少女たちの羅針盤 映画鑑賞 アイドル映画として秀逸のシーンとセリフ (ナッキー)
***ネタばれ、注意*****
4人のメンバーの中で、誰が殺されたかを、文中、触れています。
***ネタばれ、注意***
映画の観客は、冒頭で、「4年前、劇団羅針盤の一人が殺された」と知らされる。映画監督の言葉によって。
しかし、誰が殺されたのかは、映画の最後でないと知らされない。
4人の劇団で、一人が殺された。普通に映画を見ていくと、観客は、残った3人の一人が犯人であると思い込む。
4年後、犯人として登場した女性は、4人の高校生のうち、誰なのかを頭の隅において、4年前の高校生活・羅針盤の成長と活動を、観客は見ていく。
しかし、犯人は、羅針盤の4人ではない。
羅針盤の、残った3人が、犯人を心理的に追い詰めていく、ということが映画の最後で分かる。
追い詰められた犯人に対して、成海璃子の顔がアップ。
あどけない、子供のような顔と、台詞が秀逸でした。
「ねえ、殺すって、どんな気持ちだった。」
犯人に、証拠をつきつける成海璃子は、一転して、ドスを聞かせた声で、
「聞いてみる、聞きなさいよ。」
この台詞の迫力も、見どころ。
映画全体を通した成海璃子の演技は、突っ走るリーダーを演じたこともあって、オーバーリアクションで、陳腐で退屈でしたが、最後の、この二つの台詞を輝かせるために、わざと陳腐にしていたのではないかと、邪推してしまいました。
アイドルが、可愛らしさを輝かせるために、歌唱力は不足している方が効果的、と同じ論理が、ここにあったのではないかと。
アイドル映画として、一番よかったのはこのシーン。これ以外に、気になったセリフとシーンは:
成海璃子:私たちはあやつり人形ではない (先生の言葉に対して)
感想:アイドルはあやつり人形、という批判を連想してしまった。
(成海璃子がトイレで顔を洗っているシーン)貼り紙:井戸水です。飲まないで下さい。
バタ森田彩華:(るみの書いた脚本を批判して) 10分で終わる芝居を長くしているだけ。客にも見抜かれるよ。
バタ森田彩華は、るみ成海璃子への感情に悩み、リストカットを続ける。
バタ森田彩華に呼び出された、るみ成海璃子の台詞:バタはバタだよ。あんなすごい脚本かけるんだから。欲張りすぎだよ。
映画の中で、劇団羅針盤が演じる芝居が出てきます。劇中劇。この中から、面白かった台詞を。
(二股かけていることがばれてしまった男の子、どっちが好きかと迫られて);順位つけるのって、ひどくない。人間それぞれ良いところがあるのだから。
感想;選抜総選挙のことが頭の中を占めているAKB48ファンとしては、「そうだ」と納得。
伝説のステージとなった、コンクール出演の舞台で、「こんな風になる前に、話きくことができたら、よかったのにね。」
分析:映画の中の、バタとるみは、劇中劇とは違って、破局の前に話ができている、という構図。
コンクールの芝居の脚本を書いたバタは、自分の想い(るみとの関係を再構築したい)を、脚本を通じて、3人にメッセージを送っている。
それが、芝居になり、普遍的な価値(人間だれでも、不条理なことで、大切な友人を失ってしまうことが起こりかねない)を表現している。だから、劇団羅針盤は、客の心をとらえ、伝説になった。
原作を読む前に、映画で、こういう深読みをしました。小説では、この芝居のシーンは数行しかない。
小説は、少女4人の心情描写が中心で、芝居の部分は短い。
映画は、芝居を見せる映像が中心で、心情描写が少ない。
コンクールの芝居のシーンは、圧巻。
二組のペア (男役・成海璃子と、草刈麻有)(男役・森田彩華と、忽那汐里) の台詞が同時進行していく。
コンクールで、賞をとれなかったことに怒った、るみ成海璃子が、審査員の楽屋で聞いた会話:
まいりましたね。あの子たちには。
まさか、ここまでやるとは。
劇団Aと劇団Bを競わせるというシナリオだったのに。
賞の発表の時は、(羅針盤でないことに)ブーイングでしたから。
これまでがマンネリだったから、これでよかった。
大人たちの裏をしった、るみ成海璃子は、怒って、先生を殴ってしまう。
感想:映画「ザ・オーディション」で、レイカーズ(セイント・フォー)が、森あかね(有森也実)に敗れたシーンを思い出した。世良正則が、中尾彬をなぐりつけようとする。いずれも、「きたない」という台詞が共通。
劇場の廊下に、腰を下ろしている、失意の4人。
この時の、かなめ草刈麻有の、座り方(足の曲げ方)が素敵。素朴で。このシーンは、是非、市川美織で見てみたい。
るみ成海璃子を慰めるバタ森田彩華:あいつらにはだまされたかもしれない。でも、観客は分かってくれた。賞なんて関係ない。
場面はすすんで、映画のオーディションを受ける、らん忽那汐里に同行した、かなめ草刈麻有。
オーディションに受かったのは、付き添いのかなめ。
このブログの記事に書かれている
quote
感想、七十年代八十年代のアイドルのデビューのパターンは、友達に誘われて、(同行して、付き添って)オーディションを受けたら、友達は落ちて、私が受かっちゃった。
選ぶ方は、どうしてもアイドルになりたいと、ギラギラした候補者より、素振りは素朴だけど、光る原石を求めるという通説が、解説として、ついていた。
Unqoute
アイドルのオーディションの、定番パターンが映画にも登場。
(オーディション合格を辞退したいという、かなめに対して)らん忽那汐里:それって、私に失礼だよ。イメージが合わないと言われて、私は次のオーディションを受けることにしている。
るみ成海璃子:らんがここまで言っているんだから素直になりなよ。
かなめ草刈麻有:私やりたい。
事故にあったかなめが3人に対して:私、羅針盤に入って、初めて夢ができたの。いろいろあるよね。これからもいろいろあると思う。こんなことで負けてられないよ。
感想:AKB48ファンとしては、夢 という言葉に反応する。
自殺した(と当時は思われていた)かなめを偲んで、屋上で一人沈んでいる、るみ成海璃子に対する先生:あなたが彼女の仲にあった何かを輝かせたのね。 何があっても、続けていくのよ。芝居。
分析:反発しあっていた二人。るみのことを本当に理解していたのは、先生だった。
解説:小説では、子供を理解できないダメな大人のキャラだった。映画では好意的、本当は頼りになる大人。
ラストシーン、犯人が自首した後で、3人が、4年前出演したステージで。
地元に残りステージで仕事をしている、らん忽那汐里:
毎年、あの時の私たちがいるの。廊下で泣いていたり、慰めあったり。
柏木由紀、鈴木紫帆里が、最終シーンの成海璃子の「あどけなさ」と「迫力」を表現できるか、是非一度やってもらいたい。
ミステリーとしてフェアだったか、
映画だと、犯人が、羅針盤の4人の一人というミスリードがある。
小説だと、犯人が、羅針盤の4人の一人の可能性は描いているが、「犯人が年齢をごまかしてデビューしている」との記述より、ミスリードとは言えない。
ミスリードなのは、冒頭の撮影シーンで、映画監督が、「まりやちゃんは、伝説の羅針盤のメンバーだった」という台詞。実際は、犯人のまりやは、羅針盤のメンバーではなかった。
客観的な解釈は、3人が犯人に精神的圧力をかけるために、3人が雇った映画監督に、わざと、事実とは違う台詞を言わせたということになる。
羅針盤のメンバーではなかったのに、羅針盤と周りが誤解していることで、犯人の不安が増幅する効果を狙った、と解釈できる。
このミスリードがないと、映画としての面白さは発揮されないので、許容範囲である。
ナッキー
***ネタばれ、注意*****
4人のメンバーの中で、誰が殺されたかを、文中、触れています。
***ネタばれ、注意***
映画の観客は、冒頭で、「4年前、劇団羅針盤の一人が殺された」と知らされる。映画監督の言葉によって。
しかし、誰が殺されたのかは、映画の最後でないと知らされない。
4人の劇団で、一人が殺された。普通に映画を見ていくと、観客は、残った3人の一人が犯人であると思い込む。
4年後、犯人として登場した女性は、4人の高校生のうち、誰なのかを頭の隅において、4年前の高校生活・羅針盤の成長と活動を、観客は見ていく。
しかし、犯人は、羅針盤の4人ではない。
羅針盤の、残った3人が、犯人を心理的に追い詰めていく、ということが映画の最後で分かる。
追い詰められた犯人に対して、成海璃子の顔がアップ。
あどけない、子供のような顔と、台詞が秀逸でした。
「ねえ、殺すって、どんな気持ちだった。」
犯人に、証拠をつきつける成海璃子は、一転して、ドスを聞かせた声で、
「聞いてみる、聞きなさいよ。」
この台詞の迫力も、見どころ。
映画全体を通した成海璃子の演技は、突っ走るリーダーを演じたこともあって、オーバーリアクションで、陳腐で退屈でしたが、最後の、この二つの台詞を輝かせるために、わざと陳腐にしていたのではないかと、邪推してしまいました。
アイドルが、可愛らしさを輝かせるために、歌唱力は不足している方が効果的、と同じ論理が、ここにあったのではないかと。
アイドル映画として、一番よかったのはこのシーン。これ以外に、気になったセリフとシーンは:
成海璃子:私たちはあやつり人形ではない (先生の言葉に対して)
感想:アイドルはあやつり人形、という批判を連想してしまった。
(成海璃子がトイレで顔を洗っているシーン)貼り紙:井戸水です。飲まないで下さい。
バタ森田彩華:(るみの書いた脚本を批判して) 10分で終わる芝居を長くしているだけ。客にも見抜かれるよ。
バタ森田彩華は、るみ成海璃子への感情に悩み、リストカットを続ける。
バタ森田彩華に呼び出された、るみ成海璃子の台詞:バタはバタだよ。あんなすごい脚本かけるんだから。欲張りすぎだよ。
映画の中で、劇団羅針盤が演じる芝居が出てきます。劇中劇。この中から、面白かった台詞を。
(二股かけていることがばれてしまった男の子、どっちが好きかと迫られて);順位つけるのって、ひどくない。人間それぞれ良いところがあるのだから。
感想;選抜総選挙のことが頭の中を占めているAKB48ファンとしては、「そうだ」と納得。
伝説のステージとなった、コンクール出演の舞台で、「こんな風になる前に、話きくことができたら、よかったのにね。」
分析:映画の中の、バタとるみは、劇中劇とは違って、破局の前に話ができている、という構図。
コンクールの芝居の脚本を書いたバタは、自分の想い(るみとの関係を再構築したい)を、脚本を通じて、3人にメッセージを送っている。
それが、芝居になり、普遍的な価値(人間だれでも、不条理なことで、大切な友人を失ってしまうことが起こりかねない)を表現している。だから、劇団羅針盤は、客の心をとらえ、伝説になった。
原作を読む前に、映画で、こういう深読みをしました。小説では、この芝居のシーンは数行しかない。
小説は、少女4人の心情描写が中心で、芝居の部分は短い。
映画は、芝居を見せる映像が中心で、心情描写が少ない。
コンクールの芝居のシーンは、圧巻。
二組のペア (男役・成海璃子と、草刈麻有)(男役・森田彩華と、忽那汐里) の台詞が同時進行していく。
コンクールで、賞をとれなかったことに怒った、るみ成海璃子が、審査員の楽屋で聞いた会話:
まいりましたね。あの子たちには。
まさか、ここまでやるとは。
劇団Aと劇団Bを競わせるというシナリオだったのに。
賞の発表の時は、(羅針盤でないことに)ブーイングでしたから。
これまでがマンネリだったから、これでよかった。
大人たちの裏をしった、るみ成海璃子は、怒って、先生を殴ってしまう。
感想:映画「ザ・オーディション」で、レイカーズ(セイント・フォー)が、森あかね(有森也実)に敗れたシーンを思い出した。世良正則が、中尾彬をなぐりつけようとする。いずれも、「きたない」という台詞が共通。
劇場の廊下に、腰を下ろしている、失意の4人。
この時の、かなめ草刈麻有の、座り方(足の曲げ方)が素敵。素朴で。このシーンは、是非、市川美織で見てみたい。
るみ成海璃子を慰めるバタ森田彩華:あいつらにはだまされたかもしれない。でも、観客は分かってくれた。賞なんて関係ない。
場面はすすんで、映画のオーディションを受ける、らん忽那汐里に同行した、かなめ草刈麻有。
オーディションに受かったのは、付き添いのかなめ。
このブログの記事に書かれている
quote
感想、七十年代八十年代のアイドルのデビューのパターンは、友達に誘われて、(同行して、付き添って)オーディションを受けたら、友達は落ちて、私が受かっちゃった。
選ぶ方は、どうしてもアイドルになりたいと、ギラギラした候補者より、素振りは素朴だけど、光る原石を求めるという通説が、解説として、ついていた。
Unqoute
アイドルのオーディションの、定番パターンが映画にも登場。
(オーディション合格を辞退したいという、かなめに対して)らん忽那汐里:それって、私に失礼だよ。イメージが合わないと言われて、私は次のオーディションを受けることにしている。
るみ成海璃子:らんがここまで言っているんだから素直になりなよ。
かなめ草刈麻有:私やりたい。
事故にあったかなめが3人に対して:私、羅針盤に入って、初めて夢ができたの。いろいろあるよね。これからもいろいろあると思う。こんなことで負けてられないよ。
感想:AKB48ファンとしては、夢 という言葉に反応する。
自殺した(と当時は思われていた)かなめを偲んで、屋上で一人沈んでいる、るみ成海璃子に対する先生:あなたが彼女の仲にあった何かを輝かせたのね。 何があっても、続けていくのよ。芝居。
分析:反発しあっていた二人。るみのことを本当に理解していたのは、先生だった。
解説:小説では、子供を理解できないダメな大人のキャラだった。映画では好意的、本当は頼りになる大人。
ラストシーン、犯人が自首した後で、3人が、4年前出演したステージで。
地元に残りステージで仕事をしている、らん忽那汐里:
毎年、あの時の私たちがいるの。廊下で泣いていたり、慰めあったり。
柏木由紀、鈴木紫帆里が、最終シーンの成海璃子の「あどけなさ」と「迫力」を表現できるか、是非一度やってもらいたい。
ミステリーとしてフェアだったか、
映画だと、犯人が、羅針盤の4人の一人というミスリードがある。
小説だと、犯人が、羅針盤の4人の一人の可能性は描いているが、「犯人が年齢をごまかしてデビューしている」との記述より、ミスリードとは言えない。
ミスリードなのは、冒頭の撮影シーンで、映画監督が、「まりやちゃんは、伝説の羅針盤のメンバーだった」という台詞。実際は、犯人のまりやは、羅針盤のメンバーではなかった。
客観的な解釈は、3人が犯人に精神的圧力をかけるために、3人が雇った映画監督に、わざと、事実とは違う台詞を言わせたということになる。
羅針盤のメンバーではなかったのに、羅針盤と周りが誤解していることで、犯人の不安が増幅する効果を狙った、と解釈できる。
このミスリードがないと、映画としての面白さは発揮されないので、許容範囲である。
ナッキー