田舎生活実践屋

釣りと農耕の自給自足生活を実践中。

父の22歳の時の台湾出兵記 その2 (2020/12/17)

2020-12-17 14:24:24 | 戦前・戦中の日々
 コロナのステイホームで、時間を持て余して、たまった本の整理をしていて、このまま捨てるのは、もったいないと思いなおした、既に亡くなった私の父が、終戦後40年62歳の時に書いた出兵記。当時22歳の時の台湾出兵の体験談。大牟田の三池港を出港、アメリカ軍潜水艦の目を避けて、幸運にも台湾の高雄港にたどり着いた船中記。
 3回に分けて掲載されており、これは第二回。
 私が面白かったのは、出港して、兵隊の人数の半分しか救命胴衣がないと分った時の顛末。

 皆黙ってブスッとしていた。一体どうしたのかな?と 思い乍ら撫然と座っている隊長にきいた。隊長は黙って 私の顔を見返した。そしてかすかに「ウン」とうなづいた。私の同年兵、木村伍長が答えた。「唯今、救命胴衣を受領してきたのでありますが、員数が足りません。半分しかありません」と困ったような顔をした。これで事情が呑み込めた。私の役割りは唯一つと即座に決断した。中段座席に上ってみると、そこに誰も手をつけぬ古ぼけた救命胴衣が稹まれていた。分配方法がきまらなかったのである。私はすぐに「隊長殿」と救命胴衣の山から一つ取上げて押付けた。「兵に渡してやれ、私はいい」と隊長。「取って下さい」「渡してやれ」と何回か押問答があった。小川少尉はいつかな受け取ろうとはしなかった。周りの下士官、兵が黙って私達二人を見つめている。 当時の我が海上輪送路は海空の激しい敵の攻擊に爆されていた。そして此の船団には護衛艦が一隻もつかなかった。その為誰もが此の船団の内、どれかが必ず、いつか 海没すると言わず語らずのうちに、思いこんでいた。或は全滅も…と思った。無事か、海没か、運命は誰にも解らない。そうした状況の中で思いもかけず、救けの神、 救命胴衣が目の前に現われたのである。そして員数不足であった。皆が皆、とに角現物を手に入れたいと切に望んだ。勢い目の色も変ってくる。時と場合によりけり。 己の命はこの救命胴衣一つにかかる事になる。真剣な皆の切羽っまった気持ちが痛い程私の胸に迫ってくる。隊長が思案したのは無理もなかった。如何に分配するか、 持つ者と持たない者の気持ちを考えて決断しかねたのである。事態の収集は私の役である。「隊長殿、考えて下さい。隊長殿が取らなければ誰も取れません。それに海没の場合、隊長殿が沈んでしまってはどうにもなりません。その時にこそ隊を掌握して下さい。指揮官がいなければ隊はどうなりますか。是非持って下さい」小川少尉 は暫らく黙っていたが漸く受け取った。けれども不機げんにみえた。小川少尉が兵に渡してやれと言うのは隊長としての部下に対する情である。隊長に真先に救命胴衣を渡すのは補佐する私の情であり、立場であり、任務である。それから下士官、体力の弱そうな兵と渡した。胴衣の当らなかった元気な兵達には「俺の廻りに来い」と別に私の周囲に集めた。「無い物は無いのだ。文句があるか。隊長殿には最後迄指揮を取って貰わねばならん。海没の時は俺から離れるな。俺が一緒に死んでやる」死んでやるに力を入れた。ぐるりと周りの兵の顔を一人一人のぞき込むように見た。皆黙っていたがウンとうなづいたような気がした。顔色が何か一寸明るくなった様な 気もした。何だか芝居をしているようで気が引けたが、 そんな事を言っていては、これから先何もできんと割切った。悲想感が急に胸にこみ上げた。私と下士官、兵の間に一つの絆ができたようにも思われた。黄海の冬の水は冷い。今海没すれば、我々人間は五分と持たない。人間は十度以下の冷海水の中では心臓麻痺を起す。救命胴衣なんか邪魔なだけだ。と思っていた。此の夏東京越中島の海洋訓練で学んだ。

 この話は、私が父と今治で一緒に暮らしていた中学か高校生の頃、一度聞いたことがある。「救命胴衣のない兵隊に、俺の周りに来い、一緒に死んでやると言うと、本当にゾロゾロ沢山周りに兵隊が集まってきて、正直、ぞーとして気持ち悪かった」とのことでした。

 以下は、全文、とても長い。



こどもたちへ(第二回) 同人雑誌の「燧(ひうち)」第6号掲載。昭和60年3月
おやじの二十二才

第二章海征かば

昭和十九年冬十二月十三日、出発第一日、船は渺々(びょうびょう)たる東支那海を一路南下の途についた。九州は遥か水平線の彼方に消えていた。乗船出港の興奮も悲哀も、いつの間にか鎮静、船内の空気が落付いてから、部隊付衛生下士官が忙しくなった。腸チフス、コレラ、赤痢、の三種混合注射、天然痘の予防接種実施、これで南方要員千六百人は愈々南方戦線に赴く思いと覚悟を新たにする。混合注射針の大きさに驚く。気温が下ったのか、一寸寒む気がする。まだ皆は甲板にいる様だ。兵の姿もまばらな船倉に私はのんびり寝ころがっていた。
軽く閉じた瞼に思わずも浮かんでくる、未知の米軍の戦力は信じ難い程凄まじかった。加古川できいたガ島戰線から帰った病院下番古兵の話を思い出していた。戦車のキャタビラの下に蹂りんされた戦傷の動けない兵……鬼畜米軍……。前線部隊から送られてくる対米戦斗詳報、 対米情報を集大成して編まれた「米軍常識」=在校中の㊙教範=中に誌された膨大な資料。戦車、火砲、航空機、 自動火器等彼等の陸戦兵器の威力、上陸用舟艇(LST型舟艇は三千屯あった)の能力、更に雄大な作戦は文句なしに無言のぅちに私を圧倒した。米軍反攻の始ったガ島以来、常に戦車を先頭に、自動小銃、手榴弾で武装の歩兵十人程を従えた我が軍とは異質の新式攻擊歩戦協同作戦は旧式の日支大陸戦と勝手が違って日本軍を悩ませた。水陸両用M4 (ブル)の前面装甲は実に百粍であった。砲口初速秒速七百米を誇る我が軍の37粍対戦車速射砲弾は、いとも簡単に弾き返された。対M4に有効な徹甲弾「た」弾は完全に不足していた。我が軍に重戰車はなかった。我が軍の中戦車の前面装甲は僅かに二十五粍。話にもならなかった。張子の虎同然で、戦車戦は望むベくもなかった。応急対策は唯一つ。たこ壷による小銃狙擊(対歩兵)挺身爆雷(対戦車)攻擊であった。三八式歩兵銃、九九式騎兵銃では彼等の自動小銃に対抗出来なかった。マレー作戦に威力を発揮した対戦車攻擊の「ち」弾<毒ガス弾?>は国際法規にふれ、英国の通告に屈して、使用は中止された。十九年の守勢一方の太平洋戦線の我が守備隊に対する米軍上陸作戦は先ず、
第一に、我が軍の伸びきった戦線を分断、攻擊目標を孤立せしめ、
第二に、強力航空機動部隊を主力として制空権を確保、
第三に補助艦化した戦艦、巡洋艦を総動員長時間にわたる艦砲射擊を実施。我が軍の一発の反擊に十発の応射を加えた。我が軍は亀の首の様に引込まざるを得なかっ た。我が軍は損粍をさけ、兵力温存の為、艦砲射撃に対して只管沈黙を守った。水際邀擊の為構築した我が軍の トーチカは激しい敵弾の振動で、さんご礁の水際の浅い砂の上で、ぐるりと百八十度転回、後ろ向きになって役に立たなかった例もあった。
第四(最後)に、我が渾を圧倒したと見るや何百隻と数梯団に、上陸用舟艇を発進せしめ、広く、深い縦陣で 押し寄せた。
我が軍の水中、水際防御施設は数時間にわたる一回の戦斗で消耗、あとが続かなかった。そして橋頭堡が作られた。そのあとは我慢と斗魂しか残らなかった。援軍を送る術はなく、緒戦の我が航空戦略は影をひそめた。「米軍常識」に収められた太平洋戦線の物量作戦経過を示す数十枚の戦斗詳細要図を見た丈で、教官も学生もウーンと目を見張る許りで多くを語る必要はなかった。米軍は一作戦に使った消耗品(銃器さえも)捨てて顧みなかった。私達は銃口蓋、水筒栓に至る迄員数確保に悩まされた。物量不足は私達が身を以て知っていた。機甲整備学校では、私の所属区隊は五十台の車両を持ち乍ら、部品不足、燃料不足の為指揮官車(小型四輪駆動)以下ニッサンキャブ、イスズ、トヨタの四トン貨車等五台しか実動しなかった。近代戦の原動力、血の一滴と言われたガソリンも人工再製油で天然油ではなかった。それも少量割当であった。両手にすくった油は真っ黒で、手の平が見えなかった。その黒いガソリンさえも確保は容易でなかつ た。
 現役引退の訓練用八トン牽引車が太平洋戦線に再び緊急転用され、その壮行会が校内の機甲神社前で全校をあげて盛大に行われたが、まもなく輸送船諸共太平洋に沈んだ。今迄にアッツ、タラワ、クヱゼリン、サィパンが玉砕、幾多の将卒邦人が戦陣に枯骨となった。私達に対米局地戦斗はこれだと言われたぺリリューの勇戦は耳に新しかった。私の経験する戦いもこれ等の戦場と変るまい。
夜が来た。百坪に千六百人の夢は円かに結ばれたであろうか。リズムに乗った船のエンジン音、騒音と振動がフット消えた。夢現の間を往来、窮屈な姿努でまどろんでいた私はすぐ目ざめた。誰も彼も同じ様子で途惑っているようだ。「どうした」「とまったのか」ざわめきが一頻り、淡い照明の中を漣の様に拡がった。停った!! 何故だ。出港第一夜である。殆んどの者が完全に目をさまし、気早な何人かが段階を駆け上って、梯子にとびついた。つられて私も出て行った。甲板に立ち、見上げると 夜空は暗く、星一つ見えない。港だ。港に入っている!! 右に一つ、左に二つ、三つ、薄い霧が出ているのか、暗の中に、にじむ大きな橙色の裸電球がポツン、ポツンと灯っていた。燈火管制はしていない。冬の冷い暗の中に、 灯は大きく暖く私の心をなごませてくれる。岸壁に人影はなかった。倉庫? 幾つも大きな建物の影が濃く見える。案外船は岸に近い。目を落すと音もなく、黒い海面が暗に拡がっている。いつのまにか甲板に出て来た連中が手を舷に、ずらりと並んで、黙って此の橙色の灯を眺めている。「チントウだ」「チントウだそうだ」どこからか、 攝く様な声が拡がった。私は一瞬大陸の青島かと思った。が時間が合わない。有明海の三池から長崎の岬を廻ったのは今日の昼前だった。船団速度八節。それも敵潜の攻擊廻避のジグザグ航法を取って、右に左に針路を変更し乍らの航海である。靑島着は早すぎる。それに大陸の青島なんかに着く筈がない。方角も違う。船団が天草灘遥かに東支那海に乗り出した後は一路南下したものと私は思っていた。誰もチントウを知らなかった。船倉に降りるとチントウは朝鲜だと誰かが言ったが、私は朝鮮のどの辺に当るのか全く知らなかった。一体誰がどうしてチントウと云う名をどこできいてくるのだろう。ふしぎな 話だ。南方要員を乗せた船団は南下するどころか、逆に 意外にも北上していたのである。
十四日早朝に出港。船団は朝鮮半島西岸を北上した。 へえ!! 朝鮮かと溜息ともなく、呆気にとられて又呟いた。本当に意外だった。珍島近海の瀬戸内に似た風景の小さな多くの島影は沖に向う船の白い航跡の後に忽ち消えて行き、右に朝鮮半島が水平に長く僅かに浮いて見えた。 愈々黄海だ。冬の薄日の海を北行するにつれて、寒気が増した。正午前、天候は急変して北風に雪が舞い出し、とうとう激しい吹雪となった。そして視界は閉された。冬の黄海北上ときいた丈で寒氖団の中心に進んでいる様で皆、寒い寒いと連発していた。気晴しに出た甲板から私も、これはたまらんとすぐ船倉におりた。人いきれで 此の方が暖かであった。一番奥の小川隊にかえる。
 皆黙ってブスッとしていた。一体どうしたのかな?と 思い乍ら撫然と座っている隊長にきいた。隊長は黙って 私の顔を見返した。そしてかすかに「ウン」とうなづいた。私の同年兵、木村伍長が答えた。「唯今、救命胴衣を受領してきたのでありますが、員数が足りません。半分しかありません」と困ったような顔をした。これで事情が呑み込めた。私の役割りは唯一つと即座に決断した。中段座席に上ってみると、そこに誰も手をつけぬ古ぼけた救命胴衣が稹まれていた。分配方法がきまらなかったのである。私はすぐに「隊長殿」と救命胴衣の山から一つ取上げて押付けた。「兵に渡してやれ、私はいい」と隊長。「取って下さい」「渡してやれ」と何回か押問答があった。小川少尉はいつかな受け取ろうとはしなかった。周りの下士官、兵が黙って私達二人を見つめている。 当時の我が海上輪送路は海空の激しい敵の攻擊に爆されていた。そして此の船団には護衛艦が一隻もつかなかった。その為誰もが此の船団の内、どれかが必ず、いつか 海没すると言わず語らずのうちに、思いこんでいた。或は全滅も…と思った。無事か、海没か、運命は誰にも解らない。そうした状況の中で思いもかけず、救けの神、 救命胴衣が目の前に現われたのである。そして員数不足であった。皆が皆、とに角現物を手に入れたいと切に望んだ。勢い目の色も変ってくる。時と場合によりけり。 己の命はこの救命胴衣一つにかかる事になる。真剣な皆の切羽っまった気持ちが痛い程私の胸に迫ってくる。隊長が思案したのは無理もなかった。如何に分配するか、 持つ者と持たない者の気持ちを考えて決断しかねたのである。事態の収集は私の役である。「隊長殿、考えて下さい。隊長殿が取らなければ誰も取れません。それに海没の場合、隊長殿が沈んでしまってはどうにもなりません。その時にこそ隊を掌握して下さい。指揮官がいなければ隊はどうなりますか。是非持って下さい」小川少尉 は暫らく黙っていたが漸く受け取った。けれども不機げんにみえた。小川少尉が兵に渡してやれと言うのは隊長としての部下に対する情である。隊長に真先に救命胴衣を渡すのは補佐する私の情であり、立場であり、任務である。それから下士官、体力の弱そうな兵と渡した。胴衣の当らなかった元気な兵達には「俺の廻りに来い」と別に私の周囲に集めた。「無い物は無いのだ。文句があるか。隊長殿には最後迄指揮を取って貰わねばならん。海没の時は俺から離れるな。俺が一緒に死んでやる」死んでやるに力を入れた。ぐるりと周りの兵の顔を一人一人のぞき込むように見た。皆黙っていたがウンとうなづいたような気がした。顔色が何か一寸明るくなった様な 気もした。何だか芝居をしているようで気が引けたが、 そんな事を言っていては、これから先何もできんと割切った。悲想感が急に胸にこみ上げた。私と下士官、兵の間に一つの絆ができたようにも思われた。黄海の冬の水は冷い。今海没すれば、我々人間は五分と持たない。人間は十度以下の冷海水の中では心臓麻痺を起す。救命胴衣なんか邪魔なだけだ。と思っていた。此の夏東京越中島の海洋訓練で学んだ。
因に此の海洋訓練中にサィパン玉砕を知らされた。私達はカッター訓練にかり出され、越中島から幕末に築造された品川の御台場を一周した。御台場は全島、青葉茂れる樹木と、高く伸びた夏草に蔽われていた。瑞々しい緑は夏の陽光に映えて目に鮮かだった。あまりに綺れいで、ヵッターを漕ぐ手を休めて皆、ウワッと思わず声をあげた。御台場の石垣を巡る澄んだ島の緑をうつす紺青のすき透る潮は音をたてて、うねり流れていた。帰路は折柄の引潮の逆流で、行きはよいよい帰りはこわいの唄通りに往路にくらべて疲れ果てた。握り太の長いオールは手に余った。両手の豆がつぶれて、血が渗み、漕ぎなれない腕はパンパンに張った。墨田川に入ってから、ヤレヤレと思うまもなく「オール立て」と何回もやらされた。長くて重いオールは仲々立てられずもたもたした。高等商船学校学生の白いマドロス帽、黒いスマートな制服の艇長は面白がって何回もやらせた。此の日は此の学生にしごかれ通しであった。この憎たらしい艇長は舵を握って笑っていた。区隊長山口中尉はこれを見て切歯、 地方人にやられてぐうの音も出んのか、それでも帝国軍人かと二重にしぼられた。ウンもスンも言う者はいなかった。皆の顔に汗の塩が白くこびりついていた。夏の白日に木場の乾いた材木筏の白さが目に泌みた。どうして材木が白く見えたのだろう。
ともあれ、私は心臓麻揮の件は黙っていた。あとで気がついた。暖い南海に出れば心臓麻痺は起らない答だし、海没した時混乱で小川隊が一団になる事もない答だ。此の時は思い及ばなかった。
午後輪送指揮官から対潜哨戒班を出せと小川隊に命令が来た。哨戒班長は私。兵六名を連れて出た。救命胴衣のない兵が「私が行きます」と志願して来た。何か一つの連帯感が生まれていた。哨所は船首である。前任者の申し送りを受け、私が舳先に、左右両舷に兵三名あて配 置する。元来私達は南方要員の為、真冬にも拘らず薄い防暑服を支給されていた。鉛色の雪雲は低く、北から南へと激しく流れ、吹雪はまともに、北風と共に横なぐりに顔に吹きつけた。多少は防寒の助けになろうかと着装した雨外被は強風に煽られて、ばたばたと音を立てて、捲き上った。五分もたたぬうちに、手足は寒さにかじけて、歯ががちがち嗚った。少々の足踏み位では間に合わない。舷側に寒風を避けて、身をかくす訳にも行かない。 船首にごうごうと押寄せる白浪に、舳先を突込む度に、船は大きく上下動した。ジグザグ航法で右に左に変針する毎に横浪をうけて、ローリングが加わった。その内少しずつ雪はへったが風は衰えなかった。視界はかなり開けてきた。「潜望鏡と魚雷に注意しろ。真直ぐに白い 尾を引くぞ。白波と間違えるな。一直線の白い筋だ。発見したら怒鳴れ」と命令した。発見次第大きな赤旗を振る事になっている。後方のブリッジでは絶えず、これに注意している筈だ。私達は白波の押し寄せる海面を近くから遠くへ、速くから近くへ、右から左へ、左から右へ とゆっくり注意深く、対潜監視の目を向けた。対空監視の要領でやれと指示した。私逹の監視の目に此の船の運命がかけられていると自負し、緊張して勤務についていたが、考えてみると、こんな荒天、高浪、悪視界の三条件揃った悪天候下で、潜水艦攻繫などがある筈がない。まして空襲など考えられもしない。此の船の対敵装備は船尾に短砲一門だけだ。それも爆雷用だそうだ。砲側に爆雷格納庫だという大箱がおかれていた。他に砲はなかっ た。船速八節の船が潜水艦攻擊をうけたらいちころだ。無防備ともいえる船団は浮上した潜水艦の備砲にも対杭できない。後できいたが、船団が魚雷攻撃をうけた時は 各船勝手に、四方八方に散り散りに逃げろと云う命令だったそうだ。そうすればどれかが助かるだろうと云う計算である。対抗防衛の手段はなかった。三十六計逃げの一手しかなかったのである。
二時間の勤務は異常なく後任に引き継いだ。急いで船倉におりる。体中に寒さで感覚がなかった。誰も凍傷はなかった。風邪も引かなかった。若さの故であったろう。この時太陽が雲間に顔を出した。熱帯南方行きのイメージは潰れた。余りの寒さに、これが南方かと悪態をついた。この輸送作戦中唯一の吹雷、あの夏衣袴の軽装、寒かった。ブランコにでも乗った様なピッチング。変針時の横風と横浪のローリング。揺れた。水行二日目は変な体験が続いた。これから何が起るのかと先が思いやられ た。此の後高雄入港迄私は二度と対潜哨戒には出なかった。こんな嵐にも合わなかった。こうして一日中北上は続いた。此の夜針路は西に変更された。
十五日朝、甲板に出ると太陽の位置が変っていた。黄海を横断中と判断。海は静かで、青く、黒く冷々としていた。周囲に陸影なし。ぐるりと見廻したが水平線のみ。 僚船も並んで勇ましく白波をたてていた。前日と打って変って無風の静かな海である。三寒四温の温日に当ったのか、割合と寒さは感じなかった。快晴になった。午前中被雷想定避難訓練を行ぅ。訓練の目的、退避の方法、状況の説明の後、号令一下開始、船倉より甲板迄高さ五米、上部は梯子下部は階段である。上の梯子を各隊に区分。千六百人は一斉に登り始めた。威勢の良い動きもすぐ止った。そう早く梯子は登れない。蟻の行列になった。数珠つなぎの列の動きが鈍かった。時間が掛って緊張感がとけ、何だか運動会の様であった。皆ゆるゆる登っている様にみえた。兵は騒ぎもせずに順番を待っている。早く、急げと叱咤する声もなかった。全員甲板に上る。約三十分。実戦ではこんなに大人しく列を作る筈がない。 阿鼻叫喚の火と水の地獄図絵を現出する事請合いだ。三十分も掛る様では被雷すれば先ず駄目だと私はあっさりあきらめた。講評で沈没時問に就いて、轟沈は被雷沈没迄五分。そして四十分浮いておれば沈没の心配はない。第一回の訓練は「良好」と判定された。変な講評であった。時間短縮について話はなかった。海没経験者はどの隊にもいなかった。夜間の被害では電燈も消えて闇の中で、どうにもなるまい。海没を想定、大牟田で購入した品の中に懐中電燈はニケしかなかった。私は闇中の被雷、難破、漂流を想定していた。大牟田での購入品が果して役に立つ時がくるのであろうか。
この日以後、甲板で過す兵が各隊急激にふえた。夜も甲板で寝ているのには驚いた。甲板の夜は特に冷えた。 被雷時、船倉にいたのでは、万に一も助からんと思ったのであろう。当然である。命は惜しい。人間の本能である。私はそう思った。だから強いて船倉に帰れとは言わなかった。風を引くなと言うのが関の山だ。部厚いシートで覆われた救命艇の中、下や物影に寝ている様であった。気になって、見廻って聞いてみたら、矢張り闇の中で、寒いとふるえていた。救命胴衣を枕にしていた。闇の甲板であちこちしながら曽ての暗夜の透視隠密行動訓練を思い出していた。今の人に一寸先は暗黒の恐怖が解るだろうか。照明に馴れた今の人々に暗々黑々が解るだろうか。
反対に船倉は空いて多少は楽な姿勢で休めた。私はテンホーのコーだと呟いた。甲板の寒さは体の毒だ。船倉の方がずっと暖。私は兵と同じ様に甲板に寝る気にはならなかった。今は暖い方がいい。海没すれば嫌でも冷たさは、たっぶり味わえる。この後も退屈しのぎと訓練をかねて、何回か退避訓練が実施されたが、大した成果もなく、その内にこの訓練も己んだ。梯子も増設されなかった。被雷対策の指示は何もなかった。
十六日快晴。支那大陸沿岸を初めて望む。山東半島か或はその南部かと想像する。支那事変以来数年間、大陸は砲煙弾雨の中にあると云うイメージが強かったが、海も空も青く、柔い日の光をうけて、大陸は薄く水色にみえる低い山々が連って、戦火は感じられなかった。空と 海と山の濃淡の隠かな水色は平和そのものであった。此の日から大陸沿岸沿いに沖合三十~四十キロと思われる海域を即かず離れず南下を続ける。
或兵が携帯口糧の乾パンをボリポリやっているのを目擊。見捨ててもおけず全員を甲板に集め、検査を実施。 口糧袋は粗目で中味は一目瞭然。結果は教育召集のロートルに多かった。軍隊では三十才は老児である。中には一個の乾パンを二~三個に分割したり、異物を入れて袋を脹ませてごまかしている者もあった。要領よくやった積りであろう。ごまかすと云うことが私には我慠ならなかった。地方人がそのまま軍服を着た許りで全く軍隊を知らないと云えた。船中で何もする事がないのだから口でも動かすより仕方がなかったのだろうとも思ったが此の結末はつけねばならない。「一歩前へ」「メガネとれ」「脚を開け」と神戸以来始めて気合いを入れた。 けれども、この足の踏ん張り方も知らない兵、殴られ方も知らない兵をみている内に、何故か白々しく空しかった。此の日から私を見る兵の目が又変った。軍隊生活の中で、私は軍隊という戦斗組織にとって、鞭と飴に象徴される罰と賞は絶対の手段であり、殴り方も殴られ方も又一つの技術であると割切っていた。初年兵の時、毎日殴られているうちに、殴られなかった日は何だか気が抜けた事があった。どうした事かと今でも思い出す。
加古川の連隊で、私の同年兵の高知出身の元気者、田内二等兵が曾て日夕点呼前の、内務班古兵の注意事項伝達中に突然手を揚げた。質問かと思ったら「要領とは何でありますか」と大声で古兵に尋ねた。一瞬内務班がシーンとなった。又繰返して尋ねた。初年兵の誰かが馬鹿がと眩いた。古兵も毒気を抜かれた様な顔をした。次に平手がとんだ。田内はびっくりした様な顔をして目を大きく開いていた。彼には殴られた意味が解らなかった。何回も殴られて、よろめきながら顔を真赤にして大声で質問を繰り返した。古兵の回答は平手打ち丈だった。田内の質問した要領は例えば不動の姿勢の要領とは違ぅのだ。 田内の質問した真意は何だったのか。「要領」とは軍隊でこんな取扱いを受ける意味を持つ。一、軍人は要領を 尽すを本分とすべし。と称えられてはいたが…。彼はニューギニヤ行きになった。
私はもっと要領よくやれと言いたかった。「此の携帯口糧はいざと云ぅ時の非常食だ。大事にしろ。誰も自分の命、食糧は別けてはくれん。命網は誰も離しはせんぞ。考えろ」兵達は大声で「ハィ」と答えた。海没で水にぬれたら乾パンなんか、どうにもならんのに馬鹿な事を言ったものだ。携帯ロ糧は甲乙二種があった。甲は精米八百七十瓦(又は精米六百七十瓦、麦百五十瓦)牛缶百五十瓦、砂糖二十瓦、塩五瓦。乙は乾パン六百九十瓦(三食分)牛缶百五十瓦、砂糖二十瓦、塩五瓦であった。携帯口糧の予備はなかった。兵を解散させてから私は暫らく一人で青い空を眺めていた。乾パンはぬれたらどうなるのだ?
十七日晴。夕方から風が出た。船が大きくゆれた。乗る飛行機がなく歩兵部隊に転属、南方に征く特操見習士官数名に、ブリッジに風呂があるそうだが行ってみないかと誘われた。日夕点呼後であった。輪送指揮官、各部隊長はブリッジに個室があるのだという。そう言えば船倉には下級指揮官しか居なかった様にも思うが定かではない。昭和初年の歩兵一年志願将校は軍装も立派で私達が任官用に持っている軍装とは比較にならなかった。胸に下げた双眼鏡は特に目についた。私達には当時最早入手出来なかったのである。防空将校には必需品だったのだが。仕方なく私は色収差のついた三十円の私が別子銅山峯、赤石山などの山登りに使っていたものを持っていた。これでも地方人としては苦心して手に入れたもので ある。軍靴も牛革であった。私達の編上靴は豚革であった。應召のロートル少尉のとぼけた話は飄々と面白かった。俺は戰争に行って何をするんだと云う人がいた。号令も知らんと言った。私は大声で笑ったが心の中で俺も何をするんだと思っていた。明るい顔で本気かどうかも解らなかった。殆んどの人が所属部隊長よりも年長で、人生経験も豊富で暖か味があった。又社会的地位も高い人が多かった。
ブリッジに上ってみると成程、廊下沿いに個室が並んでいる。ゆったりしている。私達のすし詰めの船倉と比ベてこん畜生と思う。風呂は解らなかった。人影もなかった。うろうろしていて、船の操舵室に入り込んだ。軍人はいなかった。この時気が付いた。船のエンジンが停止していた。止めたのではない。止ったのである。「故障か」ときいた。操舵輪を握っていた航海士は「現在本船は機関の故障で漂流中だ」と普通の声で言った。うねりが大きく感じられる。「船団は?」ときくと「ずっと先の方だ」と答えた。「すぐ直るのか」と皆心配そうにきいた。船長はいなかった。「回復次第船団に追及する」と航海士が前を向いたままで返車した。船団速度八節。本船の最大速度八節では遅れて追付ける筈がない。船窓から前方をすかしてみる。唯闇がある許りだ。何も見えない。風に雨がまじっている様だ。雨がすーと斜に走った。船団を離れたときいて急に気が細った。燈火管制下の薄暗さが余計気を减入らせた。航海士の「心配いりません。寝て下さい」と事もなげな言葉をきいて、何だか 詰らん心配をしている様にも思えた。「潜水艦もいません」と別の声が言った。
十八日快晴。目ざめるとエンジン音快調。急いで甲板に上る。周りに僚船を見る。やっばり仲間がいるのは心強い。ヤレヤレと思う。機関故障は知らなかったのか、 話す者はいなかった。この夜又ブリッジに行き船員と色々話をする。船団速度八節は本船に合わせたものであり、 昨夜の故障は具合よく回復して、ジグザグ航海の船団に 直航、追及した。故障が雨風の夜でよかったと言った。 小さな水中聴音機に興味律々。昨夜の潜水艦はいないと言ったのは此の人だ。舶輪の横に低く座っていた。多少の説明をきいてレシーバーを耳に当てる。船底に受音装置があるそうだ。ザーザーと単調な音が聞える。「浪の音か」ときくと係員が、これが前後の船の推進音と浪の音だと教えてくれた。もう一度レシーバーできいてみたが矢張り私には音はザーザー丈で、さっばり区別が出来なかった。俺は音痴だからなと自ら慰めた。係員は鯨の嗚声も聞えると言った。鯨が嗚くとは知らなかった。かなり離れた艦船のエンジン音、スクリュ音でも判別できます。方角、距離も解ります。と当り前みたいに言った。 そして水中音は聞いていると面白いですよ。潜水艦がいなければねと付け加えた。私連は凄い凄いと感心する許りであった。が素人にも判別出来ない精度では大した事 はないと思った。やはり何事によらず訓練かなと思ったりもした。
そぅ言えば対空監視で敵機発見は耳よりも目の方が早かった。私は目で追及しても隼は八千米、四発の川西大艇はニ万米で見失なった。安田隊の測高機長中村兵長は 真夏の真昼の真上の金星を見る事が出来た。八糎対空望逮鏡を向けてみると、チャーンとそこに星があった。びっくりした。訓練の成果だと思った。
十九日快晴。海の色段々と青から黄色く濁ってきた。
何か異変があったと一人合点していた。大陸の風景はずっと変らず、低い山々が続く。海の青さがなくなって、見渡す限り黄色の濁水となった。誰かが楊子江の水だと言った。異変があったと思った俺はとんだはんちく野郎だ。そう言えば河口から数百秆は長江の水で色が変ると教わった事がある。やはり百聞一見に如かずだ。もうこの濁水の色を忘れる事はないだろう。どこが楊子江の河口だと陸地に目を凝らしてみたが全く解らなかった。此の辺で は潜水艦は先づ居るまいとの事であった。潜航するには 浅すぎる。雷擊をしても爆雷攻撃をうけると逃れる術がない。三十米位だと説明された。そうだろうなと納得させる海の色であった。潜水艦の心配がないと聞いて当分のんびり出来ると喜んだ。心なしか船団速度も少し落している様に思えた。それは海が浅いからだと誰かが言った。三池出港以来船には全く出会わない。大陸の人家でも見える程は近付かなかった。
廿日快晴。楊子江より海に流れ出した濁水の泥の海を行く。壁土をこねている様な色である。中学時代の秋颱風で見たの蒼社川よりも何倍も濃い黄色であった。 泥海の広さ限りなし。快晴続く。気温も稍々上ったのか、 小春日和を思わせた。この見渡す限りの泥の海に、長江の水量と長大さを想像するも実感が湧かなかった。この長江を抱く大陸の広大さを思う丈である。濁水を見つめているうちに、周りを忘れた。不意に思い出した。一句。
蕭条と秋の山道影一つ
海の色から故郷の窓峠の緩やかな峠道と山土の色を思い出した。そして峠道からみた窓の向うの空。静寂、孤影、朝の光、たそがれ…心は故郷の山野をさまよっていた。 昭和十三年、周桑郡大頭の寿喜(すき)心首藤房太郎作である。復員してから作者に会って此の話をしたら、作者は首をかしげて、覚えていないと言った。
兵員一同航海馴れして事もなく、緊張感全くなし。無事に帰れたら愉快な官費旅行だとうそぶいた奴がいた。 私もそうありたいと同感した。甲板に出たり、船倉に入ったり、寝たり食ったりで又訓練皆無。輸送指揮官からも 何の指令もなく過す。
廿一日快晴。航路南南東に向う。台湾海峡横断。濁り海から真青な海に出る。又潜水艦の心配が始まった。甲板に出ている全員が監視員になって海上に視線を走らせた。朝鮮の寒い海から泥の海、そして南国の暖い海。やはり海は青がいい。空も青く気持ちよく快調に進む。靑い海と白い波と進む船団。壮快であった。気温急激に上昇。一足飛びに冬から夏へ、南国に来たとの感強くなる。防暑服で丁度よい。十八、十九日頃から甲板で寝る兵が増えた。私は相変らず船倉で寝る。隊長はどうしていたのか思い出せない。さしたる事もなく銘々勝手なことをして無事平安な航海が続いたのであろう。
この日、真昼間の甲板で夏の様な明るい日光に白くすける様な小さな虫が腕を這っているのを見付けた。これは何だと側にいた兵にきいたらシラミですと答えた。一瞬ポカンとして次に恥ずかしい気持ちが湧き上ってきた。手の平にのせて、つらつら眺めた。神戸で支給された被服に卵がついていたのかと思った。シラミとの付合いは 翌年四月頃迄続いた。後に平野大隊の築域掛となり、雨期のキールンで通称無線山に戦斗指揮所を構築中、連日の雨にうたれ、いつも肌身をぬらして、乾く間もなく、シラミも卵も冷え切って死に絶える迄続いた。キールンは一年のうち晴天は六十日と言われる程雨天が多かった。キールンと台北は馬の背で天気をわけた。キールンから台北に通じる国道はトンネルを抜けると道路を横に画した一線の北は雨でぬれ、南は乾いて晴天でぁった。
軍隊で見たもう一つの凄い奴。南京虫にお目に掛ったのが十八年夏の神戸和田岬陣地。突堤の上の兵舍の板と板の合せ目の中に張り付いていた。神戸は南京虫の名所であった。あの小さい丸くて赤い嫌な奴。退治する薬がなかった。白い粉末薬があったが幾ら振っても一匹も死ななかった。雨が降ると演習休みで初年兵は板の合わせ目を探して、一匹ずつ突き殺して廻った。突くとプーンと臭かった。そして東京世田ヶ谷の機甲整備学校はもう一つ凄かった。夜になると天井からポトン、ポトンと落ちてきた。不寝番に立って兵舍の二階を一廻りして帰って来ると、軍袴に五〜六匹必ず付いていた。 二階は特に多かった。終には二階は省略して見廻りはやめた。寝る時には、たった二足しかない軍足を、手に一足、足に一足はめて寝た。夏の革で汗まみれになったそれでも南京虫は侵入して来た。たまりかねて南京虫当番を四名宛作り、毎朝、早朝点呼前に大釜で熱湯を湧かして、煮えたぎる湯を廊下から始まって片端からぶっかけて廻った。天井板の継目には全部新聞紙で目張りをした。誰かが此処の南京虫は関東軍生え抜きかも知れんと歎いた程しぶとかった。
卒業前三ヶ月位は「あ号」作戦の演習で那須金丸ヶ原 (四十八時間、飲まず、食わず、眠らずの訓練もあった) 海洋訓練で越中島、野戦整備訓練で調布多摩川へ行ったりで校外に出る事が多く、あとどうなったか知らない。私は南京虫には割合強く、朝起きると何ケ所もかまれて、一ケ所毎にかんだ跡が、二つ赤く針の先程ついていた。 弱い奴は真赤に大きく腫らして苦しんでいた。痛いのか、かゆいのか今以て私は思い出せない。入校以来卒業迄に 私は六十キロから五十二キロに体重が娀っていた。首都東京で私達は高梁を食べていた。腹が減って食物の話許りしていた。卒業式の朝誰かが俺達は女の子の話をした事がないと言った。皆その時始めて気がついて顔を見合わせた。体力消耗で演習、勤務に疲れ果てて、かまれても気が付かぬ程眠りこけていたのかも知れない。
廿二日快晴。南国の空は抜ける様な深緑になる。台湾北端に接近。暫らくの間、船の揺れがひどかった。キールン沖は潮流の加減で有名な海の難所だそうだ。船は本当に陸に接岸するかと思われる位接近する。今尾連絡船で来岛海峡の潮流に乗って、今治沖大島の館山に乗りかける様な感じであった。段々と高く迫ってくる突兀と聳え立つ山。立木が一本一本数えられそうだ。緑でムンムンする内地の夏を思わせる。全山の強烈な緑で息がつまりそうだ。台湾だ!! あの山の向うはキールンだと云う。明るい澄み切った南国の空、青くどこ迄も続くコバルトの海、とにかく明るい。海からいきなり、そそり立つ急峻な緑の山を見上げた。冬枯れの日本内地から一足飛びの台湾の濃緑は印象が余りにも強すぎた。その時私は戦争を忘れていた。そうだ。我々は今輸送船に乗っているのだ。今は戦時中なんだと改めて思い出した。船は台湾を左に見て 一路南下、船脚を早めた。海は見ずに陸地許り見ていた。台湾中央山脈の高い山を見る度に、あれが新高山だ、次高山だと言い合っていた。
廿三日晴。高雄到着。此処に入港。左右から長く延びた防波堤。中央に一ケ開いている所が港口である。そして外港の左側に丘稜性の低山が続いていた。一隻又一隻、減速してゆっくり外港へ、そして内港に入る。内外港を区切る山に高雄要塞司令部があった。エンジン停止。大きな水しぶきをあげて錨が下された。広々とした内港、あちらこちらと停泊しているねずみ色一色の貨物船が沢山見える。この時港内に沈没船は見当らなかった。神戸港よりも遥かに広く、内湾型だ。南の方の岸は霞んでいた。流石に南進の一大基地だと思う。外港に停泊船はなかった。先日魚雷数発が防波堤に発射された由、港口から外港の船を狙ったが外れたのだ。爆発音が凄かったそうだ。以来外港の停泊船は全部内港に移された。此処には敵潜水艦が潜んで網を張っていた。虎の尾はすぐそこにあったのだ。知らずに我が船団は通過して来たのだろう。改めて緊張する。強運だと思った。
林立する貨物輸送船のマスト。北に低い山。東から南にかけて倉庫、工場の建物、そのずっと向うに見える青い山々。私達は今波静かな天然の要港高雄に無事入港したのだ。皆ニコニコしていた。手離しで喜んだ。海上十日間、危機は一應のがれた。
今日迄、敵機一機も見ず、潜水艦攻擊全くなし。護衛艦なし。掩護の航空機は最初の日の隼一機のみ。友軍から孤立隔絶した無防備の七隻より成る此の船団が無事高雄迄来れたのは、当時の戦況では奇跡に近かった。米軍の作戦と作戦の間の空白期間、空白地域を此の船団は縫って走ったのであろうか。
廿四日、甘五日、廿六日、停泊。快晴が続いた。空襲なし。上陸はなかった。皆、暇さえあれば甲板に出て周囲の船や港内を走り廻る小汽艇を眺めていた。北方の美しい緑の山々、その麓の船の出入の激しい船着場、それに続く高雄の市街を臨んで一度土を踏んで見たいなとそれ許り話していた。三日間私達はゆっくり休養して次の愈々危険な本番とでも云うベき航海に備えた。
しかし、此の三日間、船中で何をしていたのか全く思い出せない。隊長は船団連絡将校として要塞司令部へ出向、高雄の市街も見て来たように思う。船上から市街を 眺め乍ら色々と街の様子をきいたような気がする。
私は今私達の下着類を出発以来洗った記憶がない。干しているのを見た記憶もない。三池を出港してはや二週間が来ようとしていたのに。ずっと着た切り雀でいたのだろうか。
此の間に船団は次々に新しい船を加えて十三隻に再編成された。各船連絡将校の往来が激しかった。明廿七日 午前九時出発と決定。最終目的地は南方総軍司令部所在地佛印サイゴン。今度こそ、皆の顔に緊張が走った。
朝から終日、陸と各輸送船の間を小汽艇が何隻も忙しく、しぶきをあげて走り廻る。ずんぐり小汽艇に今日は兵員は勿論の事、食料その他の補給物資の梱包が山と満載されていた。港の静かな水面に波瀾を巻き起して快走する小汽艇の活気が前線の戦場に向つて氣負う私達を元気づけた。南国高雄の空はあく迄も青く、高く、広く、澄み渡って、事もなし。時移り、西に傾いた太陽も、夕焼け雲を 赤く染めて、やがて静かに海の彼方に消えて行った。.
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