アヴェ・マリア!
聖ピオ十世会のベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様のアメリカのウィノナの神学校での叙階式の時のお説教を日本語に訳して下さった方があります。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。
その他にも、まだまだご紹介するばかりの日本語に訳された記事があるのですが、私の時間がとれずにご紹介できていないものも多々あります。出来るだけ早くご紹介するつもりであります。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をひたすらにお願い申し上げます。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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Bishop Tissier - Ordination Sermon June 2012, Winona.
二〇一二年六月一五日、ティシエ司教様による叙階式での説教 ウィノナにて
原文はこちら
youtubeの映像
父と子と聖霊とのみ名によりて。アーメン。
親愛なる管区長様、神学校校長神父様、神学生の皆さん、司祭職における親愛なる同僚の皆さん、親愛なる叙階候補者の皆さん、親愛なる信者の皆さん。至聖なるイエズスの聖心の、この最も重要な祝日において、私たちはこの叙階式を執行しております。私たちは、使徒聖ヨハネの福音書におけるこのみことばを、使徒聖ヨハネとともに言えるでしょう。
"[V]idimus gloriam ejus, [gloriam] quasi unigeniti a Patre plenum gratiae, et veritatis."
私たちはその栄光、聖心の栄光、おん父のひとり子の聖心の、恩寵と真理に満ちた栄光を見た。その満ちあふれるところから、私たちはすべてを受けた。恩寵と真理に満ちておられる至聖なるイエズスの聖心よ、我らは御身に全幅の信頼を寄せ奉る、と。
[訳注: ヨハネ福音書第一章十四節~十六節]
親愛なる未来の助祭と司祭たちよ、恩寵と実りはあなた方の模範となる二人の聖人の生涯において輝いています──聖ステファノと聖ヨハネ──聖ステファノは助祭の模範であり、聖ヨハネは司祭の模範です。まず初めに、助祭の模範なる聖ステファノについて話しましょう。彼は助祭の務めに選ばれました。それはつまり、彼の信仰告白の堅固さと、祭壇の至聖なる秘跡の奉仕の故に、貞潔の模範として選ばれたのです。Cogitate Beatum Stephanum merito praecipuae castitatis ad officium istud electrum. 「聖ステファノが、特に貞潔の徳の功徳のおかげで、この務めに選ばれたことに思いを馳せよ。」これは「ローマ司教儀式書」の言葉です。
「ローマ司教儀式書」は助祭たちにこう説明しています。「あなたたちは、主のおん体とおん血の聖職者と共同奉仕者になるため呼ばれたのであるから、あなたたちは、あらゆる肉の誘惑の敵とならねばならない。聖書にあるように『主の聖なる器を運ぶあなたたちは、自分自身を清くせよ。』」
ですが、まず初めに未来の助祭たちに命じられるものは貞潔の徳の実行です。「ローマ司教儀式書」の力強い言い方を黙想しましょう。Cogitate Beatum Stephanum. 聖ステファノに思いを馳せなさい。貞潔の徳のみならず、祭壇の聖なる奥義におけるその関与によっても最も称賛すべき聖ステファノを。
あなた方は、主のおん体とおん血の共同奉仕者であり共同労働者です。主のおん体とおん血の共同奉仕者、共同執行者──力強い言葉です。あなた方は司教荘厳ミサにおいて仕えることができるようになり、カリスを捧げることができるようになるので、あなた方と司教は、奉献の時にカリスをともにお捧げするのです。あなた方は公に祭壇の聖体を顕示することができるようになり、特別奉仕者として、聖体を配ることができるようになるでしょう。主のおん体とおん血の共同従事者。なんという尊い役目! 聖体のおそば近くに、聖なる犠牲のおそば近くにお仕えする、なんという幸福!
"Cogitate Beatum Stephanum"──私たちの主、イエズス・キリストの天主性を告白する信仰の堅固さの故に、最も称賛すべき祝された聖ステファノに思いを馳せましょう。聖ステファノがイエズスの天主性を告白したなら石殺しにするつもりであったユダヤ人たちの前で、聖ステファノはその信仰を告白しました。恩寵と堅固さに満たされて──恩寵と堅固さに満たされてです! 彼は人々の間で偉大な奇跡としるしを行いました。ユダヤ人たちは、彼の口から出た知恵と霊に抵抗することができませんでした。それでも聖ステファノは「あなた方、頭が固く、心と耳において割礼を受けていないあなた方は絶えず聖霊に逆らっています。常に聖霊に逆らっています。あなた方の先祖がそうであったように、あなた方も同じです」と言いました。聖霊に逆らうということ! 教会の中に改革を導入し、聖霊に反抗することを望んでいる第二ヴァチカン公会議について私たちは考えます。[訳注: 使徒行録七章五十一節]
そして、祝された聖ステファノはこう締めくくります。「あなた方! あなた方が、あなた方の先祖が迫害しなかった預言者たちがいるでしょうか? あなた方の先祖が破門せず、汚名を着せなかった預言者たちがいるでしょうか? あなた方の先祖が迫害しなかった預言者たちがいるでしょうか?」
そして彼はこのように言います。あなた方が裏切って殺してしまったかの義人の来臨を預言した人々も同じように殺してしまいました、と。聖ステファノは恩寵と堅固さに満たされ、祝された救い主の殺害者であるユダヤ人たちを非難しました。使徒行録には次のような書いてあります。すなわち「しかし、彼、ステファノは、聖霊に満たされて、しっかりと天を仰ぎながら、天主の右に立っておられるイエズス、イエズスにおける天主の栄光を見た」そして彼は「見なさい、私は、天が開かれ、天主の右に立っておられる天主のおん子を見ている」と言い、その言葉でもって彼は殺されました。石殺しにされたのでした。
[訳注: 使徒行録七章五十二節~六十節]
なんという称賛すべき知力と勇気の賜物の模範、信仰による知性と、信仰を持つ人生における堅固さの賜物の模範、私たちの大切な聖ピオ十世会の助祭たちのあるべき姿の模範でしょうか! 助祭として私の最愛の息子たちよ、あなた方は、絶え間なく続く苦闘において、敵と戦うための準備を怠らない天主の教会の奉仕者です。この言葉の数々は、教会について述べている「ローマ司教儀式書」の言葉──絶え間なく続く戦闘において、敵と戦うための準備を怠らない教会について述べている言葉です。
この敵たちとは、近代主義者たちとその新しい宗教──罪も、痛悔も、償いも、赦しも、犠牲も、贖罪も、まことの愛徳もない新しい宗教のことです。ご存知の通り、犠牲なくしてまことの愛徳はあり得ません。ですから、新しいミサという徽章を帯びているこの偽りの宗教に対して、親愛なる未来の助祭たちよ、あなた方はこの新しい宗教、自然主義の宗教の異端的な歪みを非難せねばならないでしょう。自然主義の宗教をです! あなた方は、カルワリオの償いの生贄の真理を、ミサ聖祭の贖罪の生贄の真理を述べ伝えねばならないのです。
さて、次に、親愛なる司祭候補者の皆さん、あなた方の模範となるのは使徒聖ヨハネです。
しかし最初に、「ローマ司教儀式書」に従って勧告する司教の言葉に耳を傾けましょう──"Sacerdotem etenim oportet offerre, benedicere, praeesse, praedicare, et baptizare." 司祭は、捧げ、祝福し、主宰し、説教し、洗礼を授けなければならない。
初めの三つの役目──捧げ、祝別し、主宰する──は、ミサの聖なる犠牲を司ることです。司祭は天主の神的な生贄を捧げます。司祭はカリスとホスチアを聖別します。そして、叙階された奉仕者のみが執り行うことのできる聖祭を司ります。叙階された者のみが執り行う、特別な秘跡のしるし──叙階の秘跡のしるしの結果、司祭はキリストのペルソナにおいて振る舞うことができ、キリストがなさったことをすることができます。つまり、私たちの主イエズス・キリストのおん体と、とうといおん血を奉献──血を流さない、十字架上の生贄を再現することができるのです。「ローマ司教儀式書」は、天主なるおん父への次のような祈りにおいて、この素晴らしい権能を描写しています。「御身の民が御身に従順であることの発露として、おお天主よ、御身の司祭らが、けがれなき祝福により、パンとぶどう酒を、御身のおん子のおん体とおん血に変化させますように」
非常に単純な言葉です! 非常に深遠な意味を持っています。このミサの典文(カノン)の祈りにおけるけがれなき祝福、特に、この感嘆すべき変化、言うなれば変容を成し遂げるミサ典文中の奉献の祈り、これは、聖なるトリエント公会議によって、正しく「全実体変化」と言われています。つまり、パンをイエズス・キリストのおん体に、ぶどう酒をイエズス・キリストのおん血に変化させる奇跡、聖変化のことです。これこそあなた方の持つ主なる権能です──ミサ聖祭中の典文によって全実体変化を起こさせること。あなた方は捧げ、聖別し、ミサの聖なる犠牲を司る権能を持つのです。
それから、司祭のもう二つの権能、つまり、説教し、洗礼を授けるということ。洗礼についてお話ししまょう。司祭は洗礼を授ける権能を持ちます。それはつまり、洗礼の秘跡によっても、また告解の秘跡によっても、二つの秘蹟によって成聖の恩寵を増すということです。この二つの秘跡! 二つ目の秘跡は、今日の教会においてほとんど忘れ去られています。告解の秘跡──忘れ去られた秘跡! 最初の一つ、洗礼の秘跡は今日では歪められています──新しい自然主義の宗教によって歪められています。天主の生命を与える代わりに、単に名前を洗礼台帳に記入されるだけのものになっています。それでは充分な理解とは言えません。洗礼は真実に原罪を破壊し、霊魂に成聖の恩寵を注ぎます。これがカトリック信仰です。だからこそ、親愛なる未来の司祭と助祭たちよ、この新しい宗教に決して妥協しないで下さい。昔からのカトリック教会の教えと、私が「新教会 "new church"」 と呼ぶ教えとの間には、まったく正反対のものがあります。そのことを曖昧にしてはいけません。これは教会でないどころか、毒、教会を毒するだけのものなのです。
私は「ローマ司教儀式書」とともに、未来の助祭であるあなた方に聖ステファノについて申しました。未来の司祭であるあなた方にはこう申しましょう "Cogitate beatum Joannem" (聖ヨハネに思いを馳せよ)と。
祝された使徒聖ヨハネについて説教しましょう。Cogitate beatum Joannem. 聖ヨハネに思いを馳せよ──死にゆくキリストが、その天主のおん母をお委ねになった、いとも優れた司祭。童貞マリアは聖ヨハネの立てたミサにあずかり、その手からご聖体を拝領しました。つまり、聖母のとうとい愛より芽吹き、そのとうとい御胎に命を宿されたのと同じおん体とおん血を拝領したのです。なんという神秘! 司祭職のなんという至高なる名誉! このことへの深い尊敬の念とともに、聖ヨハネはミサの聖なる犠牲を捧げたに違いありません。
聖ヨハネは、「ローマ司教儀式書」が数え上げるその徳の数々によって、司祭職に備わる多くの徳の模範のように見えます。すなわち、正義、貞節、安定、慈悲深さ、堅忍、そして他の多くの徳です。しかし、聖ヨハネを正義の人、慈悲深く、謙遜で、従順で、柔和で、優しく、親切で、上品な、平和に満ちた、良識ある、慎重な、もの静かな、そしてたぶん物惜しみすることのない方としてのみ、思い描かないで下さい。そうではありません! 彼は称賛に価する、親しみやすい、すぐれた聖人であることは間違いありません。しかし聖ヨハネの徳はただそれだけではないのです。聖ヨハネの魂を描くには、それだけでは充分ではありません。彼は子羊の前でもおとなしい羊であるだけなく、蛇の知恵と賢さを持っていました。なによりも、彼には強靭さと獅子の如き咆哮が備わっていました。強靭さと獅子の如き咆哮! これこそ、使徒聖ヨハネの真の姿を描写していると言えます。
彼は、その時代の異端に非常に力強い言葉で反論することができ、彼らに反対して──天主が人となられたという教えを、人が天主となったという教えに歪めた人々--- ちょうど教皇パウロ六世が、第二ヴァチカン公会議に着手することについて述べたのと同じことですが --- に反対して、確固たる態度を取ることができました。
ですから、天主が人となられたというまことの教えに代わって、人が天主となったという新しい教えに反対して苦闘する聖ヨハネの同じ言葉を、第二バチカン公会議にあてはめてみます。聖ヨハネが、その最初の書簡で書いた、人が天主となったという新しい教えについて読んでみることにしましょう。そこには、人間の尊厳、人権についての教えが述べられています。聖ヨハネは「偽り者とは誰か? イエズスがキリストであることを否定する者ではないか?」これこそ、おん父とおん子を否定する反キリストのことです。
[訳注: ヨハネの第一の手紙 二章二十二~二十三節]
天主のご託身を否定する者は、天主が私たちを救うためまことに人となられた-- そしてその反対ではありません--- ということを否定します。その反対とは、人が天主となったということ、これこそ人間の尊厳と人権の宗教です。人が天主となる! 「否」と聖ヨハネは言います。私たちの教えは、天主が人となられたという宗教である──天主の聖なるご託身の玄義による宗教であると。聖ヨハネは続けて「おん子を否む者はおん父を持たず、おん子を宣言するものは、おん父をも持っている」と言います。これが私たちの取るべき態度です──イエズス・キリストの神性を宣言すること、天主のおん子は人となられたということを宣言すること、おん子は天主であり、王であるということを宣言することです。
[訳注: ヨハネの第一の手紙 第二章二十三節]
親愛なる未来の司祭たちよ、この新しい、聖伝に由来しない宗教に反対して、聖ヨハネのように、信者たちによくよく警告しなさい。あなたたちに関して聖ヨハネは言っています。「あなたたちが初めから聞いたことを、あなたたちのうちに留めなさい。初めから聞いたことを、あなたたちの内に留めなさい。つまり教会の聖伝を保ちなさい。私たちは受け取ったものを告白します。初めから聞いたことを、あなたたちの内に留めなさい。初めからあなたたちが聞いたことが、あなたたちの内に留まるなら、あなたたちもまた、おん子とおん父の内に留まるでしょう」これは、使徒聖ヨハネの力強い、真理から来る言葉です。[訳注: ヨハネの第一の手紙 第二章二十四節]
親愛なる未来の司祭たちよ、聖ヨハネは、私たちの主イエズス・キリストの王権、社会的、政治的王権を否定する者たちに反対して、イエズス・キリストは天主であり、王であるということを否定する自由主義者たちに反対して、どのように戦えばよいのかを諭しています。聖ヨハネは、すでにその書簡で、キリストを認めない人々、イエズス・キリストと分裂した人々──キリストの神性を受け入れる一方で、その王権を否定していた人々を糾弾しました! そうです、彼らは「キリストは天主である、だが王ではない」と言いました。そして今日、第二ヴァチカン公会議から来る自由主義が、教会内におけるこのありさまを作り出しています。彼らはイエズス・キリストは天主であると受け入れますが、王であることは否定するのです! キリストが王として統治すべきであることを否定するのです! ですから、私たちはこれに反対し、戦わなければなりません。
書簡における聖ヨハネの言葉を引用しましょう。「イエズス・キリストは肉体をとられたと告白するすべての霊は天主から来る。繰り返す、イエズス・キリストは肉体をとられたと告白する霊は天主から来る。そしてイエズスを認めないすべての霊は、天主から来ていない。これは反キリストであり、彼が来るということを私たちは聞いている。そして彼らはすでにこの世、このひどい世に来ている──反キリストはすでに世に来ている」と、聖ヨハネは初めから言っていました! キリストの王権を否定すること、これこそ、反キリストの仕業です。親愛なる未来の助祭と司祭たちよ、従って、現代において、聖なる公教会を異端と不幸で満たす近代主義者たちに反対し、キリスト教世界の遺産を破壊しつつある近代主義者たちに反対し、説教することを固く決意して下さい。
[訳注: ヨハネの第一の手紙 第四章二節~三節]
親愛なる信者の皆さん、秘跡の恩寵、特にミサ聖祭と司祭職の恩寵のおかげをもって、まことのキリスト教世界の再建に奉仕することができることを誇りに思いましょう。聖ピオ十世会は、いかなる和解も、第二ヴァチカン公会議に依って立つこの新しい宗教への妥協も、私が描写したこの種の「新教会」へのいかなる合意も協定も、断じて受け入れません。この「新教会」は教会と革命の間の許されない不義の結合から生まれたのです。ルフェーブル大司教様はすでに三十年前、教会と革命との間に起きた、公会議が成し遂げた姦淫の結合について話されていました。
この不義の結合は、現代世界憲章 No. 11によると、第二ヴァチカン公会議の主要な目的です。この公会議は、二百年にわたる自由主義の誤謬の数々を導入するという計画を持ったものでした。これが第二ヴァチカン公会議の主な目的です。信仰の教義に自由主義の誤謬を導入するという、この悪しきさまざまな意向を差し挟んだあげく、それと同じくらいの聖霊のおん助けによる支えを公会議に期待するのは不可能なことでした。それは不可能です! この公会議には、この意向を差し挟んだと同じくらいの拘束力を持つ義務はありません──司牧の権威もありません。私たちは、第二ヴァチカン公会議を、真理にふさわしい公会議であると受け入れることはできません。
では、結論を出しましょう。親愛なる信者の皆さん、未来の助祭と司祭たちよ。信仰の真理のための、聖ピオ十世会のこの戦いを続けましょう、特に、私たちの主イエズス・キリストの王権と司祭職の真理のための戦いを。イエズス・キリストは天主です! このお方は司祭です! このお方は王です! これが私たちの説いてきたことです。あなた方、司祭と助祭たちがこれから説くことです。私たちの主、イエズス・キリストの王権と神性、司祭職についても、心の底から説き続けて下さい。童貞なるマリア様が、その信仰においてもけがれなき童貞女であるマリア様が、教会の聖なる戦いにおいて、あなた方、未来の司祭と助祭たちを守ってくださいますように。
[ラテン語での激励の言葉がここで入る。] 教会は、絶え間なく続く戦闘において、敵どもに一撃をくらわせ、戦い、反撃する準備が、怠りなくできています。この戦いはルフェーブル大司教様の戦いであり、聖ピオ十世会の戦いでもあります。私たちの最愛の聖ピオ十世会の使命を維持し続けましょう。この使命とは、私たちの主イエズス・キリストの司祭職を、そのすべての教義の純粋性と布教の愛徳をもって、聖なる公教会において常に維持し、伝え続け、これからもそうするだろうということです。おお、恩寵と真理に満ちておられる至聖なるイエズスの聖心よ、我らは御身に全幅の信頼を寄せ奉る。アーメン。
父と子と聖霊とのみ名によりて。アーメン。
聖ピオ十世会のベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教様のアメリカのウィノナの神学校での叙階式の時のお説教を日本語に訳して下さった方があります。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。
その他にも、まだまだご紹介するばかりの日本語に訳された記事があるのですが、私の時間がとれずにご紹介できていないものも多々あります。出来るだけ早くご紹介するつもりであります。愛する兄弟姉妹の皆様のご理解をひたすらにお願い申し上げます。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
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二〇一二年六月一五日、ティシエ司教様による叙階式での説教 ウィノナにて
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父と子と聖霊とのみ名によりて。アーメン。
親愛なる管区長様、神学校校長神父様、神学生の皆さん、司祭職における親愛なる同僚の皆さん、親愛なる叙階候補者の皆さん、親愛なる信者の皆さん。至聖なるイエズスの聖心の、この最も重要な祝日において、私たちはこの叙階式を執行しております。私たちは、使徒聖ヨハネの福音書におけるこのみことばを、使徒聖ヨハネとともに言えるでしょう。
"[V]idimus gloriam ejus, [gloriam] quasi unigeniti a Patre plenum gratiae, et veritatis."
私たちはその栄光、聖心の栄光、おん父のひとり子の聖心の、恩寵と真理に満ちた栄光を見た。その満ちあふれるところから、私たちはすべてを受けた。恩寵と真理に満ちておられる至聖なるイエズスの聖心よ、我らは御身に全幅の信頼を寄せ奉る、と。
[訳注: ヨハネ福音書第一章十四節~十六節]
親愛なる未来の助祭と司祭たちよ、恩寵と実りはあなた方の模範となる二人の聖人の生涯において輝いています──聖ステファノと聖ヨハネ──聖ステファノは助祭の模範であり、聖ヨハネは司祭の模範です。まず初めに、助祭の模範なる聖ステファノについて話しましょう。彼は助祭の務めに選ばれました。それはつまり、彼の信仰告白の堅固さと、祭壇の至聖なる秘跡の奉仕の故に、貞潔の模範として選ばれたのです。Cogitate Beatum Stephanum merito praecipuae castitatis ad officium istud electrum. 「聖ステファノが、特に貞潔の徳の功徳のおかげで、この務めに選ばれたことに思いを馳せよ。」これは「ローマ司教儀式書」の言葉です。
「ローマ司教儀式書」は助祭たちにこう説明しています。「あなたたちは、主のおん体とおん血の聖職者と共同奉仕者になるため呼ばれたのであるから、あなたたちは、あらゆる肉の誘惑の敵とならねばならない。聖書にあるように『主の聖なる器を運ぶあなたたちは、自分自身を清くせよ。』」
ですが、まず初めに未来の助祭たちに命じられるものは貞潔の徳の実行です。「ローマ司教儀式書」の力強い言い方を黙想しましょう。Cogitate Beatum Stephanum. 聖ステファノに思いを馳せなさい。貞潔の徳のみならず、祭壇の聖なる奥義におけるその関与によっても最も称賛すべき聖ステファノを。
あなた方は、主のおん体とおん血の共同奉仕者であり共同労働者です。主のおん体とおん血の共同奉仕者、共同執行者──力強い言葉です。あなた方は司教荘厳ミサにおいて仕えることができるようになり、カリスを捧げることができるようになるので、あなた方と司教は、奉献の時にカリスをともにお捧げするのです。あなた方は公に祭壇の聖体を顕示することができるようになり、特別奉仕者として、聖体を配ることができるようになるでしょう。主のおん体とおん血の共同従事者。なんという尊い役目! 聖体のおそば近くに、聖なる犠牲のおそば近くにお仕えする、なんという幸福!
"Cogitate Beatum Stephanum"──私たちの主、イエズス・キリストの天主性を告白する信仰の堅固さの故に、最も称賛すべき祝された聖ステファノに思いを馳せましょう。聖ステファノがイエズスの天主性を告白したなら石殺しにするつもりであったユダヤ人たちの前で、聖ステファノはその信仰を告白しました。恩寵と堅固さに満たされて──恩寵と堅固さに満たされてです! 彼は人々の間で偉大な奇跡としるしを行いました。ユダヤ人たちは、彼の口から出た知恵と霊に抵抗することができませんでした。それでも聖ステファノは「あなた方、頭が固く、心と耳において割礼を受けていないあなた方は絶えず聖霊に逆らっています。常に聖霊に逆らっています。あなた方の先祖がそうであったように、あなた方も同じです」と言いました。聖霊に逆らうということ! 教会の中に改革を導入し、聖霊に反抗することを望んでいる第二ヴァチカン公会議について私たちは考えます。[訳注: 使徒行録七章五十一節]
そして、祝された聖ステファノはこう締めくくります。「あなた方! あなた方が、あなた方の先祖が迫害しなかった預言者たちがいるでしょうか? あなた方の先祖が破門せず、汚名を着せなかった預言者たちがいるでしょうか? あなた方の先祖が迫害しなかった預言者たちがいるでしょうか?」
そして彼はこのように言います。あなた方が裏切って殺してしまったかの義人の来臨を預言した人々も同じように殺してしまいました、と。聖ステファノは恩寵と堅固さに満たされ、祝された救い主の殺害者であるユダヤ人たちを非難しました。使徒行録には次のような書いてあります。すなわち「しかし、彼、ステファノは、聖霊に満たされて、しっかりと天を仰ぎながら、天主の右に立っておられるイエズス、イエズスにおける天主の栄光を見た」そして彼は「見なさい、私は、天が開かれ、天主の右に立っておられる天主のおん子を見ている」と言い、その言葉でもって彼は殺されました。石殺しにされたのでした。
[訳注: 使徒行録七章五十二節~六十節]
なんという称賛すべき知力と勇気の賜物の模範、信仰による知性と、信仰を持つ人生における堅固さの賜物の模範、私たちの大切な聖ピオ十世会の助祭たちのあるべき姿の模範でしょうか! 助祭として私の最愛の息子たちよ、あなた方は、絶え間なく続く苦闘において、敵と戦うための準備を怠らない天主の教会の奉仕者です。この言葉の数々は、教会について述べている「ローマ司教儀式書」の言葉──絶え間なく続く戦闘において、敵と戦うための準備を怠らない教会について述べている言葉です。
この敵たちとは、近代主義者たちとその新しい宗教──罪も、痛悔も、償いも、赦しも、犠牲も、贖罪も、まことの愛徳もない新しい宗教のことです。ご存知の通り、犠牲なくしてまことの愛徳はあり得ません。ですから、新しいミサという徽章を帯びているこの偽りの宗教に対して、親愛なる未来の助祭たちよ、あなた方はこの新しい宗教、自然主義の宗教の異端的な歪みを非難せねばならないでしょう。自然主義の宗教をです! あなた方は、カルワリオの償いの生贄の真理を、ミサ聖祭の贖罪の生贄の真理を述べ伝えねばならないのです。
さて、次に、親愛なる司祭候補者の皆さん、あなた方の模範となるのは使徒聖ヨハネです。
しかし最初に、「ローマ司教儀式書」に従って勧告する司教の言葉に耳を傾けましょう──"Sacerdotem etenim oportet offerre, benedicere, praeesse, praedicare, et baptizare." 司祭は、捧げ、祝福し、主宰し、説教し、洗礼を授けなければならない。
初めの三つの役目──捧げ、祝別し、主宰する──は、ミサの聖なる犠牲を司ることです。司祭は天主の神的な生贄を捧げます。司祭はカリスとホスチアを聖別します。そして、叙階された奉仕者のみが執り行うことのできる聖祭を司ります。叙階された者のみが執り行う、特別な秘跡のしるし──叙階の秘跡のしるしの結果、司祭はキリストのペルソナにおいて振る舞うことができ、キリストがなさったことをすることができます。つまり、私たちの主イエズス・キリストのおん体と、とうといおん血を奉献──血を流さない、十字架上の生贄を再現することができるのです。「ローマ司教儀式書」は、天主なるおん父への次のような祈りにおいて、この素晴らしい権能を描写しています。「御身の民が御身に従順であることの発露として、おお天主よ、御身の司祭らが、けがれなき祝福により、パンとぶどう酒を、御身のおん子のおん体とおん血に変化させますように」
非常に単純な言葉です! 非常に深遠な意味を持っています。このミサの典文(カノン)の祈りにおけるけがれなき祝福、特に、この感嘆すべき変化、言うなれば変容を成し遂げるミサ典文中の奉献の祈り、これは、聖なるトリエント公会議によって、正しく「全実体変化」と言われています。つまり、パンをイエズス・キリストのおん体に、ぶどう酒をイエズス・キリストのおん血に変化させる奇跡、聖変化のことです。これこそあなた方の持つ主なる権能です──ミサ聖祭中の典文によって全実体変化を起こさせること。あなた方は捧げ、聖別し、ミサの聖なる犠牲を司る権能を持つのです。
それから、司祭のもう二つの権能、つまり、説教し、洗礼を授けるということ。洗礼についてお話ししまょう。司祭は洗礼を授ける権能を持ちます。それはつまり、洗礼の秘跡によっても、また告解の秘跡によっても、二つの秘蹟によって成聖の恩寵を増すということです。この二つの秘跡! 二つ目の秘跡は、今日の教会においてほとんど忘れ去られています。告解の秘跡──忘れ去られた秘跡! 最初の一つ、洗礼の秘跡は今日では歪められています──新しい自然主義の宗教によって歪められています。天主の生命を与える代わりに、単に名前を洗礼台帳に記入されるだけのものになっています。それでは充分な理解とは言えません。洗礼は真実に原罪を破壊し、霊魂に成聖の恩寵を注ぎます。これがカトリック信仰です。だからこそ、親愛なる未来の司祭と助祭たちよ、この新しい宗教に決して妥協しないで下さい。昔からのカトリック教会の教えと、私が「新教会 "new church"」 と呼ぶ教えとの間には、まったく正反対のものがあります。そのことを曖昧にしてはいけません。これは教会でないどころか、毒、教会を毒するだけのものなのです。
私は「ローマ司教儀式書」とともに、未来の助祭であるあなた方に聖ステファノについて申しました。未来の司祭であるあなた方にはこう申しましょう "Cogitate beatum Joannem" (聖ヨハネに思いを馳せよ)と。
祝された使徒聖ヨハネについて説教しましょう。Cogitate beatum Joannem. 聖ヨハネに思いを馳せよ──死にゆくキリストが、その天主のおん母をお委ねになった、いとも優れた司祭。童貞マリアは聖ヨハネの立てたミサにあずかり、その手からご聖体を拝領しました。つまり、聖母のとうとい愛より芽吹き、そのとうとい御胎に命を宿されたのと同じおん体とおん血を拝領したのです。なんという神秘! 司祭職のなんという至高なる名誉! このことへの深い尊敬の念とともに、聖ヨハネはミサの聖なる犠牲を捧げたに違いありません。
聖ヨハネは、「ローマ司教儀式書」が数え上げるその徳の数々によって、司祭職に備わる多くの徳の模範のように見えます。すなわち、正義、貞節、安定、慈悲深さ、堅忍、そして他の多くの徳です。しかし、聖ヨハネを正義の人、慈悲深く、謙遜で、従順で、柔和で、優しく、親切で、上品な、平和に満ちた、良識ある、慎重な、もの静かな、そしてたぶん物惜しみすることのない方としてのみ、思い描かないで下さい。そうではありません! 彼は称賛に価する、親しみやすい、すぐれた聖人であることは間違いありません。しかし聖ヨハネの徳はただそれだけではないのです。聖ヨハネの魂を描くには、それだけでは充分ではありません。彼は子羊の前でもおとなしい羊であるだけなく、蛇の知恵と賢さを持っていました。なによりも、彼には強靭さと獅子の如き咆哮が備わっていました。強靭さと獅子の如き咆哮! これこそ、使徒聖ヨハネの真の姿を描写していると言えます。
彼は、その時代の異端に非常に力強い言葉で反論することができ、彼らに反対して──天主が人となられたという教えを、人が天主となったという教えに歪めた人々--- ちょうど教皇パウロ六世が、第二ヴァチカン公会議に着手することについて述べたのと同じことですが --- に反対して、確固たる態度を取ることができました。
ですから、天主が人となられたというまことの教えに代わって、人が天主となったという新しい教えに反対して苦闘する聖ヨハネの同じ言葉を、第二バチカン公会議にあてはめてみます。聖ヨハネが、その最初の書簡で書いた、人が天主となったという新しい教えについて読んでみることにしましょう。そこには、人間の尊厳、人権についての教えが述べられています。聖ヨハネは「偽り者とは誰か? イエズスがキリストであることを否定する者ではないか?」これこそ、おん父とおん子を否定する反キリストのことです。
[訳注: ヨハネの第一の手紙 二章二十二~二十三節]
天主のご託身を否定する者は、天主が私たちを救うためまことに人となられた-- そしてその反対ではありません--- ということを否定します。その反対とは、人が天主となったということ、これこそ人間の尊厳と人権の宗教です。人が天主となる! 「否」と聖ヨハネは言います。私たちの教えは、天主が人となられたという宗教である──天主の聖なるご託身の玄義による宗教であると。聖ヨハネは続けて「おん子を否む者はおん父を持たず、おん子を宣言するものは、おん父をも持っている」と言います。これが私たちの取るべき態度です──イエズス・キリストの神性を宣言すること、天主のおん子は人となられたということを宣言すること、おん子は天主であり、王であるということを宣言することです。
[訳注: ヨハネの第一の手紙 第二章二十三節]
親愛なる未来の司祭たちよ、この新しい、聖伝に由来しない宗教に反対して、聖ヨハネのように、信者たちによくよく警告しなさい。あなたたちに関して聖ヨハネは言っています。「あなたたちが初めから聞いたことを、あなたたちのうちに留めなさい。初めから聞いたことを、あなたたちの内に留めなさい。つまり教会の聖伝を保ちなさい。私たちは受け取ったものを告白します。初めから聞いたことを、あなたたちの内に留めなさい。初めからあなたたちが聞いたことが、あなたたちの内に留まるなら、あなたたちもまた、おん子とおん父の内に留まるでしょう」これは、使徒聖ヨハネの力強い、真理から来る言葉です。[訳注: ヨハネの第一の手紙 第二章二十四節]
親愛なる未来の司祭たちよ、聖ヨハネは、私たちの主イエズス・キリストの王権、社会的、政治的王権を否定する者たちに反対して、イエズス・キリストは天主であり、王であるということを否定する自由主義者たちに反対して、どのように戦えばよいのかを諭しています。聖ヨハネは、すでにその書簡で、キリストを認めない人々、イエズス・キリストと分裂した人々──キリストの神性を受け入れる一方で、その王権を否定していた人々を糾弾しました! そうです、彼らは「キリストは天主である、だが王ではない」と言いました。そして今日、第二ヴァチカン公会議から来る自由主義が、教会内におけるこのありさまを作り出しています。彼らはイエズス・キリストは天主であると受け入れますが、王であることは否定するのです! キリストが王として統治すべきであることを否定するのです! ですから、私たちはこれに反対し、戦わなければなりません。
書簡における聖ヨハネの言葉を引用しましょう。「イエズス・キリストは肉体をとられたと告白するすべての霊は天主から来る。繰り返す、イエズス・キリストは肉体をとられたと告白する霊は天主から来る。そしてイエズスを認めないすべての霊は、天主から来ていない。これは反キリストであり、彼が来るということを私たちは聞いている。そして彼らはすでにこの世、このひどい世に来ている──反キリストはすでに世に来ている」と、聖ヨハネは初めから言っていました! キリストの王権を否定すること、これこそ、反キリストの仕業です。親愛なる未来の助祭と司祭たちよ、従って、現代において、聖なる公教会を異端と不幸で満たす近代主義者たちに反対し、キリスト教世界の遺産を破壊しつつある近代主義者たちに反対し、説教することを固く決意して下さい。
[訳注: ヨハネの第一の手紙 第四章二節~三節]
親愛なる信者の皆さん、秘跡の恩寵、特にミサ聖祭と司祭職の恩寵のおかげをもって、まことのキリスト教世界の再建に奉仕することができることを誇りに思いましょう。聖ピオ十世会は、いかなる和解も、第二ヴァチカン公会議に依って立つこの新しい宗教への妥協も、私が描写したこの種の「新教会」へのいかなる合意も協定も、断じて受け入れません。この「新教会」は教会と革命の間の許されない不義の結合から生まれたのです。ルフェーブル大司教様はすでに三十年前、教会と革命との間に起きた、公会議が成し遂げた姦淫の結合について話されていました。
この不義の結合は、現代世界憲章 No. 11によると、第二ヴァチカン公会議の主要な目的です。この公会議は、二百年にわたる自由主義の誤謬の数々を導入するという計画を持ったものでした。これが第二ヴァチカン公会議の主な目的です。信仰の教義に自由主義の誤謬を導入するという、この悪しきさまざまな意向を差し挟んだあげく、それと同じくらいの聖霊のおん助けによる支えを公会議に期待するのは不可能なことでした。それは不可能です! この公会議には、この意向を差し挟んだと同じくらいの拘束力を持つ義務はありません──司牧の権威もありません。私たちは、第二ヴァチカン公会議を、真理にふさわしい公会議であると受け入れることはできません。
では、結論を出しましょう。親愛なる信者の皆さん、未来の助祭と司祭たちよ。信仰の真理のための、聖ピオ十世会のこの戦いを続けましょう、特に、私たちの主イエズス・キリストの王権と司祭職の真理のための戦いを。イエズス・キリストは天主です! このお方は司祭です! このお方は王です! これが私たちの説いてきたことです。あなた方、司祭と助祭たちがこれから説くことです。私たちの主、イエズス・キリストの王権と神性、司祭職についても、心の底から説き続けて下さい。童貞なるマリア様が、その信仰においてもけがれなき童貞女であるマリア様が、教会の聖なる戦いにおいて、あなた方、未来の司祭と助祭たちを守ってくださいますように。
[ラテン語での激励の言葉がここで入る。] 教会は、絶え間なく続く戦闘において、敵どもに一撃をくらわせ、戦い、反撃する準備が、怠りなくできています。この戦いはルフェーブル大司教様の戦いであり、聖ピオ十世会の戦いでもあります。私たちの最愛の聖ピオ十世会の使命を維持し続けましょう。この使命とは、私たちの主イエズス・キリストの司祭職を、そのすべての教義の純粋性と布教の愛徳をもって、聖なる公教会において常に維持し、伝え続け、これからもそうするだろうということです。おお、恩寵と真理に満ちておられる至聖なるイエズスの聖心よ、我らは御身に全幅の信頼を寄せ奉る。アーメン。
父と子と聖霊とのみ名によりて。アーメン。