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たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

盛岡藩(1)

2021年07月09日 | ぶらりぶらり

前回は奥州街道を歩き小野松一里塚に到着しましたので、奥州街道の散歩を終わります。さて、奥州街道に一里塚が設置された頃、南部氏により、盛岡藩(南部藩)がおこされています。ここで、盛岡藩、岩手県の成立を振り返り、盛岡藩・藩主の墓をたずねてみます。

 

盛岡藩(南部藩)、岩手県、盛岡市の成立

南部氏は、南北朝時代のころより青森県三戸・九戸周辺に基盤をおき、室町・戦国時代にはしだいに勢力をのばして、奥州北部の有力大名に成長しました。1588年、南部家26代当主・信直は斯波氏を滅ぼし、1590年に豊臣秀吉から、南部七郡の領有を認められ、南部藩が成立しました。しかし、三戸や九戸は南部藩領内の北辺に寄りすぎていることもあり、 本拠を不来方(盛岡)に移すことになりました。藩主・信長(南部家26代当主)は1597年に、嫡子の利直を総奉行に鋤(すき)(鍬(くわ))初めを行い、翌1598年の正式許可の後、築城工事に着手しました。1599年、利直は父・信直が卒した後、南部藩2代目藩主として築城を進め、南部藩3代目藩主・重信のときに完成しました。南部藩は16代・利恭(南部家41代当主)までつづきます。しかし、南部藩は明治 3年( 1870年)、財政難により廃藩置県に先立って廃藩を申し出、 明治政府 により 盛岡県が設置されました。その後、盛岡県は廃藩置県によって明治5年(1872年)に『岩手県』へと改称されます。一方、伊達氏の一関藩は一関県となりましたが、明治9(1876)年に、岩手県と一関県の一部が合併して,現在の岩手県が成立しました。なお、盛岡市は明治22年(1889)の市制 施行により、成立しています。

南部藩は、南部氏の領地であったことから『南部藩』と呼ばれていましたが、文化14年(1817)、南部藩11代藩主・利敬(南部家36代当主)の時、南部藩を盛岡藩と改称する旨を幕府に届け、南部藩を盛岡藩に改めたといわれています。現在、盛岡藩初代藩主として、盛岡移転を計画、着手した南部藩初代藩主・信直(南部家26代当主)とするか、総奉行として、また、藩主として築城・まちづくりを進めた南部藩2代目藩主・利直(南部家27代当主)するのか、分かれています。この点につき、盛岡市教育委員会歴史文化課に問い合わせしましたら、初代を信直と考えるか、利直と考えるかは、考え方によるので、どちらも間違いでは無い、ということでした。

 

初代盛岡藩主・利直(南部家27代当主)の墓

 

初代盛岡藩主・南部利直(南部家27代当主)の墓

 

盛岡藩初代藩主・南部利直(南部家27代当主)の墓は東禅寺にあります。東禅寺は、無盡妙什和尚を開山として遠野附馬牛に建武年間(1334-1336)創建されたといわれます。南部家13代当主・守行が戦死した際に無盡妙什和尚が焼香師となり、南部家との縁が始まり、27代利直の焼香師を三世大英和尚が勤めたこともあり、盛岡城の築城に際して遠野より当地へ移転、寺領240石を受領、盛岡五山の一つと仰がれていました。東禅寺には盛岡藩初代藩主・利直の墓の他、5代藩主・信恩、9代藩主・利正、11代藩主・利用、13代藩主・利義の墓の5藩主の墓があります。

東禅寺(盛岡市北山)は国道4号線沿いに山門があります。利直の墓は山門から左側の道路を上って行くと間もなく案内板が立っていますので、すぐにわかります。

 

東禅寺山門

 

 

次に、南部利直公の正室 ”お武” の墓を訪ねます。墓は光臺寺(盛岡市名須川)にあります。

 

 

ムカデ姫の墓

 

光臺寺には、ムカデ姫の墓があります。氏郷の養妹“武姫(お武の方)”は、盛岡藩初代藩主・南部利直のもとに嫁ぐことになり、蒲生家の家宝「大ムカデ退治」に使われた矢を持参しました。ところが、お武の方が亡くなったとき、遺体の下の変色した形が、むかでのはいまわる姿に似ていたことから、「お武の方が持ってきた矢の根石の怨念にちがいない」と人々は驚き恐れました。利直公は、ムカデは水を嫌うことから、石垣でかこまれた墓を建立し、橋を架けましが、何度橋を架けても、むかでが出て壊してしまいました。お武はいつしか、「ムカデ姫」と呼ばれるようになり、墓を「ムカデ姫の墓」と呼ぶようになりました。

 

 

光臺寺

 

 

 

 

 


彫刻のまち盛岡(37)

2021年07月01日 | ぶらりぶらり

盛岡市内にある盛岡彫刻シンポジウム作品のほとんどを載せました。最後に、盛岡中心部から離れた大ケ生地区に多くの作品がありますので、載せていきます。



大ケ生

盛岡から遠野に通じる国道396号から大ケ生方向に向かうと396号線から2.5kmの所に理髪店があるので、その手前を右折して道なりに進んで行くと虫壁地区にたどり着きます。ここには、道路沿いなどに多くの作品が並んでいます。



① 静寂の門  有馬辰樹









② O  高橋典雄









③ 空  王岩(中国)





④ ワガミダユメ  柳田陽一




⑤ 生ー大地   山内正宣

 

 

⑥ 生ーⅢ  山内正宣


 



⑦ 生命の断片 No.7     藤川健



 


⑧ カンケイの形  有馬辰樹



 


⑨ 時の窓  高橋典雄



 


⑩ 褶曲   高橋典雄





 

⑪ 森の鼓動04-04   佐々木悦也
    

 


⑫ 奇跡の森   佐々木悦也
   





 

⑬ 旅日記 小山育



 


⑭ ミエテナイヒト 菅原睦



 


⑮ トルン  斎藤僚



 


⑯ 生命の断片Ⅱ 藤川健



 



⑰ echoes  藁谷収



 


⑱ 巡ってゆく記憶 斎藤かおり



 


⑲ 大地より芽吹くもの 芝田典子






⑳ 時のかけら 中島香緒里




 


21 黒い眠り   菅原睦




 


22 冬のぽつむじ風Ⅱ   菅原睦



 

 

 

 


彫刻のまち盛岡(36)

2021年06月26日 | ぶらりぶらり

盛岡市内にある盛岡彫刻シンポジウム作品を載せています。盛岡彫刻シンポジウムは1975年岩手大学において開催され、街のなかに彫刻を置くことを目的に、テーマを「彫刻のある街と市民文化の推進を願う」と掲げ盛岡市を中心に彫刻を設置してきました。

 

① 起伏のある形   藁谷収   桜台しらかば公園












 




② 大地と空をつなぐもの  盛岡彫刻シンポジウム実行委員会1997(平成9年) 津志田近隣公園
















③ 極     菊池誠      羽場小学校    1983











 

 

 


盛岡まち散歩(11)

2021年06月07日 | ぶらりぶらり

奥州街道を行く

奥州街道は江戸時代の江戸・日本橋を起点とする五つの陸上交通路のひとつで、盛岡を経て青森までの道路です。街道沿いには一里ごとに塚が設置されました。盛岡に入ると、「見前一里塚」です。ここは、日本橋から137番目の一里塚で、ここは、現在の道路では東京からの距離が526kmなので、526÷3.93≒134になり、一里間隔で塚が設けられたことがわかります。見前一里塚の次が、「鍛冶町一里塚」です。今日は次の「上田一里塚」、「小野松一里塚」まで進みます。
 
 
前回は高松の池まできました。今回は高松の池からのスタートです。池から奥州街道に戻り、進んで行くと間もなく、高松神j社があります。
 
 
高松神社
 

高松神社は、藩政時代(江戸時代)から「お庚申さん」として親しまれて来ました。高松神社境内には、二基の「庚申碑」が現存しており、高松神社が「庚申信仰」に由来する古いものである事を示しています。「庚申信仰」は、中国道教に渕源を持ち、「藩政時代(江戸時代)」に入って、広く庶民の間に広まったものです。「修験道」との関連が深く、神仏混淆の信仰であり、神として「猿田彦命」を、仏として「青面金剛」を祀り崇めて来ています。明治時代に入り「神仏分離令」が施行され「お庚申さん」は神格を強調し「高松神社」となりました。高松神社を過ぎると間もなく四ツ家教会-岩手大学前を通る道路に合流します。合流後の広い道を進むと、川徳デパート・アネックスに着きます。ここには、「上田一里塚」があります。

 
 
 
上田一里塚
 
 
川徳アネックス前に上田一里塚があります。この地は以前上田修道院の敷地内であったため、あまり知られてなかったようですが、ほぼ円形に近い姿で残されています。昭和初期までは2基あったようですが、片側の一基は市街化の進展に伴って消滅しています。なお、塚には赤松が立っていましたが2004年の台風16号の強風で倒されたため翌年新しい赤松を植えております。一里塚が市街地の中にある例はまれで、現在は地域のシンボルとして大切にされており、毎年地域の商工団体を中心として「一里塚まつり」が行われています。上田一里塚のすぐそばに松並木があります
 
 
 
 
松並木
 

松並木は上田一里塚近くの歩道沿いにあります。松並木は盛岡市の保存樹木に指定されていましたが、保存樹木制が廃止になり、保存樹木は景観重要樹木に指定され、現在、景観重要樹木の指定は48件あります。この松並木から、北上していくと1.5km程の所に左折の歩道の通路があります。

 
左折の歩道の入口
 

この柵から左折し、歩道を20mほど下ると交差点に出ます。

 

 
左折後の交差点
 
 
この交差点を、まっすぐに進みます(左折すると四十四田ダムがあり、さらに進むと国道4号線に出ます)。まっすぐに坂道を進んで行くと700mほどで 県立博物館前に出ます。なお、この左折の柵から歩道に下りず、真っ直ぐに進むと盛岡で一番大きな松園団地に入ります。
 
 
 
 
県立博物館
 
 
県立博物館は岩手県制百年を記念して、昭和55年にオープンしました。地質時代から現代に至るまでの、地質、考古、歴史、民族、生物などの資料が展示されています。また、博物館の庭には国指定有形文化財「藤野家住宅」(建造物)と「佐々木家住宅」(建造物)が移転保存されています。県立博物館は四十四田ダムから歩いて5分ほどの所にあり、散歩コースになっています。私も以前、散歩の途中に鹿にあい私もびっくりしましたが、鹿もびっくりしたようで、しばし、にらめっこをしていました。私が目を離すと同時に勢いよく逃げ去っていきました。博物館から、さらに、こどもクリニック、青松支援学校を過ぎて進むと小野松一里塚に着きます。
 
 
 
もりおかこどもクリニック
 

「子どもは未来もりおかこどもクリニック」は、昭和32年、虚弱児施設「みちのく・みどり学園」として開園、昭和36年、医療施設「みちのく・みどり学園療育所」開設、昭和44年、「みどり学園小児病院」と改称しました。その後、平成2年に「もりおかこども病院」と改称、さらに、平成31年、入院病棟を閉鎖し、医療施設「子どもは未来もりおかこどもクリニック」に改称、現在に至っています。

 

 
盛岡青松支援学校
 
 
盛岡青松支援学校は平成21年に、青山養護学校と松園養護学校が統合して開校した特別支援学校で、継続して医療や生活規制が必要な児童生徒のための病弱を主とする小学部・中学部・高等部・訪問教育部(医大)・もりおかこども分教室を設置した特別支援学校として開校しました。社会自立や生きる力を育むことを目指し、小学部、中学部、高等部で、課外活動も含め、一般の小学校・中学校・高等学校に準じた教育を行っています。中学部・高等部の卒業生は高等学校・大学・専門学校への進学・一般就職・福祉就労等を目指しています。盛岡青松支援学校前を過ぎ、東松園四丁目北バス停前、修道院への入口道路前を過ぎると、間もなく小野松一里塚が見えてきます。
 
 
 
小野松一里塚
 
 

小野松一里塚は両塚が現存していますが、東塚は半壊していたものを道路の拡幅工事にあわせて盛土復元されたようです。この場所は、個人の敷地内にあり、家の方の話では、写真の西塚には以前「桜」の木が立っていたということでした。なお、奥州街道は盛岡に入ると、「見前一里塚」⇒「川久保一里塚」⇒「鍛冶町一里塚」⇒本町・四つ家町・上田・高松・緑ヶ丘を通り⇒「上田一里塚」⇒「小野松一里塚」⇒「笹平一里塚」⇒「渋民一里塚」⇒「新塚一里塚」と続きます。なお、笹平一里塚はダムに沈没しています。奥州街道を行くは、ここまでにします。

 

 

 


盛岡まち散歩(10)

2021年05月27日 | ぶらりぶらり

 

奥州街道を行く

奥州街道は江戸時代の江戸・日本橋を起点とする五つの陸上交通路のひとつで、盛岡を経て青森までの道路です。
前回は岩手県立中央病院まできました。今回は中央病院からのスタートです。
 
奥州街道は中央病院から上田通りを北進します。北進すると間もなく正覚寺があります。正覚寺は「盛岡三十三観音」の十八番になっています。

 

正覚寺

 

正覚寺の札所本尊は無生観世音です。これは、御仏体の背に刻字された「無生」の銘から名付けられたもので、本堂に安置されています。この御尊像は稗貫郡大迫町の城主「大迫右近」の兜の八幡座に収められていたもので、嘉永3年(1626)に正覚寺に奉納されたといわれています。正覚寺には別に志和稲荷本尊の汗掻き観世音も併置されています。お姿が暑い季節になると汗を掻いている様になるので名付けられたもので、その様子の見事さは絶賛に値するとのこと。      

 御詠歌  「生れずばこの正覚をとらずとの 佛の誓ひたのもしきかな」

 

正覚寺からさらに北進すると、NHK前に地下道がありますので、この地下道をくぐります。

 

 

NHK前地下道

 

この地点は国道4号線、国道46号線(秋田方面)、上田通りの3つの道路が交差しています。奥州街道は、この地下道をくぐり、「高松通り」方面に進みます。進んで行くと、間もなく高松郵便局があり、この前を右折すると、高松の池です。高松の池に立ち寄ります。

 

高松郵便局

 

高松の池

 

高松の池には10月になると白鳥が飛来、冬になると池の9割ほどが凍ります。高松の池は以前は冬になると全面が凍り、冬の国体「スケート」も開かれた時代もありました。池の周りには 1.4㎞ の散歩道もありますので、一周してみてください。

 

池周りの散歩道

 

春には池の周り全面が桜通りになります。また、池から道路を挟み、高松芝水園があります。

 

高松の池の桜

 

高松芝水園の桜

 

池の南側には盛岡市立図書館があります。新聞、雑誌等も置いておりますので、立ち寄りください。

 

盛岡市立図書館

 

今回は、ここまでです。

 

 

岩手県のコロナウイルス感染状況
 
5月26日現在、県内のコロナウイルス感染者は累計1,380人です。この内、入院中は100人、宿泊療養中42人、調整中10人、退院等1185人、死者43人になっています。

 

 

 


彫刻のまち盛岡(35)

2021年05月19日 | ぶらりぶらり

 

盛岡市内にある盛岡彫刻シンポジウム作品を載せています。今回は四十四田公園にある作品です。

 

 

① 寂   渡辺忍    1989   四十四田公園   





 



② 内在する風景  内沢薫  1989 四十四田公園   







 


③ 時の化石  松川善光  1989  四十四田公園





 

④ VENUS-大地   長内努  1992  四十四田公園








⑤ Z型永久エンジン   松川善光  1992  四十四田公園








⑥ モアイ 生きのびた彼ら  佐藤一枝  1992  四十四田公園









 

 

四十四田公園から見た岩手山です。岩手山がダム湖に映ってきれいに見えます。



ダム湖に映る岩手山


 

岩手県のコロナウイルス感染状況
 
5月18日現在、県内のコロナウイルス感染者は累計1,257人です。検査数は66,174人ですので、検査人数の約2%弱が感染者になっています。なお、感染者は、盛岡市460人、奥州市147人、滝沢市95人、雫石町83人、一関市77人、宮古市70人、花巻市53人、他の市・町・村は50人未満です。、二戸市など感染者が出ていないところは8市・町・村あります。
 
 
 
 
 
 

盛岡まち散歩(9)

2021年05月12日 | ぶらりぶらり

奥州街道を行く

奥州街道は江戸時代の江戸・日本橋を起点とする五つの陸上交通路のひとつで、盛岡を経て青森までの道路です。
前回は鍛冶町一里塚まで来ました。鍛冶町一里塚を過ぎると T 字路になり、ここを左折し「上の橋」を渡り本町通りをまっすぐに進みます。

 

 

 鍛冶町一里塚
 
 
 


 上の橋
 
 
「本町通」は旧町名では「本町」それに続いて「八日町」、「四ツ家町」でした。本町は毎月28日、八日町は8日が市日であったことに由来します。八日町の北の「四ツ家町」は、上田への出口,赤川橋の手前に、外堀にかかる四ツ家御門があり、盛岡城下を通る奥州街道の北の玄関口に当たっていました。また、この付近には,北に入る袋丁があり、谷小路という侍町がありました。四ツ家町の由来は,町割に際し4軒の家を初めに建てたことによるといわれています。また、四ツ家御門に至る通りを大四ツ家ともいわれていました。ここ四ツ家町に教会が立っています。
 
 
 
 旧町名
 
 
 
 四ツ家教会
 
 
四ツ家教会は明治13年に建てられており、四ツ家は当時の町名でした。四ツ家教会前の十字路は、以前はT字路でしたが、昭和45 年の岩手国体を機に十字路になり、まっすぐに進むと岩手大学正門前を通り国道4号を横切り、再び奥州街道に合流します」。さて、奥州街道は教会前の十字路を右折、次の信号を左折して上田街道に進みます。四ツ家の地蔵尊に着きます。
 
 
 
 田中の地蔵さん
 
 
 
「田中の地蔵さん」の名で親しまれている四ツ家の地蔵尊は,5代藩主南部行信の母堂の遺骸を荼毘(だび)に付した火屋(ほや)の跡に建てられたもので,以前は東禅寺(盛岡市名須川町)門前の田圃の中にありました。現在地に遷座されたのは、大正元年(1912)年で、四ツ家の地蔵尊と呼ばれるようになりました。
ここは四ツ家惣門跡で、旧奥州街道の北の玄関口で、門の脇には番所が、門の外には堀(赤川堰)が巡らされていました。
 
ここから、山田線の線路を横切ると、県立中央病院に着きます。
 
 
 岩手県立中央病院
 
 
 
県立中央病院は、以前は「上の橋」のふもとにありましたが、県民の医療ニーズに対応し、最新で高度な医療を提供すること等を基本方針として昭和61年に移転新築工事に着工 昭和 61 年 10 月 新病院竣工、昭和 62 年3 月に 新病院として全面業務開始となりました。
 
病院前の道路は整備され、片側2車線に整備され、病院を出て、左折すると国道四号線があり、右折して真っすぐに進み山田線を渡って進むと夕顔瀬橋があり、さらに進むと太田橋へとつながっています。
 
 
 
 
岩手県のコロナウイルス感染状況
 
県内の5月11日現在のコロナウイルス感染者は累計1122人です。このうち、入院中は127人、宿泊療養中は44人、入院等調整中は28人、退院・療養解除は887人、死者は36人です。
 
 
 
盛岡市の65歳以上のワクチン接種スケジュールがきまりました。接種開始日は5月31日からです。
 
5月31日  90歳以上     7100人
6月 7日  85歳~89歳   9700人
6月14日  80歳~84歳  12400人
7月12日  75歳~79歳  14700人
7月19日  70歳~74歳  21100人
7月26日  65歳~69歳  18800人
      計         83800人
 
 
盛岡市の65歳以上の人口は盛岡市の総人口 が289,399人(4月1日現在)ですので、約 3 割程度になります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

彫刻のまち盛岡(34)

2021年05月09日 | ぶらりぶらり

 

盛岡市内にある盛岡彫刻シンポジウム作品を載せています。今回は松園中央公園にある作品です。

 

① テーブルとベンチ  1981  前川直  松園中央公園











② プレースカルプチャー  1981  高橋典雄 松園中央公園









 

③ 波の柱  1981  藁谷収ほか  松園中央公園







 


④ 風邪のトルソ   1982  長内努   松園中央公園









 


⑤ KUNISAKI-MORIOKA  1982 佐々木悦也・菊池誠・加納好美 松園中央公園







 

 

⑥ 頂   高橋典雄   松園中央公園




 



岩手県のコロナウイルス感染状況
 
県内の5月8日現在のコロナウイルス感染者は累計1076人です。このうち、入院中は134人、宿泊療養中は54人、入院等調整中は26人、退院・療養解除は828人、死者は34人です。5月に入って感染者が増えだしてきました。
 
 
 

上坊牧野の一本桜

2021年05月05日 | ぶらりぶらり

連休の最終日、盛岡は曇りでしたが、岩手山は晴れいましたので、八幡平の上坊牧野の一本桜を見てきました。例年ですと多くの人が撮影にいますが、今日は誰一人といなく、寂しく思われました。

 

上坊牧野の一本桜(令和3年5月5日)

上坊牧野の一本桜(令和3年5月5日)

 

上坊牧野の一本桜(令和3年5月5日)

 

八幡平側から見た岩手山の残雪は盛岡側から見た岩手山とは大分違います。

 

盛岡側から見た岩手山(令和3年5月5日)

 

 

 

 

 

 

 


盛岡まち散歩(8)

2021年05月02日 | ぶらりぶらり

 

奥州街道

奥州街道は江戸時代の江戸・日本橋を起点とする五つの陸上交通路のひとつで、盛岡を経て青森までの道路です。
前回は盛岡市景観重要建造物になっている紺屋町番屋まで来ました。今回は番屋を出発です。番屋を発つと間もなく菊の司酒造店です。
 
 
 
菊の司酒造店
 

「菊の司酒造」は安永年間(1772)に酒造業を始め、大正末期に現在地に移転、昭和43年に菊の司酒造株式会社に社名を変更しております。その後、昭和50年に「七福神」を醸造する箱庄酒造店(現花巻市石鳥谷町)と合併し現在に至っています。蔵出しのお酒「菊の司」「七福神」の仕込み水は蔵の真裏を流れる中津川の伏流水を使用しています。中津川は盛岡市内を流れる清流で、夏は鮎釣り、秋には鮭が産卵のために遡上し、冬には白鳥が飛来する自然あふれる市民の癒しの川です。水質は岩手山系の岩盤から染み出たミネラル分が適度に含まれており大変に清澄で、最低限のごみ取り濾過のみを施し、全ての作業に使用しております。この水こそが私どもの酒の命、とのことです。

 

菊の司酒造店の前に旧町名の案内板が立っています。ここは、現在、紺屋町ですが、以前はこの辺は、紺屋町、鍛冶町、紙町と言われていました。





紺屋町は,中津川を利用した紺屋(染物屋)が集まっていたことに由来します。南部紫(むらさき)や南部茜(あかね)によって染められた布地は,盛岡藩の特産物でした。現在も染物屋がありますし、上の橋のたもとには紙店も存在します。




南部紫染本舗(草紫堂)
 



「上の橋」のたもとの「ささき千代紙店」
 
 
 
菊の司を過ぎると、鍛冶町一里塚です。鍛冶町一里塚は奥州街道139番目の一里塚です。
 



  鍛冶町一里塚跡

 


 
城下町鍛冶町は奥州道中筋の宿駅でした。鍛冶町は現在の紺屋町の一角で、刀、鉄砲、農具などを造る鍛冶職人が住んでいた町です。鍛冶町は南部藩における街道の元標であり、ここを起点に脇街道にも一里塚が設置されました。まさに南部藩の交通網の中心であったこの地には藩政時代は駅所もあり、伝馬を使って情報が得られたため明治時代に入っても盛岡駅と呼ばれていたようです。ここはまた、交通の要所として豪商や老舗が軒を連ねていたようです。さて、鍛冶町一里塚前を過ぎると丁字路があり、旧井弥商店があります。ここを右折すると天満宮方面に行きますのだ、ここを左折し「上の橋」を渡ってまっすぐに進みます。

 

  旧井弥商店
 

旧井弥商店は明治末期に造られた町屋建築です。土蔵2階建て、寄棟、瓦葺き屋根です。当主の村井弥兵衛は呉服屋を開業し、盛岡を代表とする豪商となり、醤油業などにも手を広げます。正面の店蔵は何度か改修されたようですが、黒漆喰や大きく反りあがった玄関庇、腰壁の人造石研出しなど格式を感じ、背後には呉服屋の跡である土蔵が軒を連ね当時の繁栄を窺うことが出来ます。土蔵は江戸時代に建てられたもので、土造2階建、切妻、桟瓦葺、外壁は白漆喰仕上げです。旧井弥商店(現・盛岡正食普及会)の店舗と蔵は明治時代末期の町屋建築の遺構として貴重な事から盛岡市の景観重要建造物に指定されています。さて、この丁字路を左折し、「上の橋」を渡ります。

 



 上の橋


上の橋は、慶長14年(1609)に第27代藩主南部利直(なんぶとしなお)が、 盛岡城築城時に中津川に架けました。橋に取り付けられた擬宝珠(ぎぼうしゅ・ぎぼし)は、慶長14年のものが8個、慶長16年のものが10個、合計18個が取り付けられています。橋の擬宝珠で記念銘があり、制作年代も古く、残存個数が多いという点で、盛岡市の青銅擬宝珠は国内でもまれな存在のようす。現在の橋は、何回かの流失を繰り返し、昭和になってかけかえられたものです。
 
旧井弥商店前の丁字路を右折し、高台にある天満宮から「上の橋」方面を見るとまっすぐな道路が見られます。



天満宮から見た「上の橋」方面


天満宮から見えるこの道路をまっすぐに進むと、本町へ続き、次の上田一里塚へと進みます。
 
 
 
 
岩手県のコロナウイルス感染状況
 
県内の5月1日現在のコロナウイルス感染者は累計948人です。このうち、入院中は92人、宿泊療養中は29人、入院等調整中は32人、退院・療養解除は
764人、死者は31人です。