明治時代に、鹿鳴館(ろくめいかん)を設計したことで知られるイギリス人建築家 ジョサイア・コンドル(Josiah Conder)は、1852年9月28日にロンドンで生まれました。
同地の「ロイヤル・カレッジ・オブ・アート」で建築学を学び、1876年に日本政府と5年間の雇用契約を結んで、翌77年(明治10年)に来日。
工部大学校(現・東京大学工学部)造家学(建築科)の教師となり、最初の教え子として、東京駅丸の内駅舎などを設計した辰野金吾や、迎賓館を手掛けた片山東熊(とうくま)らを、輩出。
(東京大学構内に建つコンドル博士像)
建築教育に従事する傍ら、1882年(明治15年)に竣工した「旧東京帝室博物館本館(現東京国立博物館)」、1883年竣工の「鹿鳴館」、1891年(明治24年)竣工の「ニコライ堂」など、本格的な西洋建築を相次いで設計しました。
1886年(明治19年)帝国大学工科大学建築学科の講師に転じ、88年に辞任。建築事務所を構えて、設計の仕事に専念しました。
コンドル博士は、建築学だけでなく、華道や日本舞踊など、日本文化への造詣も深く、日本庭園に関する研究の著書は、欧米で大きな反響を呼びました。
また、幕末から明治にかけて活躍した狩野派絵師・河鍋 暁斎(かわなべ きょうさい)の弟子としても知られています。暁英(きょうえい)の号を授けられ、暁斎の没後、師匠の技法の詳細を記録した英文の本を出版しています。
私生活では、1893年(明治26年)町娘・前波くめと結婚。彼女は花柳流の舞踊家でした。
1920年(大正9年)麻布の自邸で脳軟化症により逝去。享年67歳。11日前に亡くなった妻・くめと共に護国寺に埋葬されました。
そんなコンドル博士及び関係者に関する記事を、「隊長のブログ」では、これまでに11本を紹介しています。詳細は、下記の記事一覧をご参照下さい。
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