タカ長のタカの渡り観察

タカが好き、山が好き、花が好き、心はいつも旅もよう。日々移ろいゆく心もようを綴るナチュラリストのつぶやきです。

何たるドジだぁ!

2020年09月07日 | 山歩きから
台風10号は韓半島に行ったようですが、風の強い状態は今も続いています。今回の台風は強大なので、拙宅の波板が飛ぶかも分からないと覚悟していました。しかし、実害は何もありませんでした。

台風の被害にあわれた人に心からのお見舞いを申し上げます。

8月22日に赤帽さんたちと鬼ヶ城山を歩きました。その日のことをブログに投稿された丘の上の歌姫さんの、おそらく何気なく書かれた一言にタカ長の脳ミソが激しく反応しました。

そうかぁ、その視点があったかぁ、それに気づかないなんて何たるドジだぁ!

と言う話題ですが、これでは何のことか分かりませんね。ボツボツ説明します。

とりあえずここをクリックその記事をご覧ください。

反応したのは「同窓会のような山登り」と言う一言です。

    

広島県の最高峰、恐羅漢山の山頂です。正確に言うと、地図上の最高地点は旧恐羅漢山

かつてこの山頂がブナの天然林に覆われていたことを知る登山者は少数派になったようです。

昭和三十年代の初めころまでは、全山ブナ、クロモジ群集の天然林に覆われた国有林の山であった。先ず東側が切られ、ついで南西の広見谷側が皆伐され、更に最近、中之甲側が択伐された。いま樹林が残されているのは、わずかに西面の亀井谷の水源帯だけという淋しい状態になった。「西中国山地」桑原良敏著

    

タカ長が足しげく恐羅漢山をめぐる山を歩いていたころ、恐羅漢山はブナの原生林に覆われていました。先輩たちから、失われてゆく原生林を惜しむ声を聞いた記憶がありますが、タカ長の記憶にある恐羅漢山はブナの山でした。

桑原先生の本を読むと、タカ長はブナに覆われた恐羅漢山を知る最後の世代だったようです。

    

その頃は、芸北山群と言われた恐羅漢山をめぐる山には若い登山者があふれていました。広島の登山者にとって恐羅漢山をめぐる山はハイマート、心のふるさとであり、母親のような存在でした。

ついでに言えば、父親は伯耆大山と言うのが広島の登山者の共通した認識であった、と言っても間違いないと思います。

そこで若い登山者は多くのものを学びました。

    

歌姫さんの「同窓会のような山登り」と言う言葉を目にした時、その頃の登山者は「恐羅漢大学」の学生であり、いま芸北山群の山を歩くことは、恐羅漢大学の「同窓会登山」のように思われたのです。

○○山岳会と言う枠を超えて、自分たちを育ててくれた山に集まると言う視点があっても良いと思ったのです。

    

30代から中学時代のクラス会の幹事をしているのに、何で今までその視点を持つことが出来なかったのか。
せめてもう10年前、願わくば親交のあった登山家高見和成が健在だった頃その視点を持つことが出来たら、色々面白いことが出来たのに、、、、

と考えると、タカ長は痛恨のドジをしたような気がしてならないのです。

    
             すっかり明るくなった恐羅漢山の尾根道

過ぎ去ったことを言っても仕方ないので、これから何かするつもりですが、その頃の恐羅漢山大学の学生で、今でもタカ長のまわりで山を歩いているのはタカカノだけ、多くの人が山を歩けない状態になっています。消息不明の人も多い状態です。

そのように考えると、くどいようですが、せめて10年前に気づいていたら、と思われてならないのです。

       つづきます。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿