田舎生活実践屋

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私の父が22歳の時の、台湾への出兵記 1/3 (2020/11/30)

2020-11-30 22:44:52 | 戦前・戦中の日々
コロナのため、「ステイ ホーム」、どこの国でも自宅で過ごすことが増え、アメリカでは、日章旗の日本の遺族への返還数が、今年になって、130枚と急増したとのニュースが2か月程前に。
 アメリカでは自宅の倉庫を整理する人が急増し、既になくなった父親が太平洋戦線で、戦死した日本兵が持っていたものを持ち帰り、そのままになっているのを、その子供たちが見つけて、NPO経由で、日本の遺族に返還してくれたもの。
 数年前の熊本地震をきっかけに、地震に備えて、二階にあるもう読まない不要の本を大量に処分したことがある。
 今回のコロナで、飲み会なし、旅行ダメで家にゴロゴロしているだけでは、能が無いと、また二階の本の整理。
 埃だらけの本箱に、私が高校生活を送った今治西高校で日本史を教えていた、竹本千万吉先生が早期退職したあと、「ひうち」という同人雑誌を発行していて、全11冊が見つかる。
 立派な学識のある、釣りも上手な先生で、捨てるのは、申し訳ないと思うも、また読むかしらん?とページをパラパラ。
 すると、13年前に、85歳で亡くなった父が、22才当時、昭和19年末から20年にかけて、日本から台湾に出兵した時の、体験記が、3回に分けて、掲載されているのが目に。(冒頭)
 一度読んだことがあり、面白いと思った記憶。
 私の父が63歳の時、40年前の記憶をたどりながら描いた思い出話。
 この「ひうち」を愛読し、投稿した方達は、若い方で、既に70歳を超え、大半の方は既に亡くなっているとおもわれる。
 父の22歳の時の、思い出話は、貴重な戦時の無名の兵士が目にした体験記であり、私がこのまま、「ひうち」を廃棄してしまうと、記録がこの世から消え失せてしまう。
 また、今「ひうち」を廃棄せず2階の本箱に置き続けても、私も既に71歳で、私が死んだあとは、子供たちは、捨てるしかない。
 どうせ今は私は、年金オヤジで暇、それに加えてコロナで益々暇なので、この父の書いた記録をブログに残しておくことにしました。
 以下は、その第一回の掲載で、あわせて、3回に分けて掲載されている。
 こうしておくと、私の子供か孫の物好きが、読むかもしれず、歴史を身近に感じてくれるかも。
 社会を生きる知恵やら、危機に直面した時の生き延び方を、多少は知ることが出来る。
私が、この体験記で面白かった個所は、外地出征が決まり、父が教育した新兵を自分が連れていくと知り、人選の責任者が出来の悪い新兵から父の配下につけようとしていると、読んで、出し抜いた個所。

 初年兵の成績序列表を作成意見具申をつけ、中隊長に提出した11月20?日夕中隊長の宿舎に呼ばれた。お前にどこか勤務の希望はあるかといきなり聞かれた。変な質問だがすぐ来たなと思った。どこであっても奉公の気持ちに変わりはありませんと答えた。よし解った。実は連隊本部の意向なのだがという次第であっさり私の外地行きはきまった。このあと人事掛准尉から今回の編成には私の教えた初年兵が当てられると聞いた。そこで私は中隊長に提出していた序列表を書き忘れがあると返して貰った。当時部隊編成要員は中隊の序列の下位から出される不問律があった。私は序列の上下を逆転させた。私の選んだ優秀兵が出されると予想した。命令は予想通りであった。私は快哉を叫んだ。南方行きの船に乗った時兵にはすまないことをしたと後悔した。終戦復員で一人も欠けずに大竹港に着いた時本当に心底からヤレヤレと肩の荷をおろした。




↓ ひうち第五号(昭和59年3月1日発行)掲載の、私の父、竹田光雄 の「こどもたちへ(第一回)」 とても長い。

こどもたちへ(第一回)  おやじの22才

 第一章 さらば祖国よ  南方派遣軍に転属

 昭和19年夏8月15日、私は陸軍機甲整備学校を繰り上げ卒業した。私は22才であった。復帰した原隊は中部軍第73部隊第四中隊通称山岡部隊安田隊である。千葉陸軍防空学校に入校した私の同年兵6名は6月に繰り上げ卒業、うち5名は出征していた。繰り上げ卒業は戦局の急迫によるものであった。要地神戸防空隊として山岡部隊の砲隊は明石、刈藻島、和田岬、大倉山、都賀川、摩耶山371高地に展開。部隊本部は湊川公園にあった山岡部隊長は兄のお蔭で部隊長になれたと噂されていた。兄重厚は皇道派将校として中央で活躍した俊秀と聞いた。
 安田隊はこの時、大倉喜八郎ゆかりの広大な大倉山公園に和田岬から移動布陣していた。当時の神戸市民が大倉山要塞と呼ぶ程この陣地は他陣地に比べ大規模であった。この陣地は二分されて東半分は広場のまま残され中隊の一般歩兵教練に使われた。西半分が主力陣地で中央に高さ5米のベトンで固められた頑丈な戦闘指揮所を中心にして、その東側に10糎高射砲6門は半径50米の扇形に配置され各砲一門宛大トーチカを思わせるベトンで固められた円形掩体の中に据えられていた。10高はドイツから送られた設計図に基づき作られた最新式で内地装備高射砲1800門のうちまだ数えるほどしかなかった。最大有効射撃も従来の7高の8倍といわれた。当時では珍しく砲は射撃三元電動算定機と連動されていた。目標の高度、航速、航路角の三元が与えられると自動的に算定修正されて、連動している各砲のメーターの指針の示す目盛りに砲側装備の各指針を合わせれば砲は自由自在に、迅速正確に、軽々と360度旋回し、90度の仰角がとれ各砲手は間接照準で射撃が出来た。B29撃墜用の新兵器である。因みに明石陣地の10高は手動で重く疲れた。ただ戦局の急迫により日本人向けに改良する時間がなくすべての寸法が日本人体格には一寸大きすぎた。
 20年春3月16日の神戸大空襲に活躍したのは此の安田隊であった。台湾新聞でB29を20機撃墜被害は軽微と報じられているのを見て私は安田隊は日本一だと自慢した。終戦後この日の死者は2598人を数えたことを知った。なんとも言うべき言葉かなかった。
 やがて19年も晩秋の11月、戦局の行方は知る由もなく私は一技一戦闘を目的とした観測初年兵教育に専念していた。砲兵初年兵が羨ましがる程のんびり見える教育であった。私は優秀なる助教に恵まれた。私の初年兵時代の班長西迫軍曹は嫌な顔一つせず、私を助けてくれた。この酒の強い薩摩男児は生涯忘れえぬ人の一人である。そして連隊の初年兵一期の検閲を隊長が意外な顔をした程の好成績で終わった。
 この教育中助教の一人藤林軍曹から或る小休止中に聞いた話は一寸私を驚かせた。加古川の屯営で18年入営の私たち現役への中に危険注意人物が一人いて不寝番に必ず申し送りをしていたと言う。誰だと聞いたら「氏名は忘れた。ただ寝台の場所が練兵場側で内務班の一番端の廊下がであった」と言う。私である。私は黙っていた。何故だと理由を聞いたが、ただ申し送りであったと言う。話はそれで終わった。私は首をひねるだけであった。思い当たるとすれば、明治36年八紘一宇の言葉を初めて造った田中智学の長男澤二が日本改造具体案を掲げて活動した立憲養正会に畏友松山中出身の神野進と交際中に共鳴して15
、16年にシンパとなり、昭和17年東條内閣の政治結社禁止により解散させられたあとも有志とともに非合法活動を支援して、特高の目を避け、梅津寺温泉二階大広間で数日政治講習会に参加したくらいのもので、危険注意人物などと名指しされる程のものではない。ほかに何か理由があったのだろうか。私にはその理由はいまだに分からない。当時神野が今の日本を滅ぼすものがありとすれば、それは共産国だと言った言葉は忘れられない。私は日本の敵はABCDだと思っていた。因みに田中智学は新田義貞の子孫をもって任じ石原莞爾中将の世界最終戦争論に大きな影響を及ぼした人物である。
 初年兵の成績序列表を作成意見具申をつけ、中隊長に提出した11月20?日夕中隊長の宿舎に呼ばれた。お前にどこか勤務の希望はあるかといきなり聞かれた。変な質問だがすぐ来たなと思った。どこであっても奉公の気持ちに変わりはありませんと答えた。よし解った。実は連隊本部の意向なのだがという次第であっさり私の外地行きはきまった。このあと人事掛准尉から今回の編成には私の教えた初年兵が当てられると聞いた。そこで私は中隊長に提出していた序列表を書き忘れがあると返して貰った。当時部隊編成要員は中隊の序列の下位から出される不問律があった。私は序列の上下を逆転させた。私の選んだ優秀兵が出されると予想した。命令は予想通りであった。私は快哉を叫んだ。南方行きの船に乗った時兵にはすまないことをしたと後悔した。終戦復員で一人も欠けずに大竹港に着いた時本当に心底からヤレヤレと肩の荷をおろした。
 正式の転属命令を待っていた11月23日?連隊将校会同で安田隊長以下幹部一同連隊本部に行き私一人中隊留守として残る。この日午前10時頃突如として警戒警報なしのいきなり空襲警報発令。17年4月のドウリットル空襲以来神戸に初めての警報であった。陣地内の警報機が一際高く鳴り響いた。演習ではない。本番だ。各兵舎から一斉に下士官兵が陣地砲座に向かって走る。私は戦斗指揮所に駆け登った。その下を走る兵が6門の砲座掩体吸い込まれるように消えていった。指揮小隊当直通信兵から岸和田上空に敵機。飛行方向不明。と報告第一報を受ける。よし。岸和田なら神戸の対岸だ。機数不明と続いて報告が来た。よし了解。戦斗準備。急げ。私は思い切り叫んだ。観測よし。班長松田伍長が私に向かって叫んだ。第一分隊よし。第六分隊まで次々と分隊長の大声が返ってくる。砲隊先任上杉見習士官は休暇でいなかった。
 号令。敵機岸和田上空。目標方向2000。ベトンで固めた小山のような掩体からドイツ式最新十高六門の太い砲身が高低角30度に一斉にあがり砲口は今や火を吹かんと東の空をにらんだ。迅速正確。戦斗精神旺盛。まことに見事であった。安田隊戦斗準備完了を連隊指揮所に報告。この時まだ神戸市一帯に空襲警報のサイレンは鳴り響いていた。戦斗指揮所から眺められる街のざわめき、工場群の騒音が潮の引くようにピタリと消えていった。目前の楠町の電車通り、神戸駅に通じる湊川神社を通る広い道路から人影が一瞬にして消えた。晴れて明るい初冬の火の光にてらされてアスファルトの黒い色が水を打った後のようにやけに光って見えた。眼下の海岸部の川崎重工の大きな赤い大鉄橋を思わせる門型ガントリークレーンもとまった。神戸中が静まり返った。遠く聞こえていた工業地帯の音も動きも消えた。シーンと耳がなる程静かだ。後ろの六甲山系の黄葉と松の緑が鮮やかだった。大倉山陣地にピーンと緊張の糸が張られた。砲座もシーンとしている。すぐ側の観測班の二メートル測高機長中村班長が戦闘帽を後ろにかぶって東の空をにらんでいる。対空戦闘は彼から始まるはずだ。砲手は何を考えているだろう? 20瓩(キログラム)の弾体は信管測合機に、拉縄手は分隊長の「込め」に耳をすましているだろう。敵機情報はプッリと切れた。
何故厳重な監視網を抜けていきなり岸和田上空に敵機 が侵入出来たのか?疑念がかすめた。通信班長が友軍 機情報を伝えた。宇治山田上空一機。京都上空隼一機。 琵琶湖上空隼一機。伊丹上空九五練習機一機。宇治山田上空は新司偵。近畿全域でたった四機である。指撺小隊が一寸ざわめいたがすぐ静まった。空軍力が余りにも少かったからである。十八年七月であったか神戸上空を連日二十機三十機と西に飛ぶのを見た。支那大陸や東南アジア方面に近く大作戦が展開されると噂が飛んだがその後プッリと途切れた。
中隊長からは何の連絡もなかった。岸和田方向に目を凝らしたが何も見えなかった。爆音もなかった。
私は観測兵である。砲手教育は幹候隊の反対教育約四ケ月だけである。そして志願して陸軍機甲整備学校に入った為実弾射擊の経験はない。どっちみち此の中隊の指揮は私に委ねられている。私がやらねばならないのだ。
私は中隊の鍛え抜かれた戦力を信頼した。私は軍刀を突立てて自信たっぷりに射繫のべテランの様な顔をして報告を受け命令していた。老練の中隊長の代りが若僧の見習士官だ。兵に動揺があるかと陣地全体を注意して見たがその気配はなかった。初陣の全中隊の神経 は岸和田上空に向けられていた。今本部でポカンとして何もせずにいる隊長や隊付将校の姿を想うとおかしかった。あと僅かで外地に放り出される一見習士官の手の内に安田隊はおかれている。彼等の地団太ふんでいる姿を私は想像した。依然として情報入らず。ニ乙、 丙種の内地兵、初めて徴兵された朝鮮出身の屈強な初年兵は兵舎防火班と弾薬運搬班に区分した。
そして一時間がすぎた。誤報だと連絡が入った。緊張がとけ力が体中から抜けた。一瞬ポカンとなった。 空襲警報解除。解散を命じる。兵隊の顔に笑がこぼれた。そして安心だか、誤報への嘲笑だったのか、訳の解らない喚聲が陣地をゆるがした。私はゆっくりと指揮所から降りた。日の光はやわらかく風はなかった。 おだやかな小春日和の日であった。
午後になって本部から帰隊した安田隊長に異常なしと簡単に報告した。長身の中隊長は日焼けした顔に白い歯を少しのぞかせてフフンと言って私を見下すようにして小さく笑った。私もそこでニヤリと笑った。ど素人が最新兵器を使いこなせる訳がなかったからであ る。そばにいた隊付将校三人が誤報でよかったなと高笑いした。正解である。
私は安田中隊のことをもう少し語りたい。安田中尉を初めとして隊付将校三名。見習士官ニ名。準士官一 名。下士官十二名で、その殆どが幹候出身者であったように思う。陸士出はいなかった。一應社会人の故か 軍規でこちこちに固った空気はなかった。加古川の屯営では殆んど毎日の様に志願の十八才位の若い伍長や病院下番の万年一等兵に私的制裁ともいえる体罰を受 けていた。上靴や帯革でなぐられた。せみなき、自転車こぎ、金魚泳ぎ、正座、腕立て伏せ等があった。今となっては各人各様の深い思い出となっているであろう。 神戸へ展開してからはこういうことは殆んどなかった。けれども百年兵を養うは此の一戦にありと猛烈な訓練がこれに取ってかわった。日本にはなかった四発B29 の如きは成層圏で偏西風に乗った時は秒速二百米を越えた。旧式の航速測定機に二百米の目盛はなかった。 対空戦斗は一瞬で終る。敏速正確を求められる所以である。撃墜かやられるか、それは一瞬である。その一瞬の戦斗の為に安田隊は私の知る限り十七年神戸和田岬の狭い突堤の上の八八式七高三門を据えた陣地から此の大倉山に十高六門を据えた今日迄毎日吹き荒れる 寒風に身をさらし、酷熱の太陽に身をこがし、黙々と 実戦さながらの訓練を積んでいたのである。百年兵を 養うのは何の為だ。此の大東亜戦争に私達は何を守るのだ。天皇の為にか。家族か。土地か。財産か。はた また国か?理屈は抜きにして私達の任務は防空である。 敵機撃墜こそが安田隊の任務である。後日私の経験で 一戰斗五分を越えたことは一回しかなかつた。それ程 短くて激しい戰斗を要求されていた。そうした訓練の続く或一日であった。安田中隊長が夕食の途中憤然として私達に日本有数の財閥住友本社総理事小倉正恒が 安田隊の一召集兵士の召集解除を申し入れて来たと話した。山岡部隊長の所へ手紙を送って来たという。解除要請の理由はその財閥系列会社の中に於て重要職務にある彼がいなければ会社の業務に支障を来たし軍需に重大な支障を来すとの主旨である。この兵はまだニ 十才代である。大学を出たばかりである。こんな馬鹿な話があるか。こんな若者が天下の財閥にそんなに重要なのかと隊長は皆に聞いた。そんなに人材はないのか、隊長はその兵の器量を見て判断した。彼を知る隊付将校も隊長にそんな馬鹿な話があるか。財閥に負けるな。財閥の圧力に負けるなと言った。私が四年間在職している住友機械の組立仕上工場の作業進行係、山本某が召集から十日後に召集を解除された。実際に此の人がいなければ工場の作業がうまく進行しなかった為会社から解除を要請した事実は知っていた。しかし 此の件に関しては隊長に同感した。此の話は隊長から二度と聞かなかったが間もなくあった南方派遣要員の編成の時安田隊から出された。兵の氏名は私の記憶にない。この人の運命は自分の与り知らない人々の手によって動かされた。この人はこうした事情を知っていたであろうか。無事生還したであろうか。安田中尉のこれが小倉正恒に対する回答であった。
十一月の末〜十二月始にかけて帰郷休暇を与えられた。十八年七月始めて帰郷した時は、一期の検閲後の休暇で帰ると必ず外地征きだと例になっていた上にその直前に中隊命令で髪と爪を半紙に包んで送っていたので愈出征と思い込んだ人々が駅迄送ってくれた。そうではなかったのだが軍機上だまっておれと命令をされていたので何も言わなかった。心苦しかった。あの時持ち帰った米入り大豆を軍人さんはこんなものを食ベていると町内に回覧された。地方はまだ米だけを食ベていた。和田岬陣地の厠は海の上に突き出されていた。用を足すと未消化の大豆がそのままの形で海の上をプカリプカリと浮いていた。それでも私達初年兵は宿舎の側で建造中の三隻の潜水艦の鋲打ちの騒音を利用して炊事室にしのび込んで一晚水に漬けてある大豆を夜中に盗み出して寝床で一粒一粒その大豆をかみし めた。今度は親にも出征を伝えた。日吉校に恩師村瀬晃夫先生を訪ねた。先生は担任の生徒に私を紹介した。子供達は私の軍刀にふれたがった。私は抜いて見せてやった。
おやじは将校になるとは思はなかったと言ったが軍刀仕立の脇差しを一振り呉れた。帰隊の時、町内や親族 の人も来てくれ前回よりも沢山の人が今治駅迄見送ってくれた。結局私は三回送って貰ったことになった。私は感謝の辞を述べ大東亜戦争の完遂に努力捨石になりますと挨拶。郷土を離れた。
 十二月五日、六日と大阪駅北口の大阪停車場司会部で乗車区分の確認に赴くも何も彼も不明であった。停司には私達の乗る列車編成表がなく逆に司令部員に貴様ねぼけてるんだろうと怒鳴られた。七日部隊本部で編成部隊出発駅と出発時刻を確認。午後停司にて隊長 となる照空隊小川少尉と会ぅ時間を連絡して行くも予定時間に少尉現われず、夕方迄待ちくたびれる。司令部員の應待誠に悪し。夜になって漸く少尉来る。神戸に帰隊した時は二十一時を過ぎていた。安田隊長を始めとする幹部は待ちくたびれて本人抜きの壮行会を呑 めや歌えと盛大にやっていた。隊長以下誠に御機嫌であった。私が帰って来た時中隊長の音頭で乾杯。食うものは私を除いて殆んどなかった。形だけの謝辞を述ベてすぐ閉会にして貰った。予定の時間に大巾に遅れたので仕方がなかったが小川少尉にも中隊幹部に対しても此の日はむかむかしていた。
十二月八日。大東亜戦争開始の日である。あの十六年は早朝から終業迄会社中の五千人が仕事も放り出して繰り返される大本営発表の度にみんな躍り上って唤声をあげた。仕事をせよとは重役以下誰も言わなかつた。会社中のラジオのボリユームは最大にあげられた。 あれからまる三年たった。
中隊の各掛から武器、装具、被服を受け取る。転属書類も受取った。九四式挙銃のばかでかくて重いのが 1番邪魔であった。銃弾も紙箱入りのままだったのですぐ十発は装てんした。炊事の玉置軍曹がこっそり一梱包ほまれを餞別にくれたのが印象に残った。夕方「陸軍兵科見習士官某以下何名本日を以て南方総軍司令部転属を命ぜられました」と中隊長及び隊付将校に申告をすませた。
中隊全員整列した見送りの中を衛兵の捧げ銃の部隊敬札を受け大倉山公園入口の坂を下り神戸駅に向ぅ。松本少尉以下手紙をくれと言われたがハィと返事をしたものの夕の事でむかむかしていたので無論放たらかした。山岡部隊の各中隊から数人あて集まって来た。引率者から報告を受け兵員数を確認。私は官姓名を名乗って部隊として掌握した。軍装点検。行軍乗車の注意を与えた。各中隊長、本部将校の一部が見送りに来ていた。本部の安藤中尉(十八年幹候選抜員長)が来ていた。此の人には思出がある。甲乙幹分離試験の最終の安藤中尉の質問に答える者がいなかった。中尉の顔に皮肉な笑がうかんだ。と私は思った。皆若し間違えたらと躊躇したからである。黙っているのもしゃくなので全部私が答えた。候補生の最後列に私はいたので思い切り大声を張り上げた。正否は別だ。オイッ。そこの候補誰だ。私が答えるとウンと大きくうなずいた。 今晩は終始ニコニコしていた。
私が安田中隊長に挨拶しますと申入れたら「オイ、 オイ」とあわてて手を振られた。他の中隊畏を差おいて自分だけにされると感違いしたようだ。他の中隊長は知らなかったので安田中尉に申入れたのだ。見送りの各将校一同に対して私が唯有難う御座居ましたと御 挨拶申上げますと皆に言って貰いたかったのである。 そこで私は彼等将校連中には挨拶はやめにしてサッサ と、たった今掌握した兵達を指揮して、改札口に予定より早く入った。
大阪駅東口で小川淸少尉の指揮下に入った。東口通路は南北に兵で埋った。相当な兵員数である。深夜の二十四時に大阪駅発車。見送人一人も無し。明るい人影のないプラットフオームは妙に白々しくわびしかつた。ゴトンと動き出した汽車はすぐ闇の中に入った。
一車両定員八十八名の席は楽であった。すぐ眠り込んだ。どこで夜が明けたのか今は覚えがない。一日車中で何をしていたのだろぅ。衛生検査が実施された亊位しか思出せない。下関の手前で徳山か宇部であったろうか。瀬戸内の静かな海に落ちる真赤な大きな太陽は美しかった。落日に照らされた人の顔も何も彼もが朱色に輝いた。皆聲もなく車窓に顔を寄せた。新設されたばかりの関門トンネルを軍用列車は一気に通過。九州に入った。
八幡製鉄の延々と続く大きさにびっくりし博多の町に元寇の昔を偲び真夜中に着いた駅が大牟田であった。
駅前広場で大牟田の各町内会長が大勢迎えてくれた。
民宿とは本当に意外であった。小川隊は駅から南の方の町に泊った。兵隊の区分が終って小川隊長、私と当番兵杉本一等兵は町会長さんの家に案内された。御主人夫婦は温厚な方で米問屋との事である。夜は遅かったにも拘らず一家をあげて歓待してくれ恐縮した。暖い食事と赤々と炭火の入った火鉢。物資不足の時節に此の家の人々の親切が心に沁みた。
 十二月九日。此の町内会長さんは小川隊の為に此の月配給された砂糖、小豆を町内をあげて提供。ぜんざいを作ってくれた。町の人々にとっては一ヶ月分である。大変なことである。当時にあっては貴重品中の貴重品である。十七年新居浜で私が受けた砂糖の配給量は一ヶ月分が甘党の私には口に放り込んだらそれで終であった。町の人々が此の貴重な砂糖と小豆を全部はたいてぜんざいを作ってくれた真心は有難かった。またこんなに美味いと思ったことはない。私が軍隊に入ってこれは二度目であった。最初は那須の金丸ヶ原演習場であった。量はドンブリにニ杯分位も当ったがこれが幹候生かと思える程がつがつしていた。まるで餓鬼であった。
船団が大牟田から出るのはこれで二度目だときいた。 前回の船団は出航後間もなく東支那海で敵潜の雷擊を受け海没して殆んど全滅だったそうである。大牟田市民が何時、何処で此の情報を得たか不明である。単なる噂か流言であったかも知れない。私はくわしくはき かなかった。私達も海没すると思われたのか町内会長さんの老母は私達を見た時、こたつの中で可愛想にと涙ぐんでいた。
こうした老母と同じ気持ちがこうした形で私達に向けられたのであろう。町の人々は私達が海底に沈んで行く者と確信さえしているように思えた。片道キップしかないと思われた私達に対する精一杯の気持ちを表したのだろう。それにしても兵の一部に戦斗帽をアミ ダにかぶり、下駄ばきで軍袴の物入れに両手を突込んで背をまるめてのし歩く者がいた。教育召集兵であった。俺は軍人だぞ、お前等とは違うんだぞと顕示しているとしか思えない。私は大変不愉快であった。この軍を笠にきたとしか思い様のないわがままや不作法に目をつぶって兵隊さん、兵隊さんと労ってくれている人情が、つい一週間前迄町の人々と同じ地方人であった俄兵逹には通じないのかと情なかった。しかし私の 心の中にも出発すれば何が起るか解らぬ地獄絵図の死地に入るのだから大目にしておけという気持ちも強く、 口頭で一言町内の親切に甘え過ぎるなと注意した丈であった。小川少尉から指示命令は何も出なかった。隊長は連日各隊との連絡会議に忙しく留守勝であった。 会議の模様は殆んど語らなかった。小部隊の悲哀をかこっていたようである。
私は十九年夏越中島に於ける海洋訓練の成果を生かすべく独断で杉本一等兵を連れて大牟田の街々の店からロープ綱、麻縄、小刀、懐中電灯その他海没を予想して必要な品々を買い集めた。鉄道運賃が三等一分乗って一銭の時代である。星一ツの二等兵が十日給ニ円五十銭であった。歩兵操典や作戦要務令、砲兵操典、内務書、陸軍礼式令等の教範類に当てるだけで精一杯で 酒保のまんじゅう代も出なかった。民間に於ける私の月給は六十八円。手当七円、半期賞与百円であった。冬背広三揃純毛が九八円(注文服)であった。見習士官の給料は四十円で使う隙がなくあれこれで二百円程持っていた。しかし小刀の肥後守にしても一店に三個となかった。物資の欠乏振りがうかがえた。買い集めを中止したかった。こちらも命がかかっているのでやめられなかった。町の店の人も兵隊さんの為だからと奥にしまい込んである品物も心よく出してくれ、値段も勉強してくれた。無い時は一緒になって同業者の店に案内をして調逹してくれた。町の中に小山の様な所があってトンネルの様になつていたと思うがそこを何度も行ったり来たりした。こうして小川隊全員に当る位の員数は揃った。ただもう有難いの一語につきた。 又是等が全くの無駄物になる事も祈った。
十二月十二日。近くの国民学校に兵を集合させて集めた小道具を手渡し海没の注意を与えた。一人一人の顔を見乍らゆっくり話した。
一。轟沈の時は出来る丈早く水面に顔を出せ。
ニ。沈没寸前海に飛び込んだ時は現場から出来るだけ離れろ。沈没の渦を離れろ。
三。浮遊物は集めろ。筏を作れ。すがれ。
四。一人になるな。集団を作れ。泳ぐな。
五。軍服を脱ぐな。体が冷えるから。
六。自分だけ助かると思うな。死ぬるぞ。
この綱や小刀はその時に使え。常時携帯して離すなと 命令した。
その後木村伍長以下下士官を助教にして各個教練を実施。敬札。不動の姿努。速歩の基本動作を行う。 戦争に行くのに何を今更と言う者もあったが無視した。 速歩で割合に巻き足の者が多かった。巻足とは後から見ると足の裏が見えるのである。ひざが伸びないからである。これを見た丈で兵の個人鍊度がわかるのである。 町内の人々が子供もまじえて見物していた。あまり直すと町の人々に頼りない兵隊だと思はせても仕方がないので一寸注意する程度でヨシ、ヨシと大声でほめ上げておいた。久し振りの大声で少し気が晴れた。兵も 軍人であることを思い出したようだ。
十二月十二日。夜小川隊長から愈々明朝十時出港を知らされた。私は乗船掛りを命ぜられた。具体的に何をするのか隊長に聞いたがただ命令を伝逹した丈でくわしくは話してくれなかった。一寸不安だったが隊長もどうするのか知らない様だった。何とかなるだろうと気にしなかった。私は柬京時代から持ち歩いていた冬衣料品やその他不要品を整理一括して今治に送り返 してくれるように町内会長さんに頼んだ。結構あったが心よく引受けてくれた。前回船団の出た後こうした荷物の動きに対して憲兵隊がうるさかったときいたので可なり日数をおいて発送して貰う事にした。御主人には純綿ネル袴下、襦袢を御礼に受取って貰った。その夜は特配の酒で別れの宴を設けて下さった。御夫婦娘さん老母も心を込めて接待してくれ内地最後の夜を過した。当番兵の杉本一等兵も無礼講で席に入った。 暖い家庭の味はこれが最後であった。
十二月十三日。早朝小川隊は町内会長宅前に集合。 小川少尉が隊長として町の人々に御礼をのべて三池港に向う。手を振ってくれた。一寸淋しかった。大牟田の町の暖い人情が心にしみた。集合時間に少し遅れたらしい。各方面から各部隊がぞくぞく集合して乗船は始まっていた。阜頭は意外に広かった。おりから昇る朝日に阜頭に撒かれた水がきらきら光っていた。あの船だと隊長の示した船は大きく見えた。高い舷側の上で田村見習士官が誘導している。私は部隊より先に先発すべきだったのである。突然船上から大声が飛んだ。 小川隊の見習士官は何をしているのだ。今迄何回か怒嗚っていたのだろう。雷のように聞えた。隊長の顔を チラッと見た丈で乗船口に素飛んだ。私が甘かった。 解らなければそれはそれで手段を講ずるべきだった。何はともあれ乗船口に突立ってやって来る部隊に先着順にタラップを登らせ、後続部隊には待機場所を指示した。怒鳴ったのは輸送指揮官の大佐であった。小柄に見えたが声は大きかった。赤い顔にひげがピクピク動いて見えた。乗船が終る迄舷側からにらんでいた。やっと終って一番最後に甲板に上り、田村にすまんと頭を下げた。この時大佐の姿はなく、田村は、たるんどる。気合いを入れてやると笑った。
我々の乗船は川南工業製造の戰時規格タン力―五千屯(船名は忘れた)最大速八ノットである。えらい鈍足だと思う。南方ボルネオかスマトラに石油の積取りに行く序の片道兵員輸送に利用されたのである。我々の船室は船尾の油槽を改造していた。広さ百ニ坪、乗船収容人員千六百人。中央に四角く席が大きく設けら れ、四面の壁に上中下三段にかいこ棚が作られている。 各段の高さは中腰になると頭がつかえた。小川隊の割当は中段の一坪。たたみニ枚である。船底に降りると 大混雑である。兵の半分はこんな狭い所に入れるかと通路に突立っている。見上げると船倉は高さ五米位で 甲板迄吹抜けで冬の晴れた空が青く澄んで見える。船底はそんなに暗くはない。何処かの大部隊の将校が入れないと文句を言った。輸送指揮官は入るのではない。入れろと厳命した。此の辺が軍隊だ。無茶苦茶だ。
初年兵として鬼の三連隊とうたわれた加古川に入隊したその日、練兵場に古靴、古帽、古服が放り出された。古兵がどれでも取れ。と叫んだ。我勝ちに私達はその古物の山に飛付いた。まごまごしているうちに残り物を取る破目になった。頭が小さすぎた。55糎の頭に合う帽子がなかった。あれかこれかと頭に合わしているうちになくなっていた。結局靴は左十文三分右十一文。軍帽は指三本が入った。服は明治四十二年製で 演習が終るとどこかがほころびた。誰かが合わぬと言うと古兵は馬鹿もん! 体を合わせろと怒嗚ッた。私は服、靴、帽子は体に合わせるものと思って疑いもしなかった。私は入営第一日目にして此の考え方を引繰り返す発想に振り廻された。現役兵には新品がちゃんと用意されているときいたがそれは第二装だけであった。私は毎日夕食後軍服の補修に追われ、なれぬ針で指をさしながら、縫う間に軍人勅諭や各教範の綱領などを大急ぎで党えた。古巻脚胖は少し力を入れるとよく切れた。切れましたと云うと、切れたんではない。切ったのだとよくなぐられた。切れたと脚胖のせいにする地方人意識から切ったと自分の責任を自覚させられた。なぐられて始めて気がついた。こうした発想の転換に手間はかからなかった。文句が多いと言ぅ軍隊言葉も同様に理解した。文句は学問で大いに言えと或る班長は言った。切った。此の言葉の意味は以後軍隊生活で一番身にしみた。実行はむつかしかった。切れた、切ったは盾の両面、裏表なのである。
十九年夏サィパン玉砕後東京港で小笠原島方面の緊急輪送に使われた小さい瀬戸内の島めぐりの様な船に乗せられた。居住空間の狭まさ、悪さに驚きの声をあげた。夏の高温多湿に汗もしとどに私逹はぐったりした。聞きしに及ぶアフリカ黒人どれい船もかくやと思われた。こんな小船でよくも太平洋に乗り出したものだと思った。
「入れろ」の命令で私は詰めに詰めこんだ。まさか 五千屯の大船でこんな目に合うとは思わなかった。他部隊も似たりよったりである。二十人試みにたたみ一 枚に座って見ろってもんだ。冗談ではない。ましてや 完全軍装である。しかし私は入れろの命令を素直に実 行した。出港する迄は各部隊所定の場所を離れるなと又命令が出た。あぐらに座り、その組んだ足の上に又 座る。手足を抜く事も動かす車も出来ない。立錐の余地所か、人の上に又人である。人の上に人をつくらず、誰かが言った。人の上に又人である。誰も答える者はなかった。それでも何とか座り込み、うんうん唸り乍ら寒中に汗を流していた。文句は言わせずで私は現状に従った。
こんな事に気を取られているうちに、船は出港していた。甲板に出る事を許された時、殆んどの者が装備も何も放り出して、我勝ちに甲板に飛び出した。外は静かな冬の海である。三池港は振り返ってみたが、どの辺かよくわからない。丁度長崎の沖を通過中であった。皆陸ばかり眺めていた。私は海風を吸い、うーん と背筋を伸ばし、大あくびをしてすぐ船倉に降りた。兵のいない空いた中段に、手足を伸ばして大の字にひっくり返った。
日本が見えなくなる!甲板から大勢のどよめきが聞えてくる。日本!日本!
それは自然に恵まれた山や谷や河であり、父母妻子はらからの住む国であり、祖国である。日本が見えなくなる。と叫ぶ声の中にこれが母国の見納めかと名残りを惜しむ人の情が溢れている。生きとし生けるもののあわれとでも言えようか。そして死を予感する思も亦潜んでいる。私にはその時死ぬるという感じは全くなかった。何を今更とも思った。俺は生きて帰れると何となく思っていた。理由はない。
午後隼が一機飛来。低高度でゆっくり旋回、北に消えた。敵潜の雷擎をさけるジグザグ航法で右に左にと変針を練返し乍ら船団は白波を蹴立てていた。甲板を吹き抜ける冷い海風に瀬戸内の暖い優しい潮の香りはなかった。護衛艦なし。掩護機なし。前途三千キロ。待っ ているのは爆弾の雨か?それとも泡立つ一筋の白い雷跡か?
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