの家に行き、その彼女に挨拶をした。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年7月2日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年7月2日 初土曜日 童貞聖マリアのご訪問のミサ
小野田神父説教
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。今日は2016年7月2日、マリア様のご訪問の祝日を祝っています。
今日この御ミサの後に、いつもの通り公教要理の勉強があります。今回は「希望の徳」について、皆さんと復習をしたいと思っています。希望には、希望のしすぎがあるのか、或いは無いのか。希望とは一体、何を希望して、希望の反対は何なのか等、皆さんと一緒に考えていきたいと思っています。
7月はレネー神父様のご予定で少しイレギュラーになっております。次のミサは来週の金・土、それからレネー神父様の主日は、その2週間後の主日です。どうぞお間違えのないようになさってください。つまり7月の15日の主日がレネー神父様で、7月の8日・9日、金・土と私がもう一回この次に、第3週の主日がレネー神父様となっています。どうぞお間違えのないようになさってください。
8月はマリア様の聖グリニョン・ド・モンフォールによる黙想会があります。その為に40人ほどの場所を確保しているのですけれども、まだ残念ながら20人にも足りていません。そこで是非多くの皆さんにですね参加して頂き、お友達や親戚の方や知っている方を是非誘って頂き、特別な機会ですので参加するように仰って下さい。この今まで参加した事がなかった方でも、参加するように是非お願い致します。
「その時マリアは立って、急いでユダの町を通って走り、エリザベトの家に行き、彼女に挨拶した。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日はマリア様のご訪問の祝日です。このご訪問の祝日には色々な黙想のポイントがありますが、特に今回は、マリア様が天主の御母となって御告げを受けて、最初になさった、その最初に起こした行動が、ご訪問だった、聖エリザベトを訪問された、という事を黙想する事を提案します。
一体、マリア様とは一体どなたなのか。聖エリザベトとはどのような方、どのような状況に置かれているのか。マリア様が聖エリザベトを訪問した時起こった、何がどの様な奇跡が起こったのか。マリア様はそれで一体何をなさろうとしたのか。それでは、そのような事は2000年前に起こった事だけで、私たちには関係がないのか、あるのか、など。もしも関係があるのであれば、私たちにマリア様はどのような事をなさろうとしているのか。では、私たちはそのようなマリア様に対してどうしなければならないのか、など黙想したいと思います。
最初のポイントは、マリア様が御告げを受けて、大天使聖ガブリエルから、「恵みに聖寵に満ち溢れた者よ、あなたに挨拶します。天主は御身と共にまします。」と挨拶を受けました。マリア様はもちろん、天主様からの特別の選びによって、御母聖アンナの体内に宿るその御受胎の最初の瞬間から、聖寵に充ち満ちの方でした、無原罪の御宿りでした。しかし一体、聖ガブリエルが、「聖寵に充ち満てる御方、あなたに挨拶します。」と言った時、一体これは何を意味したのでしょうか?
これは、マリア様はもちろん罪の無い御方で、聖寵の充ち満ちを受けたのですけれども、更に今までなかったやり方で、より多くの聖寵の充ち満ちを受けるだろう。しかも今までは天主三位一体という事が、「天主は唯一の御方だ」という事しか私たちに知らされていなかったけれども、これからは「三位一体」という天主の最も内面的な秘密について、マリア様を通して明かされる、「天主御子が人となる」という事を意味していました。マリア様がその充満を更に受ける、という意味の挨拶でした。
「天主の御母となる」という特別の地位と、特別の称号、特別のお恵みを受けました。その御マリア様が、「はい、私は主の婢女です。仰せの如く我になれかし。」と、それに同意を致します。聖トマス・アクィナスによれば、「これは天主の本性と、人類人間の本性とが結合するその瞬間だったので、この結合にはあたかも婚姻であるかのような一致が見られ、ですから人類の代表としてマリア様は、その結合に同意の言葉をしなければならなかった。」と言っています。マリア様は全人類を代表して、ご自分の名前において、全人類の名前においても、「仰せの如く我になれかし。」と仰ったのでした。
この天主の御母となったマリア様はすぐに立って、今まで石女であった、人々から軽蔑されていた聖エリザベトを訪問します。この前シュテーリン神父様のお説教の時に黙想の時に、「なるほど。」と思った事がこれでした。
聖エリザベトは老人になって、母となる事ができませんでした、子供がありませんでした。これはユダヤの女性にとっては大きな屈辱でした。「きっとエリザベトは罪を犯した女に違いない。」と思われていたかもしれません。「何か呪いを受けた女かもしれない。」と思われていたかもしれません。「母親になる事ができないという事は、一体何という不名誉な事だろうか。天主からの祝福を受けていない証拠だ。」と思われたに違いありません、軽蔑されたに違いありません。しかもその夫ザカリアも、司祭として神殿に入って、お祈りを捧げて香を焚こうとする時に、それからその夕の祈りが終わって出てくれば、啞になって来たではありませんか、天主からの罰を受けて。「きっとザカリアもエリザベトも本当に罪深い人たちだったろう。」と人々の目から見られたかもしれません。実際は、主の前に歩く、聖なる人々であったにも関わらず。
この人々から疎外された、人々から全く小さなものとして見られていた者たちに、老人に、マリア様はすぐ立ち上がって、「あぁ、エリザベトが今身ごもっている。助けに行かなければならない。」と、すぐに奉仕に出かけたのでした。何というマリア様のご謙遜。何という愛徳でしょうか。マリア様は全人類の救いの為に、人類を代表して、「はい。」と言ったのみならず、「天主の御母である」という地位にもかかわらず、聖エリザベトの奉仕の為に、あたかも奴隷であるかのように、召使いであるかのように、女中であるかのように働く為に行ったのでした。
ここにマリア様の2つの役割が見えるのではないでしょうか。1つは、「天主の御母となる、全人類の救霊の為に働かれるマリア様」と同時に、「肉体の弱さも、人間の持つ条件の惨めさをも助けたいと思う、愛徳のマリア様」この2つは実際、マリア様において全く一致しているのです。
マリア様がイエズス様を体内に宿しつつ、「急いで」と聖書には書かれていますが、山を通って、何日間かの旅を危険な旅をして、聖エリザベトの家に訪問した時に、挨拶をします、「こんにちは。」
すると聖エリザベトはマリア様の声を聞くと、体内の子供が喜び踊るのを感じました。皆さんもご存知の通り、洗者聖ヨハネはその時に罪を、原罪の汚れを赦されたのでした。聖エリザベトは聖霊に満たされて、マリア様が天主の御母であるという事を知ります。「一体なぜ主の御母が、私に来る事になったのでしょうか!天主の言葉を信じたあなたは何と幸いであるか!」と、聖エリザベトは全てを知っていました。
マリア様がなさった最初の奇跡がこれでした。霊的な奇跡であって、洗者聖ヨハネの罪を赦す事でした。マリア様が天主の御母となったのはまさにこの事でした。私たちを天国に連れて行くという事でした。罪の赦しを与えるという事でした。天国への道標と天国へと導く道となる事でした。マリア様は天主の御母となったその最初の瞬間から、これを実践されました。
そればかりでありません。マリア様は聖エリザベトのあたかも女中であるかのように、身の周りの世話をして、肉体労働もされました、奉仕もしました。マリア様のこの私たちの「霊的な」のみならず、「物質的な肉体的な」事さえも心配してくださる、という事は、その第二の奇跡に、最初の奇跡に、第二の物体的な奇跡に表れています。それがカナの婚宴でした。
「この人たちにぶどう酒がありません。」と。霊魂の救いとぶどう酒と一体何の関係があるでしょうか。婚宴で人々がお酒を飲んで、楽しむか楽しまないかが一体何の関わりがあるでしょうか。しかしマリア様はその事をも心配しておられたのでした。「年を取った聖エリザベトがきっと苦しんでいるだろう。」という事を心配されたように、「あぁ、お酒がなくてこのきっと新郎新婦もきっと恥ずかしい思いをするだろう。何とかしてあげたい。」その為にイエズス様にお願いして、奇跡さえも起こすのです。「婦人よ、私の時はまだ来ていない。」それでもマリア様の介入で奇跡が行われました。
このご訪問を見ると、マリア様の私たちの母としての愛情がよく伝わってきます。ある神学者の話によると、「天主の御母としてマリア様は、天主から全てを受け取り、人類の母として霊的な母として、私たちに全てを与える。天主から受けた全てを、マリア様は全て与える。」
第一のエヴァ、全ての人類の肉体的な母であるエヴァは、アダムをそそのかして罪を犯しました。アダムをそそのかして「罪を犯すように」と誘いました。呪われた蛇の、堕天使の言葉を信じて、天主から「取っていけない」と言われた木の実を取って、それを食べてしまいました。そこで天主はその時に「お前と女の間に敵対を置く。」と宣言をしました。
第二のエヴァはこれと、第一のエヴァと全く反対をいって、その第一のアダムとエヴァの罪の償いを果たすべき御方でした。大天使聖ガブリエルの言葉を信じて、「全てその通りこの身になる」という事を信じて、その身に起こる事を全て受け取る事を望みました。天主の御旨が果たされる事だけを望みました。マリア様が望んだ事は、「主の御旨を果たす。主の婢女の事をする。」という事でした。そうやって、第二のアダムを十字架の木の上に付ける事に同意しました、釘付けする事を同意しました。第二のアダムとエヴァは2人で、十字架の木の下におりました。ちょうどそれが、第一のアダムとエヴァが禁断の木の実の下において、罪を犯したその反対でした。
罪の償いをした時に天主は、この時は第二のアダムすなわち天主がこう言いました、「女よ、汝の子ここにあり。」人類に向かって、聖ヨハネを通して全人類に向かって、「汝の母ここにあり。」と宣言されました。マリア様が私たちの母として私たちに、単に救い主の母となるという事を人類を代表して宣言したのみならず、ただ単にこの1人の老人、或いは1つの婚礼のカップルの為に心配したのみならず、マリア様は全人類の救いと、その全ての事について心を砕く母として宣言されました。
第二のエヴァの役割はこれです。贖われた全ての者たちの母として、特別の役割を果たすという事です。幼きイエズスの聖テレジアが、「私は全ての天国を、この地上に善をもたらす為に使いましょう。」と言ったのであれば、マリア様はどれほどの心を以て私たちに善を果たそうと、善をなそうと心を配って心を砕いている事でしょうか。
マリア様はちょうど聖エリザベトになさったように、私たちにもイエズス様を以て訪問されます。もしも私たちがお恵みを受ける事ができるとしたら、イエズス様からのお恵みを受ける事ができるとしたら、それはマリア様が運んで下さるからです。マリア様は私たちの救霊のみならず、全ての事について気を配って下さいます。
では私たちは今日、一体どのような決心をすれば良いでしょうか?
マリア様のご訪問を受けて、マリア様に、「天主の御母が私たちを訪問して下さるとは何という事でしょうか!」マリア様の御愛を受け止める事を提案致します。
それと同時に、マリア様がなさっている事を私たちも真似る事を提案します。洗者聖ヨハネはマリア様を通して、マリア様の御取り次ぎによって罪を赦された後も、祈りと犠牲の、償いの生活をしました。「私は小さくなり、イエズス・キリストが大きくならなければならない。」と仰っていました。私たちも聖ヨハネにならって、ますます私たちが小さくなり、イエズス・キリストが私たちに於いてますます大きくなりますように。マリア様の御取り次ぎを乞い求めましょう。
またマリア様は私たちに、1つ命令をしました、「あの人の言う事を何でもしなさい。」そうして初めてカナでの奇跡が起こりました。この言葉は私たちにいつも有効です。マリア様が私たちに言うのはこの事です、「イエズス様の仰る事を全てしなさい。」イエズス様はこう仰ったではないでしょうか?「主の御旨を果たす者は全て私の母であり、私の兄弟である。」「私の母はどこにいるのか?主の御旨を果たす者がそうだ。」と。
マリア様は、主の御旨を全て果たしました。主の御旨を完璧に果たした方が天主の御母聖母マリア様です。マリア様はそれと同じ事を私たちに命令しています、「このイエズス様の仰る事を全てなさりなさい。」と。その時に私たちは奇跡を起こす事ができます。マリア様の御取り次ぎによって、奇跡が起こります。
では今日のこのご訪問の祝日において、初土曜日において、マリア様の御心の中に深く入る事に致しましょう。マリア様のご訪問を受ける事に致しましょう。
「マリアは立って、急いでユダの街を通ってエリザベトの家に行き、その彼女に挨拶をした。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。