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AKB48 チームBのファンより

複数のメンバーがAKBグループや坂道グループを中心に、古今のアイドルについて自由に語るサイトです。

AKB48『恋、詰んじゃった』を聴く。なぜ彼の恋は詰んだのかを深読み。(ときめき研究家)

2024-08-31 14:06:43 | ときめき研究家
『恋、詰んじゃった』(AKB48)。
タイトルは『猫、踏んじゃった』からの派生。『恋をしちゃいました』(タンポポ)という曲もあった。『甘栗むいちゃいました』という商品も昔からある。
そういう可愛げのあるタイトルとは裏腹に、恋が終わったという絶望感を歌った曲だ。

曲調はレトロっぽいサウンドで、深刻ぶった焦燥感を映し出している。『大声ダイアモンド』に雰囲気が似ている。全然今風ではないが、AKBグループにはよく似合っている曲調だ。この路線で押していく方が良いと思う。

ただ、歌詞の意味がよく分からない点がある。彼は「恋は詰んだ」と絶望しているが、そう思った理由がはっきりしない。本記事を書くに当たって改めて歌詞を読み直してみた。
彼女の気持ちを過信して「噂の彼とお似合いじゃないか?」などと余裕の軽口を叩いて怒らせたのが原因か? いや、それは彼女の心変わりに気付いたきっかけに過ぎないだろう。「さっきの視線でわかった」というのが気付いた瞬間の描写だ。では、彼女の心変わりの原因は何か? 
「謝るだけじゃ許してくれない」と言っているから、彼の方が何かいけないことをしたのだろう。となると、それは「誰かの背中 君に似ていて 少し急ぎ足で追い越し振り向いた」の部分だろう。この部分は、君に似ている誰かに浮気をしたということの比喩とも読める。これを解釈その1とする。

先述の、似た女性を追い越した部分を素直に読めば、彼女と別れた後で、偶然見つけた彼女に似た人を追いかけたが人違いだったという描写だろう。彼の未練を表している。『ルビーの指輪』(寺尾聡)で、彼女と似たコートの女性を探す描写と同じだ。この解釈の方が自然だろう。
だとすれば、彼女の心変わりの原因は、直接には描かれていないという結論になる。間接的に描いているのは「思い出に過信して 今と未来見失った」というフレーズだ。彼女との過去の関係が永遠に続くと思いこみ、油断して、現在の彼女への心遣いが足りなかったというくらいの意味だろう。この歌詞は『ひこうき雲』(AKB48)の歌詞「未来への曲がり角とやさしさと風を忘れていた」とニュアンスが似ている。別れの理由を直接的に描かないのは秋元康だけの得意技ではなく、『また逢う日まで』(尾崎紀世彦:阿久悠作詞)でも「別れのその訳は話したくない」と歌っている。これが解釈その2だ。

ところで、恋が「詰んだ」と言っている。この歌詞と同様、最近若者を中心に「万事休す」「八方塞がり」「絶体絶命」という状況のことを「詰む」と表現するのが流行っているようだ。「テストが赤点で詰んだ」「バイト先の先輩が意地悪で詰んだ」「借金まみれで人生詰んだ」などなど。
しかし、この言葉遣いには、将棋アマチュア初段の私としては異論がある。将棋で「詰み」とはゲームオーバー、試合終了のことだ。「万事休す」「八方塞がり」「絶体絶命」はもう少し前の段階、もしかしたら起死回生策があるかもしれない状態を指しているような気がする。そんな段階で「詰んだ」とか簡単に言わないでほしい。この歌詞でも「どうすればいいんだろう let me know」と歌っているが、本当に詰んだのであればできることは何もないのだ。どうするもこうするもない。将棋盤を片付けて帰るだけだ。

いや、「詰んだ」後にやることが1つあった。プロ棋士は対局の後「感想戦」をやるのが慣例だ。対局を振り返り、勝負の分かれ目や、違う選択をした場合の形勢などについてお互いに話し合うのだ。
この歌の彼も、なぜ彼女が心変わりしたのか、自分の何が悪かったのか、彼女と腹を割って話し合うべきだ。そしてそれを次の恋に生かすのだ。
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大谷翔平の40盗塁・40本塁打をリアルタイム観戦した。(ときめき研究家)

2024-08-25 15:59:10 | ときめき研究家
日本時間8月24日土曜日、大谷翔平が40盗塁・40本塁打を達成した試合を観戦した。
4回の内野安打と盗塁はNHK-BSテレビで見た。左ピッチャーのモーションを完璧に盗んだスタートだった。キャッチャーが握り損ねて2塁に送球できなかったが、もし投げていても楽々セーフだっただろう。
9回の劇的なサヨナラ満塁ホームランは、実はテレビでは見ていない。外出先で、インターネットの「一球速報」をチェックしていた。動画ではなく、ダイアモンドの図とテキストによる速報だ。前のバッターが四球で二死満塁になり、すごい場面で回って来たなとドキドキしながらスマホ画面を凝視していたら、いきなり「本塁打(4点)」の表示に切り替わった。大谷が打った映像を見たわけではないが興奮した。もちろん、夜のテレビニュースで、実際の映像は何回も見た。
さて、私は大谷翔平の劇的なサヨナラ満塁本塁打をリアルタイム観戦したと言えるのだろうか?
私は自信を持って「イエス」と言える。

リアルタイム観戦か否かは「結果を知らずに観戦したか否か」なのだと思う。
観戦の媒体は何でも構わない。現地の球場で観戦するのが最も臨場感があるだろうが、テレビでも、ラジオでも、そして私のようにネット情報でも、結果を知らずに観戦すればそれはリアルタイム観戦だ。
もっと言えば、録画しておいたテレビ中継を、結果を知らない状態で再生して視聴すれば、それも疑似的なリアルタイム観戦と言える。私は競馬中継をよくそのようにして見る。馬券が当たるかどうかドキドキしながら見るのが楽しいのであって、結果だけ後で知るのではつまらない。外出などで生中継を見られないときは、ニュースなどの情報を遮断して家に帰るのに細心の注意を払う。

スポーツの種類によって、テレビ、ラジオ、インターネットといった観戦手段の向き不向きはある。野球は、1球1球プレイが中断するのでインターネットに適性がある。今回私が見た「一級速報」など、とてもよくできている。もちろんラジオ中継にも非常に親和性が高いし、長い歴史もある。だから、聞いていて、どのようなプレイだったかほぼ想像できる。
一方、映像がないと厳しいと思うのが、サッカー、相撲だ。プレイが連続し、中断しないし、目まぐるしく状況が変わる。それをラジオやインターネットで的確に伝えることは非常に難しい。それでもやむを得ず観戦することもあるが、野球ほどには楽しめない。ドキドキしない。
野球以上にインターネットに向いている競技は、囲碁・将棋だろう。多くのファンは実際インターネットで楽しんでいる。ただしこれらの競技は、ラジオ向きではない。

さて、ここでようやくアイドルの話になる。
アイドルのライブを動画配信で見ることは一般的になっている。自分の推しメンだけをずっと見るような楽しみ方はできないが、ライブ全体をほぼ現場にいるのと同じように楽しむことができる。また、スポーツのように「結果を知らずに観戦」することは求めていないので、「リアルタイム」というのも必須ではない。後日の配信やDVDなどでも充分楽しむことができる。
もっと言うなら、映像がなくても、音声だけでも十分だ。昔は「ライブ盤」のレコードも発売されていた。今のように映像ソフトを手軽に家庭で楽しめる時代でなかったこともあるが、そもそも音楽は音声で楽しむもので、映像は付加価値に過ぎなかったのだ。
更に言うなら、インターネットの記事でライブのセットリストを眺めるだけでも、楽しめることもある。
すこし前に、宮本佳林主演舞台『ザ☆アイドル』の鑑賞記を掲載した時、ナッキーさんから「記事を読んだだけで実際に見たような気になった」という言葉をいただいた。最上の誉め言葉で、嬉しかった。
観戦・鑑賞の媒体、スタイルは多様であるということだろう。
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アラン・ドロンから連想するアイドルは?(ときめき研究家)

2024-08-20 22:27:52 | ときめき研究家
アラン・ドロンが亡くなった。二枚目俳優の代名詞とも言える大スターで、日本のアイドルの楽曲にも登場している。

『アル・パシーノ+アラン・ドロン<あなた』(榊原郁恵)は、どんな二枚目俳優よりもあなたの方が好きと言う他愛のない内容。榊原郁恵の4曲目。奇抜なタイトルだが、ほのぼのとした青春ソングだ。ハーモニカのイントロ、間奏が印象的だった。気になって調べたら、アル・パシーノの方はまだ存命のようだ。(榊原郁恵に関する過去記事はこちら

『赤いハイヒール』(太田裕美)は、「アラン・ドロンと僕を比べて陽気に笑う君が好きだよ」というフレーズが出て来る。榊原郁恵の曲もそうだが、世界的なスターと身近な恋人を比べるという構図だ。比較対象となるスターは、名前を聞いただけで誰もが知っている有名人でなければならず、アラン・ドロンなら文句ないということだろう。

『太陽がいっぱい』(松本伊代)は、アラン・ドロン主演の代表作のタイトルを借用している。私はその映画を観たことがないが、映画の内容と歌詞はあまり関係がないと思われる。松本伊代の初期の楽曲『センチメンタル・ジャーニー』『ラブ・ミー・テンダー』『抱きしめたい』は洋楽の曲名を拝借しており、それと同様のノリだろう。映画の題名の借用で有名なのは『勝手にしやがれ』(沢田研二)がある。
『太陽がいっぱい』という同曲名は光GENIJIにも使われていた。

それでは、日本で、アラン・ドロンのように二枚目俳優の代名詞として使われ、歌詞や曲名にも使われるようなスターはいるだろうか? すこし前なら、石原裕次郎や高倉健は該当しただろう。
現在存命の俳優では誰かと考えてみたが難しい。俳優としての格で言えば役所広司だろうが、彼は二枚目だけでなく多彩な役柄をこなすので条件には合わない。
よくよく考えて出た結論は、人によって好き嫌いはあるだろうが、木村拓哉なのだと思う。
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同じ本を2度読むのは時間の無駄なのか?(ときめき研究家)

2024-08-16 14:48:37 | ときめき研究家
最近気になるテレビコマーシャルがある。
サントリーのノンアルコールビールを飲みながらのんびり読書していたダイアン津田が、突然「この本、読んだことがあった! 時間返せ!」と叫ぶのだ。
このコマーシャルは、飲んでも酔うことがなく、読書もできるというノンアル飲料の良さを伝えている。そして、一度読んだことのある本に途中で気づくという、誰でもやったことがある「失敗」を微笑ましく描いて、好感度を狙っているのだろう。しかし、私は「時間返せ」という一言に引っ掛かってしまう。

同じ本を2回読んでしまうのは、本当に時間の無駄なのだろうか?
それは、その人の価値観によるだろうし、読んでいる本の種類にもよるだろう。
気に入った小説の本なら、二度三度読み返すことはよくある。あるいは伏線がたっぷり張ってあるミステリーなら、結末を知った後でもう一度読んで確かめたくなる。
一方で、ハウツー本などは、一度読んで内容を把握したら、全文を再読することは少ないだろう。
つまりは「鑑賞」と「情報取得」の違いなのだ。もっと分かりやすい例で言うなら、アイドルを含むミュージシャンの楽曲を繰り返し聴いても「この曲、聴いたことあった! 時間返せ!」とは言わないだろう。漫画もそうだ。気に入った漫画は何度も読み返すという人は多いだろう。ストーリーは覚えていても、同じシーンで何度でも感動できるものだ。
一方で、昨日の新聞を今日のものと間違えて途中まで読んでから気づいたら、失敗したという気分になる。

ベストセラーとなっている三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』にも似たような分析があった。現代人は忙しすぎて「情報」にノイズが混じる「読書」ができなくなっているという説だ。「情報」を得るだけならインターネットが手っ取り早い。時間をかけて、ノイズの中から情報を読み解かなければならない「読書」をするには疲れすぎているというのだ。

ダイアン津田が読んでいた本がどんな本なのかは不明だが、おそらくハウツー本など「情報取得」系の本だろう。しかし、半分読むまで気付かなかったということは、忘れてしまっていた情報を再度取得できたのだから、時間の無駄とは言えないだろう。いっそ最後まで気付かなければ、なおよかったのだ。ただ、読んでもすぐ忘れてしまうような「情報」に価値があるのかどうかはわからない。

要するにこういうことか。2度目と自覚しての再読は「鑑賞」なので、無駄ではない。2度目と自覚せずに再読してしまったのは、気持ちの問題も含めて「失敗」という感情になりやすい。

私自身は、還暦を超えてから、昔読んで良かった本を読み返すことを増やしている。自覚しての再読だ。好きだった小説でもストーリーの細かな部分は忘れてしまっていることも多く、新鮮な気持ちで鑑賞することができる。そんな時は「時間返せ!」どころか、忘れさせてくれた長い時間に感謝したい気持ちになる。
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