タカ長のタカの渡り観察

タカが好き、山が好き、花が好き、心はいつも旅もよう。日々移ろいゆく心もようを綴るナチュラリストのつぶやきです。

名前が見えない

2021年10月10日 | タカの渡り
先月タカ長の山ときどきタカ見に投稿した記事の再録です。

タカの渡りの季節です。

色々な事情があってタカ見旅が出来なくなりましたが、他所の情報も気になるのでこの時期になるとタカの渡り全国ネットワークの情報をチェックしています。

各地を渡ったタカの情報も気になりますが、それとともに何か所かの観察地の観察者名を見ているのです。

A観察地に○○さんの名前が見えない
B観察地に□□さんの名前を久しぶりに見つけてひと安心

そのようなことを見ているのです。

    

タカ長の鳥友は各地にいて、その人たちの活躍される様子が上記の観察地やFacebookの情報で見られると嬉しいのですが、名前を見ることが無くなった人も複数います。その中には一緒に海外まで出かけた鳥友もいます。

    

タカの渡り観察は思いのほかキツイことなので、加齢とともに観察地から遠のくのは仕方ありません。

でも、名前が見えないとそのように良くは考えませんね。歳を取って来たので仕方ない事かも分かりませんが、、、、、。

ご無沙汰が続いている内外の鳥友たち、皆さん元気にしているのかなぁ?


向山

2021年09月19日 | 携帯から投稿

向山でハチクマの飛来を待つています。

二つの軸

2021年08月02日 | 日々雑感
以下はタカ長の山ときどきタカ見と同じ内容です。

コロナの感染拡大が止まりません。

緊急事態宣言を連発されると「緊急」では無くなり、オオカミ少年の感じになります、、、、、

と言うようなことを書き始めるとキリがないので、今日は別の話題です。

    

この本を読んで、本間真二郎医師の発言に「わが意を得たり」の思いを強くしたことです。

感染症対策には二つの軸があります。「外側の軸」と「内側の軸」です。
「外側の軸」というのは、自分の外から来る敵であるウイルスを防ごうとする対策です。手洗い、マスク、ソーシャルディスタンス、ロックダウン、これらはすべて外側の軸です。もちろん、これらにも意味はあると思います。でも、それ以上に私は「内側の軸」のほうが大切だと思っています。つまり、自分の免疫力、抵抗力、解毒・排出力をあげることで、ウイルスに対抗する力を高めようという対策です。

私は外側の対策は必要ないとか、間違っていると考えているわけではありません。ただ、それ以上に大切なことを忘れていませんかと言っています。内側の軸のほうが本質ではないですか。


    

コロナ問題が起きて1年半、今では膨大な情報を見ることが出来るようになりました。しかし、政府からの情報も、マスコミからの情報も「一方向」からのもの、と言うのがタカ長の不満の一つです。

今日の話題で言えば、「外側の軸」だけが報道されています。しかし、それは間違っていると思っていました。

「外側の軸」より大切なのは免疫力を落とさないことだと最初から考えていました。マスク至上主義ともいえる風潮に批判的なのは、下手にマスクを着用すると免疫力の低下を起こしかねないと危惧しているからです。

必ずしも健康体だったといえない子ども時代、お世辞にも屈強とはいえない青春時代を過ごしてきたからか、自分の免疫力を大切にする気持ちが人一倍強いのかも分かりません。

    

拙宅の向かいにお住まいの土肥先生はこの本の中で、自己免疫力が大切なことを説いておられます。

患者さんの治癒の手助けをするのが医師の仕事、主役は患者さんご自身の自然治癒力なのです。

「内側の軸」が健全であってはじめて「外側の軸」が機能するのだと愚考します。「内側の軸」が弱いと砂上の楼閣のようになり、治る病気も治らなくと思うのです。

しかし、目にする情報は「外側の軸」ばかり、その一方的な報道が不満なのです。

ササユリが見ごろ

2021年05月20日 | 日々雑感
    

団地ののり面にあるササユリが見ごろになりました。

こののり面はそばに住む人の私有地ですが、その人に話を聞きました。

最初は1本だったササユリが、環境を整えることに専念していたらのり面全体に咲くようになった、と言うことでした。

いわゆる「園芸種」みたいなものを移植したわけではありません。

    

ここは私有地ですし、急な斜面なので「花ドロボー」も入りこめません。

そのため順調に数を増やしているのでしょうが、、、、、

このようなことを書くのは良いことではありませんね。

    

取材したことは団地のホームページや団地新聞にも紹介します。

団地の中には花を楽しんでおられる人が多いので、来春は「花特集」を組んでみたいと考えたことです。

山ではほとんど見ることが無くなったササユリの花を、団地の中で見ることが出来るのは嬉しいものです。



丸山

2021年02月28日 | 携帯から投稿

広島県安芸太田町の丸山に登りしました。

小さな山ですが、骨がありました。

とてもいい山でした。

タカ長の山ときどきタカ見は毎日更新するよう頑張っています。

こちらもご覧頂けると幸いです。


伯耆大山の想い出~3

2021年02月20日 | 山歩きから
タカ長の山ときどきタカ見と同じ内容です。

伯耆大山の想い出を書いていますが、タカ長が初めて大山を縦走したのは三鈷峰から剣ヶ峰、弥山だと思っていました。しかし、それはタカ長の記憶違いであることが分かりました。

机の奥の方を探していたら、捨てないでおいた古い山日記が出てきたのです。

初めて山らしい山に登った。と言う文で始まる山日記の骨子を紹介します。

1960年7月16日18時15分貸切バスで出発。 三次・米子経由
   7月17日 2時30分 大山寺着  仮眠

        5時45分 登山開始 夏道を登る
        8時10分 頂上着  ガスが巻いてくる
        時間記録ナシ 縦走開始
             ユートピア着  時間が遅れているので三鈷峰には登らない
             上宝珠越えから砂滑りを通って元谷に下りる

      
             画像はネットより借用したものです

今では信じがたい気持ちですが、大山の尾根を団体で縦走していたことは間違いありません。

その頃は今ほど崩落が進んでいなかったのでしょうが、それでも難所続きで、「細い所では1尺もない尾根」と山日記にも書いていました。

「終始ガスっていたのは残念だが、ガスが無かったら足がすくんでいたかも」とも書いています。

大山には何度も登っているので記憶が錯綜していますが、初めての大山であの尾根を団体で歩いたことは間違いありません。

その頃、大山登山と言えば縦走するものだと思っていました。

要するに、あの頃の登山者は若かったということでしょう。もし今、あの尾根が縦走禁止で無かったとしても、この歳になると縦走は絶対に無理ですね。


伯耆大山の想い出~2

2021年02月17日 | 山歩きから
伯耆大山には何度も登っています。

伯耆大山は広島から一番近い、アルペン的な風貌を持った山です。だから、タカ長だけではありませんが、広島の山好きは大山に通うことになるのです。

その頃の記録は手元にありませんが、3月と9月以外は一応大山に登っているはずです。その中で一番の思い出は昨日も紹介した初めての冬山大山です。

    

その頃、この遭難者のルートを下りて亡くなった登山者がいたはずです。その罠に落ちないためリーダーのKは実に慎重に行動していました。

リーダーのKを信頼していたからでしょうか、グレイアウトの状態になっても怖さは感じませんでした。

しかし、無事に生還して、大山寺から雲のかかった山頂を見た時には泣けてきました。生還の喜びと山の怖さを教えられた瞬間でした。

初めての夏山は三鈷峰から山頂、弥山への縦走でした。

三鈷峰で北壁の展望を楽しんでいたら冷たい風が吹いてきて、北壁はあっという間に雲の中に消えました。山の天気は一瞬で変わることを体感しました。

その二つの経験がタカ長の登山の下敷きになっています。

慎重な登山活動をするためには、最初の段階で山からぶん殴られるような経験をするのが良いのかも分かりません。

    
                  画像はネットより借用したものです

甘い言葉で誘われて、運よく天気に恵まれて、良かった良かったで終わってしまうと、その後の登山で隙が出ます。

初めての冬山でこのような尾根を歩いてしまうと、冬山は怖いものだと言われても、もう一つ実感がわかないのではないでしょうか。

体力も能力もないタカ長が、時にはバカなことをしながらも、今日まで事故なく登山が出来ているのは、最初の段階で、伯耆大山からぶん殴られたような経験をしているからかも分かりません。

その意味で、伯耆大山はタカ長の大切な山の先生です。



伯耆大山の想い出~1

2021年02月15日 | 山歩きから
先日、古い鳥友から電話がありました。

このブログの更新が止まっているけど元気なのか、と言う電話です。

このブログの容量がいっぱいになり、これからはタカ長の山ときどきタカ見に引っ越しする、と案内したはずですが、それを見ていなかったのでしょうか?

何かにつけてドジをする歳ですから深くは考えません。

このブログも写真の枚数を減らせばもう少しは更新できますから、これからは週1くらいは更新しましょうか?

    

タカ長の山ときどきタカ見と同じような内容です。

YAMAPからの情報です。

正直言うと、アホかぁ、、、、と思いました。

突然の吹雪、ホワイトアウト。冬の大山ならそんなの当たり前じゃん。

タカ長の知っている冬の大山はいつも吹雪状態です。

チョット吹雪くだけで遭難騒ぎを起こすような人は冬の大山に行くなやぁ、、、、と思うのです。

    

右が正規のルート、左が遭難者の軌跡です。

大きな青〇のところでビバークしたところを保護されました。

タカ長が初めての冬山で下りたのも右のルートです。

そのときは猛吹雪、ホワイトアウトではなくてグレイアウト、それもブラックに近い状態でした。その中をリーダーのKさんは頻繁に下山ルートを確認しながら、無事に夏山コースの尾根に下りて行きました。

さすが、広島高等師範学校山岳部OBの猛者です。

この登山者が今どきの器機を持っているのに、何故ルートを外したのか、タカ長には理解できないところがあります。

生意気なことを言うようですが、そのレベルの登山者は冬の大山に登ってはいけません。冬の大山は吹雪くことが普通で、晴れることのほうが珍しいのです。

そのようなことを前提に登山計画を立て、自分の能力を冷静に見ないといけません。

ともあれ伯耆大山のこのコースは、タカ長には忘れることが出来ないコースなのです。

お粗末なリーダーと行っていたら、タカ長の人生はあの時で終わったかも分からないのですから、、、、、、。

タカ長の山ときどきタカ見は毎日更新するよう頑張っています。

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たった独りの山旅~7

2021年02月01日 | 山歩きから
「たった独りの山旅」と言うタイトルですが、寄り道みたいな話題です。

たった独りの山旅ではなく、タカカノと二人で行った信州の高原歩きです。

    

昭和40年のゴールデンウイークに信州の高原歩きをしました。証拠物件の写真が残っていました。

古くから登山をされている人は記憶にあると思いますが、昭和40年のゴールデンウイークと言えば全国の山で大量遭難が起こった年です。

死亡62名 重症12名 軽症29名 行方不明1名

    

その時タカ長たちは菅平高原にいました。

前日から天気が悪かったので、少しでも雨が凌げると思い、運よく見つけて東屋みたいなものの下にテントを張りました。

その東屋が深夜に倒壊。

テントを張る場所が少し違っていたら、死亡者の数字が64名になったかも分かりませんし、運が良くても重症者が14名になっていたかもわかりません。

そのように考えると今でもゾッとします。タカ長には想い出の写真です。

    

信州だけではありませんが、そのころ具体的にどこにテントを張っていたのか記憶が無くなりました。キャンプ指定地に張ったことは少ないような気がしています。

これは高原歩きの最後、野辺山高原で撮ったものです。この野辺山高原のどこでテントを張ったのかはまったく記憶がありません。

信州の高原歩きをしたのはこの時だけではありませんが、記憶に強く残っているのは、大量遭難のあった昭和40年のゴールデンウイークの山旅です。


たった独りの山旅~6

2021年01月27日 | 山歩きから
このシリーズを書きながら考えていたことです。

たった独りの山旅には賛否両論あると思いますが、それとは別に、独りであるがゆえに人さまから好意を受けたことが少なからずあることが想いだされました。

その一つです。

甲斐駒ヶ岳を下山したあと余った時間を使って能登半島の最先端まで観光しました。宿泊は民宿。

民宿の玄関を開けて開口一番「安く泊めて、、、、」と言うと、対応に出た親父さんから

「お兄ちゃん、安く泊めてやりたいけど、うちも趣味でやっているのではないから、、、」と言われてしまいました。

あの時の親父さんの言葉は今も耳の底に残っています。

玄関を開けた、薄汚れた若者からいきなり「安く泊めてくれ」と言われた親父さんは、ただ同然で泊めてくれと言われている、と思われたのでしょう。

当然のことですが、料金を聞くとタカ長の想定内、気持ちよく泊めてもらいました。

「明朝早くナマコを採りに行くけど一緒に行くか?」と誘われました。もちろん異論はありません。翌朝早起きして、親父さんと小さな舟に乗ってナマコ採りを経験したのは言うまでもないことです。

翌朝親父さんと小舟で海に出たタカ長、教えられるまま体を小舟から乗り出しナマコをつき、少しだけ採ることが出来ました。

この民宿で記憶しているのはその程度のことですが、他にもいろいろな好意を受けているはずです。

    

生意気ざかりだった若いころには気づかなかったことが、この歳になると少しは見えてきます。自分で考える以上に多くの人の好意に支えられ、タカ長の「たった独りの山旅」が継続できていたように思います。

これがもしグループ登山だったら、おそらくこのような展開にはならなかったはずです。

淋しい独り歩きだったからこそ多くの人から手をさしのべられた、青春のころの貴重な記憶です。