タカ長のタカの渡り観察

タカが好き、山が好き、花が好き、心はいつも旅もよう。日々移ろいゆく心もようを綴るナチュラリストのつぶやきです。

何たるドジだぁ!~5

2020年09月15日 | 山歩きから
すでに紹介しましたように、恐羅漢大学の学長は故加藤武三で決まりです。その加藤の遺稿を限定出版するとき大活躍をしたのが大山で遭難死した高見和成です。ご存知の人も多いと思いますが、日本を代表するクライマーでした。
      
     

若いころ、仲間内では高見のバカたれが、と悪口を言い合っていましたが、気がついたら高見は世界の高見になり、タカ長はたちは相変わらずの田舎登山者、山の話などまともに出来ないことになっていました。

そのためか、高見から山行きの誘いを受けたこともありませんし、タカ長からお願いしたこともありません。しかし、、、、

後年彼が「自称文化人もどき」と言っていた活動にはタカ長も接点があり、遺稿集出版の時はタカ長もささやかな協力をしています。

その高見和成の想い出を2~3紹介します。

     

タカ長たちがあるログキャビンで泊まる計画を立てたことがあります。その話を高見にしたら「天ぷらを作ってやる」と言う提案。
当日高見はすべてを取り仕切りました。天ぷら鍋には温度計がありました。万事凝り性だった高見には油温○○℃くらい、と言う言葉はないのです。

翌朝はネパールチャイをご馳走してくれました。それは良いのですが、高見は牛乳を忘れてきたことに気づき、夜明け前にログキャビンを出て麓の町に牛乳を買いに行きました。
彼の辞書には「牛乳を忘れた、ゴメン、ゴメン」と言う言葉はないのです。

     

高見から何度も果実酒をもらいました。普通の人なら何かの瓶に入れて持ってきてくれるはずです。しかし、高見は少し違いました。

その瓶には市販品を思わせるような、綺麗なラベルが貼られており、そこには「Takami original」の文字が書かれていました。高見はすべてに凝り性でした。

     

この記事でも紹介した「西中国山地」の著者、桑原良敏先生の山荘で、あるピアニストの演奏会が企画され、その手伝いを頼まれたことがあります。

その日山荘に行くと「本当に来てくれたん、、、」と満面の笑顔で迎えてくれました。多くの人に愛されたあの笑顔を見たのはそれが最後になりました。

その冬、高見は大山北壁で遭難死しました。

     

高見の「自称文化人もどき」の活動は多岐にわたっていました。

岡の上の歌姫さんから「同窓会のような山登り」と言う言葉を聞いたとき、、、、、

高見が健在のころ聞いていたら、さっそく彼に相談していたはずだと思ったのです。

高見に相談したら間違いなく素晴らしいことを企画し、彼の広い人脈を使って、タカ長には思いつかないような素晴らしいイベントを考えてくれたはずです。

ある山で育った登山者が、所属する山岳会の枠を超えて集まる同窓会のような登山、と言う発想はタカ長には新鮮でした。

その発想をこの歳まで持てなかったとは何たるドジ!痛恨のドジだったと思わざるを得ないのです。

恐羅漢山をめぐる山を語り始めるとキリがなくなるので、今回はこれで終わりとします。

         本日の画像は伯耆大山で撮影したものです。

何たるドジだぁ!~4

2020年09月14日 | 山歩きから
その頃恐羅漢山をめぐる山には若い登山者であふれていました。

若いということは悩み多き年頃、豊かな感性を持っていると言うことです。若い登山者はそのようなものをザックに詰めて恐羅漢山をめぐる山を歩いていました。

若い登山者は恐羅漢山をめぐる山に癒され、山から多くのことを教えられました。山は登山者たちの学校でした。このような認識はタカ長だけではなかったはずです。

     

サンパチ豪雪にすべてをこわされ、心にポッカリと穴が開いていたころ、恐羅漢山にスキー場が出来ることを知りました。

あの山にスキー場をつくることは自然破壊につながることは認識していました。しかし、サンパチ豪雪ですべてをこわされ、離村を余儀なくされた村人を見ているタカ長はその計画に反対する気になれませんでした。

     

村人たちには村人たちの生活がある。スキー場が出来ると村人たちの雇用の場が生まれると思ったのです。
しかし、タカ長のその考えは甘かったようです。スキー場が出来ても恐羅漢山のふもとの状況は変わっていないようです。

     

スキー場が出来て、タカ長の足は恐羅漢山から遠のいて行きました。あれほど通っていた恐羅漢山に行かなくなりました。

恐羅漢山をめぐる山を再び訪ねるようになったのは、団地の同好会として山グループを立ち上げてからです。最初に十方山に行きました。
その後、恐羅漢山にも行くようになりましたが、その頻度はおおくありません。

     

その頃はマイカー時代になっていました。、恐羅漢山をめぐる山を日帰りできました。

若いころから恐羅漢山をめぐる山を歩いている登山者としては、日帰りで恐羅漢山をめぐる山に登れることはウソみたいに思われました。
その感覚が無くなるまで1年も2年もかかったように記憶しています。

     

タカ長に限りませんが、広島の若い登山者の心はいつも岩山、岩稜のある高い山に向いていたはずです。しかし、広島にはそのような山はありません。そこで次善の策として、ブナに覆われた恐羅漢山をめぐる山を歩いていた、と言っても大きな間違いはないと思います。

ブナの山の良さを知ったのはある程度歳をとってからです。若かったタカ長は広島の藪山にある種の劣等感を持っていました。

藪山を歩くには藪山を歩く技術みたいなものがあります。岩稜の山を歩けない劣等感の裏側で、このような山を歩かせたら中央の登山者には負けない、と心の中で強がっていました。

良きにしろ、悪しきにしろ、広島の登山者は広島で育ってゆきました。その中心にあったのが恐羅漢山をめぐる山です。恐羅漢山をめぐる山は広島の登山者にとって忘れることができない学校でした。

     

今はスキー場のスロープになっているここが、かつては田んぼであったことを知る人は少なくなったようですが、この歳になるとタカ長にとって恐羅漢山をめぐる山は大切な学校であったことを痛感します。

その学校に縁があった人たちが集まって行う山歩き、もうかつてのような登山は出来ませんが、そのような「同窓会のような登山」は素晴らしいものだと思います。

そのような登山を10月10日に予定しています。

窓ヶ山を見ながら

2020年09月13日 | 山歩きから
涼しくなってきたので、ジャイアントコースに行きました。

3月に赤帽さんたちと登って以来です。朝の天気を見て決めました。

    

ジャイアントコースは67番鉄塔から71番鉄塔まで、電力会社の管理道を登るコースです。

それとともに、右に窓ヶ山を見ながら登るコースです。

67番鉄塔では前山に隠れて少ししか見えない窓ヶ山が、登るにしたがって全容を現し、、、

向山や東郷山も見えてきます。

    

鉄塔と鉄塔のあいだは森の中の登りです。植林地が少なくて雰囲気の良い登りです。

    

68番鉄塔まで登ると視界が開けますが、このあたりも茂ってきました。

この時期、タカの渡りを見るには最適と思ったこともありますが、あっという間に視界が狭くなりました。

    

71番鉄塔方面です。

何度見ても、あの間に急登があるようには見えないのですが、、、、、、、

間違いなくあるのです。その急登をひとつ、ふたつと登って69番鉄塔に着きました。

    

向山は見えますが、窓ヶ山方面の視界はありません。

ここへ来るまで何度も急登をこなしていますが、これからが急登パート2になります。

    

あそこを目指してパート2の急登にチャレンジです。

この間はカメラもお休みです。ひたすら登るだけです。

    

70番鉄塔まで登ってきました。

窓ヶ山、向山の風景が変わってきます。69番鉄塔がずいぶん下に見えます。

ここから最後の頑張り、、、、、

    

71番鉄塔の尾根に登ってきました。70番鉄塔が右下に見えます。

このような写真を撮るときは晴れてほしいのですが、なかなか思うようになりませんね。

茂ってきたブッシュをくぐるようにして71番鉄塔に到着しました。

歩き始めて丁度2時間の登りでした。

    

ここで証拠写真を1枚。

タカ長にとっては楽な登りではありませんが、それでも想定通りに登ることが出来ました。

下りは久しぶりに一枚岩の尾根を使いました。この下りもジャイアントコースに負けない急登コースです。

万が一にも転倒は許されないので、厳しいところは腰を下ろして、タカ長たちが言う滑り台方式で下りました。

     

今日の記録です。

ご覧のように登りも下りも急登コースです。

累計標高差が745メートル。歩数は15,700歩です。

昼飯前の山歩きにしては少しきつい山歩きになり、帰宅したのは12時30分でした。

想定より30分遅い帰宅です。





    

古い写真

2020年09月12日 | 山歩きから
雨が降っています。

早朝からスマホがけたたましくなりました。町内の一部に警報が出たようです。

これで戦意消失。それにしてもこの警報音、何で関係ない地区の住民のスマホに流すの???

このような警報の流し方はオオカミ少年効果を助長するだけで、肝心な時も警報を軽く見るようになるのでは???

    

昨日のつづきみたいな写真です。あの頃の可部冠山の山頂です。そして、、、、

    

これは山頂にある岩のそばで撮った写真です。

当たり前のことですが、あの頃は皆さん若かったです。その一人がタカ長ですが、、、、、

自分で自分が分からないような気がします。

    

おそらく可部冠山の山頂から撮った写真だと思いますが、この写真については記憶がよみがえりません。

要するにこのまわりの山はこのような感じでした。

半世紀もすれば山の様子も変わる、と言うことでしょうが、それにしてもその変化が激しいような気がします。

もう一つ激しく変わったのが、恐羅漢山をめぐる山の一つ、聖山です。

秋は笹原にススキが光る山が、今は木に覆われた展望のない山になっています。

もし、タカ長が魔法を使えるのなら、この二つの山をむかしの姿に戻したいのですが、、、、

そのような魔法は使えませんね。残念です。



何たるドジだぁ!~3

2020年09月11日 | 山歩きから
タカ長の恐羅漢大学のキャンパスライフは永くは続きませんでした。

昭和38年の豪雪、サンパチ豪雪がすべてをこわしてしまいました。

その時タカ長はMさん宅に民宿してスキーを楽しんでいました。

昭和38年1月3日だったと思います。正月休みのスキーを終わり、古屋敷から内黒峠に登るとき、ふもとの古老から「この雪の降り方はいつもと違っているから気をつけて帰れ」と言われたことを今でもハッキリと記憶しています。

雪は降り続いていましたが、先行者のトレースもあって、さしたる苦労もしないで内黒峠を越えました。

スキー技術が未熟なタカ長は峠を下りたところで転倒しました。背中には重いザック、もがいて、ももがいても新雪は軽くて、空気を蹴っているようでした。

立ち上がるまで時間がかかりましたが、こんなことは愛嬌みたいなものです。遅れて古屋敷を出発した人は下山に苦労しました。1月6日には某有名企業の山岳部員が内黒峠で遭難死しました。

これらの状況から見えるように、タカ長の脱出は間一髪のものだったのです。

     

サンパチ豪雪は農山村に大きなつめ跡を残しました。離村する人が一気に増えました。タカ長が定宿としていたMさんも広島市内に転居されました。

     

昭和39年秋だったと思います。タカ長は久しぶりに古屋敷を訪ねました。いつもと違って、その時は三段峡のほうから横川谷をつめて古屋敷に向かいました。

その日は風が吹いていました。その風に吹かれて、一気に増えたススキがカサカサと音をたてていました。あの音は今でも耳の底に残っています。

Mさん宅の前にもススキが生えていました。その風景を見て、タカ長の「恐羅漢大学」は終わったと実感しました。

     

恐羅漢山をめぐる山や古屋敷の村人たちとの交流は何だったのだろうか?

サンパチ豪雪が農山村に大きなつめ跡を残したことを知って、しばらく恐羅漢山をめぐる山から距離を置いていたタカ長が、その日、意を決して行った山でした。

恐羅漢山をめぐる山や古屋敷の村人たちとの交流は何だったのだろうか?
その答えが恐羅漢山を吹く風に音をたてているススキと無人の古屋敷?

あの日をもって恐羅漢大学の青春は終わりました。

     

広島の登山者には人気の、可部冠山の稜線です。その頃は草山でした。
サンパチ豪雪の時、この尾根が真っ白い尾根になりました。伯耆大山に行かなくても、広島市内で雪山が楽しめる、と言うことで、喜々として登った記憶があります。

この風景を知る登山者は少数派になったのでしょうね。

    つづきます。

巨木の森へ

2020年09月10日 | 山歩きから
    

昨日は中学時代の同級生たちとの食事会。

このようなご馳走、肉です、肉ですよ。このような豪華は食事をオーダーして、3時間おしゃべりしました。

そのようなことが出来るのだから、ファミレスはいいなぁ。ファミレス万歳。

    

明日が雨予報なので、今朝独りで裏山を歩いてきました。

荒谷林道に車をおいて、旧河内峠を経て高森(大杉山)を目指しました。この時期、このコースを歩くもの好きはいないみたいで、蜘蛛の巣だらけでした。

ストックをワイパーがわりにして歩き、高森の手前のこの岩で小休止。

その後、次の目的地に向かいました。高森(大杉山)の頂上はパスして、大杉集落の巨木の森に向かいます。

    

植林地まで下りると視界が開けます。

分かってしまえば簡単なことですが、その先に、明らかに大きな木が見えました。

    

少しずつ下りて行きます。

大きな木は1本だけではないことが見えてきます。それらしい写真を撮りたいところですが、、、、

あいにく、この時間だけ雲ってしまいました。

    

カメラ位置には植林されたヒノキがあり、その木を避けながらの撮影です。

前回、同級生に案内してもらったコースを逆に下りて、巨木の森に下り立ちました。

    

確かに大きな木があるのですが、、、、

ソロ登山ではモデルがいなくて、写真に撮ってもその雰囲気は出ないようです。

    

でも、何枚か撮った後、お目当ての木に向かいます。

それがこれ、、、、、、

    

    

先ほど、高く抜きん出ていた巨木です。

棒のように見えるのが、その根から成長した、枝も葉もない木です。150cmくらいあるのでしょうか?

巨木の森を、前回は下から上へ、そして今回は上から下に歩き、大体の様子が分かってきました。

    

これで本日の目的は達成、大杉神社の前から林道に出て、、、、、

ひたすら歩いて、車に帰りました。

余談ですが、この神社の前をキイロスズメバチが飛んでいました。どこかに巣があるようです。

要注意ですね。

     

本日の記録です。

少しだけ涼しくなったので、この程度歩いても問題ないようです。

林道には風がありましたが、野分き立つ、と言うほどの風ではありませんでした。

秋本番はもう少し先になるのでしょうか?


何たるドジだぁ!~2

2020年09月09日 | 山歩きから
恐羅漢大学があるなら学長は加藤武三で決まりです。タカ長のこの独断に異を唱える人はいないはずです。
タカ長の前では鬼籍に入ったことなど理由になりません。学長の残された著作に啓発されている人は多いので、今もって学長であっても何の不思議もありません。

このように書きましたがタカ長は加藤学長から直接教えを受けたことはありません。恐羅漢大学の学生と書きましたが、タカ長など「恐羅漢大学附属小学校」卒業程度の学力ですから、加藤学長の薫陶を受ける機会がなかったのは当たり前のことです。

    
        
私は郷土の山々の愛を、その底知れぬ慈悲を、やがて自照の中に映し出さねばならなかった。小さな山歩き、例えばそれは貧しくとも母は、私の最も尊敬する存在である様に、その素朴な、忘れられた山々の魂は、不思議な引力をもって尊大な私の心を打壊いてしまった。
(中略)
それら「小さな山歩き」に於いて、誰でもが持つ様に私の最も好きな山々を持ったのである。芸北の山々、恐羅漢山と言ひ、十方山と呼ぶ山々のことである。地味な美しさと、素朴な人情である。文化を知らぬ静寂と、平和である。若い私の魂を全く魅了してしまったそれである。私はふるさとに帰へるようにその山懐を訪ねた。郷愁は胸をこがし、ひたすらにその山肌をあこがれたのである。「焚火」加藤武三著
    
この感覚はタカ長なりに理解できます。

    

その頃の恐羅漢山をめぐる山には若い登山者であふれていました。もちろん、タカ長もその一人です。

若い登山者はザックに色々なものをつめこんで、12㎞の内黒峠道を歩いて古屋敷に下り、それぞれの山に登っていました。

若いということは悩み多き年代であるということです。人生の悩みもあれば仕事上の問題もあります。惚れたはれたの悩みもあります。

    

そのようなものを持って大きな自然の中を歩いていると、人ひとりの存在など小さなものに思えてきました。死にたいくらい思い詰めていた問題なども、とても小さなものに思えてきて、山を下りるころには心の悩みなど霧散していました。

そのような登山をくり返していました。

    

加藤武三の言うように、恐羅漢山をめぐる山は「小さな山」です。しかし、小さな山でも人ひとりの存在と比べると大きなものです。圧倒されるようなその大きな山の前では人は素直になるものだと感じていました。

    


そのような山旅で癒されていましたが、その中で忘れてはならないのが村人たちとの交流です。

純朴な村人からどれだけ癒されたか、はかり知れないものあります。定宿のMさん家族との交流、そこには故郷の家のような温かさがありました。

テント泊の登山であっても、雨の日はMさん宅に遊びに行っていました。炬燵の中で長時間おしゃべりして、夕方になるとテントに帰って行きました。

    
             本日の画像は十方山登山の時に撮ったものです。

恐羅漢山をめぐる山で多くのことを学んだ、と書きましたが、そこで学んだのは単なる登山技術だけではありません。それ以上に大きなものをここで学んでいたように思います。

広島の登山者にとって恐羅漢山をめぐる山は心の故郷であり、人生の学校でした。

    つづきます。

台風一過の裏山歩き

2020年09月08日 | 山歩きから
    

恐羅漢大学の話題はボツボツ語るとして、今日の裏山歩きです。

いつもの駐車場から見る風景は、「台風一過の青空」とは言いませんが、風はありました。

週間予報を見るまでもなく、台風10号が去って大気の状態が一気に変わったようです。

    

大気の状態が変わると参加者の状況も変わるのでしょうか?いつも2名だった女性参加者が6名になりました。

タカ長たちのグループはもともと女性優位だったように思いますが、いつの間にか女性参加者が少ない状態になってしまいました。

脚力、体力の問題もあるのでしょうか?

皆さん、残された少しの脚力を使って歩いている状況なので、気候のチョットした変化が参加意識に関係するのかも分かりません。

    

自然歩道を歩きながらの話題は、、、、、

何故か学生時代の学校生活のことが話題になりました。オフレコの話題もあるので具体的なことは書きませんが、私たちの話題はいつどこへ飛ぶか分からないということです。

あやしい話をしていたのではないので、そのキーワードをひとつ二つ言えば、、、、三角関数、、、計算、、、烏口、、、、

60年も前のことですが、その頃はこのような言葉が現役でした。

このようなことを話しながら歩くのですから、タカ長たちのグループはレベルが高いでしょう???(笑)

    

何も言わなくても皆さん荒谷林道を先へ先へと歩いています。

これだけ見ても、耐暑訓練のような裏山歩きが終わったことが分かります。

    

ヘアピンカープを一段、そしてもう一段と登って行く感じです。

このまま大杉集落まで歩きたくなれば秋本番、と言うことでしょうが、今日のところはそこまで快適な裏山歩きではありません。

今日は酷暑の頃より2段上まで行った感じです。

    

台風一過と言っても、町のほうの風景は相変わらずもやっています。

このような風景を見ながら歩き、林道のど真ん中で記念撮影をしてひき返しました。

この間に出会った車は同級生の軽トラ1台だけ。メンバー以外の登山者はゼロ、いつも静かな裏山です。

    

水の消費量が減りました。

帰宅した後もエアコン無しで過ごすことが出来ました。

青菜に塩状態だったタカ長が元気になる季節到来です。さぁ、頑張りましょう。

    

今日の記録です。

数字が伸びたと言っても、ほんの少しだけです。

恥ずかしいような数字ですが、でも、山は競争ではありませんから、これで十分満足です。




何たるドジだぁ!

2020年09月07日 | 山歩きから
台風10号は韓半島に行ったようですが、風の強い状態は今も続いています。今回の台風は強大なので、拙宅の波板が飛ぶかも分からないと覚悟していました。しかし、実害は何もありませんでした。

台風の被害にあわれた人に心からのお見舞いを申し上げます。

8月22日に赤帽さんたちと鬼ヶ城山を歩きました。その日のことをブログに投稿された丘の上の歌姫さんの、おそらく何気なく書かれた一言にタカ長の脳ミソが激しく反応しました。

そうかぁ、その視点があったかぁ、それに気づかないなんて何たるドジだぁ!

と言う話題ですが、これでは何のことか分かりませんね。ボツボツ説明します。

とりあえずここをクリックその記事をご覧ください。

反応したのは「同窓会のような山登り」と言う一言です。

    

広島県の最高峰、恐羅漢山の山頂です。正確に言うと、地図上の最高地点は旧恐羅漢山

かつてこの山頂がブナの天然林に覆われていたことを知る登山者は少数派になったようです。

昭和三十年代の初めころまでは、全山ブナ、クロモジ群集の天然林に覆われた国有林の山であった。先ず東側が切られ、ついで南西の広見谷側が皆伐され、更に最近、中之甲側が択伐された。いま樹林が残されているのは、わずかに西面の亀井谷の水源帯だけという淋しい状態になった。「西中国山地」桑原良敏著

    

タカ長が足しげく恐羅漢山をめぐる山を歩いていたころ、恐羅漢山はブナの原生林に覆われていました。先輩たちから、失われてゆく原生林を惜しむ声を聞いた記憶がありますが、タカ長の記憶にある恐羅漢山はブナの山でした。

桑原先生の本を読むと、タカ長はブナに覆われた恐羅漢山を知る最後の世代だったようです。

    

その頃は、芸北山群と言われた恐羅漢山をめぐる山には若い登山者があふれていました。広島の登山者にとって恐羅漢山をめぐる山はハイマート、心のふるさとであり、母親のような存在でした。

ついでに言えば、父親は伯耆大山と言うのが広島の登山者の共通した認識であった、と言っても間違いないと思います。

そこで若い登山者は多くのものを学びました。

    

歌姫さんの「同窓会のような山登り」と言う言葉を目にした時、その頃の登山者は「恐羅漢大学」の学生であり、いま芸北山群の山を歩くことは、恐羅漢大学の「同窓会登山」のように思われたのです。

○○山岳会と言う枠を超えて、自分たちを育ててくれた山に集まると言う視点があっても良いと思ったのです。

    

30代から中学時代のクラス会の幹事をしているのに、何で今までその視点を持つことが出来なかったのか。
せめてもう10年前、願わくば親交のあった登山家高見和成が健在だった頃その視点を持つことが出来たら、色々面白いことが出来たのに、、、、

と考えると、タカ長は痛恨のドジをしたような気がしてならないのです。

    
             すっかり明るくなった恐羅漢山の尾根道

過ぎ去ったことを言っても仕方ないので、これから何かするつもりですが、その頃の恐羅漢山大学の学生で、今でもタカ長のまわりで山を歩いているのはタカカノだけ、多くの人が山を歩けない状態になっています。消息不明の人も多い状態です。

そのように考えると、くどいようですが、せめて10年前に気づいていたら、と思われてならないのです。

       つづきます。


ご安全に

2020年09月06日 | 日々雑感
    

強大な台風10号が接近中です。

拙宅は今夜から明日にかけて影響が出るはずです。気になりますが、植木鉢を棚から下ろしておく、程度のことしか出来ません。

ブログを更新する気分でもないので、台風が通過するまでブログの更新を休みます。

    

皆さん気をつけましょう。

台風の発生も、その襲来も人の手ではどうすることも出来ませんが、せめて被害だけは最小になるよう祈っています。