今日も快晴。安定した天気が続いています。
この天気ではわが裏山はカラカラに乾燥して、○○茸の楽しみなど望むべくもありません。
さて、石鎚山登山の話題です。昨日のつづきみたいなことかも分かりませんが、、、、、、
石鎚山のロープウエイ駅からみた瓶ヶ森(1896.2m)です。
青春のころ登った山なのでセピア色にしてみました。
昨日も書きましたように、タカ長が若いころの山登りは足で登るもの、車などで高度をかせぐことなど考えていませんでした。
この瓶ヶ森登山も同じで、、、、、、、当時は確か、、、、河口までバスで行き、そこから歩いたように記憶していますが、、、、
最近のガイドブックでは西之川までバスで行くように紹介されています。その西之川の標高が約400mですから、山頂までだと1500mを自分の足で登ることになります。
山頂に近いところに平らに見えるところがありますが、そこが氷見二千石原と呼ばれている笹原です。
その氷見二千石原の、この画像では左手前のほうに登りつくようルートが開かれていたように思います。
最近のルートは沢の崩落によって少し変わっているようですが、、、、、いつか3月に登ったときは沢の水が増水していて、そばを歩くだけで気持ちが悪かったことを今も記憶しています。
その沢筋から一気に1000m以上登らされるのが瓶ヶ森登山なのです。
その3月に登ったのは広島山岳会のメンバーとしての登山でした。テントを持参しての登山です。その時登ったメンバーの一人が最後にはバテましたが、タカ長はとにかく登りきりました。
登山者としては弱かったタカ長ですから、広島山岳会で活動することは少なく、、、、、退会といえばいいようですが、、、、、早々に落ちこぼれたのがタカ長の山歩きでした。
しかし、広島山岳会落ちこぼれのタカ長でもとにかく重いザックを担いで登ったことは事実なのです。
昨日も書きましたように、今は標高1300mまでロープウエイで行っても、石鎚登山がやっとの状態ですから、、、、
その自分が重いザックを担いであの急登を登ったのですから、、、、、、今となってはそのことが信じられないような気がするのです。
やはり、、、、、、若いって素晴らしいことなのです。
その瓶ヶ森へ登ったのはそのときだけではありません。
そのころは、当たり前のことですが本四架橋もなく、タカ長にとっては四国の山は「海の向こうの山」でしたから、それほど多くは行けませんでしたが、、、、
それでも別のメンバーと登ったこともあり、、、、、、テントだけではなく瓶ヶ森の小屋に泊まったような記憶もあります。
この画像は昨年撮影したものですが、氷見二千石原から見る石鎚山です。
タカ長としては岩ゴツゴツの石鎚山より、この風景のある瓶ヶ森のほうが好きでした。
そのためまず瓶ヶ森に登り、石鎚山まで縦走して面河渓に下りるというのがパターンでした。
そのような山歩きを思い出してみると、タカ長はアルピニストではなくて「アルキニスト」だったようです。
そのことは当時から自覚していて、自分はアルキニストだと思っていました。
その後子育て最中は山行きの回数も少なくなり、、、、、海の向こうまで遠征することがなくなりました。
次にこのあたりの山を歩くようになったのはスカイラインが開通して土小屋まで車で行けるようになってからのことです。
氷見二千石原から見る石鎚山。右のほうにロープウエイ駅らしきものが見えます。
いまはあそこから山頂まで歩くのが私たちの力で、それ以上のことを考えるとバテるかも分かりません。
加齢とともにいろいろなものが失われていくのは仕方ないことですが、、、、
青春のころあの急登をテントを担いで登ったことは間違いないことで、タカ長にとっては青春の記念碑といえそうです。
今回の石鎚山は頂上山荘泊まりですから時間は十分あり、、、、、
雲の上に暮れてゆく瓶ヶ森を見ながら、、、、、くどいようですが、、、、、標高差1000m以上を重いザックを担いで登ったことを、我ながら信じられない気持ちで思い出していました。
この天気ではわが裏山はカラカラに乾燥して、○○茸の楽しみなど望むべくもありません。
さて、石鎚山登山の話題です。昨日のつづきみたいなことかも分かりませんが、、、、、、
石鎚山のロープウエイ駅からみた瓶ヶ森(1896.2m)です。
青春のころ登った山なのでセピア色にしてみました。
昨日も書きましたように、タカ長が若いころの山登りは足で登るもの、車などで高度をかせぐことなど考えていませんでした。
この瓶ヶ森登山も同じで、、、、、、、当時は確か、、、、河口までバスで行き、そこから歩いたように記憶していますが、、、、
最近のガイドブックでは西之川までバスで行くように紹介されています。その西之川の標高が約400mですから、山頂までだと1500mを自分の足で登ることになります。
山頂に近いところに平らに見えるところがありますが、そこが氷見二千石原と呼ばれている笹原です。
その氷見二千石原の、この画像では左手前のほうに登りつくようルートが開かれていたように思います。
最近のルートは沢の崩落によって少し変わっているようですが、、、、、いつか3月に登ったときは沢の水が増水していて、そばを歩くだけで気持ちが悪かったことを今も記憶しています。
その沢筋から一気に1000m以上登らされるのが瓶ヶ森登山なのです。
その3月に登ったのは広島山岳会のメンバーとしての登山でした。テントを持参しての登山です。その時登ったメンバーの一人が最後にはバテましたが、タカ長はとにかく登りきりました。
登山者としては弱かったタカ長ですから、広島山岳会で活動することは少なく、、、、、退会といえばいいようですが、、、、、早々に落ちこぼれたのがタカ長の山歩きでした。
しかし、広島山岳会落ちこぼれのタカ長でもとにかく重いザックを担いで登ったことは事実なのです。
昨日も書きましたように、今は標高1300mまでロープウエイで行っても、石鎚登山がやっとの状態ですから、、、、
その自分が重いザックを担いであの急登を登ったのですから、、、、、、今となってはそのことが信じられないような気がするのです。
やはり、、、、、、若いって素晴らしいことなのです。
その瓶ヶ森へ登ったのはそのときだけではありません。
そのころは、当たり前のことですが本四架橋もなく、タカ長にとっては四国の山は「海の向こうの山」でしたから、それほど多くは行けませんでしたが、、、、
それでも別のメンバーと登ったこともあり、、、、、、テントだけではなく瓶ヶ森の小屋に泊まったような記憶もあります。
この画像は昨年撮影したものですが、氷見二千石原から見る石鎚山です。
タカ長としては岩ゴツゴツの石鎚山より、この風景のある瓶ヶ森のほうが好きでした。
そのためまず瓶ヶ森に登り、石鎚山まで縦走して面河渓に下りるというのがパターンでした。
そのような山歩きを思い出してみると、タカ長はアルピニストではなくて「アルキニスト」だったようです。
そのことは当時から自覚していて、自分はアルキニストだと思っていました。
その後子育て最中は山行きの回数も少なくなり、、、、、海の向こうまで遠征することがなくなりました。
次にこのあたりの山を歩くようになったのはスカイラインが開通して土小屋まで車で行けるようになってからのことです。
氷見二千石原から見る石鎚山。右のほうにロープウエイ駅らしきものが見えます。
いまはあそこから山頂まで歩くのが私たちの力で、それ以上のことを考えるとバテるかも分かりません。
加齢とともにいろいろなものが失われていくのは仕方ないことですが、、、、
青春のころあの急登をテントを担いで登ったことは間違いないことで、タカ長にとっては青春の記念碑といえそうです。
今回の石鎚山は頂上山荘泊まりですから時間は十分あり、、、、、
雲の上に暮れてゆく瓶ヶ森を見ながら、、、、、くどいようですが、、、、、標高差1000m以上を重いザックを担いで登ったことを、我ながら信じられない気持ちで思い出していました。