田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

父の台湾出兵記 3/3 (2021/1/8)

2021-01-08 16:09:09 | 戦前・戦中の日々
既に83歳で亡くなった私の父が22才、台湾に出兵した時の出来事を、終戦から40年たった62歳の時、住んでいた四国今治の同人誌、ひうちに、寄稿した記事。
 コロナで自宅でゴロゴロしていても暇と、捨ててもよい本を整理していて、見かけて、貴重な当時の記録なので、ブログに残しておくことにしたもの。
 これが最終稿。

 印象に残ったのは、13隻の輸送船が護衛艦3隻に守られて、台湾の高雄からサイゴン目指して出港したものの、父が乗った船が故障で一隻取り残され、修理しているうちに米軍機の大規模な爆撃で港内に沈没、その時は、高雄市内に上陸しており、乗る船もなく、結局台湾にとどまることになった顛末。
 出港した残りの船は、全滅したと噂された。(ネットで調べると、無事サイゴン近郊の港にたどり着き、現地解散。)
当時は生きるか死ぬかは紙一重の運とよく分かる。

空襲中、要塞内部の地下壕に居た。今日の空襲は可なり大規模だ。時間が長かった。外の様子は全く分らない。終って出て見ると、この日の敵の主目標は海岸交通施設と停泊船舶の様である。帰途下山路から諸所に薄い黒煙が上っているのが望見された。火気は見えなかった。内港には相当数の大小船舶が沈んでいる。これはひどいと思った。私の乗ってきたと思われる一際大きい船が貨物港沖合二百米位の所で、白日の青い海に座りこんでいた。真横に見える。逆光にきらきら光る水面と舷がすれすれである。ブリッジ丈が水上に塔の様に立っていた。後日この沈没船はやはり私逹の乗船と判明した。こうして私達は船を失ってて陸上に残された。行先のない浮浪部隊になった。武器のない飯許り沢山食うお荷物部隊に成り下っ た。高雄空襲に当って友軍機はー機も見なかった。この後二月中、南方行きの便船を待って高雄で待機したが、内地からは遂に一隻の輸送船も此の港に入らなかった。船がないとも言い、又来る船すベて撃沈されて着かないのだとも言われた。真相は分からない。戦況はどうなっているのか? 通報は何もなかった。指揮系統も解らなかった。いつごろだったか、高雄市中のどこであったか、或船団の最期をきいた。
昨十二月二十七日、高雄出港の船団は正月三日、海南島沖で護衛艦隊が飛行機で先ずやられ、四方に散った戦力のない輸送船は待ち伏せていた敵潜水艦に時間をかけてゆっくり、一隻又一隻と嬲り殺しのようにやられ、殆んど全滅したと云う。私達は輸送船の沈められ方に、 やり場のない悔しさに身の置き所がなかった。獲物を狙うハンターの残忍な笑いを憎んだ。南海の制海、制空権が最早彼の手にある事は明白である。此の風説をきいた時、それは俺達の船団だとは言いそびれた。唯十二月二十七日出港だけを確かめた。風説の原出所は判らない。
出港の日の故障。パィプのひび割れが私達の生と死を分けた事は間違いない。終戦直後私の父は愛媛県庁復員関係機関で私の所在を確かめた所「佛印のサイゴンに居る」と言われ、生存を信じて一安心したそうである。これは私が転属命令地のサイゴンに到着した事を意味するから此の全滅説は単なるデマだったのだろうか。現実には以上の経過を辿って私はサイゴンへは到着していない。そして後に台湾軍に編入された私達の経歴は内地に伝わっ ていなかったのである。


もう一つ印象に残ったのは、台湾で配属されたキールンの高射砲部隊の隊長が、兵隊を点呼していた父を何度もビンタをくらわして罵倒したことがあり、それ以降、行動は将校団とは距離をおいて、兵隊と寝食を共にすることにしたとのくだり。解は現場にありで、手ごたえと自信をもって生きるには、一番確実な手を22才の父は見つけて選んだと、感心。

それから間もなく、週番士官勤務中の日朝点呼で、兵の整列している前で、私はいきなり殴られた。理由は何だったか忘れた。「貴様等若憎の幹候は学校出ているだけで将校になれたのだ。実力は星一ツか二ツだ。その亊を忘れるな。実力だけの事をしておればよいのだ。俺は貴様達は兵隊だと思っている。将校面はけしからん」と 酒の匂いをプンプンさせながら罵られた。列兵は顔色もかえずに見ていた。私は兵の方に真っすぐ顔を向けていた。私は以来大竹に復員して尾道に復員列車で下車する迄隊長のいる将校団には要務以外、必要以上には寄り付かなかった。その間殆んど兵と行動を共にした。そして幹候は本当に星一ツか二ツの実力しかないか、よく見ろと頑張った。これは私一人の心意気の積りであった。軍隊は メンコの数が物言う世界でもあったのである。


↓ 原稿全文 とても長い


こどもたちへ(第三回)
——おやじの二十二才——

第三章空の守り

 昭和十九年十二月二十七日、出港の朝。今朝はいつもより早く起き、甲板に出る。少し曇りの様だ。本船の目と鼻の先に海軍がいた。びっくりする。護衛艦隊がつくとは…知らなかった。昨夜迄はいなかったのである。全船の眼が艦隊に集中した。軍艦。此の鉄の城はどうして、こんなに我々の血を騒がせるのであろぅ。日本独特の櫓檣(ろうしょう)が高々と聳えて見える巡洋鑑一隻。とに角大きく堂々と見える。ねずみ色の艦体に記傷や汚れはなかった。重巡か軽巡か私には解らない。大口径二連装の大砲が心強かった。そして後部カタパルトに搭戤された艦載機一機が私達の目を惹いた。ねずみ色一色の艦体の上に高々と乗った飛行機がいやにはっきり見える。黄色か白色か銀色であったか? 艦体と異なった色で目立ったのである。何故迷彩をしないのか不思議に思う。側に小さく駆逐艦が二隻寄添う様に並んでいる。全将兵、思わず色めき立った。此の護衛艦を見た時、私は我等の連合艦隊の健在を 疑わなかった。無敵艦隊未だ健在なりと頼もしく思う。軍艦マーチが思わず口をつく。台湾沖航空戦以来レィテ戦の戦果を信じて疑わなかった。一方には海没を常識とする矛盾と合せて私には戦局の行方はどうなっているのか、よく解らなかった。無装備で此処迄来た船団に一転して、これだけの艦隊を付けると云う事はバシー、南支那海の渡海が如何に困雜なる状况にあるかを雄弁に物語っている。又この十三隻の船団が南方作戦にとって、かなり重要なものだと思われた。
 時が来て、各鑑船の煙突から薄く煙が上り、先頭に巡洋、それから駆逐艦、輪送船と一隻一隻と錨をあげて、ゆっくりと出て行く。そして港外で船団を組むのであろう。私逹の乗船も錨をあげた。次は俺達かと思い乍ら出港して行く船団を眺め乍ら何とはなく、体を熱くしていた。最後の一隻が出て行ったが、私逵の乘船は動かなかった。動く気配は全くなかった。「どうした」「……」将校以上兵員は殆んど甲板に出ていた。今迄港内にぎっしりといた艦船の姿は既になく、広い水面が広がっていた。重苦しい沈黙と不安が船中を覆った。ざわめきとどよめきが湧き上り、瞬く間にともからへさき迄全船騒然となった。
高いブリッジの手摺りにかなぐりついた鈴成りの兵逹からか?「エンジンパィプにひびが入った」と波のうねりの様に、唸りの様に此えてきた。信じられなかった。思わずブリッジを見上げる。古船ではない。新造船なのだ。油圧か気圧の急激な上昇の為だったろうか。いつかの夜の故障で漂流した事を思い出した。流言だと思った。次に修理はすぐ出来る。に簡単に出来る。応修理完了次第船団を追及すると矢次早に伝えられた。護衛は付くのか。 誰かが叫んだ。護衛なし。何処からか伝わってくる。顔が強ばった。私達はつい今迄目と鼻の先にいた巡洋艦と駆逐艦の雄姿を思い浮べた。此の日飛行機の護衛があったかどうか覚えていない。何機か上空にいたようにも思うが定かでない。どこからか「わあッ」と喚声があがった。あとはシーンとした。顔を見合わせる許りで、お互い落ちつかなかった。正午がきた。修理はどうなっているのか。何の情報もなく待機、船倉におりる者はいなかった。そして夜がきた。翌朝迄には修理が出来る。翌朝出港追及と決定。一隻だけの単独航。と次々と情報が伝わってくる。私はもうこれで終りだと思った。護衛なしの鈍足船では船団追及はむつかしい。敵潜水艦の巣バシー海峡、南支那海は单独では乗切れない。対空兵器は何もな い。不安のうちに夜が明けた。護衛艦なしの迄の高雄迄の航海にそれ程不安は感じなかったが、一度び軍艦の姿を見ると、とたんに護衛がつくか、つかぬかで心は不安に揺れ動いた。この夜は仲々寝つかれなかった。
 廿八日晴れ。エンジンパィプの被害は意外に大きく修理は三日かかると伝わる。被害の場所や状況の詳細について発表は何もなかった。修理完了次第出港すると云う。絶望感決定的となる。誰もあまりしゃベらない。だまって飯食って寝て起きる。士気はどうだったか覚えていない。が旺盛とは言い難かったろう。関心は唯一つ。出るのか。出ないのか。
これ等の情報は別に船長からも、輪送指揮官からも正式に発表されたわけではない。だが軍隊内のロコミの正確さには本当に驚かされる。そして早い。風に乗って現れ、あっと言う間にどこかに行ってしまう。私は此の情報源がどこにあるのか知らない。兵と兵の間には一種の精巧な伝達組織がある。彼らの耳にはアンテナ、目には 望遠鏡、口にはスピー力―としか言い様がない。だから 此の時は、何か新しい情報はないかと私の方から兵に間いた。兵には部隊を越えた連携があるようだ。何か命令か指示が出されていたのであろうが、記憶していない。変な話だが正式情報は何も党えていない。当然小川隊長から船内幹部会の様子を間いたようにも思うが余り記憶はない。或は隊長丈が知っていてもらさなかったのかも知れない。
その夜二十二時。警戒警報発令。寝込みを叩き起こされ、いきなり下船退避命令が出た。全船騒然、眠気もなにも吹っ飛んで目が冴えた。装具全部を持って船中に一品も残すなと命令される。兵の行励は退避訓練など問題にならん程早かった。船内点検、隊の最後に甲板に出る。陸地部に灯火見えず。敵機情報全く伝えられず不明。舷側に僅かに照明あり。足下覚束なし。海面には唯喑が拡がっていた。
 私は此の数日的から下痢を起こして体にカが入らなかった。食事も朝から少ししか取っていなかったのである。 熱も痛みもなかった。渥美衛生軍曹から下刺止めを貰ったが完全にはとまらなかった。非常呼集の緊張感があった。下船タラップ一ケ所にて牛歩、遅々として進まず。 順番を待つ。その間に又下剰が起こる。幸いブリッジの傍だったので、急いで船員用の便所に行く。帯革、軍袴、 袴下、褌、拳銃、鉄帽等々と何と紐の多いことか。狭い 便所の中で、軍刀をぶつけたり、大図のうがおちたり、うんざりする。大型の九四式制式拳銃は放り拾てたかった。幸によごさずに用を足して軍装を整える。装着競争でもこんなに真剣に急いだ事はなかった。この間に隊は下船してしまいはせんかと随分気がもめる。一 時間もかかった様な気がした。
 小汽艇が船と陸地をピストン輸送していた。上陸で終りかと思ったら、それから夜行軍が始った。小川隊の指抑は隊長から私に委ねられた。隊長も体調を崩しているようである。暗闇の中のアスファル卜を蹴とばすような激しい軍靴の音を立てて暗の中を各部隊が四列縱隊で駆け抜けて行った。吐く息づかいが激しく私語する者もなかった。両側並木で路巾は広かったが人家は少なかった。 途中で又下痢が起こる。横の隊長と木村伍長に耳打ちして、左側の暗い畑に走り込む。芋畑か?大きな畝がきってあった。これが昼間であったら見られた図ではない。誰かに感謝すべきであったろうか。幸いに此の時小休止の命令で漸くの事で隊に帰る。今思うと人の顔が見別けられたが、警報下に何処に照明があったのだろう。街灯 でもついていたのだろうか。行軍再開。軍刀と図のうを吊った带革が下痢腹に食い込む。たまりかねて軍刀は肩にかついだ。それからも随分歩いた。高雄郊外を目指しているのであろう、どことも解らない所で大休止かかる。 私語する者もなく、ごろりと地上に横になるとそのまま寝入った。眼がさめて見ると、バナナ畑の中である。朝になっていた。曇り空であった。近くに農民の泥練瓦造りの粗末な家がバナナの葉陰に数戸あった。そこで顔を洗って少し気分が落ちついた。しかし疲労と空腹の為か 皆ボケッとしている。何となく起きているという風であった。木村伍以から異常なしと報告がぁった。握り飯が出た。腹を押えてみたが、別に異常はなく下痢は治ったようだ。小川隊長も疲れているのか余り話はしなかった。 下船命令以後、爆音は全く聞かれず、空襲はなかった。何の為の下船退避の強行軍か割り切れなかった。状況も地理も全く不明で言われるままに動いた。
 甘九日午後快晴。船に帰らず。高雄新駅前の邦人小学校に移る。児童の姿はなかった。各隊幹部は小学校傍の二階建邦人クラブに入った。入口の広い部屋の中に玉突台が一つポッンとおかれていた。長く使われていないのか、薄くほこっていた。此の日は輪送指揮官以下千六百人裸になってシラミ取り作戦を展開、校庭一杯に散開、褌一つになっての大作戦であった。私も襦袢を引くり返してシラミを取ろうとするが、そのいる所が判らない。夏襦袢の色が南方向きに迷彩色のワサビ色なので余計分からない。いないと思ってい着るとモゾモゾとくる。全くやり切れない。見ていた関東軍にいたという見習士官が笑い乍ら教えてくれた。日にすかしてみると、白く光ってみえるので虫も卵もはっきり解る。いるわ、いるわ、どうしてこれが判らなかったのだろう。馬鹿じゃろかと思った。縫い目という縫目、釦穴という釦穴にびっしりと卵が一杯である。一般家庭の人に想像出来るだろうか。 中には褌の縫い目に迄びっしりといて始末に困っている奴もいた。縫い目をそのまま上から爪で押すとピシビシと連続音である。白い光っている丸い卵。久し振りに皆でわいわいがやがやと笑い声をあげた。潰れた卵は平たくなって仲々とれなかった。十三日以来今日迄風呂に入ってい ない。シラミの卵は人間の体温では三日位でかえるそうである。だから増えだしたら早い。取りきれない。高雄の気温が適温でこの二~三日中に急に増えたらしかった。 輪送指揮官以下兵に至る迄夢中でシラミに挑戦した。ノミ取りで毛づくろいしている猿の集団に見えた。本日始めて清水で体を拭う。
 初空襲に会う。小学校庭の露店堀りの幾重にも続く堅壕に急いで飛び込む。上空を飛ぶ敵機が自分丈を狙って飛んでくる様に錯覚する。誰も同じと見えて壕の壁にピタリと体を張り付け、鉄帽を被って恐る恐る南東から 北西に向う双発双胴のP38を見上げる。かなりの高度だ。 水平飛行である。続いて低くP51七機の編隊がきた。初めて見る米軍機である。頭上を迎過した。市街上空で編隊を解いた。高雄防空隊の対空砲火を初めて見る。市街方面に射擊音と爆弾の破裂音が聞こえる。P51のすぐ後に高射砲弾の爆煙がポカリと浮いた。数連射で終った。いい着弾点だ。風はなかった。P38は飛行機雲を残して あっと云う間に南に消えた。P51は編隊を組んで無傷で帰った。P38は威力偵察の様にも思えた。水平飛行を崩さなかったからである。兵一名、二十粍機関砲の不発弾を拾って、もてあそび、手の指三本を吹きとばした。輸送指棟官から不発弾発見の時は直ぐ届けろと命令が出た。 何人かの兵が直ぐ届けてきた。長さ十糎程の茶色の機関砲弾は味方のか敵のか私には見ても判らなかった。拾った現場は校舎逛のブールだと云うので行って見たが水は一滴もなかった。水浴びの期待は見事に外れた。
三十日快晴。午前警戒警報。直ちに空製警報に切り替る。我々の所在は高雄中心街、内港、要塞や旧高雄貨物駅から数キロ南東に離れた新駅付近の軍事施設もない所なので、前日同様目標になることもなく、大した事もあるまいと、皆たかをくくった幹部一同クラブの二階で^暑さにうだって昼寝をきめこんで、起きようともしなかった。兵に指示もしなかった。輪送指撣官、各隊長は別の所にいた。軍規全くたるむ。全く軍隊といえるものではなかった。兵も小学校舎に宿営して幹部と同じような状態であった。少数が自発的に壕に入ったようである。がこれは私の推察である。実戦を知らない私達の愚かさであった。飛行機はこの高雄の防空隊に任せておけ、俺逹は関係ないと思っていた。
 爆音が近づいてくる。防空隊出身は小川少尉と私である。眼は閉じていたが飛行機には関心がある。単発音ではない。編隊音である。爆音の近付き方が昨日と違う。航路角零だ。つまり真上に来るのだ。それも高度はあまりない。早い。近い。他の速中は素知らぬ顔で寝ている。
私はこれは危ない。退避するには遅すぎる。まさかとは思うが鉄帽だけでもかぶるかと廊下に這い出した。もう一人私の後に続いた。ヒュルルーンと変な音が耳を掠めた。やられたと思った。鉄帽を頭にやると同時に廊下に伏せた。頭を伏せ切らぬうちに、目の的に真っ赤
な紅蓮の火柱が下から上に向って凄い早さで噴き上った。目前の一間巾のガラス窓一杯に火焰がパット横に広がった。音がしたかどうか覚えてない。ただ火、火、火である。部屋に ゴロゴロ鲔の様に転がっていた連中が飛び起きた。階段に殺到する者、反対の窓から屋根に飛び出る者。声はなかった。右往左往。一瞬の出来事だった。真赤な火の色が美しかった。油脂黄燐焼夷弾だった。あれだけの火柱と焰の拡がりと至近弾であったのに二階はガラス一枚割れなかった。クラブの裏庭に落ちたものであった。五、六米で直撃一巻の終りであった。あちこち油脂黄燐がベタべタついて、いつまでもメラメラと焔をあげた。民家の人達も手がつかず唯騒然としていた。各隊の兵が各幹部の身を心配して、多数かけつけ幹部の装具行柳 を二階の窓から下へ放り出したり、焼夷弾の消火に当った。駆けつけるのが早かったので彼等は近い校庭の壕にいたのだと思った。前日に飛来した敵機の恐らくは空中撮影によって、校庭の露天壕にうようよ入っている我々を確認しての攻擊ではなかったかと想像した。クラブの留守番が最近空襲も多くなったがこの辺に爆弾が落ちたのは始めてだ。高雄への焼夷弾も初めてだと話していたからである。機種、機数、投弾の状況全く不明、何も彼 も不明、不明で空襲は終った。とんでもない防空将校だと一人くやんだ。幸いにして部隊に被害はなかった。これが小型五十瓩(キログラム)にしろ爆弾であれば無傷ではすまなかったろう。後に此の五十瓩(キログラム)爆弾の至近弾はキールンで初めて経験。前から襲来の爆風で五、六米吹っ飛び瞬間の意外の風圧に体中がしめられて、息が止った。
 年末三十一日晴れ。渥美衛生軍曹が小川隊長に報告に帰った。此の船に乗った衛生下士官はたった三人であった。 余り少ないので私は嘘だろうと言った。三人はともかく少ないのは事実だったようだ。渥美軍曹以下各隊の衛生兵は船全体の衛生管理の為、輸送指輝官の直接指揮下にいた。此の船から上陸した時点で下痢患者が多発、発生の模様で、中でも重症の三人は赤痢の疑もあって、高雄陸軍病院に二十九日入院させた。翌日病院に行くと入れた病室にいないので、病院事務室に聞いたら知らないという。正規の入院手続きが終っていたので、そんな馬鹿な事があるかと、慌てて病院中を走り廻って探したが見当らず、困り果てて若しやと重症病棟室に行って見ると、 廊下に毛布をしいた丈で寝かされていた。ホッとして行ってみると別に何の手当てもしてない様であった。しっかりしろと激励して、これは大変だと輸送指抑官とその兵の所属部隊に報告に帰り、その翌日早く薬を持って重病楝に行くと彼等の姿はなく、又慌てて探して見ると今度は三人共霊安室に安置されていたと云う。三日で三人の生命はあっと言う間に消えた。病院には南方戦線からの患者、戦傷者が溢れて収容し切れず、治療するにも適当な薬が不足して、治撩が行き届かず、唯べッドに寝ている丈だと云う。ベッドのない者は毛布を敷いて廊下にそのまま横になっていると云う。その方が涼しくてベッドよりは楽なんだと言っていた。軍医も衛生兵も手当の仕様がないのだそうだ。あれではどうにもならん。本当の処置なしだと軍曹は泣き笑いの様な複雑なしかつめ面をしてため息をついた。是を聞いた連中は皆そんなに本当にひどいのかと念を押した。そして顔を見合わせて、改めて私達のおかれた立場を振返った。後日軍曹たちが手続きをして遺骨は病院に預けたと言っていた。私達の船から出た最初の戦病死者であった。遺族にはどんな知らせが行くのであろう。私の下痢も下手をすればと思うと背筋が冷たかった。三種混合注射が利いたのかも知れない。自分の事として胸に此の話を刻みこんだ。病院の状況から南方戦線の激烈、酷烈さが私の考えている様な生優しいものでない事がうかがえる。
 元日と二日は静かにすぎた。船からの連絡は何もなかった。修理もどうなっているのか' 私逵には全く解らなかった。エンジンパィプの亀裂がどの程度であるか知らないが、すぐ直ると問いたのに、時間がかかりすぎると、不思議に思った。故障からもう一週間になる。或は川南エ業の技術の欠如か。材料の粗雑さかと考えた。後にキールンで、トヨタの四屯貨車の始動発電機の磨耗した連動コロ、十数個を取替えに公用出張で出した兵はすぐ帰ってきた。部品はなかった。JIS規格、SR60の棒鋼を指定。製作の方法、寸法を指示したが、材料がなかった。仕方なく、台北に自動車掛天野兵長を派遣、漸く目的の部品を製作、入手した。天野兵長はコロ製作に関連して台湾の民間鉄工所の技術は互換性のネジが作れないと併せて報告した。信じられなかった。が大変重要な報告だと受け取った。
 終戰直前、新式十糎臼砲の試作に成功したから見学に来いと軍司令部から台湾軍各部隊の兵器掛に召集がかかり、台北郊外の松山にある台湾一と言われるその工場の鋳造工場に出向いた。工員は一人もいなかった。一門の鋳鉄パィプを加工したと見られる簡単な製品がおかれていた。一見てき弾筒を大きくしたようなものであった。軍司令部の若い少佐参謀が苦心の開発談や、その機能、取扱法、更には新臼砲による対米ゲリラ作戦の展開を張り切って説明した。ー人で担送できる軽量と正確な射角を規定する分画器が画期的だと言った。私は後の方で工場を観察していた。広さは三百坪もあったろうか。大量の黒い鋳物砂。五屯級と見られるキュポラ。建物の内外に積まれた多数の鉄製鋳物型枠。これだけの設備を持ち乍ら此の臼砲製作に軍参謀が苦心したと言うのが不思通であった。考えられる事は材量不足と鋳造技術に連携する鍛工、施盤、熔接等の技術者、技術水準の低下ではないか。今では、私は此の輸送船の故障を修理するには台湾の鉄の技術が徹底的に不足していたと思っている。
正月三日晴。昼前警戒警報発令。輸送指部官の命令で 小川隊から高雄耍港司令部に命令受領に行く。私が出た。道順をクラブの留守番にきいて、自転車を借りて行く。市街地に入り、高雄の中心街に出て北方の丘稜に向う。途中空襲警報発令。あのサィレンの音は何時きいても嫌なものである。広い道路に人影なし。走り易いわいと委細構わず飛ばす。誰かが兵隊さんと呼んだ。ちらっと見る。防空壕からだ。壕は道路端に高さ二米位のぺトンで固めた卜—チカの様に見える。突然P51が道路の真上を 南から北へと飛び乍ら掃射して来た。真後ろからいきなり轟音がおそって来た。始めての経験。乗っていた自転車が横倒しになった風も提灯もなかった。そのまま道路脇の雨水溝に肝を潰して転げ込む。体を横にして無理矢 理体を半分捻じ込む。軍刀と図のうが邪撖だった。ビーン、ビーンと鋭い金属音を立てて目の前を機銃弾は道路を斜に突切って、デパートの白塗りのコンクリート壁にめり込んだ。道路から白煙が上った。跳飛する銃弾。飛行機の降下音と射撃音。本能的な恐怖感で体が硬直した。短いが長い時間。爆音が消える迄動けなかった。それでも目だけは浅い角度で上昇する敵戦岡機の後尾を見てい た。爆音の消え去る方向に耳を澄まして、安全を確認しながら目に泌みる白い壁のめくれた弾痕をなぞって見た。弾丸は見えなかった。数十糎の間隔をあけて、下から上へ斜に並んで、白塗りのコンクリー卜に丸くあいた弾痕に見える地肌のねずみ色。弾痕は意外に大きかった。機銃ではなく機関砲だったかも知れない。白昼の夢でも見 ている様で、腑抜けの様になっていた。誰も出て来なかった。気を取り直して自転車に飛び乘りー目散に走った。空襲の合間を狙って、飛行機に追われながら司令部にたどりついた。 
 受領者はまだ揃っていなかった。若い少佐が早口で命令を下逹した。もっとゆっくり言えと言いたかった。どこかの曹長が復唱した。私は半分も聞きとれなかった。少佐が退室した後で、一番若そうな下士官をつかまえて半分写しとった。どんな命令だったか覚えていない。どうせ大した命令でなかったのだろう。それにしても早口の口頭命令を書き取る下士官の命令受領の腕には感心した。帰って掃射の話はしたが肝を浪した事は黙っていた。
高雄要塞司令部は高雄市街北部の海岸部の丘睦にあった。要塞施設はどうなっているのか私の目には判らなかった。多分地下に総てもぐっているのだろう。全山緑に覆われていた。全市街、内外港が一望出來る景勝の地でもあった。南麓の登山口附近は公園にでもなっていたのか 高雄神社もあったと思ったが私の思い違いかも知れない。日本人住宅街も山麓を走る鉄道沿線に在った。後日桃園防空に当っていた頃、高雄大空襲中との情報を聞き、急遽高雄に向った。そして此の日本人住宅地を中心として電話器、電話架線を片端から収集して大隊の通信施設を整備した苦い思い出がある。爆裂の廃墟と化した町に、死傷者は見当らなかった。トラックニ台分収集した。
 空襲中、要塞内部の地下壕に居た。今日の空襲は可なり大規模だ。時間が長かった。外の様子は全く分らない。終って出て見ると、この日の敵の主目標は海岸交通施設と停泊船舶の様である。帰途下山路から諸所に薄い黒煙が上っているのが望見された。火気は見えなかった。内港には相当数の大小船舶が沈んでいる。これはひどいと思った。私の乗ってきたと思われる一際大きい船が貨物港沖合二百米位の所で、白日の青い海に座りこんでいた。真横に見える。逆光にきらきら光る水面と舷がすれすれである。ブリッジ丈が水上に塔の様に立っていた。後日この沈没船はやはり私逹の乗船と判明した。こうして私達は船を失ってて陸上に残された。行先のない浮浪部隊になった。武器のない飯許り沢山食うお荷物部隊に成り下っ た。高雄空襲に当って友軍機はー機も見なかった。この後二月中、南方行きの便船を待って高雄で待機したが、内地からは遂に一隻の輸送船も此の港に入らなかった。船がないとも言い、又来る船すベて撃沈されて着かないのだとも言われた。真相は分からない。戦況はどうなっているのか? 通報は何もなかった。指揮系統も解らなかった。いつごろだったか、高雄市中のどこであったか、或船団の最期をきいた。
 昨十二月二十七日、高雄出港の船団は正月三日、海南島沖で護衛艦隊が飛行機で先ずやられ、四方に散った戦力のない輸送船は待ち伏せていた敵潜水艦に時間をかけてゆっくり、一隻又一隻と嬲り殺しのようにやられ、殆んど全滅したと云う。私達は輸送船の沈められ方に、 やり場のない悔しさに身の置き所がなかった。獲物を狙うハンターの残忍な笑いを憎んだ。南海の制海、制空権が最早彼の手にある事は明白である。此の風説をきいた時、それは俺達の船団だとは言いそびれた。唯十二月二十七日出港だけを確かめた。風説の原出所は判らない。
出港の日の故障。パィプのひび割れが私達の生と死を分けた事は間違いない。終戦直後私の父は愛媛県庁復員関係機関で私の所在を確かめた所「佛印のサイゴンに居る」と言われ、生存を信じて一安心したそうである。これは私が転属命令地のサイゴンに到着した事を意味するから此の全滅説は単なるデマだったのだろうか。現実には以上の経過を辿って私はサイゴンへは到着していない。そして後に台湾軍に編入された私達の経歴は内地に伝わっ ていなかったのである。台湾、内地間の交通は杜絶。連絡も全くなかったと断定出来る。以上で海南島沖で全滅したと言われる船団は私達も含めてサィゴン転属命令による内地出発の十二月十三日迄解っているがそれ以後は甲府の全陸軍留守業務部隊には終戦時全く資料が届かず推定で処理されていたのである。全滅していれば私は当然戰死になつている筈だ。而も行きもしないサイゴンに私は居る事になっている。十二月二十七日高雄出港の巡洋艦と駆逐艦の名を私は知らない。戰史を調べれば、此れだけの手掛りで全滅説の真偽は解かれるだろぅが私は知りたいとも思わない。
私はこの全滅説をきいた時、私逵の乗船が沈んだ高雄の正月三日空襲と関連があると思った。恐らくは南方各地を中心とした全戦線的な米軍の戦略作戦の一環だろうと思った。この後に米車は呂宋島に大作戦を展開したからである。速合軍が欧亜に用いた常用戦略でもあったのである。
 こうして内地から台湾へ無防備七隻の船団が護衛艦なしで無傷で高雄迄迎りついたのは、此の戦役終末期に於ける内地発進の南方輸送作戦の中で台湾に到着した唯一最後の成功であったろうと私は思っている。残念乍ら後半に、一は高雄港に、一は海南島沖に殆んど同時に沈みはしたが。その高雄迄の成功の條件はどこにあったのか。それは朝鮮西岸を北上、南下を秘匿し、大陸沿岸を南下する航路の新着想により米軍の意表をついた意外性にあったのであろう。此の作戦をたてたのは誰であったのであろう。この作戦の完壁さは作戦期間中空襲、雷撃共に一度も受けなかった事が明白に證明している。敵機、敵潜の目を完全に脱れたともいえる。反面その間、一隻の友軍艦船漁船も見なかったのは内地ー大陸―南方の,海上交通が此の時点で完全に杜絶していた事を意味する。これは又此の航路を選んだ作戦の常識を越えた意外性をよりよく明示していると思う。或は米軍の作戦と次の作戦の空白期間と空白地域を運よく我等の船団は順調に通過したのかも知れない。昭和五十七年正月に四十年振りに会った同窓生の医師雑賀晴彦が「阪大時代の教授に大東亜戰争中昭和十九年末期に台湾に到啬した輸送船は一隻もないと常にきかされていた。それなのにそんな例があるとは…」と繰返し繰返し不思議がつていた。これで私は益々此の作戰の優秀性を確信した。普通、鹿児島からキールン迄の三日航路を私達は十日間の大陸沿岸迂回航路を取ったのである。
 高雄上陸後ー週間はどんなに暑くても(午前十時には 三十度Cを越えた)汗が全く出なかった。顔が赤くなって体が火照るだけである。熱発のデング熱かマラリヤにでも罹ったかなと思ったが、一週問たつと今度は体中汗が吹き出して、それからは正常に庚った。
高雄に待機中は専ら戦局は噂で口から口に伝えられた。真偽いずれとも判らなかった。風説の一つにこんなのがあった。軍人専門の飲食店に肉を食わせる店があると聞いて、見習士官許り四人で出掛けた。肉は水牛の黒い焼肉であった。冷えると独特の臭みがあって喉につかえた。この店で合流したフィリッピンから飛行機で休養に来たと称する特操見習士官二人の話。耳よりの話であった 「日本の勝利は確保された。アメリヵの屈服は時間の問題だ。何故ならば見えない飛行機が今殆んど完成されている。第一段階としてフィリッピンに投入されるからだ」 その原理はなんだと聞いたら飛行機に当った可視光線を完全に吸収して反射しない新塗料が発見された。それは飛行機に塗った塗料の被膜を可視光線が抜けて飛行機の胴体に沿って屈折して向うへ抜けて行ってしまうんだ。 だから反射光線がないから見えないんだと云う。彼は人間がマントを着た姿で更に説明を加えた。二十二才の安気な私達は納得した。日本の科学技術陣を信頼した。彼等は又殺人光線の話をした。陸軍技術本部で開発、突験中で三十米の距離で、ねずみ一匹を瞬間に殺す威力があるという。不可視熱線だといった。突用化は時間の問題だと断言した。いつ、どこで、なにが、なにを、どうしたと條件の揃わない話を何故信じたのだろう。ニコニコ笑い乍ら話す彼等の話をきいていると信じたくなるのだ。 神戸安田隊の将校連がマッチ箱位の大きさで、戦艦一隻が沈む爆弾が出来るとか、東條が余り威力が凄いので、その製造を中止させたとか、京大段原博士が実験中失敗して死んだので、その後継難で中止になったとか話していたのを思い出した。ニ十年八月の広島新型爆弾の情報で第三中隊室修少尉(岡山)が原子爆弾だとすぐ言明した。松原大隊長は新型爆弾に耐える壕を早速作れと私に命令した。が私には見当もっかなかった。私達の大隊には原子爆弾の言葉すら室少尉以外は知らなかった。片山中尉はそんな壕なんか出来るものか、好い加減にしておけと笑っていた。
 透明飛行機、殺人光線、恐るべき小型爆弾の真相は私には解らない。唯言えることは陸軍で、唯一の機甲整備学校で国軍の機甲車両の劣悪さを休験、特に訓練用に使用の支那事変初期の一~五号戦車にふれた時、更に血の一滴と言われた石油が如何に枯渴しているかを知った時に、この戦争は勝てないと信じた。が心の中に勝ちたいという願望が渦巻いていたことも事実である。塗料を塗るだけで、見えなくなる飛行機。どんなぼろでもよい。たった一機あればよいのである。
 一月下旬兵を引率、映画館に行く。以前内地で見た内地の時代物であった。明るい画面で結構面白かったが題名は忘れた。帰路やたらと新品少尉に会う。部隊敬礼を行う。そのうち顔見知りの新品少尉に出合う。おかしいなと思ったが仕方がないので、その度に部隊敬礼を行う。相手は照れたような顔をして答礼した。宿舎で他の連中にきいてみたら、俺もだという。彼奴は俺達と同期の筈だと皆いう。衆議一決。俺逹もと即日少尉の軍装に改めた。任官の申告はどうしたか全く党えていない。私達の分は任官と同時に予備役編入、即日應召の予備役少尉 である。
 乗船の沈没以後、及び高雄及び北方の要塞化された海軍基地小尚岡山。地対空戦斗が激しくなっていった。高雄海軍武官府も直撃弾で破壊された。此の時、武官府の白壁に 人間の手の皮がスルリと脱けて手袋の様にペチャンとひっついていたという話には凄みがあった。民問の被害も漸く表面化していたが本格的に破壊されたのは私達が去ってからであった。
待てど暮らせど南方行きの便船は得られず、私達ごく潰し部隊は遂に台湾軍編入を下令された。これは内地—台湾-南方間の船団による渡海作戦は不可能を意味した。私達は台湾に閉じ込められたのである。こうして一ッ釜の飯を食った混成部隊千六百人は四方に散った。小川隊はキールン防空隊独立野戦高射砲第八十二大隊に転属と決定した。
この当りから何月何日に何があったか、日附は忘却の彼方に消え去ってしまって、忘々漠々としてくる。
 キールン防空隊に転属すれば、最早戦斗部隊であるから自由外出も出来ないだろう。高雄出発前夜、自由外出も今夜限り、柔肌に燃ゆる血潮にふれもせで、花散る無念も手伝って、誰言うとなく、誘い合わせて、血気の連中数人市内にあるという慰安所に出かけた。ほの暗い照明に渦巻く煙草の堙、嬌声、身動き出来ぬ程にひしめく兵の群れ、一種独特の喧騒、一階、 二階の回廊にずらりと並んだアンべラの仕切りに先ず唖然とする。奥へ、二階へと兵をかきわけ進む毎に、度々巡察と間違えられて何とも云えず妙な気分であった。突然腕を摑まれて「兵隊さん二十円」ときた。白いワンピース一枚で裸足の色黒の台湾女性に、雰囲気も情緒も何もあらばこそ、下士官、兵専用の場違いに又々唖然。連中と共に闇の中を空しく引揚げた。
 キールン港東岸の山中、松本記念会館に置かれた大隊本部で大隊長に転属の申告をすませ、神戸以來密封携帯していた小川隊転属命令関係書類は木ノ宮大隊副官に提出した。
 夜の歓迎会食も酣の頃大隊長平野大尉は私の後に来て、右がよいか、左がよいかと私の首筋をなでた。気合いを入れられるなと思った。右は痛いと思ったので左がよいと答えた途端「此の横着者が」と大喝一声凄い力で殴られた。目から火が出た。大隊長は左利きだったのである。 後は何回か間をおいて殴られた。二十回位迄は数えていたが後はあほらしくて勝手にさせておいた。同席の連中は笑って見ていた。私だけかと思ったら大隊本部将校全員が私と同じであった。最後は輪になって踊り乍ら隊長の後へ交替で歌拍子を取り乍ら一人づつ交替で入り代わり立ち代り、一回宛殴った。見ていると撫でる位であった。いつも御開きはこぅして終る例だと後できいた。腹も立っていたので私は思い切り拳を振った。途中台北出張から帰って来た大隊指揮班長作戦室主任が帰りが遅いといきなり隊長に殴られた。此の人が意外や意外、私が教育された昭和十八年度神戸幹候補隊教官網本義包(神戸)その人であった。私は奇遇に驚きもし喜んだ。軍隊生活中に「お前達は可哀想だな」と言ってくれたのは後にも先にも此の人だけだった。今の神戸大学横から秋の見事な紅葉の六甲を越えて有馬に下り武庫川沿いに宝塚迄行軍した思い出は今でもはっきり覚えている。行軍といっても遠足の様なものであった。教官の私達への慰安の為の思いやりであった事は私達によく解っていた。暖かい心の持ち主であった。
会食後私は植村小三郎軍医(盛岡)と同室になった。四十過ぎの此の人は大変温厚な方であった。私は今でも此の人と網本未亡人には年賀状を差し上げている。余りの隊長のひどさに驚いて聞いてみたら軍医は事もなげに、「此の部隊が鯖江で編成以来ずっと此の調子ですよ」と笑っていた。「しかし今日の様なのは始めてです。特別です」「どうして又」ときくと「年寄り許りの所へ若いのが二人も来たから嬉しかったのでしょう」と言う。嬉しくて殴られたのでは堪らんと思った。
 平野隊長は神戸の安田中尉とはまるで正反対の人物であった。特別志願の大尉で凄いワンマンであった。数多い台湾軍防空隊の中で、自ら対空射撃のた第一人者称して憚らなかった。平野隊は十九年台湾沖航空戦でキールンを襲った敵艦載機グラマンを市民の目の前で鲜かに撃墜破して見せた。キールンは地形的に防空し易かった。キールンは大した損害はなかった。市民は勿論軍も官も此の時から平野隊長に絶対の信頼を寄せた。私は職務上台湾 人と接する機会が多かったが、老若男女を問わず絶賛の言葉(日本一もあった)を数多くきいた。中にはパラシュ―ト降下の米兵を捕えた武勇淡を練返しきかせてくれた台湾人もいた。
 彼は常に駿府徳川の旗本出身を称して誇りとしていた が真相は怪しかった。劣等感と優越感が同居していた。 傍若無人で朝から酒気をプンプンさせていた不思議な人物であった。織田信長の前に戦慄した諸将はこんな具合いかと思われる程私は勿論将校連中は大隊長の鼻息を窮って戦々恐々としていた。大隊長と食事していると飯の味がしなかった。一人だけ朝から酒杯を離さず隊長の酒が終らないと私達は箸が取れなかった。隊長が箸をとらないからである。陸軍礼式令がこんな所で睨みをきかせていた。新品少尉の私はいつも飯付けをさされた。飯揚げはしても飯付けをする従兵をつけなかったのである。隊長が留守の食事はのんびりして大変楽しかった。大隊でもずばりと口をきいていたのは経理の片山中尉位であった。山口高商卒の世界を股にかけた商社マン出身の此の人は後年大手商社の重役で活躍した。終戦迄任務上、陰に陽に此の経理さんには助言、忠告を戴き、特に経理面では好意的な取計らいを戴き助かった。台湾人団体護国団、キールン在郷軍人会、桃園郡守等の交渉の時等陰から随分援助して戴いた。
それから間もなく、週番士官勤務中の日朝点呼で、兵の整列している前で、私はいきなり殴られた。理由は何だったか忘れた。「貴様等若憎の幹候は学校出ているだけで将校になれたのだ。実力は星一ツか二ツだ。その亊を忘れるな。実力だけの事をしておればよいのだ。俺は貴様達は兵隊だと思っている。将校面はけしからん」と 酒の匂いをプンプンさせながら罵られた。列兵は顔色もかえずに見ていた。私は兵の方に真っすぐ顔を向けていた。私は以来大竹に復員して尾道に復員列車で下車する迄隊長のいる将校団には要務以外、必要以上には寄り付かなかった。その間殆んど兵と行動を共にした。そして幹候は本当に星一ツか二ツの実力しかないか、よく見ろと頑張った。これは私一人の心意気の積りであった。軍隊は メンコの数が物言う世界でもあったのである。
 後に平野隊長の行動は志願将校の独特のタィプだと知った。新竹州桃園に移駐してから、大隊副官をつとめた井ノ口少尉(福岡)は平野少佐(進級していた)が大隊長から台北に展開していた高雄高射砲連隊に栄転ときまった時、これで平野少佐とおさらば出来ると思うと嬉しくて嬉しくて思わず笑い出したくなって、口元がゆるむのを少佐に悟られまいと苦労したと泌々と私に話したが全く同感であった。一番ひどくやられたのは身近にいた副官井之口少尉だったのである。前副官木ノ宮少尉は免副官の命令が出た時、私と同室していたが喜んでその夜は私と祝杯をあげた。
 復員後多くの人々から将校に如何に、いためつけられたかと言う話許りきかされた。将校が直接兵を制裁する事は滅多にない筈だが余りその話が多いので、俺の部隊は兵より将校の方が余計やられたと言っても、誰も信用しなかった。して見ると平野大隊長は規格外れだったのだろぅか。
 翌日、第三中隊厚地隊に私の同年兵で千葉陸軍防空学校に入校した早川一也(徳島)木内常三(茨城)がいるのを知った。後日木ノ宮副官の設営で一夕キールン市中の日本料亭で三人だけの宴を張り旧交を暖めた。彼等の渡海経験談。沖縄本島沖で朝五時頃大爆発音をきいて、 甲板に飛び出したら、煙が一筋しゅるッと上って、隣の船がなかった。轟沈である。少年航空兵が乗っていた。甲板に放列をしいた高射砲で、潜望鏡狙って水平射撃 (僅かながら俯角六度がとれる)をしたら、砲弾は波を切って海面をけんけん飛びして、遥か彼方へ消えて行った。処置なしであったと。夜更けて静かな人影絶えたキールン海岸を高歌放吟して歩いた。久し振りに晴々した
日本桜の枝伸びて花はアジヤに乱れ咲く
意気で咲け桜花上るがい歌の朝ぼらけ
明日は初陣軍刀を月にかざせば散る桜
意気で咲け桜花僕も散ろうぞ華やかに
咲いた桜が男なら慕う胡蝶は妻じゃもの
意気で咲け桜花朝日に匂う八重一重
此の一夜は誠に楽しかった。
 取敢えず私は作戦室に配属され網本中尉の指揮下に入った。副官木ノ宮少尉に私の任官月日の確認を依頼。勝手に小尉の軍装をしているのが気になっていたからである。私の学校卒業の官報告示は本部事務室でみた。懐しい名前が九十九名並んでいた。一人一人名的を確かめた。内地部隊は東、中、西部三軍から各四名、他は関東軍、支那派遣軍である。彼等は今いずこの戦野で戦っているのであろう。任官の分はなかった。後日、何処で調べたのか一月十日であると知らせてくれた。官名詐称かと思っていたが安心。そして転属命令書には最終的にはビルマ方面軍転属が誌されていたと教えてくれた。此のあとにイン、メン国境に圧迫される弓、烈、祭の苦戦を台湾軍司令部内に特設の軍防空司令部より直接通報される「防 空情報」で知る度に独りで心を暗くした。
 作戦室勤務の初めての任務は、軍司令部に出張、軍参謀市川少佐の編み出したという、いわゆる市川式戦法の習得であった。軍参謀はこの時点で、米軍の台湾上陸作戦を想定していた。それは我が軍を最も悩ませる米軍の歩兵戦車M 4協同作戦に対抗する最も有効なる戦法であると云う。講義の後、台北練兵場で市川式戦法の演習を実施。数多く作られたタコツボを素掘りの地下道で連絡した地下陣地に潜み、敵戦車に随伴の歩兵をタコツボより狙擊して倒し、そのあと迅速に地下道を経て、他のタコツボより又歩兵を狙撃して倒し己の所在を秘匿して、これを繰返して敵戦車を弧立せしめ、約三米の柄をつけた二キログラムの円錐体爆雷を持って、タコッボより素早く出撃、戦車に挺身、これを爆破する戦法である。この特殊爆雷は特に円錐体の底面方向に向って強烈な爆破力が集中するように設計され、百粍の鋼鉄板に約十糎径の貫通孔をあける威力があった。演習経験の範囲では、歩兵との協同作戦中の戦車の時速五㎞前後の時は、タコツボよりの 戦車攻撃は可能であるが、それ以上の速度の時は戦車に追い付けず、肉迫出来なかった。戦車単独の時は四十㎞をこえた。出撃が早すぎれば空しく戦車のえじきになった。従って相当の訓練を積んでも成功率は甚だ低いと私には思えた。爆雷を装着した竹の柄を持ち上げると爆雷の重みでぐっとしなった。走れたものではない。参加した各部隊の関係将校も狐につままれたような顔をして参謀の顔を見ていた。質問も殆んどなかった。キールンに帰って隊長に報告。翌日本部の将校、下士官に対して市川式戦法の講習をした。爆雷の実物がなかったので平面、断面、側面各図を描いて説明。古手の下士官二~三名が終り迄見当がつかんとぐずぐず言った。実際本当に解ら んのかどぅか私には判然としなかった。新米の私に対する嫌がらせだろうと私はいい加減で打ち切った。後で各人に戦法の感想、可否を聞いてみた。実戰に使えるのかと疑問の声が多かった。私は机上の空論だと断定した。平野大隊は市川式戦法の準備はしなかった。
 本部事務室から約百米北方の独立峰に大隊戦闘指揮所が置かれていた。厚さ一米前後のぺトンで固められた仲々見事なものであった。ここからは外海からぐっと入り込んだキールン港は勿論のこと、市街全域が一望のうちにあった。港をとりまく丘陵地带三ケ所に布陣した各中隊の対空射撃の様子も一目で把握、指揮できる絶好の要所であった。事務室と指揮所の中間の小広場に船舶用七高が一門据えられていた。木ノ宮副官が分隊長となって通信兵、衛生兵のうち、非番兵を指撺していた。この分隊長も副官から私に交代。大隊長からは目標直距離千米以内でなければ絶対射撃してはならんと厳命された。高度、航速、航路角の射撃三元もなく砲手教育を殆んど受けていない各兵を指撺して、素人同然の私は三式曳火瞬発信管を一秒半に切った砲弾を込めた砲を手で右だ、左だと押し、高低角を上げ、下げと指示しながらうろうろする変則の大隊長直轄分隊をあずかる事になった。その後、私の任務は転々と変った。
 私の軍歴から大隊の自動車班は私の指揮にまかせられることになった。トヨタの新車であった。一くせもニくせもある面魂を持った自動車兵はうさん臭げな顔をして 私を迎えた。私は自動車行軍に当って、操縦席、助手席には座らなかった。操縦席の後の荷框に立って指揮した。命令違反の操縦に対しては絶対に許さなかった。「今度の新品少尉はうるさい奴だ。昼ばっかりじゃないぞ」と聞こえよがしに凄む奴もいたが無視した。うすぐもりの或朝自動車兵が一台の貨車のまわりで騒いでいるので行って見ると、朝の定期機関調整に当っていて始動電動機 (セルモータ)を幾ら踏んでも電動機は作動するが機関本体はピリッとも動かなかった。あちこち点検したが、 原因が解らないので騒いでいたのである。
 暫く兵達の後から眺めていた。彼等は結局、セル釦を踏むばかりで「おかしい。昨日迄どうもなかったのに…」と思案投げ首のようである。私は素早く考える。原因は 何だ?燃料はあるか?燃料系統は?気化器は如何?蓄電池容量はどうなんだ? 二次線輪ははずれてないか?点火時期は? 空気調節は? 点火栓は? 空気清浄機は大丈夫か? 始動電動機から機関本体への伝道系統は大丈夫か?結論はすぐ出た。トヨタ新車と旧車との相違点を思い出して見る。もう一度兵達の操作している様子をじっくり観察する。そして電動機の伝導部の故障と確信、直ちに分解を命じた。兵逵は電気関係はむづかしいので手がつけられんと 尻込みしたが強行。数日後、前記天野兵長の台北派遣で作ったコロを交換。始動。私の緊張は此の一瞬にあった。機関は一発で快音を発した。片唾を呑んだ周りの兵達がどよめいた。兵は操縦だけで車の構造、機能、修理手段 を充分に習得していなかったのである。
 小川少尉は此の部隊に転属した時、下痢で体調を崩して、歓迎会食のあと、二日間寝ていた。例の平野大尉は病人がいては隊の士気に関わる。起きれないのなら入院させろと隣の室でわめいた。植村軍医の声は問えなかった。小川小尉は黙って天井を見つめていた。照空隊出身の為砲隊将校となるベく第二中隊配属となった。台湾北端八斗子の電探基地からの敵機襲来の通報が増すにつれて東北岸の要衝ギランに第ニ中隊は派迆されて、キールンを離れた。此の時築城掛中村中尉(中学時代の恩師黒木由之助に風丰言動がよく似ていて、何となく親しんだ)が第二中隊付となり、私がその後任となった。申し送りを受けた時、中村中尉は平野大尉の言う事なんかフンフンと柳に風と吹き流しとけと日焼けした顔に、白い歯を見せて笑い乍ら忠告を残して去った。
 そして此の後、若いからと云うだけで大隊築城掛、兵器掛を主任務として戦斗中は監視掛や大隊本部警備掛も兼ねた。平常には本部の被服、陣営具、炊事掛もやれと次々と諸の掛の兼務を命令された。戦斗、平常任務を使い分けて日夜席の暖まる時はなかつた。
小川隊の兵は各兵種毎に本部、中隊に夫々配属された。小川隊はこうして平野大隊に編入された。
 戦野を馳駆する筈の軍直、野戦高射砲隊であり乍ら、脚のない動けないダルマの様な船舶用七糎高射砲十八鬥( 一本部、三ヶ中隊)を持った此の妙な大隊長を戴いた不思議な部隊で要港キールンの防空、そして八飛師、誠隊の特攻基地桃園飛行場の防衛、防空と終戦迄、殆んど連日防空戦斗に明け暮れるに事なつた。昭和二十年三月十五日で私は満二十三才になった。あれからもう四十年の歲月が流れた。 (完)
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