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沖タイや 浜の真砂は尽きるとも 世に嘘記事の絶えることなし
沖縄メディアは、サンフランシスコ講和条約により、沖縄が本土からの「切り離された」ことについて、「祖国の捨て石」にされたなど主張する。
ところが、日本政府が、主権回復に際して最も努力したことの一つは、まさに沖縄を日本から「切り離さない」ことだった。
日本が主権回復をしたサンフランシスコ講和条約の締結交渉の際に、沖縄を本土から「切り離さない」努力をしたの吉田茂率いる日本政府であり、それを裏で支えたのは昭和天皇の「天皇メッセージ」であった。
ここで少し、政府の努力について見ておきたい。
その努力は沖縄に「潜在主権」が日本に残るという形で実を結んだが、主権の無い敗戦国日本が戦勝国アメリカを相手の交渉となれば、決して容易に得られた成果ではない。
日本の主権回復の三年前の1948年3月、マッカーサーは、イギリスの新聞社の取材に応え、講和後、アメリカは日本を同盟国として利用する考えはない。戦争が起こった場合に日本に望むのは、日本が「中立を維持すること」だけだ。 日本の役割は「太平洋のスイス」になることだ、と述べたという。
当時の日本国民は「アルプスの少女ハイジ」のイメージから、スイスを非武装中立の理想の国と錯覚し、多くの非武装中立論者を感激させた。
だが、スイスがハリネズミのように武装した武装中立国だったため「太平洋のスイス」という話は何時か消え去った。
マッカーサーが日本が「太平洋のスイス」になることを望んだ根拠はこうだ。
マッカーサーは、アメリカが沖縄を領有して要塞化し、そこに強力な空軍力を置けば、日本の安全を守るために、わざわざ日本の国土に軍事力を置く必要はない。だから日本は中立でも構わない、と考えたのだ。
だが、もし日本が講和時に日米安保でなく非武装中立を選択していたら、どうなっていたか。
日本の沖縄に対する主権は確実に放棄させられていたはずだ。
沖縄の戦略的価値を重視するマッカーサーのような考え方と、沖縄の主権を日本に残すという考え(天皇メッセージ)が矛盾しないこと、それをアピールして、沖縄の主権喪失をなんとか防ごうとする意図が、吉田と同様、昭和天皇にもあった。
昭和天皇は米国に対し「天皇メッセージ」と言う形で、(1)沖縄住民の主権の確保、(2)沖縄の分離ではなく期限付き租借、(3)本土と同じ教育制度の継続(文部省教科書の使用、国費留学生度の採用)、(4)本土と沖縄の経済関係の維持(援護法の優先的適用など)、を米国側に認めさせた。
これは紛れもない歴史の事実だ。
そもそも「天皇メッセージ」とは、1979年、進藤栄一・筑波大学助教授(当時)が米国の公文書館から「マッカーサー元帥のための覚書」を発掘し、雑誌『世界』で発表したもの。
同覚書には、宮内府御用掛かり寺崎英成がGHQ政府顧問ウイリアム・シーボルトを訪れ、天皇からのメッセージを伝えたと記されている。これがいわゆる「天皇メッセージ」とされるもので、概略こう述べられている。
「天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する考えを私に伝える目的で、時日をあらかじめ約束したうえで訪ねてきた。 寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。(略)さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の諸島)に対する米国の軍事占領は、日本が主権を残したままの長期租借ー25年ないし50年、あるいはそれ以上ーの擬制(フィクション)にもとづいてなされるべきだと考えている」
沖縄に流布する大きな誤解の一つだが、沖縄保守系の論客の中にも「天皇メッセージ」とは天皇自ら「沖縄を延命のためアメリカに売り渡す」と書いた文書が米公文書館から発見された、と誤解する人が多い。
だが、実際は「天皇の密書」が存在するわけではない。
寺崎が昭和天皇の会話の中から沖縄についての陛下の「思い」を斟酌してシーボルトに伝え、それがシーボルトの手紙という形でワシントンに伝えられたのだ。
「天皇メッセージ」の重要ポイントである「潜在主権」、つまり日本の主権を残したまま米国に統治を委任することを、親子の場合に例えると、子(沖縄)を育てる経済力のない親(日本)が金持ち(米国)に、戸籍はそのまま残して一時里子に出したようなものであり、戸籍を移籍する養子縁組(米国領にすること)とは根本的に異なる。
当時世界一の経済力を誇る米国の統治下にあった沖縄では、食糧不足で喘ぐ祖国日本では食すること出来ない米国産の豊富な食料供給の恩恵に浴した。
その名残の一つがランチョンミート文化であり、戦前の沖縄にはなかったビーフステーキやハンバーガーなど現在も続く牛肉文化の繁栄である。