(45)函館大森浜「啄木小公園」の歌碑 昭和33年10月建立(『一握の砂』より)
潮かをる北の浜辺の
砂山のかの浜薔薇よ
今年も咲けるや
啄木
啄木は、函館大火に遭遇し、函館での132日間の生活に終止符を打ち、函館大森浜を散策の翌日、明治40年9月13日、函館に別れを告げ、札幌に向かいました。函館には、青柳町の金野さんのお宅にも、次の歌の碑があります。
「こゝろざし得ぬ人人のあつまりて酒のむ場所が 我が家なりしかな」(昭和61年2月建立)
啄木日誌・函館の夏(明治40年9月6日記)
(大火)8月25日
此夜十時半東川町に火を失し、折柄の猛しき山背の風のため、暁にいたる六時間にして函館全市の三分の二をやけり、学校も新聞社も皆やけぬ、友並木君の家もまた焼けぬ、予が家も危かりしが漸くにしてまぬかれたり、
8月27日 曇 市内は惨状を極めたり、町々に猶所々火の残れるを見、焼失戸数1万5千に上る、
啄木日誌(9月 函館ー札幌ー小樽)
9月8日 この日札幌なる向井君より北門新報校正係に口ありとのたより来る。
9月12日 予は漸やく函館と別るるといふ一種云ひ難き感じしたり。この函館に来て百二十有余日、知る人一人もなかりし我は、新しき友を多く得ぬ。この日、昨日の日附にて依願解職の辞令を得たり、午后高橋女史をとひ、一人大森浜に最後の散策を試みたり。
9月13日 家族は数日の後小樽迄ゆきて予よりのたよりを待つ筈にて・・後のことは諸友に万事託すしぬ、停車場に送りくれたるは大塚岩崎並木、小林茂、松坂の諸君にして節子も亦妹と友に来りぬ。大塚君は一等切符二枚買ひて亀田まで送りくれぬ。車中は満員にて窮屈この上なし、函館の燈火漸やく見えずなる時、云ひしらぬ涙を催しぬ、
サッカーのワールドカップ、日本かろうじて決勝トーナメント進出になりましね。結果オーライでよかったのかな。決勝トーナメントでの活躍をまちましょう。