タカ長のタカの渡り観察

タカが好き、山が好き、花が好き、心はいつも旅もよう。日々移ろいゆく心もようを綴るナチュラリストのつぶやきです。

何たるドジだぁ!~3

2020年09月11日 | 山歩きから
タカ長の恐羅漢大学のキャンパスライフは永くは続きませんでした。

昭和38年の豪雪、サンパチ豪雪がすべてをこわしてしまいました。

その時タカ長はMさん宅に民宿してスキーを楽しんでいました。

昭和38年1月3日だったと思います。正月休みのスキーを終わり、古屋敷から内黒峠に登るとき、ふもとの古老から「この雪の降り方はいつもと違っているから気をつけて帰れ」と言われたことを今でもハッキリと記憶しています。

雪は降り続いていましたが、先行者のトレースもあって、さしたる苦労もしないで内黒峠を越えました。

スキー技術が未熟なタカ長は峠を下りたところで転倒しました。背中には重いザック、もがいて、ももがいても新雪は軽くて、空気を蹴っているようでした。

立ち上がるまで時間がかかりましたが、こんなことは愛嬌みたいなものです。遅れて古屋敷を出発した人は下山に苦労しました。1月6日には某有名企業の山岳部員が内黒峠で遭難死しました。

これらの状況から見えるように、タカ長の脱出は間一髪のものだったのです。

     

サンパチ豪雪は農山村に大きなつめ跡を残しました。離村する人が一気に増えました。タカ長が定宿としていたMさんも広島市内に転居されました。

     

昭和39年秋だったと思います。タカ長は久しぶりに古屋敷を訪ねました。いつもと違って、その時は三段峡のほうから横川谷をつめて古屋敷に向かいました。

その日は風が吹いていました。その風に吹かれて、一気に増えたススキがカサカサと音をたてていました。あの音は今でも耳の底に残っています。

Mさん宅の前にもススキが生えていました。その風景を見て、タカ長の「恐羅漢大学」は終わったと実感しました。

     

恐羅漢山をめぐる山や古屋敷の村人たちとの交流は何だったのだろうか?

サンパチ豪雪が農山村に大きなつめ跡を残したことを知って、しばらく恐羅漢山をめぐる山から距離を置いていたタカ長が、その日、意を決して行った山でした。

恐羅漢山をめぐる山や古屋敷の村人たちとの交流は何だったのだろうか?
その答えが恐羅漢山を吹く風に音をたてているススキと無人の古屋敷?

あの日をもって恐羅漢大学の青春は終わりました。

     

広島の登山者には人気の、可部冠山の稜線です。その頃は草山でした。
サンパチ豪雪の時、この尾根が真っ白い尾根になりました。伯耆大山に行かなくても、広島市内で雪山が楽しめる、と言うことで、喜々として登った記憶があります。

この風景を知る登山者は少数派になったのでしょうね。

    つづきます。

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