AKB48 チームBのファンより

鈴木紫帆里さんを中心にAKB48 チームB について語るサイトです。

森高千里論(その5)。いつも変わらない硬質でドライな歌声。(ときめき研究家)

2023-03-19 17:10:45 | ときめき研究家
4回に亘り森高の歌詞について論じてきた。(その1その2その3その4
最終回となる今回は、彼女の歌う楽曲の曲調と、歌唱そのものについて論じたい。

森高の楽曲のほとんどは、別のミュージシャンが作曲している。しかし、どの曲も、森高の歌詞と歌唱にマッチしており、森高らしい楽曲に仕上がっていると思う。森高千里というイメージが定着していて、作曲者たちはそのイメージに忠実に曲を作っているのだと思う。
曲調で言えば、多くの楽曲が、オーソドックスなロックあるいはフォークソングと言えるだろう。ドラム、ギター、ベース、キーボードのシンプルな編成のバンドサウンドが主体である。
一方で、ジャズ調、ボサノバ調、ラップ調など味わいが異なる曲調もある。演歌(ムード歌謡)調の『酔わせてよ今夜だけ』(1992)という曲もある。アルバムにはビートルズなどのカバー曲も収録されている。森高とスタッフの、楽しいと思うことは何でもやろうという雰囲気を感じる。

森高の歌唱の特徴は何といっても、あの独特の声だ。
硬質で輪郭がはっきりした声。湿度が低く、ドライな声。そして少しだけ鼻にかかったような感じが、勝気な中に愛嬌も感じさせ、特徴的だ。
歌い方は、どんな歌も変に感情を込めず、淡々と無機質に歌う。「熱唱」とか「歌い上げる」とかいう言葉とは正反対だ。悲しい歌も、楽しい歌も、声と歌い方はいつも同じだ。そこで差異をつけるより、歌の内容を味わってほしいという意図ではないか。

そういう森高の歌唱を、私は大好きだが、世にいう一般的な「歌唱力」があるかと言われれば、それほどでもないのかなと思う。森高自身も、そういう部分で勝負していないのだろうと思う。
『非実力派宣言』で、「実力は興味ないの」「実力は人まかせよ」と歌っている。
『わたしはおんち』では、私はおんちだけど心をこめて歌いたいと歌っている。
『臭いものにはフタをしろ』でも歌っていたように、やたらと権威付けをしたがるオジさんたちは無視して、純粋に楽曲を聴いてくれる聴き手に向かって、飾らない歌唱を続けているのだと思う。

5回に亘って森高論を書いてきたが、まとめとして、森高ベストテンを選定してみた。早速プレイリストにして聴いてみよう。

1.夏の日
2.渡良瀬橋
3.一度遊びに来てよ
4.照れ屋
5.私がオバさんになっても
6.夏の海
7.青春
8.この街
9.サンライズ
10.今日から
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森高千里論(その4)。何でも歌にする森高ワールド。(ときめき研究家)

2023-03-11 22:06:18 | ときめき研究家
前の記事(その1その2その3)に続き、森高の歌詞について語りたい。
今回は、他の人が歌にしないようなユニークなテーマ、内容を歌にしてしまう森高ワールドの魅力について。

『勉強の歌』(1990)は、「勉強はしないよりしておいた方がいいよ」とサラリと歌う。他の人がそう言うと説教くさくなりそうだが、なぜかそうはならない。ティーンエイジャーの日常の相当部分を占める「勉強」について、全否定でも全肯定でもなく、フラットな立場から歌っているのが森高らしい。
『ロックンロール県庁所在地』(1992)は、歌いながら社会科の勉強になる(?)歌だ。47都道府県名と、県名と異なる県庁所在地が歌詞になっている。当時、この歌で本当に「勉強」した人がいたかは分からない。「埼玉は浦和」の部分は、現在は「埼玉はさいたま」に変えなくてはならない。また、時々、合いの手でその県の名物が入るが、栃木(宇都宮)では「しもつかれ しもつかれ」と言っている。「餃子」ではないのだ。当時は、宇都宮の餃子はそれほど有名でなかったのかもしれない。

『台風』(1994)は、台風が近づいて来る様子を「ドンパン、ドドパン」と擬音で表現し、そのせいでデートの予定がダメになることを嘆く歌。台風に対して「ほんと迷惑だよ もっと考えてよ」と抗議しているのが面白い。
『ROCK ALARM CLOCK』(1992)は、寝坊して「遅刻だ、遅刻だ」と焦って連呼する歌。この歌では「ボロ時計 ボロ時計 恨んでやる」と目覚まし時計に抗議している。焦りながらも、顔がむくんでいる、このままではすっぴんで出かけるしかない、などとあれこれ現実的に悩んでいるのが面白い。
『頭が痛い』(1992)は頭が痛い、のどが痛い、体がだるい、風邪ひいた、困った、ついてない等々、病状と愚痴を延々と繰り返す歌。ただそれだけだが、どんどん悪化して行くのが手に取るように伝わる。。
『ストレス』(1988)も、ストレスがたまる、ストレスが女をダメにする、ストレスが地球をダメにすると延々と繰り返す歌。大げさに歌うことでストレス発散しているようだ。

『はだかにはならない』(1989)は、「どんなに蒸し暑くても服は脱がない」と歌っているが、その真意は当時水着グラビアなどをしつこく勧められることへの反発を歌っていたのだろう。
『のぞかないで』(1991)は、「ドすけべ」「痴漢と一緒」「名前を言わないだけでもありがたいと思え」などと過激な歌詞が続く。おそらく現実に、パワハラ、セクハラ、嫌な目にあったのだろう。
『臭いものにはフタをしろ』(1990)は「俺はストーンズ10回行ったぜ」などとマウントを取ってくるおじさんに対して、ウザいなという気持ちを歌っている。「私ロックはだめなのストレートよ」などと煙に巻き、蘊蓄を語るだけの「えせロッカー」を嘲笑している。
『鬼たいじ』(1990)は、人間の顔をした現代の「鬼」を退治してやるという比喩的な歌。具体的な描写はないが、不愉快な周囲の人間の誰彼を思い浮かべて作った歌ではないか。
『ハエ男』(1993)も、上司にゴマをする嫌味な男を、ノリのいいメロディーで笑い飛ばす。これもきっと、そんな男が周囲にいたのだろう。
『ザ・バスターズ・ブルース』(1990)は、比喩ではなく本物のゴキブリの歌。「やっぱ出た」と忌み嫌いながら、黒くて大きい、テカテカ光る、グロテスク、噛みつかれそう、等々執拗に描写している。
こういうネガティブで忌み嫌うべき存在や出来事も、歌にすることで昇華させ、笑い飛ばしているのが森高らしい。

『薹(とう)が立つ』(1996)は、鶏みたいに「薹薹薹薹薹薹薹薹」を何回も繰り返し、「薹」という字が書けるか歌っている。「あんたその字知っとっと?」と、九州の方言も取り入れた面白い言葉遊びの歌。
『JIN JIN JIN』(1996)『ジンジンジングルベル』(1995)も同系統。『台風』の「ドンパン、ドドパン」もそうだが、言葉の響きやリズムを楽しむための歌だ。

『見つけたサイフ』(1992)は、友達と2人でいる時に、自分が先に財布の落とし物を見つけたのに、友達が拾って、交番でも友達が拾得者として受け付けられたことへのモヤモヤ感を歌う。大人にとっては些細な、子供の心情を描いていてリアルだ。最後は予定調和な落ちがつく。

『叔母さん』(1992)は母親の妹で、独身で恰好いいキャリアウーマンの叔母さんにブティックやらレストランやら色々と教えてもらう歌。所帯じみた母親よりも自由な叔母さんに憧れるのはよくある話だ。でも最後には「そろそろ落ち着いた方がいいよ」などと余計なアドバイスをしていて、それは母親の受け売りなのだろう。
『若さの秘訣』(1994)は横文字仕事の36歳独身女性が、ロック大好きな「ロックお姉ちゃん」で、ロックが若さの秘訣だと歌う。この彼女、音楽好きの『叔母さん』とイメージが重なる。
こう2曲を並べると、キャリアウーマン、女性の自立といった志向が強いと思いがちだが、必ずしもそうではない。
『地味な女』(1993)では、結婚するならお金持ちの息子がいいなどと歌うし、『ペパーランド』(1992)では、「女の子」だけのバンドだから下手だけど愛嬌でカバーするなどと平然と歌う。フェミニストからは批判されそうだ。
でも、要は森高の歌にあまり思想性はないのだ。森高自身の思想性はあるのかもしれないが、それとは関係なく、いろんな価値観の男女の歌を、フラットに、共感を持って歌っているだけなのだ。
世の中には多様な人間がいて、それぞれの価値観に従い、それぞれの人生を多様に生きている。そんな当たり前のことを再認識させてくれるのが森高ワールドなのだ。

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森高千里論(その3)。夏の海への尋常でないこだわり。(ときめき研究家)

2023-03-05 14:39:47 | ときめき研究家
今回は、前の記事(その1その2)とは違った観点から、森高の歌詞について語りたい。
夏に海に行く歌が非常に多く、特に恋人と2人で海に行くことを人生の絶対的な目的視しているような印象すらあるので、検証してみた。

『短い夏』(1991)。夏は短いからぼやぼやしていられない、海に行かなくちゃと歌う。「ハワイ グアム サイパン」「タヒチ バリ島 湘南」と連呼する。「派手な水着がぴったり」というフレーズもあり、「サイパン」「派手な水着」というキーワードは『私がオバさんになっても』(1992)に踏襲されている。

『私の夏』(1993)。沖縄の海で女友達とゴロゴロする歌。今は2人とも彼がいないから、女同士で気兼ねなく楽しもうと言いながら、「素敵な出会いがあれば?」などと欲を隠せない。

『夏の日』(1994)。「短い夏が通り過ぎてく」海辺で恋人と過ごし、しみじみと幸福を噛み締める歌。何の変哲もない歌詞だが、しみじみと心にしみる。ここでも「短い夏」と言っていることに注目だ。

『夏の海』(1992)。彼と待望の海に車で3時間もかけて到着。渋滞で疲労困憊の彼をしり目に「まだ帰らない、来たばかりじゃない」と貪欲に夏の海を楽しもうとする。この歌にも「夏は短い」というフレーズがある。

ここまでの4曲は、「夏」を含む3文字の短いタイトルで、それぞれに、「夏を無駄にできない、何はともあれ海に行かねば」という追い立てられるような心情を歌っている。

『あるOLの青春~A子の場合~』(1990)。今年は彼がいないので海に行けず、「ひとりぼっちの夏休みは損した気分だわ」と嘆く。そこまで?と思うが、彼女にとっては貴重な人生の損失なのだ。

『SWEET CANDY』(1997)。夏の終わりに、今年の夏も何もしなかったと後悔する歌。かつての夏は、恋人と2人で過ごしたと懐かしむ。そして「どこか遠い青い海を見たいな 今すぐに」と歌う。彼女にとってやはり夏と言えば海が欠かせないのだ。

この2曲は、逆に、海に行けなかった夏を重大な痛恨事、人生の損失と捉えているようだ。

こういう森高だから、南沙織の『17才』(1971)をカバー(1989)したのは必然だったのかもしれない。その歌も、海辺を恋人と2人で走る歌だからだ。そして、南沙織からAKB48まで、古今のアイドルは押しなべて恋人と海辺を走るものだ。森高はアイドルと呼べるか否か、両論あると思うが、恋人と海に行く歌を積極的に歌っているという意味で、森高もピッカピカのアイドルと言える。

単に夏が好き、夏の海が好きというだけではなく、短い夏を無駄にすることなく、楽しまなければ罰が当たるというような強迫観念のようなものさえ感じる。まるでキリギリスが冬への備えなど眼中になく、寸暇を惜しんで歌い続けるように。蝉が1週間の短い命を鳴き続けて燃え尽きるように。
この夏の海への尋常でないこだわりはどこから来るのかは分からない。熊本生まれの森高は、海なし県でもないし、北国で夏が短いから海に憧れていた訳でもなかろう。

想像するに、この夏の海への執着は象徴的なものなのだろう。人生の一瞬一瞬への貪欲さを、夏の海への執着に重ねて歌っているのが森高の真骨頂なのだ。

森高には失恋の歌もかなりあるが、その多くは、いつまでも未練を引きずったりせず、切り替えて次に進もうというスタンスだ。悲しんでいる時間がもったいないのだ。
別れをなかなか切り出せない男に向かって『ばっさりやってよ』(1993)と迫り、別れが現実になると『わかりました』(1992)と受け入れる。『さよなら私の恋』(1993)では、一晩泣いたら明日は忘れると歌う。『青春』(1990)でも、別れた後思い切り泣いて、その後はスキーや免許取得やロンドン旅行などで精力的に青春を謳歌する。

ベストアルバム『DO THE BEST』収録の『今日から』(1995)は、これまで紹介した曲とは少し趣が異なる。
ベランダの花に水をやったり、衣替えをしたりして穏やかに過ごす一日の歌だ。曲調も静かなバラードだ。
「今日も一日が始まる そしていつもの繰り返し だけど今こんな日が幸せなんだと思う」「めくるめく時は流れて 夏も秋に変わっていく 今日からは毎日を大切に生きて行こう そう今日から」。
大事なのは夏だけではない。そして追い立てられるように何かをやっていないと不安になる必要もない。
海に行かなくても、恋愛をしていなくても、何もない一日でも同じように大切だ。そんなことを教えてくれる。毎日毎日を大切に、貪欲に生きている。それが森高の歌う歌の本質なのだ。
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