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たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

盛岡市所在文化財(3)

2022年08月19日 | ぶらりぶらり

国指定有形文化財(重要文化財)

(4) 盛岡高等農林学校本館(現・岩手大学農業資料館)   盛岡市上田

 

 

盛岡高等農林学校本館は、明治45年に着工、大正元年に竣工しました。建物は、一階に校長室、事務室、会議室、二階は大講堂として諸学校行事に使われていました。岩手大学発足後、大学本部として使われていましたが、現在は農業教育資料館として使用されています。この旧本館は、我が国の学校建築の歴史を知る上で貴重な建物であり、重要文化財の指定を受けました。この指定は旧盛岡高等農林学校旧本館棟と門番所を合わせて一件としての指定です。なお、「文化財」の指定は、国・岩手県・盛岡市でおこなっています。盛岡市所在指定文化財には有形文化財、無形文化財、民族文化時、記念物があり、それら文化財の数を表1に示します。

 

    岩手大学正門

 

岩手大学構内の樹木

 

    桜

 

ハンカチの木

 

ナンジャモンジャの木

 

シモバシラ の霜柱

 

シモバシラはシソ科の多年草で、秋に白い花を咲かせ、冬になると枯れた茎の根元に神秘的な氷の花(結晶)氷柱(つらら)を作り出します。冷え込んだ朝、枯れたこの草の根元を見ると、茎から鰭状に氷が張り出し、まさしく、霜柱となって氷の彫刻を作っています。これは茎の維管束の中の水が凍って茎の外へと伸びだしたもので、持ち上げているのは小石ではなく、茎の表皮です。それがこの植物の名の由来です。一度これが出来ると茎の構造は壊れるので一年にたった一度だけ、シモバシラが咲かせる冬の花というわけです。それも、見事なものが出来るには、初めての寒波で急激に冷え込んだ時に限るようです。

 

 

 


盛岡市所在文化財(2)

2022年07月28日 | ぶらりぶらり

 国指定有形文化財(重要文化財)

(2)旧盛岡銀行(現・岩手銀行赤レンガ館)     盛岡市中ノ橋通

岩手銀行赤レンガ館は、明治44年(1911)に盛岡銀行の本店行舎として落成。昭和11年(1936)に岩手殖産銀行(のちに行名を岩手銀行に変更)がこの建物を譲り受け、本店として利用しはじめました。その後、昭和58年に岩手銀行新社屋完成に伴い中ノ橋支店となっています。設計は東京駅でも知られる、辰野・葛西建築設計事務所によるもので、辰野金吾が設計した建築としては東北地方に唯一残る建物です。赤レンガが優雅な印象の威風堂々とした建物で、中に入ると天井が高くて開放的で、当時の洋風建築の特徴がうかがえます。建物は、平成28年、公開施設「岩手銀行赤レンガ館」として開館しました。

 

 

明治時代に入ると他国から建築工法や技術が伝わり、西洋の要素が入ってきました。これまでは木造建築でしたが、煉瓦を利用した建築が入ってきました。旧盛岡銀行は煉瓦造りになっています。

 

(3)旧九十銀行(現・啄木・賢治青春館)     盛岡市中ノ橋通

この建物は旧九十銀行本店本館として明治43年12月に竣工しました。設計は東京帝国大学を卒業して間もない、盛岡出身の若き建築家・横濱勉です。構造は煉瓦造2階建で、2階に広い集会室を設け、1階を営業室・客溜・金庫室・頭取室及び応接室としていました。外観は重厚感のある古代ローマ文化の影響を受けた建築様式で、内部は直線的で平明かつ簡潔な様式がみられ、19世紀末の欧州での建築運動をいち早く反映させたものとして、我が国の近代建築史上重要な建造物です。 旧九十銀行本店本館は明治時代に建てられた銀行建築の遺構として大変貴重な事から平成16年に国指定有形文化財に指定されました。

 

 

コロナ感染者が増えてきました。岩手県の新規感染者は昨日(7月27日)は1,077人で、1日当たりの新規感染者は過去最多で、23日の 1,051人を上回りしました。

 

 

 

 

 


盛岡市所在文化財(1)

2022年07月15日 | ぶらりぶらり

盛岡市所在文化財を回ってみます。

国指定有形文化財(重要文化財)

A. 建造物

(1) 旧中村家住宅     盛岡市中央公民館敷地内     盛岡市愛宕町  

旧中村家住宅は盛岡市新穀町にあったもので、町屋建築です。中村家の創業は天明2年(1782)で、屋号が「糸屋」または「糸治」と呼ばれ、呉服などを扱っていました。その後、紫根染を始めると領内指折りの豪商と成長してきました。この建物は江戸時代末期の文久元年(1861)頃に建てられました。建物左外壁は隣家への防火対策としてこの地方独特な「うだつ」が上がり、壁一面が土壁で仕上げています。右側に隣接土蔵は明治時代のものです。盛岡駅から中央公民館に行くには、駅前バスターミナルから山岸経由松園行きに乗り、中央公民館前で下車ください。駐車場はありますが、公民館の行事で、いつもいっぱいのようです。

 

 

コロナ感染者が増えてきました。岩手県では今週に入り7月13日(水曜日)が過去最高の感染者数、14日の木曜日は過去2番目の多さでした。なかなか収まらないですね。


盛岡まち散歩(4)

2021年12月17日 | ぶらりぶらり

盛岡にある文化財などをまわってみます。

 

国指定有形文化財(建造物)・重要文化財

 

(4)旧中村家住宅(盛岡市中央公民館敷地内) 盛岡市愛宕町 

旧中村家住宅は盛岡市新穀町にあったもので、町屋建築です。中村家の創業は天明2年(1782)で屋号が「糸屋」または「糸治」と呼ばれ、呉服などを扱っていました。その後、紫根染を始めると領内指折りの豪商と成長してきました。この建物は江戸時代末期の文久元年(1861)頃に建てられ、木造1部2階建て、切妻平入り、瓦葺きで。建物左外壁は隣家への防火対策としてこの地方独特な「うだつ」が上がり、壁一面が土壁で仕上げています。右側に隣接土蔵は明治時代のものです。盛岡市では,昭和46年に中村家から建物などの寄贈をうけ、移築工事は,昭和49年3月に完成し,現在に至っています。なお、重要文化財の指定は昭和46年12月です。

 

 

旧中村家住宅

 

中央公民館は国道4号線脇にあります。盛岡駅からでしたら、バスで「松園山岸線」に乗り、中央公民館前で下車ください。20分ほどです。

       

 

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啄木の歌碑に用いられている歌

 

  「砂山の砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠くおもひ出づる日 」

                       <一握の砂  >    

 

この歌は、大森浜の歌碑 (北海道函館市日乃出町) に用いられています 

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大森浜の啄木歌碑

 

大森浜の歌碑 (北海道函館市日乃出町)

 

なお、この歌碑の写真は函館市教育委員会の野村さんから提供していただきました。

 

 


盛岡まち散歩(3)

2021年12月15日 | ぶらりぶらり

盛岡にある文化財などをまわってみます。

 

国指定有形文化財(建造物)・重要文化財

 

(3)旧盛岡銀行本店(岩手銀行赤レンガ館)        国指定有形文化財(建造物)  中ノ橋通1-2-20

中の橋のたもとに岩手銀行赤レンガ館があります。岩手銀行赤レンガ館は、盛岡銀行の本店庁舎として明治44年に落成しました。その後、岩手銀行の本庁舎、中ノ橋支店となり平成16年まで営業をしていました。営業中の平成6年に国の重要文化財となったこの建物は、修復工事を経て岩手銀行赤レンガ館として、公開施設となりました。当時の洋風建築の特徴がほぼ残っています。この建物の設計は、辰野・葛西建築事務所によるもので、館内には彼らの業績を知ることのできるコーナーがあります。数々のイベントも行われています。平成28年に多目的ホールおよび創建当時の館内の模様を展示する施設としてオープンしました。

 

旧盛岡銀行本店

 

 

中の橋と旧盛岡銀行本店

 

 

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啄木の歌碑に用いられている歌

 

  「 大海にむかひて一人 七八日 泣きなむとすと家を出でにき 」

                       <一握の砂  >    

 

この歌は、大間埼の啄木歌碑(青森県大間町) に用いられています 

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大間埼の啄木歌碑(青森県大間町)    

 


大間の啄木歌碑





向かって右側の歌碑

大海にむかひて一人 
七八日 
泣きなむとすと家を出でにき




 

 

 


盛岡まち散歩(2)

2021年12月10日 | ぶらりぶらり

盛岡にある文化財などをまわってみます。

 

国指定有形文化財(建造物)・重要文化財

 

(2)旧九十銀行(現・啄木・賢治青春館)    国指定有形文化財(建造物) 中ノ橋通1-1-25     

 奥州街道沿いに旧九十銀行本店本館があります。現在、啄木・賢治青春館になっています。この建物は明治43年に竣工しております。構造は煉瓦造2階建で、2階に広い集会室を設け、1階を営業室・客溜・金庫室・頭取室及び応接室としていました。外観は重厚感のあるロマネスク・リヴァイヴァル様式、内部は直線的で平明かつ簡潔なゼツェッシオン式の影響がみられ、19世紀末の欧州での建築運動をいち早く反映させたものとして、我が国の近代建築史上重要な建造物です。 旧九十銀行本店本館は明治時代に建てられた銀行建築の遺構として大変貴重な事から平成16に国指定有形文化財に指定されました。

 

 

     旧九十銀行

 

現在、1階には喫茶室もありますので、お立ち寄りください。

 

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啄木の歌碑に用いられている歌

  「頬につたふ なみだのごはず 一握の砂を示しし人を忘れず 」

                       <一握の砂  >    

この歌は、タピック(旧道の駅)(岩手県陸前高田市) の歌碑に用いられています 

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盛岡まち散歩

2021年12月03日 | ぶらりぶらり

盛岡にある文化財などを回ってみます。

 

国指定有形文化財(建造物)・重要文化財

 

(1)盛岡高等農林学校本館(現・岩手大学農業資料館)  

 

 

国指定有形文化財(建造物)とは建造物の中で、歴史上・学術的に価値の高いものとして、国が指定したものをいいます。岩手大学農学部(旧盛岡高等農林学校)旧本館は,明治45年5月に着工,同年12月に竣工しました。旧本館は,木造2階建で,2階全体が講堂になっています。なお、この指定は、旧盛岡高等農林学校旧本館1棟と次の門番所1棟を合わせて一件としての指定です。

 

 

 

この建物は、明治36年頃盛岡高等農林学校の正門(現在の通用門)に建てられた門番所です。正面が八角形の事務室で、後方は方形の突出部(和室・事務室)が取り付く小規模な建物です。木造で,外壁が下見板張り、屋根は鉄板葺です。旧本館,門番とも、わが国の学校建築の歴史を知る上で、重要な建物です。

 

 

 

 啄木歌碑に用いられている歌

  「 東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」

              <一握の砂  (我を愛する歌) >     

 

この歌は、蓋平館別館跡地の歌碑(東京都文京区本郷 )など6基の歌碑に用いられています。

 

 

 

 

 


コロナウイルス感染状況

2021年09月10日 | ぶらりぶらり

コロナウイルス感染者数はワクチン接種の影響で減少傾向にあるようですね。岩手県での9月9日の感染者は28人でした。それほど減少しておりませんが、高齢者のワクチン接種が進んでおり、60歳以上の感染者はおりませんでした。東京、大阪は人口密度も高く、感染者も多いですね。人口密度と感染者数の関係は表のようになっています。北海道の感染者は多いですね。

 

人口密度とコロナ感染者数の関係

 

人口密度

の順位

 

都道府県

 

人口密度

コロナ

感染者数

感染者の

多い順

東京都

6,410.44

362,701

大阪府

4,640.96

186,775

神奈川県

3,824.50

159,772

埼玉県

1,934.52

108,751

愛知県

1,458.75

97,040

 5

千葉県

1,218.99

95,072

 6

福岡県

1,030.56

70,657

兵庫県

 651.01

72,239

沖縄県

 643.31

46,504

10

10

京都府

 559.37

33,520

11

11

香川県

 506.75

  4,537

39

12

茨城県

 470.46

22,518

12

13

静岡県

 467.41

25,089

13

14

奈良県

 359.11

14,494

18

15

滋賀県

 352.03

11,617

23

16

佐賀県

 332.70

  5,534

32

17

広島県

 330.37

20,369

14

18

長崎県

 317.87

  5,695

31

19

宮城県

 316.31

15,548

16

20

三重県

 306.77

13,875

21

21

群馬県

 304.97

15,923

15

22

栃木県

 301.81

14,263

20

23

石川県

 270.72

  7,522

28

24

岡山県

 265.61

14,537

17

25

富山県

 243.81

  4,644

38

26

愛媛県

 235.32

  4,889

36

27

熊本県

 234.73

1,3612

22

28

山口県

 219.71

  5,353

33

29

和歌山県

 195.37

  4,982

35

30

岐阜県

 186.40

14,359

19

31

福井県

 183.14

  2,783

44

32

山梨県

 181.50

  4,827

37

33

大分県

 177.36

  7,652

27

34

新潟県

 175.01

  7,253

29

35

徳島県

 173.56

  3,010

43

36

鹿児島県

 172.98

  8,701

25

37

鳥取県

 157.92

  1,564

46

38

長野県

 151.14

  8,282

26

39

宮崎県

 138.36

  5,871

30

40

福島県

 133.07

  9,134

24

41

青森県

 128.42

  5,008

34

42

山形県

 114.63

  3,362

41

43

島根県

 100.12

  1,493

47

44

高知県

   97.42

  3,899

40

45

秋田県

   82.50

  1,736

45

46

岩手県

     79.29

  3,321

42

47

北海道

     66.68

58,749

※2021年4月1日現在の人口

※2021年9月9日現在の感染者数

 

 

 


盛岡藩(3)

2021年07月27日 | ぶらりぶらり

 

盛岡藩4代目藩主・南部行信の墓   聖寿禅寺(盛岡三十三観音17番)   盛岡市北山

 

盛岡藩4代目藩主・南部行信の墓

 

盛岡藩主の墓は聖寿禅寺境内の140段の階段を上って行きます。最上段には盛岡藩12代目藩主・利済(南部家38代当主)の墓があり、少し下がった所に盛岡4代藩主・行信(南部家30代当主)の墓があります。聖寿禅寺には9人の盛岡藩主の墓があり、5人の盛岡藩主の墓は東禅寺にあります。また、15代盛岡藩主・利恭の墓は東京の護国寺にあるようです。また、盛岡城の築城を開始するが、その完成を見ず1599年10月5日に病死した信直(南部家26代当主)の墓所は青森県三戸郡南部町の三光院にあるようです。

 

 

盛岡藩4代目藩主・南部行信の墓(右奥が盛岡藩12代目藩主・利済の墓)

 

 

次に、首塚のある円光寺を訪ねます。

 

首塚  円光寺(盛岡三十三観音11番)       盛岡市南大通

 

 

本堂前に創建時に植えたと推定される、樹齢300年のカツラの大木が枝を広げます。雌雄であることから、「夫婦めおとかつら」と呼ばれますが、春先には紫色の花が木を覆い、紫雲山の名にふさわしい姿をみせるといわれます。境内には落ち着いた木肌をみせる観音堂が建ちますが、その脇に立派な「首塚」と記された石柱が立っています。

盛岡藩4代藩主・南部行信の奥女中・蓮子の父は材木商をしていましたが、キリシタンとされ斬首されました。蓮子はその夜、父親のさらし首を盗み出し、円光寺に生首の回向を嘆願、死者を弔うのは和尚としての役目と、腹をくくり、人の耳と目を恐れ鐘は鳴らしませんでしたが、首級をサクに納め、経をあげ和尚自ら埋葬してくれました。夜が明けて蓮子が自首をすると、おとがめとは逆に、藩主の行信はその親孝行をほめ、やがて側室にしました。その間に生まれたのが盛岡藩5代目藩主・信恩と伝えられています。円光寺には首塚が建てられ、お蓮の方は父の菩提のために観音堂を建立し、十一面観音像(別名、生目観音)を遷座したと伝えられています。

 

 

円光寺山門

 

 

 

 


盛岡藩(2)

2021年07月21日 | ぶらりぶらり

盛岡藩2代目藩主・南部重直の墓をたずねます。盛岡藩主については、南部藩主と同じと考え、初代藩主を南部信直(南部家26代当主)と考える人、実際に盛岡に来て活躍をした南部利直(南部家27代当主)と考える人がおります。ここでは、南部利直(南部家27代当主)を初代藩主と考えます。

 

盛岡藩2代目藩主・南部重直の墓    聖寿禅寺(盛岡三十三観音17番)    盛岡市北山

聖寿寺は現在の青森県三戸郡南部町にありましたが、慶弔3年(1598)南部家26代当主・信直が盛岡に築城を開始、南部家27代当主・利直(盛岡藩初代藩主)を経て、盛岡城が竣工したのは寛永10年(1633)、盛岡藩2代目藩主・重直(南部家28代当主)の時で、この時、三戸にあった聖寿寺も盛岡に移転しました。聖寿寺には、盛岡藩2代藩主南部重直の他、3代藩主・重信、4代藩主・行信、6代藩主・利幹、7代藩主・利視、8代藩主・利雄、10代藩主・利敬、12代藩主7・利済、14代藩主・利剛の墓の9藩主の墓があります。

 

 

盛岡藩2代目藩主・南部重直の墓

 

 

墓はこの階段の上

 

 

聖寿禅寺

 

「聖寿禅寺」は建長六年(1254)、南部家第二代・南部実光公により初代・光行公の菩提を弔うため、現在の青森県三戸郡南部町に創建されました。慶長3年(1598)南部家二十六代・信直公は現在の盛岡に築城を開始し、その子第二十七代・利直公を経て、盛岡城が竣工したのは寛永10年(1633)第二十八代・藩主重直公の時でした。築城にともなって諸寺院が北山周辺に集められ、三戸にあった聖寿寺も移転しました。明治時代になると幕藩体制が崩壊し、聖寿寺は衰退の一途を辿り、寺院の形をとどめないほど荒廃していきました。

明治八年(1875)、聖寿寺の広い境内地に桜山神社が移転してきました。神社は幕末まで盛岡城内に祀られていたものです。そのため聖寿寺は境内の片隅で如意庵という仮本堂に移され、正規の住職もいない被兼務寺院となってしまいました。明治三十三年(1900)、桜山神社が現在の盛岡城跡に移転することになりましたが、ついに寺院が再建されることはありませんでした。現在でもこの地を「旧桜山」と呼ぶことがありますが、明治時代の二十数年間、「桜山神社」が鎮座していたことによるものです。

現在の本堂は昭和三十四年に建立されたもので、本堂が八角形なのは、聖寿寺の再興を願って、聖徳太子偲んで建てられた奈良県法隆寺の夢殿を模したものです。

 

次に、”おかん” の墓を訪ねます。

 

“おかん” の墓       大泉寺(盛岡三十三観音26番)    盛岡市本町

 

おかんの墓

 

盛岡城が竣工したのは、盛岡藩2代藩主・重直の時でした。“おかん” の夫・三平は盛岡城築城のため働いていましたが、工事中に重症を負いました。組頭の高瀬軍太は“おかん”に思いをよせていましたが、三平の災難をきっかけにますます露骨になりました。夫の運命にも危機が及ぶと感じたおかんは、夫を殺すなら、身を任せると言って欺き、自ら夫になりすまして、高瀬の手に掛かって貞死しました。己の非を悟った高瀬は自ら仏門に入り、おかんの菩提を大泉寺で弔ったといわれます。おかんの墓は、石でたたくと不思議な音がします。その音は、おかんの泣き声とか、夫の三平の唱える念仏とか、不幸な夫婦二人の声が合わさっているとも言われていました。墓石を叩くための石(墓石の上部)が置かれている部分は、叩かれたために、自然にくぼみができています。

 

墓石のくぼみ

 

 

大泉寺

 

大泉寺本堂は盛岡市景観重要建造物に指定されています。盛岡市のホームページによると、次の記載があります。

山門真正面に本堂独特の宝形式反り屋根の木造平屋建の寺院が見える。始め瓦葺だったが修理して現在の銅板一文字葺になったと言う。車寄せ屋根は起り(むくり)破風であるので垂木は一本曲がりものでできているが,本堂は反り屋根,車寄せは起り(むくり)破風で対照が面白い。車寄せの柱梁はけやきで柱脚は礎石に乗っている。梁は虹梁(こうりょう)で彫刻文様があり,蟇股,斗拱(ときょう)の組合せの造りかたになっている。本堂は床高く,風通しよく考えられ,床束,柱,土台は御影石に据付けられている。
本堂内部は外陣は板張りの床だったが,畳敷きになっている。天井は竿縁(杉)で,簡単なものである。外部建具は硝子戸になっているが,古くは紙貼り障子に雨戸であったと思われる。雨戸は現在はないが平鉄をはった戸溝が残っている。内陣は3.5間×2間で共に天井は格天井(ごうてんじょう)で折上(おりあげ)部は簡単である。内々陣の南面,北面の中柱2本ずつはけやきの円柱がある。内々陣と内陣,その他隣室の長押欄間には見事な木彫の桃山風立体籠の彫刻がつけられている。裏側は板になっている。各内陣,内々陣その他隣室の長押梁には文様の木彫がされてある。
須弥壇の勾欄には唐様で親柱に鎌倉時代から出現した逆蓮柱になっている。
なお,車寄せの正面妻飾りが特徴があり懸魚(けんぎょ),母屋鼻かくし,蟇股等の木彫は興味を引くものである。