狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

★琉球新報を提訴、上原正稔琉球新報の言論封殺との戦い

2021-07-13 10:26:57 | ★パンドラの箱訴訟

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ドキュメンタリー作家上原正稔氏が琉球新報を提訴した「パンドラ訴訟」の経緯を八重日報に寄稿した。

以下はその再掲である。

ちなみにこの訴訟は原告上原氏が高裁で逆転勝訴。

被告琉球新報が上告を断念し、上原氏の勝訴が確定している。

             ★

ドキュメンタリー作家上原正稔の挑戦!

琉球新報の言論封殺との戦い

江崎 孝 (宜野湾市、ezaki0222@.ne.jp

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2011年2月24日(火)、「パンドラの箱掲載拒否訴訟」の第五回公判が那覇地裁で行われる。

この訴訟はドキュメンタリ作家上原正稔氏が、琉球新報の「言論封殺」を訴えるという前代未聞の裁判であるにも関わらず、これを知る県民はほとんどいない。沖縄の2大紙、琉球新報と沖縄タイムスが、自分たちにとって「不都合な真実」は、決して報道することはないからである。

■上原氏怒りの記者会見■
ちょうど一年前の1月31日。県庁記者会見室でドキュメンタリー作家上原正稔氏が記者会見を行った。 その日の午前中に、上原氏は琉球新報に対する損害賠償訴訟を那覇地裁に起こし、それを受けての会見であった。代理人の徳永信一弁護士が訴訟の概略を説明した後、マイクに向かった上原氏は、開口一番沖縄戦時に慶良間島で戦隊長を務めた赤松嘉次、梅沢裕両氏に対して「大変なご迷惑を掛けた。ごめんなさい。許してください。そして同時にありがとうと言いたい」と侘びの言葉を述べ、両隊長による「集団自決の命令がなかったことは火を見るより明らかだ」、「真実を伝えるのがマスコミの使命だ」と訴えた。
さらに、会場の記者団に向かい「琉球新報の記者は来ているか」と問いかけた。 若手の記者が「はい、来ています」と挙手で答えると、上原氏はその記者に向かって「君たち新聞記者は、都合の悪いことは報道しないが、この裁判で君の会社が訴えられたのだよ!」と一喝し、「これを明日の記事にしなかったら新聞社の恥だよ」と釘を刺した。気の毒にも、まだ若い新報の記者は、上原氏の気迫に押されたのか「ハイ」のひと言だけで返す言葉はなかった。上原氏は、2009年5月、『うらそえ文藝』(第14号)で、異論を封殺する琉球新報を激しく糾弾したが、琉球新報はこれに反論どころか、一切これを報道せず黙殺で通したことを琉球新報の記者に皮肉ったわけだ。

■『うらそえ文藝』での告発■
沖縄の文芸誌『うらそえ文藝』で上原氏は、県文化協会会長の星雅彦氏との対談で自分が琉球新報から受けたあからさまな言論封殺について詳しく話していた。 少し長くなるが上原氏が琉球新報を訴えた経緯を知る上で参考になるので、関連部分を抜粋引用する。

≪星: そうですね。現在でもある意味では(言論は)統制されているわけですからね。

 上原: もう完全に右も左も統制です。僕は琉球新報の前泊記者たちに「パンドラの箱…」の掲載をストップさせられた。怒鳴りつけてやった。「君らは表現の自由を知ってるか」ってね。しかし動じる様子もなかった。連載は二〇〇七年四月から四ケ月も中断した。

 星: 社の方針に反するということだろうね。それはまたその人たちも統制の枠の中にいるってことだが、意識してないかもしれない。

 上原: 彼らはまず沖縄の知識人、自分たちは文化人だと思い込んでいるんですよ。それで自分たちの発言や行動はすべて正しいと思っているわけです。

 星: 正しいかどうかは何十年か何百年か経たないと分からない。

 上原: いつも彼等は正しいと思ってる。だから、僕が本当のことを書こうとしたら、もう読みもしないうちからストップかけるわけです。これは新報の編集方針に反するからといってね。僕は二回にわたって四人組の記者から吊し上げられ、連載を申止させられた。一番腹が立ったのはM記者だったが、彼も新聞社をバックに空威張りしたのにすぎない。彼等も統制のオリの中にいるわけですよ。≫(2009年5月、『うらそえ文藝』(第14号)

原告上原氏の挑発が効いたわけでもないだろうが、被告の琉球新報は記者会見の翌日2月1日の紙面で、盟友の沖縄タイムスより小さなベタ記事ながら次のように報じた。

「連載掲載拒否」本紙を提訴
表現の自由を侵害されたなどとして、那覇市のドキュメソタリー作家、上原正稔さん(68)が1月31日、琉球新報社を相手に慰謝料など約1千万円の損害賠償を求める訴訟を那覇地裁に起こした。
2007年5月から琉球新報タ刊で連載された「パンドラの箱を開く時」をめぐり、琉球新報社から途中の原稿の掲載を拒否され、表現の自由侵害などで精神的苦痛を被ったと主張している。
琉球新報社は「連載を一方的に止めた事実はない。従って『表現の自由の侵害』には当たらないと認識している」としている。(琉球新報2011年2月1日)

徳永弁護士によると、裁判の要点はこうだ。 
上原氏が琉球新報に長期連載中の沖縄戦記「パンドラの箱を開く時」の、慶良間の集団自決問題の真相に触れる部分が、「社の方針に相違する」との理由で掲載日の直前になって突然中断に追い込まれ、大幅な原稿の改変を余儀なくされた。 4カ月後に執筆を再開したが、最終章の原稿の掲載を拒否され、未完のまま終了した。徳永信一氏は「琉球新報が、原稿の受け取りを拒否し連載を打ち切ったのは、契約違反である。事実に基づく真相の探求を封じたことは個入の表現の場を一方的に奪ったものであり、公正で不偏不党な報道という社是に背反し編集権を逸脱する」と述べた。

裁判の名目は「損害賠償の請求」と、民事訴訟では良くある訴因だが、裁判の根底に大きな争点が隠れていることは被告の琉球新報が一番承知している。それは日頃言論の自由を標榜する新聞社としては最も恥ずべき行為とされる「言論封殺」を琉球新報自らが行った事に対する訴訟ということだ。そして新聞社による「言論封殺」の裏には、沖縄戦で長年論議されてきた「集団自決における軍命の有無」が最大の争点として潜んでいるであることを、原告、被告の両陣営が強く意識していることは言うまでもない。 

沖縄戦記を研究テーマにするドキュメンタリー作家上原氏と琉球新報の間に起きた裁判沙汰を振り返ってみる。 両者の間に一体何があったのか。

■2007年、沖縄のメディアは集団発狂した■
ここで時間を5年前の2007年に巻き戻してみる。この訴訟の本質を見極めるためには、上原氏の原稿に何が書かれていたかという点と、もう一つ重要な点は、その原稿が掲載拒否された2007年5月の沖縄の社会的時代背景である

平成19年(2007年)3月、文科省が高校の歴史教科書の検定意見で、沖縄慶良間諸島でおきた集団自決に関し「軍の命令によるもの」という従来の記述を削除するよう求めた。 地元2紙は連日、「集団自決」に関する特集を組み検定意見を撤回することを求めるキャンペーンを大々的に張った。 そしてその年は9月20日に行われた左翼勢力主催の「高校歴史教科書検定意見撤回を要請する県民大会(11万人集会)」へと狂気のように雪崩れ込んで行った年である。

各市民団体、労働団体が抗議声明が連日の紙面を飾る騒然とした状況の中、私はドキュメンタリー作家の上原正捻氏が琉球新報の夕刊に連載していた沖縄戦記「パンドラの箱を開ける時」を深い興味を持って愛読していた。 
というのは実証的戦記を得意とする上原氏が当時話題沸騰であった集団自決の「軍命論争」に関し、どのように記述するかが関心の的だったからだ。 上原氏とは面識はなかったが、従来の沖縄戦の研究者のように、戦争の持つ影の部分のみを捉えて無理やりイデオロギー問題にすり替える手法をとらず、沖縄戦の真実の物語を追及している異色の沖縄戦研究者として関心を持っていた。上原氏が始めた1フィート運動を取り上げた沖縄テレビ制作『むかし むかし この島で』は、第14回FNSドキャメンタリー大賞ノミネート作品となり、沖縄テレビのサイトでは、上原氏の沖縄戦の記録発掘に対する姿勢がどのようなものかを垣間見ることができた。 これも上原氏の「パンドラの箱を開ける時」に興味を持った一因であった。   http://www.fujitv.co.jp/b hp/fnsaward/14th/05-330.html

当時私と同じように上原氏の「パンドラの箱を開ける時」の連載に注目している人物がいた。 産経新聞那覇支局長をしていた小山氏のことだ。 私は小山氏のブログを愛読していおり、6月16日のブログに第2話「慶良間で何がおきたか」が20日の夕刊から始まり、慶良間の集団自決がテーマになることが書かれていた。 そこには上原氏は、「圧力に屈することなく執筆する」と話していたと記されていた。 私が長年関心を持っていた集団自決の軍命論争の核心が愈々上原氏の筆により語られる、と期待に胸が膨らんだのを記憶している。 

■パンドラの箱は閉じられた■
待ちに待った5月20日、琉球新報夕刊の紙面を隅から隅まで探したが「パンドラの箱を開ける時」は、何処にも掲載されていなかった。 通常、何らかの理由で連載記事が予定日に掲載されない場合、執筆者か掲載紙の方から、休載の理由について断りがあるもの。ところが、この予期せぬ休載については、上原氏はおろか琉球新報側からも一切何の説明もなかった。突然の休載に愛読者として一抹の不安が胸をよぎった。言論封殺ではないかという不安だ。 漫画家の小林よしのり氏が、沖縄の新聞のことを「異論を許さぬ全体主義」だと皮肉っていたことが現実のものとなって目の前に現れた、と考えた。 琉球新報に電話を入れて掲載中止の理由を問い質した。 だが、最初に対応した琉球新報の記者は、連載記事が掲載中止になっている事実さえ知らない様子だった。 「自分の新聞のことも見ていないのか」と、言われて連載特集がが掲載されていないことを確認した後、電話は編集部に回されたが、その時「上原さん、原稿が間に合わなかったのかな」という記者の独り言が聞こえた。 上原氏の記事の突然の中止は記者にも知らされずに急遽「言論封殺」が行われたものと直感した。 その後電話に出た編集部の担当記者も動揺を隠せない様子で「調整中です」を連発するばかりで、納得できる応答は出来なかった。 その時のやりとりを、当時から書いていた政治ブログ「狼魔人日記」に「沖縄のマスコミは大政翼賛会か」というタイトルで書き、読者の支持を受けた。 翌日のブログには「琉球新報は報道機関としてのプライドをかなぐり捨て、連載中の記事を『削除』するという禁じ手を使ったことになる。自分の意見と異なるという非常に分かりやすい理由で」と書き、「沖縄の言論空間は、いよいよ異様な様相を呈してきたようだ。サヨクの方々が常用する『戦前のような言論弾圧』がメディア主導で今正に沖縄で行われている。」と続けた。この琉球新報による唐突ともいえる「休載」に対し、私のブログ「狼魔人日記」の読者の反響は、大きなものだった。「琉球新報に抗議します」というタイトルで「琉球新報の言論封殺が今日で4日目です」「・・・今日で7日目です」と定期的にエントリーして抗議の意を表した。

■画龍点睛を欠く連載の再開■
それから四カ月が経過した10月16日、「パンドラの箱を開ける時」が突然再開された。10月19日付のブログで書いたことを引用する。

《10月16日。 二回目の「教科書検定意見撤回要請団」が上京し、沖縄中を巻き込んだ「集団自決」に関する大フィーバーも一段落が着いた。地元2紙の紙面にも一時のような「新証言者登場」といった刺激的な記事も殆ど見なくなった。その静寂の合間をつくように、その日(16日)の琉球新報夕刊に、4カ月の長期にわたって中止されていた「沖縄戦の記録」がソッと再開された。まるで一目をはばかるように。 何の予告もなく。(略)新報側の突然の連載中止であるにも関わらず、新聞社側からは連載中止の知らせも、4カ月後の突然の再開の知らせも読者に対しては一言の説明もなかった。今後、琉球新報は「説明責任」で他人を責めることは出来ない。 結局、4カ月前に電話で問い合わせた答えの通りの長い「調整中」を、筆者の上原さんの「長い夏休み」としてゴリ押ししたのだろう。げに恐ろしきは新聞社の「調整」。これを別の名で言うと「言論封殺」と呼ぶ。長い「調整」の結果、内容も「調整」されている模様。
事前の予告では次は「慶良間で何が起こったか」を明らかにするとしており、集団自決の真実を白日の下にさらすとのことだったが、再開した第2話のタイトルは「軍政府チームは何をしたか」と変更されているではないか。「集団自決」が起きた1945年3月下旬の慶良間を飛び越えて、4月以降の沖縄本島の米軍上陸、投降住民の管理の模様を記しており、「慶良間で何が起こったか」については触れていない。》(「狼魔人日記」 2007年10月19日)

■琉球新報の言論封殺■
不自然な休載と同じく不自然な連載再開だった。 
琉球新報が上原氏に対して言論封殺を行った、という疑念は確信に変わった。 私が一読者として感じたことは琉球新報の読者の誰もが感じたことだと考えた。琉球新報が言論封殺した上原氏の記事「慶良間で何が起きたか」には、一体、琉球新報を動揺させるどんな内容が書かれていたのか。  だが、地元を代表する新聞が、「集団自決」に関する連載記事を突然中止したことに対しては当然、いろんな憶測が飛び交った。 「新聞を中心に展開されている教科書検定運動に水をかけることになる内容になるため」だとか、「編集担当者の態度に変化があり、今回の事態になった」とも言われた。 偏向記事で知られる沖縄紙ではあるが、連載中止という非常手段に打ってでるのはよっぽどのことがあったに違いない。 後にわかったことだが、琉球新報に封殺された原稿には、上原氏が慶良間島の実地検証で得た「軍命はなかった」という論考が赤裸々に綴られていた。

■月刊誌『WILL』が琉球新報の告発記事掲載■
上原氏の連載が中止された日の朝刊、文化面のトップに林博史関東学院大学教授の「沖縄戦」特集の第一回目が掲載されていた。 林教授といえば日本軍は残虐非道だと糾弾するサヨク学者で、「集団自決訴訟」でも被告側の証拠を収集したことで知られている。私は当時の沖縄メディアの異様な有り様を同時進行でブログに書き続けた。
それが偶然雑誌社の目に留まり「沖縄紙の言論封殺」について原稿を依頼され、月刊誌『W ill』に「これが沖縄の言論封殺だ」というタイトルで掲載された。 本文と重複する部分も有るが、有力言論誌が沖縄メディアの異常性を告発したという意味で注目されるので関連部分を抜粋引用する。

≪・・・平成19年6月19日は、琉球新報の長期特集記事(火曜から土曜の夕刊に掲載)の第二話「パンドラの箱を開ける時 沖縄戦の記録」の掲載予定日であった。 第一話「みんないなくなった 伊江島戦」が前日で終了、19日からは第二話「慶良間で何が起きたか」が始まる予定であった。 筆者上原正稔氏は掲載日の前、知人に「集団自決」に関するもので、圧力に屈することなく執筆する」と語っていたという。
「集団自決」というテーマは地元二紙を中心に沖縄メディアが“民意”を煽っている最もホットなテーマのはずだった。 言うまでもなく慶良間とは「集団自決」に関する「軍命令の有無」が問題になっている座間味島と渡嘉敷島を含む、慶良間諸島のことを指す。 
だが、その特集記事は、読者に何の断りもなく、突然、中止になった。執筆者あるいは新聞社側の「お知らせ」や「弁明」等は一行も掲載されていなかった。≫(『WILL』2008年8月増刊号)

■竜頭蛇尾の最終回■
上原氏の「長い夏休み」が終わり休載中の記事が再開されたとき、私は琉球新報の言論封殺を直感的に感じながらも、執筆者の上原氏に対して一種の失望感を感じたことを記憶している。 ひと言で言えば「上原正稔よ、お前もか!」という心境だった。
その年2007年は新聞に登場する識者と言われる人達の「集団自決」についての論評は一斉に横並びで、例外なく「軍命があった」の大合唱だった。すくなくとも私の知る限り、「軍命」を否定する識者の論文は見たことがなかった。 そんな風潮の中で「右も左も関係ない、反戦平和も関係ない」と「豪語」していた上原までもが、琉球新報の言論封殺に唯々諾々と従ったと考えたからだ。 一読者であり上原氏とは面識のなかった私は、後に知ることになるが、上原さんと琉球新報との掲載拒否について繰り広げられた壮絶なバトルを知るよしもなかった。 従って肝心な部分で何の断りもなく四ヶ月も休載しておきながら白々しく「長期休暇」としか言い訳の出来ない上原氏に、やはり「全体主義の島」では実証的戦記を得意とする上原氏でも新聞の論調には迎合せざるを得ないのか、と落胆したのだ。
それでも、肝心の「慶良間で何が起きたか」を欠落したままでは画竜点睛を欠くと考え、最終回までには慶良間の記述に戻るだろうと失望しながらも淡い期待を抱きつつ、2008年の連載記事の最終回を迎えることになった。
「第13話 最終章そして人生は続く」と題する最終回は、「慶良間で何が起きたか」についての記述をフラッシュバックするどころか、本題とは外れる上原氏が始めた1フィート運動の経緯について紙面の大半を使っていた。
これでは「パンドラの箱を開ける時」というタイトルからしたら、まさに竜頭蛇尾の最終回であた。 長期連載戦記「パンドラの箱が開くとき」は、皮肉にも箱のふたを閉じたまま最終回を迎えることになったのだ。

■読者を敵に回した琉球新報■
「慶良間で何が起きたか」の記述を欠落したまま終わるのでは、期待して最後まで読み続けた読者を裏切ったことになる。 読者は琉球新報によって「知る権利」を奪われたことになるのだ。
その後、上原氏が琉球新報の言論封殺に対し提訴することを知った一読者としての偽らざる心境は、上原氏が琉球新報を相手取って起こした「パンドラの箱掲載拒否訴訟」は、上原と琉球新報の間の損害賠償の訴訟ではなく、琉球新報が自己のイデオロギーのため読者の「知る権利」を封殺したということになる。
つまりこの訴訟は、実質的には琉球新報が全読者を敵に回した「言論封殺」訴訟ということが出来る。

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コメント (4)

【那覇市議選】自公ら野党が躍進し19議席で勝利、与党オール沖縄は1減の14議席で打撃

2021-07-13 09:14:22 | 政治

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【那覇市議選】自公ら野党が躍進し19議席で勝利、与党オール沖縄は1減の14議席で打撃

  19
1: アジアゴールデンキャット(愛媛県) [IT] 2021/07/12(月) 10:06:26.92 ID:rMIrZVGi0● BE:135853815-PLT(13000)
那覇市議選、野党躍進19議席 与党は1減14議席「オール沖縄」に打撃

 任期満了に伴う那覇市議会議員選挙(定数40)は11日、投開票された。野党系は19議席で改選前に比べて5議席を増やし、躍進した。与党は14議席で、改選前から1議席を減らした。中立は7議席となっている。投票率は46・40%と過去最低だった。

 

以下略
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1353577.html

もう全然オールじゃねぇな
3: ニューノーマルの名無しさん 2021/07/12(月) 06:44:44.79 ID:qoQ9FmiW0
> 今回の市議選は戸籍上の性別で
なんだ、これは。
 
7: ニューノーマルの名無しさん 2021/07/12(月) 06:47:00.95 ID:BqEqjsqD0
オールじゃないのにオールとか名乗ってるからこうなる
 
34: ニューノーマルの名無しさん 2021/07/12(月) 07:12:12.92 ID:DcXIXTe70
知事があのデニーだし
 


86: ニューノーマルの名無しさん 2021/07/12(月) 07:49:44.19 ID:yawP6GLR0
ああ、マスコミや野党がやけに静かだと思ったら、戦う前に負けが決まっていたからか
 
 
77: ニューノーマルの名無しさん 2021/07/12(月) 07:39:32.57 ID:nmy6zgnf0
自公公認候補で17議席か、コロナが理由だと自公も議席を減らしそうなもんだが
ほぼ半数取ったんだからもう呼び方逆にするべきだろ
93: ニューノーマルの名無しさん 2021/07/12(月) 07:57:06.42 ID:msa+WMYU0
>>87
自治体は大統領制的な仕組みなので、
たとえ少数派でも首長を出している側が与党ということらしい
90: ニューノーマルの名無しさん 2021/07/12(月) 07:54:20.29 ID:k9+C5KAO0
全くオールじゃないオール沖縄
 
134: ニューノーマルの名無しさん 2021/07/12(月) 09:26:51.30 ID:C2Ga5rNY0
沖縄の唯一の都会=那覇市。各派が混じってるなぁ
オール沖縄の対語は、その他の多数派?
138: ニューノーマルの名無しさん 2021/07/12(月) 09:32:00.68 ID:6lfAkH8q0
>>134 その他は野党。
140: ニューノーマルの名無しさん 2021/07/12(月) 09:36:51.30 ID:x3DRHkp50
>>134
オール沖縄に対抗して保守派が集まったチーム沖縄がある
 
130: ニューノーマルの名無しさん 2021/07/12(月) 09:14:26.55 ID:BqDDQmBM0
オールどころかハーフ以下やないか
144: ニューノーマルの名無しさん 2021/07/12(月) 09:48:40.37 ID:w109/u0f0
>>141
地方政治では議席の過多ではなく首長が属している側
19: ソマリ(SB-Android) [ニダ] 2021/07/12(月) 10:32:24.89 ID:+RCrBLnR0
流石に沖縄県民も疲れてきたんじゃないの?
 
35: チーター(茸) [US] 2021/07/12(月) 11:06:05.08 ID:b0Nebjkk0
住民に支持されないオール沖縄とは?
161: ニューノーマルの名無しさん 2021/07/12(月) 10:56:19.64 ID:lMlkbp+b0
自公が議席増やしたね
それだけ市民の間で現知事や市長に対する不安が増したのかな
149: ニューノーマルの名無しさん 2021/07/12(月) 10:06:13.84 ID:5+FLSEfI0
基地が争点でなかったのもだがデニーと県のコロナ対応顰蹙の煽りを食った感じか。

引用元: https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1626039776/

引用元: https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/news/1626051986/

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★軍か行政か、民間人への命令、国家の至上命令

2021-07-13 06:09:26 | ★改定版集団自決

 

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■良書紹介

「自立自尊であれ」

著者:OXメンバー

本書の著者名は「ОⅩメンバー」とする。

メンバーは沖縄県庁のОBとマスコミ関係者あわせて5人。「ОⅩ」は沖縄伝統闘牛の牡牛をイメージした。元沖縄県知事仲井真弘多の人物像と、仲井真県政の仕事を読者に伝えるのが主眼。チームとして2年半かけて取材し、苦闘した本に完成した共同作品である。

従って、個々人の筆名よりもチームであることを優先して編著とした。すべては事実に基づき書かれた。

 

元沖縄県知事仲井真弘多が語る沖縄振興の現実

普天間基地移設問題、自立経済の確立

教科書では学べない、沖縄のリアリティがここにある。

自立自尊であれ

定価 880円

目次

第一章 奇跡の成果

第二章 理の人 情の人

第三章 強くやさしい自立型社会

第四章 基地問題の「解」

    1 普天間飛行場の危険性除去

    2 マスコミ不信

    3 返還地後利用推進法

    4 安全保障環境と防衛

               ★

 

軍・行政が住民疎開に尽力 利用された「軍命」2008-09-27 

沖縄戦を通じて言えること、軍隊(陸軍)と言えども士官クラスは殆どが士官学校出身で戦時法律に精通しており、軍服を着たキャリア官僚と言われるほど頭脳明晰だった。

 

軍事史学会副会長の原剛氏によると、沖縄戦を巡る「戦場地域の行政責任」は次のように説明されている。

実際に、米軍が上陸する二カ月前の1945年1月に軍司令官・参謀長・各部長・幕僚などが集まり、戒厳令に関する検討を行っているが、結局は戒厳令の宣告を大本営へ具申するに至らなかった。

このため、第三十二軍司令官は、戦場地域の住民の避難・保護についての責任を形式的には持たないことになり、あくまで県知事に責任に責任があるという形式が貫かれていた。」(『沖縄戦「集団自決」の謎と真相)

沖縄戦に際して、軍は戒厳令について検討はしたが執行はせず、行政責任は最後まで県知事に委ねられた。

■安仁屋政昭ー苦し紛れの「合囲地境」

「軍命派」の理論的リーダーで「大江・岩波集団自決訴訟」の被告(大江)側の応援団である安仁屋政昭沖縄国際大学名誉教授は、沖縄戦でも戒厳令が施行されない限り、民間に対する命令権は行政側(県知事)にあると反論され、狼狽した。

そして苦し紛れに新しい概念を捻りだした。

「合囲地境」は、「戒厳令と同等の軍命が可能」と軍命を主張したが、誰にも相手にされず最近では沈黙したままである。

■軍と行政を峻別した太田少将

「沖縄県民斯く戦えり」で有名な太田少将も、軍民の役割分担を充分心得ていた。

太田少将は、沖縄県の実情を報告するのは県の職務だが、「県には既に通信力なく、32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き」、県に代わって「緊急御通知申し上げる」と、自身の「越権行為」の弁明に電文の前半を費やしている。

電文「沖縄県民斯く戦えり」の冒頭部分

 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる

軍隊が民間に命令できるのは、戒厳令が執行されたときであり、沖縄戦当時、戒厳令は執行されていなかった。

太田少将は自決直前の今わの際にも戦場現場の軍と行政の責任分担について峻別していた。

 

               ★

戦時中に、よく言えば「利用」され、悪く言えば「悪用」された言葉に、「軍の命令」という言葉がある。

実際には命令は発せられていなくとも、また軍が命令する権限がない場合でも、沖縄県民は当時の社会風潮から「軍命」と言った方が万事敏速に行動に移す傾向にあった。

例えば「○○へ集合」という場合でも迅速を期す場合「軍命」という言葉が頻繁に悪用された。

県外疎開も実際に住民に命令出来る立場にあったのは行政側であったので、県外疎開を緊急課題と考えた軍は行政に協力を依頼した

初県外疎開に反対の風潮にあった県民に対して行政側は「軍命」を利用した

だが「軍命」も頻繁に利用(悪用?)されると住民側もこれに従わないようになってくる。 オオカミ少年の例えというより、そもそも軍命なんて軍が民間に下すものではないということは一部には知れ渡っていたのだ。

『沖縄県史』第四巻には「集団疎開に対する県民の心境」として次のような記述がある。

≪当時の戦局からして、国家の至上命令としてどうしても疎開しなければならなかったのである。 刻々に迫ってくる戦火への不安、その中で県民は島を守るべき義務を軍部と共に負わされ、生活を軍部の専権にゆだねさせられた。

しかし、このような状況にあって、一家の中堅である男子壮年者は沖縄に留まり、老幼婦女子のみを未知の土地に送るという生活の不安や、肉親の絶ちがたい愛情に加うる、海上の潜水艦の脅威などから、住民は疎開の勧奨に容易に応じようとはしなかった。(略) 

かくして昭和19年7月中旬垂範の意味で県庁、警察の職員家族が疎開し、同8月16日1回目の学童疎開を送り出すまで、学校、部落、隣組などにおける勧奨が燃え上がるなかで隣組の集会などに持ち込まれる流言、戦況に対する信頼と不安の錯そうなどから家族間は賛否の論議を繰り返し疎開を決意したり、取り消したり、荷物をまとめたり、ほぐしたりの状況を続けた。≫

沖縄県史の記述の中にも「命令」を「利用」した当時の緊迫した状況が読み取れる。

学童疎開も「従わなければならない」という意味では軍どころか「国家の至上命令」としておきながらも、「住民は疎開の勧奨に容易に応じようとはしなかった」というくだりでは、命令ではなく勧奨と言葉の使い分けをしている。

>家族間は賛否の論議を繰り返し疎開を決意したり、取り消したり、荷物をまとめたり、ほぐしたりの状況を続けた

軍の命令」が親兄弟の命を奪わねばならないほど厳格なものだったら、賛否の論議の余地はなかっただろうし、疎開命令に対しても絶対服従であり、荷物をまとめたりほぐしたりも出来なかっただろう。

むしろ米軍来襲におびえて、荷物をまとめたりほぐしたりする住民の様子は、米軍上陸を目前にしてパニックになり、「自決すべきか生き延びるべきか」と迷ったあげく、結局グループのリーダーの決断に委ねた座間味、渡嘉敷両村の住民の心境に相通ずるものがあるのではないか。

どちらの場合も一家の主が拒否しようと思えば出来た。

学童疎開を拒否した家族は結局戦火に巻き込まれ多くの被害者をだし、集団自決を拒否した家族は戦火を生き延びた

軍命という言葉は、戦時中は行政側や一部民間団体に利用され、戦後は左翼勢力によって悪用されている。

以下は世界日報の引用です。

真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から63年 3部<13>

 

軍・行政が住民疎開に尽力

「南西諸島守備大綱」で詳細な指示

picture 今年6月23日の「慰霊の日」、沖縄県南部にある摩文仁の丘の「平和の礎(いしじ)」に刻まれた戦没者の前で手を合わせる遺族(敷田耕造撮影)
 沖縄の地で米軍を迎え撃つ日本軍は、敵の圧倒的な攻撃力をいかに封じ込め、反撃するかに心を砕くとともに、沖縄県民の疎開にも配慮した。

 

 軍が沖縄県庁と疎開計画を立案したのは昭和十九年の夏ごろから。重点を置いた島外疎開については、戦闘開始までに沖縄本島約十万人、八重山群島約三万人が九州・台湾に避難できた。

 一方で、疎開住民を輸送する船舶の不足、疎開先の受け入れの限界などの事情から、軍は島内疎開も視野に入れていた。この一環として十九年暮れに策定されたのが「南西諸島警備要領」。その特徴と経緯を、沖縄守備隊第32軍高級参謀、八原博通・元陸軍大佐の著書『沖縄決戦』(読売新聞社、昭和四十八年)から、紹介する。

 〈本要領中、最も注意すべきは、住民を当然敵手にはいるべき本島北部に移すことであった。一億玉砕の精神が、全国土に横溢(おういつ)していた当時、これは重大な決断であった。私は、軍司令官に相談申し上げた。「サイパンでは、在留日本人の多くが玉砕精神に従って、軍とともに悲惨な最期を遂げた。しかし沖縄においては、非戦闘員を同じ運命を辿(たど)らせるべきでない。アメリカ軍も文明国の軍隊である。よもやわが非戦闘員を虐殺するようなことはあるまい。もし島民を、主戦場となるべき島の南部に留めておけば剣電弾雨の間を彷徨(ほうこう)する惨状を呈するに至るべく、しかも軍の作戦行動の足手纏(まと)いになる」といった主旨を述べた。こういうと、一見語勢が強いようだが実はそうではなく、私も内心軍司令官のお叱りを受けるのではないかと、声をひそめて申し上げたのであった。ところが、軍司令官は、よく言ってくれたとばかり、直ちに裁断を下されたのである〉

 戦闘に参加・協力できる県民を除いて六十歳以上の老人、国民学校以下の児童とその世話をする女子は十数万人と、八原参謀は読んだ。だが、米軍の日増しに激しくなる空襲や家族がバラバラになることを嫌い、北部疎開は思うように進まなかった。結局、五万人ほどが北部に疎開した

 着任して間もない島田叡知事は沖縄県民の食料確保のために、わざわざ台湾総督府に出掛け談判した。結果、台湾米約十万袋を獲得し、この海上輸送にも成功した。

 六月上旬、東京・目黒の防衛省防衛研究所の戦史資料室を訪ねて、「軍命」「沖縄戦」「第32軍」の中から、三十点余りの資料を閲覧した。八原参謀の『沖縄決戦』の下書きとなったノートのコピーや、米国から戻された作戦資料などもあったが、南西諸島警備要領そのものはなかった。

 ただ、沖縄のジャーナリスト、上原正稔氏が翻訳・編集した『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』(三一書房、昭和六十一年)に掲載されている「南西諸島守備大綱」が、この南西諸島警備要領と同一のものと推定される。

 タイトルが違うのは、米軍が押収した日本軍機密文書の英訳を上原氏が日本語に直したものだからだ。『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』によれば、極秘扱いのこの文書は、「閣議決定による国家総動員法の要旨に基づき、球一六一六部隊(第三十二軍司令部)牛島満司令官及び、沖縄県知事、鹿児島県知事の命令により、次の付属文書を提出する」という文から始まっている。その内容は、八原参謀の手記と重複するものだが、「南西諸島守備大綱」の方がより住民の疎開について詳細な指示がなされている。日本軍が駐屯した島の島民への指示も記載されている。

 「船舶の事情により、予期される戦闘地区から事前に疎開できず、しかも、軍隊のいる島の島民は、敵軍の砲撃の被害を少なくするために、それぞれ身を守るための壕(ごう)を掘らねばならない

 また、「(住民の)混乱を避け、被害を少なくするために、島民を適当な場所に疎開、あるいは、離島に疎開させること」とも記している。

 専門家によれば、避難壕を造ることや安全な場所に島民を誘導するという仕事は、村長、助役ら行政担当者と、戦闘部隊を後方から支援する基地隊が中心になって行うという。つまり、軍も行政も住民保護に心を砕いたのである

 こうした事実を踏まえれば、精神的に限界状況にあった住民が集団自決に踏み切ったことを取り上げて、「日本軍は住民を守らない」などという左翼の主張がいかに的外れで、「反日運動のために捏造(ねつぞう)されたスローガン」にすぎないかが明白になる。

 実際は、全国各地から召集された日本人がわずかな武器を手にして、日本を、そして沖縄を守るために貴い命をささげたのである。もし、日本軍が沖縄に一兵士も送らなかったならば、果たしてどうなっていただろうか。北方領土や樺太がソ連領になったように、沖縄もまた米国の一部になっていたかもしれない。

(編集委員・鴨野 守)(世界日報掲載:6月29日)

 

【おまけ】

下記動画、「you cube で見る」をクリックすると再生できます。

 

最初に「北山(ニシヤマ)に集合」と言ったのは安里巡査の相談を受けた赤松隊長の助言であり、少なくとも「命令」ではない。 それが最終的に「赤松隊長の自決命令に」変化していく過程は、まるで伝言ゲームのようである。(伝言ゲームで自決命令など出すはずはなく、それを実行する人もいない)

上記動画で「巡査」というのは、安里巡査のこと。

島外の出身で渡嘉敷島に新しく赴任した安里巡査(戦後比嘉家の養子となり比嘉喜順と改姓)は、島民に避難場所を指示するほど島の地形に精通していなかった。

本島から渡嘉敷島に赴任したばかりの若いおまわりさんが、島を取り囲んだ米軍の「鉄の暴風」に遭遇し、住民を避難させるため悪戦苦闘する。 

安里氏は渡嘉敷島の「集団自決」当時、島に駐在した警察官だが、「鉄の暴風」の著者の太田良博記者は、安里氏が戦後沖縄に在住していたにもかかわらず、何故か安里氏には一度も取材をしていない。

 

渡嘉敷島の駐在であった安里巡査は、集団自決の現場を目撃した生き残り証人として最重要証人であり、曽野綾子氏の『集団自決の真相』には登場する。

改めて安里氏の証言を読むと、『集団自決の真相』やその他の文献で断片的に得た知識が一つの線となって繋がってくる。

下記に『集団自決の真相』に登場する安里喜順氏の関連部分を抜書きしておく。

渡嘉敷島「集団自決」の真相を解く鍵は安里喜順氏の証言の中にある。

曽野さんが、当時の渡嘉敷村村長だった古波蔵惟好氏に取材した時の様子を次のように記している。(『集団自決の真相』より抜粋)

安里(巡査)さんは」と古波蔵氏は言う。

「あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯が食える。まあ、警察官だから当然国家に尽したい気持もあったでしょうけど。軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」

安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということほないんですか」

「ありません」

「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」

「そうです」

「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」

「私へ来るんです」

「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」

「はい、ずっとです」

「じゃ、安里さんが一番よくご存じなんですか」

「はい。ですから、あの人は口を閉して何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」

古波蔵村長が軍から直接命令を受けることはない、と言い、あらゆる命令は安里氏を通じて受け取ることになっていた、と言明する以上、私は当然、元駐在巡査の安里喜順氏を訪ねねばならなかった。赤松隊から、問題の自決命令が出されたかどうかを、最もはっきりと知っているのは安里喜順氏だということになるからである。

曽野氏は、『鉄の暴風』(昭和25年初版)の著者が安里氏に一度の取材もなく記事を書いた様子を次のように書いている。

おもしろいことに、赤松大尉の副官であった知念朝睦氏の場合と同じように、安塁喜順氏に対しても、地元のジャーナリズムは、昭和四十五年三月以前に訪ねていないことがわかったのである。問題の鍵を握る安里氏を最初に訪ねて、赤松隊が命令を出したか出さないかについて初歩的なことを訊き質したのは、例の週刊朝日の中西記者が最初であった、と安里氏は言明したのである。

一方、地元マスコミだけでなく、本土新聞でも取り上げる証言者に安里氏の名前は出てこない。

小さな島の唯1人の警察官で、不幸にも「集団自決」に遭遇した最重要証人である安里氏を主題する地元マスコミは一社もない。

安里氏の証言は地元マスコミでは無視されている照屋昇雄さんや金城武徳さんの証言とはほぼ完全に一致している。

地元マスコミが避ける証言者の言葉に、真実がある。

沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行
第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 

比嘉 喜順(旧姓・安里、当時 那覇署渡嘉敷駐在所)

安里喜順氏の証言-2

赤松隊長に面会
 艦砲が激しくなって渡嘉敷の山は焼けてシイジャー(しいの木)だけが残っていた。
 阿嘉島にも水上特攻隊が駐屯していた。
 その頃渡嘉敷島には招集された防衛隊員がいたが、小さい島なので招集されても家族のことが心配になり、自宅に帰って家族の面倒を見ながらやっていた。
 防衛隊員は軍と一緒に仕事していたので情報はよく知っていた。その防衛隊員の人たちが敵は阿波連に上陸して次は渡嘉敷島に上陸して来ると言うので、私は慌ててしまった。
 赴任してまだ間がなく現地の情勢も良く分からない頃だったので、米軍が上陸して来たら自分一人で村民をどのようにしてどこに避難誘導をしようかと考えたが、一人ではどうする事もできないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。
 赤松部隊の隊長は民家を借りていたが、昼は海岸の方に行っていた。その海岸は秘密地帯になっていたらしく、私は行ったことはなかった。
 赤松部隊は特攻を出す準備をしていたが艦砲が激しくなって出せなくなり、船を壊して山に登ったと言うことであったので、私は赤松隊長に会って相談しようと思いその部隊を探すため初めて山に登った。
 その時は大雨でしかも道も分からず一晩中かかってやっと赤松隊に着いた。その時、赤松部隊は銃剣で土を掘ったりして陣地を作っていた。私はそこで初めて赤松隊長に会った。

住民の避難誘導の相談


 このような状況の中で私は赤松隊長に会った。
 「これから戦争が始まるが、私達にとっては初めてのことである。それで部落の住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか」と相談した。すると赤松隊長は、「私達も今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか靜かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐ部落に引き返した。
 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、「なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう」と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。部落から避難して行くときは大雨であった。
 私が本島にいた時もそうであったが、その頃は艦砲や空襲に備えてそれぞれ防空壕や避難小屋を作っていた。私が渡嘉敷に赴任する前から渡嘉敷島の人たちは、恩納河原に立派な避難小屋を作ってあった。
 私は恩納河原にこんな立派な避難小屋があることを知らなかった。避難して行ったところは恩納河原の避難小屋の所ではなく、そこよりはずっと上の方で、赤松部隊の陣地の東側であった。部落を出発したのは夜で、しかも大雨であった。真っ暗闇の中を歩いてそこに着いたときには夜が明けていた。その時部落の人たちのほとんどが着いて来ていたと思う。避難して来た人たちの中には防衛隊員も一緒にいた。

渡嘉敷島の玉砕
 私は住民の命を守るために赤松大尉とも相談して、住民を避難誘導させたが、住民は平常心を失っていた
 空襲や艦砲が激しくなってから避難しているので、部落を出発する時からもう平常心ではない。
 集まった防衛隊員達が、「もうこの戦争はだめだから、このまま敵の手にかかって死ぬより潔よく自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい」と言い出して、村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようという事になった。
 私は住民を玉砕させる為にそこまで連れて来たのではないし、戦争は今始まったばかりだから玉砕することを当局としては認めるわけにはいかないと言った。しかし、当時の教育は、「生きて虜囚の辱めを受けず」だったので、言っても聞かなかった。
 そこで「じゃあそれを決行するのはまだ早いから、一応部隊長の所に連絡をとってからその返事を待って、それからでも遅くないのではないか」と言って部隊長の所へ伝令を出した。
 だがその伝令が帰って来ないうちに住民が避難している近くに迫撃砲か何かが落ちて、急に撃ち合いが激しくなった。
 そしたら住民は友軍の総攻撃が始まったものと勘違いして、方々で「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」と始まった。その時、防衛隊員は全員が敵に遭遇した時の武器として、手榴弾を持っていたと思う。
 その手榴弾を使って玉砕したが、幸か不幸かこの手榴弾は不発が多く玉砕する事ができない人たちがいた。
 玉砕できなかった人たちが集まって、友軍の陣地に行って機関銃を借りて自決しようと言うことになって、自分たちで歩けるものは一緒に友軍の陣地に行ったが、友軍はそれを貸すはずがない。そこでガヤガヤしているうちにまた迫撃砲か何かが撃ち込まれ、多くの人たちがやられた。
 その時友軍に、「危険だから向こうに行け」と言われて、元の場所に帰ってきた。
 その頃は全員の頭がボーとして何も考える事ができず、死のうが生きようがどうでもいいと言う気持ちで近くの広場で寝ていた。
 その時自決するチャンスを失ってしまってそのままになった住民も多かった。

避難生活
 あの広場で玉砕してから2、3日は飲まず食わずでいたと思う。それから段々と集まってきた場所が、あの避難小屋を作ってあった恩納河原であった。
 それからは避難小屋での生活が始まった。山の畑を耕したり、芋を作ったり、ソテツで澱粉を作った りして食いつないでいたが、小さい離島なので、持っていた食料も底を尽き、山のソテツも取り尽くしてしまい、食料を探すのに必死だった。その頃船  が沈められて、海岸にはよくメリケン粉や缶詰などが流れ着いていたので、それを拾って食べたこともあった。
 渡嘉敷港の近くに友軍の食糧を積んであったので、私が赤松隊長に相談して防衛隊員などから力のある人を集め、その食糧を取ってきて友軍と民間で分けたこともあった。
 赤松隊長は、「私たちは兵隊で戦って死ねばいいが、皆さんは生きられるだけ生きて下さい」と言って、自分たちの味噌や米を住民に分けてあげたりしていたこともあった。
 米軍が上陸してからは、本島との連絡は全くできないので、私は赤松隊に行って情報を取りそれを住民に伝えていた。
 七、八月頃になったら米軍からビラがばら撒かれた。それには「もう戦争は終わったから山から降りてきなさい」と書いてあった。

 渡嘉敷島の住民の中にも、伊江島の住民の捕虜から情報を聞いて早く投降した人たちもいた。
 そのとき私も軍と一緒に投降した。(沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行 第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 P768)

(昭和63年2月8日採話)

                     ◇

この証言記録は戦後43年を経過した昭和63年に採話されている。

改めて説明するまでもなく、赤松隊長が自決命令を出したという主張が真っ赤な嘘であるということが、この証言からわかる。

何よりも、仮に、軍の命令による自決なら、自決に失敗した住民は当然「命令違反」で処刑の対象であったはずだ。 

ところが、7、8月ごろまで赤松隊長と食料の分け合いをしていた事実や、情報交換をしていた事実から、軍の命令による自決が、嘘であることは自明である。 

軍命説は、後年になってからの援護金申請のための方便であることが証明されているが、それを証明したのが、軍命説派である石原昌家沖国大名誉教授の調査によるというのは、いかにも皮肉である。

安里巡査の証言が、最重要だという理由は、安里巡査の当時の年齢と職務にある。

「集団自決」の生き残りは老人と子供が多かったため、既に物故した人が多かったり、当時幼かったため後の証言が他人の影響を受け信憑性に欠ける点が指摘され、それが真相解明の大きな妨げになっている。

更に問題を複雑にしているのは、「集団自決」の関係者が血縁・地縁で何らかの繋がりがありそれが証言者の口を重くしているという点である。

それに援護金支給の問題が絡むと、今でも黙して語らないお年寄りが多数いると聞く。

その点、当時渡嘉敷島の巡査であった比嘉さんは信憑性のある証言者としての条件を全て具備していた。

安里(比嘉)巡査は本島から赴任したばかりで渡嘉敷島の血縁社会には無縁の「よそ者」であり、、島の血縁・地縁社会とはつながりの無い新任の警察官だった。 従って安里巡査に地域共同体の呪縛はない。

安里巡査は、親族に「集団自決」のいない証言者であり、赴任当時29歳という年齢的にも、村の指導的立場の警察官という立場からいっても、生存者の中で最も信頼のできる証言者のはずだった。

これだけの証言者としての条件を具備していながら、しかも戦後一貫して沖縄に在住しているのにもかかわらず、地元マスコミで比嘉(安里)さんに取材したものは1人もいないというのも不可解である。

その理由は?

比嘉さんが渡嘉敷島で起きた集団自決の「不都合な真実」を知っていたからである。

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