お 長州力
■曽野綾子(『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実)』の疑問
大東亜戦争末期の沖縄戦で、「渡嘉敷島の住民が日本軍の命令で集団自決した」とされる“神話”は真実なのか!? この“神話”は、多くの部分が推測の範囲で断罪され、しかも推測の部分ほど断罪の度合いも激しくなっている、という一種の因果関係が見られる。神と違って人間は、誰も完全な真相を知ることはできないが、著者の取材で、「日本軍が自決命令を出した」と証言し、証明できた当事者はいなかったのである。徹底した現地踏査をもとに「惨劇の核心」を明らかにする!
渡嘉敷島の赤松嘉次元隊長の自決命令に対する疑問について、曽野綾子氏が『沖縄渡嘉敷島「集団自決」の真実』(ワック刊)で明らかにしている。
曽野氏は軍の自決命令により座間味、渡嘉敷で集団自決が行われた最初に記載したのが沖縄タイムスの(鉄の暴風)、これを基に作成したのが『渡嘉敷の戦闘概況』と推測している。その理由として『渡嘉敷の戦闘概況』に『鉄の暴風』と酷似する文章、表現が多数見られ、偶然の一致であはあり得ないこと、引用した際のものと思われる崩し字が『渡嘉敷島の戦闘概況』に見られうることを挙げている。さらにこれを基に作成されたものに『渡嘉敷島における戦争の様相(渡嘉敷村・座間味村共編)
■大ウソの自決命令
ところが、『渡嘉敷島の戦闘概況』には記載のある部隊長の命令が『渡嘉敷島における戦争の様相』には記載されていない。
渡嘉敷島が作成した資料にはこれほど重大な事実が、不注意で欠落することは考えられない。 結局『渡嘉敷島の戦闘概況』作成当時には部隊長の自決命令を確認しないまんままであったが、『渡嘉敷島における戦争の様相』作成当時には部隊長の自決目命令がないことが確認できたから、記載から外したことは明らかである。つまり渡嘉敷村も隊長命令が無かったことを認めている。
■豊平良顕―沖縄タイムス元社長
沖縄タイムスの豊平良顕から依頼され『鉄の暴風』を作成した、太田良博は証言者二人の話をもとに作成したと語っている。
どう考えても渡嘉敷島の証言者としては、不都合な二人の証言者について、再度検証して見よう。
証言者は当時座間味村の校長の山城安次郎氏と南方から復員して帰っていた宮平栄治氏であった。
➀しかし、宮平氏は事件当時南方にいて、現場を見ていない。
②山城氏が目撃したのは渡嘉敷島ではなく隣の座間味島の集団自決である。座間味島の集団自決を目撃したとしても、渡嘉敷島の集団自決の目撃者にはなり得ないのは明白である。
しかも太田氏はれほど複雑で事実の曖昧な渡嘉敷島の集団自決を含む沖縄全体の戦史を三ヶ月で作成したと言い。「時代が違うとと発言しますと見方をも違う」と発言している。見方が違ったから事実があったりなかったりするのでは戦史としての意味はなく、単なる物語と言われても仕方がない。
■地元出身ー知念元少尉の証言
地元出身の知念元少尉の証言は、決定的であった。
■見てきたような「講談」
曽野綾子氏をして「見てきたような講談」と言わしめた知念元少尉はこう証言している。
「西山A高地に人知を移した3月27日地下壕で将校会議を開いたが、その時赤松大尉は『持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員を潔く自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食料を確保して、持久体制を整え、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住む全ての人間に死を要求している」とし、これを聞いた沖縄出身の知念少尉は悲憤のあまり,慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」という記載がある。
■『鉄の暴風』の」問題部分
曽野綾子氏が『沖縄渡嘉敷島「集団自決」の真実』(ワック刊)で明らかにし『鉄の暴風』の渡嘉敷島の集団自決に関する問題部分をさらに詳しく挙げると次の通りである。
➀直接体験者でない山城安次郎と宮平栄治からの伝聞証拠い過ぎないものを基に作成している。
②『鉄の暴風』と『戦闘概要』『戦況報告書』は記載内容が酷似しており、別の文章とは思われない程の類似性があること、結局、子引き、孫引きであり、最初が間違えていれば、次々と間違いが繰返される構図である。
③『鉄の暴風』と『戦闘概況』赤松隊長の自決命令の記載があるが、渡嘉敷村当局である古波蔵村長、屋比久孟祥防衛隊長が関与して作成した『戦況報告書』には赤松隊長の自決命令はないこと。
④将校会議の開かれた地下壕で知念少尉が聞いたという赤松隊長の自決命令がないこと。
⑤渡嘉敷島への米軍上陸が昭和20年3月27日午前9時であるところ、『鉄の暴風』、『戦闘概要』、『戦況報告書』は何れも3月26日と記載しており、多くの人の命日となった集団自決が3月28日であるところ、前日の米軍上陸の期日という重大な事実を偶然しても3件とも間違えたのは不自然である。
⑥自決命令を村長に伝えたはずの安里順駐在巡査が自決命令のなかったこと明言している。
大江・岩波集団自決訴訟で、被告の大江健三郎は沖縄を訪問していながら一度も肝心の慶良間島で集団自決の現地取材をすることなく、事実誤認の多い『鉄の暴風』をネタ本にして『沖縄ノート』を書きあげ、同書で原告に罵詈雑言を浴びせ梅澤・赤松両隊長の名誉を棄損した。
ノーベル文学賞を受賞した大江氏の『沖縄ノート』は昭和45年以来、既に50版を重ねているが、彼は軍命令を出した隊長について「あまりにも巨きい罪の巨塊」などと断罪し、公開処刑がふさわしいとまで言い切っている。
参考までに昭和45年初版の大江健三郎著『沖縄ノート』から一部抜粋してみよう。
<慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。
2)原告が、原告梅澤及び赤松大尉の名誉を毀損していると主張する本件書籍三の記述の「その1」は次のとおりである。
「慶良間列島において行われた、7百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題はこの血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が総合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人に向かって、なぜおれひとり自分を咎めねばならないのかね?と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうであろう。」(69~70頁)
原告は、上記本件記述は原告梅澤及び赤松大尉が集団自決命令を下したとの事実を摘示するものであると主張するが、本件記述は、①集団自決命令が座間味島の守備隊長によって出されたことも、原告梅澤を特定する記述もなく、また、②集団自決命令が渡嘉敷島の守備隊長によって出されたことも、赤松大尉を特定する記述もなく、一般読者の普通の注意と読み方を基準とした場合、原告梅澤及び赤松大尉についてのものと認識されることはなく、原告梅澤や赤松大尉が集団自決を命じたと認識されるものでは全くない。
したがって、本件記述が、原告梅澤、赤松大尉の名誉を毀損するということはありえないし、原告赤松固有の名誉を毀損するということもありえない。また、原告赤松の赤松大尉に対する敬愛追慕の情を侵害するということもありえない。
②『鉄の暴風』と『戦闘概要』『戦況報告書』は記載内容が酷似しており、別の文章とは思われない程の類似性があること、結局、子引き、孫引きであり、最初が間違えていれば、次々と間違いが繰返される構図である。
③『鉄の暴風』と『戦闘概況』赤松隊長の自決命令の記載があるが、渡嘉敷村当局である古波蔵村長、屋比久孟祥防衛隊長が関与して作成した『戦況報告書』には赤松隊長の自決命令はないこと。
■最重要証人山城安次郎の沈黙の謎
大江・岩波集団自決訴訟で、被告の大江健三郎は沖縄を訪問していながら一度も肝心の慶良間島で集団自決の現地取材をすることなく、事実誤認の多い『鉄の暴風』をネタ本にして『沖縄ノート』を書きあげ、同書で原告に罵詈雑言を浴びせ梅澤・赤松両隊長の名誉を棄損した。
ノーベル文学賞を受賞した大江氏の『沖縄ノート』は昭和45年以来、既に50版を重ねているが、彼は軍命令を出した隊長について「あまりにも巨きい罪の巨塊」などと断罪し、公開処刑がふさわしいとまで言い切っている。
参考までに昭和45年初版の大江健三郎著『沖縄ノート』から一部抜粋してみよう。
<慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。
沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題はこの血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本らしい現場においてはっきり形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が綜合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人に向かって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう>
<慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められた記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。いや、それはそのようではなかったと、一九四五年の事実に立って反論する声は、実際誰もが沖縄でのそのような罪を忘れたがっている本土での、市民的日常生活においてかれに届かない。一九四五年の感情、倫理感に立とうとする声は、沈黙に向かってしだいに傾斜するのみである>
■決定的大ウソ、■梅澤隊長の不明死
梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。
いうまでもなく、座間味村の梅澤裕戦隊長は健在で、現在係争中の「集団自決訴訟」の原告の一人として戦っている。人間の生死に関わる明らかな事実誤認は論外としても「梅澤少佐のごとき」とか「朝鮮人慰安婦らしきもの」といった表現には、執筆者自身の感情が滲みだしており、沖縄戦の記述というより、個人攻撃の「怪文書」の類といわれても仕方がない。
太田は取材相手を覚えていないし、メモも残っていないと言っているが、筆者(江崎)は、このガセネタの発信源は、梅澤と共に座間味村で米軍の猛攻撃を体験した山城を」おいてほかにあり得ないと確信する。発信源が山城であるとする根拠は後に詳述するが、「梅澤不明死」に関しては、大田記者は『鉄の暴風』が発刊されてから36年後の昭和61年、『沖縄タイムス』紙上で「梅澤隊長”生死”の誤記」と題して弁明記事を書いた。
誤記と弁明
発刊後三十六年経ってからの弁明も不可解だが、その弁明自体が子供の言い訳のような開き直りに終始している。
長くなるが次に引用したい。
戦後四十一年にあたって――梅澤隊長”生死”の誤記ーー
の慶良間の戦闘だが、『鉄の暴風』のなかの座間味の戦記で、同島の隊長であった梅澤少佐に関する部分に誤記があった。「不明死を遂げた」と記録された、その梅澤元少佐が、現に生きていることが、あとでわかったのである。『鉄の暴風』のその部分(同書41頁末尾)は、1980年7月15日刊行の第九版から削除してあるが、その誤記の責任者は、じつは、当時沖縄タイムスの記者で会った、この私である。(略)あれは座間味の戦争体験者の座談会をそのまま記録したものであって、梅澤隊長の消息については、あの「誤記」のような説明を受けたのである。(『沖縄タイムス』1986年8月15日付)
これでは「誤記」の弁明にはなっておらず。井戸あた会議のうわさ話を鵜呑みにしてそのまま記事にしたと言われても仕方がないが、太田はさらに続けて「誤記」した理由について次のようにとぼけている。「『誤記』のようなウワサがあったようである」と。
何よりも原文の「梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した」という侮蔑的記述そのものは引用せずに。「不明死を遂げた」の一言に留めており、しかも「誤記」とカッコ付きで論じているのも不可解である。さらに梅澤が抗議したことに対して逆切れとも取れる次のような発言をしている。
「生きている」のに「死んだ」と報じられたことを梅澤氏は抗議しているようだが、「俺は死んでいない」「投降したのだ。そしてこの通り生きているではないか」という意味の抗議だろうか。
それにしても、と私は思う。というのは『鉄の暴風』の初版が出版されたのは1950年8月15日である。それから三十余年間、タイムス社が自主的に「誤記」の部分を削除するまで、梅澤氏は自分の所在地さえ知らせてないようだし、「誤記」の訂正の申し入れもしていないという。『鉄の暴風』の版元が自主削除してから6年も過ぎて、なぜいまごろから「真相」を明かすのだろうか。その辺の梅澤氏の心情は不可解というしかない。
「誤記」の削除はタイムス社が「自主的」に行ったと繰り返し強調しているが、自主的だろうが何だろうが、個人の尊厳を傷つける「誤記」を削除するのは出版社として当然の責務であり、加害者としての認識を欠いて逆切れする太田に怒りさえ感じる。念のため記しておくが。「誤記」による被害者は梅澤であり、それに対する梅澤の抗議を不可解であると逆切れする太田の弁明こそまさに不可解ではないか。
「自主削除してから6年も過ぎて、なぜいまごろから「真相」を明かすのだろうか。その辺の梅澤氏の心情は不可解というしかない」という逆切れ記述には、怒りを通り越して言葉を失う。
「梅澤不明死」の記述はすでに削除済みだから問題にするには当たらないという向きもあるが、削除後に「誤記」を恥じて黙していたのならともかく、「ウワサだけど当時は仕方なかった」といった太田の執筆姿勢が問題であり、一事が万事、その執筆姿勢こそ『鉄の暴風』の記述全体が伝聞情報の「物語」であることの証左である。
太田は次のように弁明して『鉄の暴風』のデタラメさを自ら吐露してくれる。
ただ、「誤記」のようなウワサはあったようである。あの小さな島で、しかも、当時、一番重要だった人物が、その後どうなったか知らないほど、島の人たちは全ての情報から遮断され、孤立した状態のなかにおかれていたことがわかる。『鉄の暴風』執筆当時、私としては、島の人たちの言葉を信じるほかはなかった。梅澤隊長がどいう方法で投降したのか、島の人たちでさえ知りえなかった事実をさぐりだすほどの余裕は、当時の私にはなかったのである。(「太田良博著作集⑤ 諸事雑考」41頁)
『鉄の暴風』について、係争中の「集団自決訴訟」(大江・岩波訴訟)第一審判決で裁判長は「民間から見た歴史資料としてその史料価値は否定しがたい」と、その記述内容を評価している。 裁判長が『鉄の暴風』の「梅澤不明死」の記述が削除されなかった事情を承知していたかわからないが、太田の弁明文を読み、取材者も特定できない事実無根の「ウワサ」を記述していたと知ったら、『鉄の暴風』の評価も当然違っていただろう。
誰が「梅澤不明死」を売り込んだか
「不明死はざだんかいのウワサだった」という太田の弁明にもかかわらず、筆者は「誤記」の情報源は山城安次郎であると確信するのであるが、太田記者も山城も既に亡くなってしまった現在、本人たちに確認する術はない。
だが、「梅澤不明死説」の情報元は山城であるという根拠は、次のような諸点から明らかである。
①太田は新聞記者として情報提供者を追い求めたという話は皆無に近く、もっぱら受動的に持ち込まれる情報に対応していた。そんな中で山城以外に当時の座間味島の状況を知る人物に取材したという形跡もなければ、本人が座間味に取材に行った事実もない。残る可能性は自ら日本軍の告発にタイムス社を訪れた山城を除いて考えることはできない。
➁『鉄の暴風』は単行本になる前は『沖縄タイムス』の連載記事であり、同時に唯一の娯楽であったラジオ放送で全島に放送されいる。沖縄住民は日本本土でQHGによって放送された『真相はかふだ』を聞いたのと同じ心境で『鉄の暴風』に耳を澄ましていた。『真相はかふだ』は昭和20年に始まったNHKのラジオ番組で、日本軍の残虐性をはじめ、この戦争がいかに間違ったものであったかを繰り返し宣伝し、日本人の心に戦争に対する贖罪意識を植えつけようとした。 だが、実際は脚本・演出までGHQの民間情報局が担当し、NHK独自番組のように放送されていたのである。
米軍の情報管理の特に厳しかった沖縄で、新聞に情報を売り込んでいた山城が、新聞記事やラジオ放送で放送されていた『鉄の暴風』に全く気付かないはずはなく、むしろ特別の関心を持ってその内容に注目していたことは間違いない。 仮に。山城が「梅澤不明死」という「ガセネタを売り込んでいないとしたら、当然記述の間違いに気が付いて『沖縄タイムス』に訂正を申し出るはずであるが、このガセネタが事実誤認として実際に削除されるのは30年後の改定版になってからである。
梅澤隊長は太田記者によって、実に30年もの間「不明死」させられていたのである。
太田が座間味島の集団自決の体験者である山城に取材しながら肝心の座間味の状況は取材できなかったという取材態度は、記者として失格と言われても仕方がない。このように新聞記者として不適格と思える太田に、『沖縄タイムス』は何ゆえ社を挙げて企画した『鉄の暴風』の執筆を委ねたのか。
その謎を解く鍵は太田の沖縄タイムス入社直前の職にあった。
太田の経歴を見ると『鉄の暴風』の監修者である豊平良顕や共著者の牧港篤三のような戦前からの新聞記者ではない。 そもそも太田と『沖縄タイムス』との関係は、『沖縄タイムス』の月刊誌にエッセイ、詩、短編小説などを寄稿していた、いわば文学好きの投降者と新聞社という関係だったという。 太田が戦後アメリカ民政府に勤務しているとき、沖縄タイムスの豊平良顕に呼ばれ、企画中の『鉄の暴風』の執筆を始めたことになっているが、太田は戦時中通訳としてインドネシアで軍務経験があり語学は得意であった。
太田の略歴にある沖縄民政府とは琉球政府のことではなく、琉球政府を統治する米軍側の米民政府のことで、沖縄の政治や思想統治に君臨した通称ユースカーという組織を意味している。 米民政府勤務の語学が得意の太田が「米軍の意思」を盛り込んだ沖縄タイムス社の『鉄の暴風』の執筆に、ベテラン記者をさておいてピンチヒッターのように駆り出されたのだ。
『鉄の暴風』の執筆時に、米軍側と『沖縄タイムス』そして大田の間に「共通の思惑』が有ったと考えても不思議ではないだろう。(『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』)山城安次郎氏は太田記者が言う情報提供者の枠を超えた実体験者であり、座間味島の集団自決を証言できる証言者のはずである。
事件を追う事件記者が、わざわざ自社(沖縄タイムス)に飛び込んできた事件の当事者を目前にして、他の事件の情報提供だけを受けて、実体験の事件に関しては何の取材もしなかった。
『鉄の暴風』を執筆をした新聞記者としては誠にお粗末な取材だ。
◇
以下引用の太田記者の「伝聞取材」という批判に対する反論は、「はずがない」の連発と、「でたらめではない」とか「不まじめではない」とまるで記者とも思えない弁解の羅列。
これでは曽野氏に「素人のたわごと」と一刀両断されるのも仕方のないことである。
■「沖縄戦に“神話”はない」
「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」連載4回目
<体験者の証言記録
『鉄の暴風」の渡嘉敷島に関する記録が、伝聞証拠によるものでないことは、その文章をよく読めばわかることである。
直接体験者でないものが、あんなにくわしく事実を知っていたはずもなければ、直接体験者でもないものが、直接体験者をさしおいて、そのような重要な事件の証言を、新聞社に対して買って出るはずがないし、記録者である私も、直接体験者でないものの言葉を「証言」として採用するほどでたらめではなかった。永久に残る戦記として新聞社が真剣にとり組んでいた事業に、私(『鉄の暴風』には「伊佐」としてある)は、そんな不まじめな態度でのぞんだのではなかった。 >
「「沖縄戦」から未来へ向ってー太田良博氏へのお答え(3)」
(曽野綾子氏の太田良博氏への反論、沖縄タイムス 昭和60年5月2日から五回掲載)
<ジャーナリストか
太田氏のジャーナリズムに対する態度には、私などには想像もできない甘さがある。
太田氏は連載の第三回目で、「新聞社が責任をもって証言者を集める以上、直接体験者でない者の伝聞証拠などを採用するはずがない」と書いている。
もしこの文章が、家庭の主婦の書いたものであったら、私は許すであろう。しかし太田氏はジャーナリズムの出身ではないか。そして日本人として、ベトナム戦争、中国報道にいささかでも関心を持ち続けていれば、新聞社の集めた「直接体験者の証言」なるものの中にはどれほど不正確なものがあったかをつい昨日のことのように思いだせるはずだ、また、極く最近では、朝日新聞社が中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真だ、というものを掲載したが、それは直接体験者の売り込みだという触れ込みだったにもかかわらず、おおかたの戦争体験者はその写真を一目見ただけで、こんなに高く立ち上る煙が毒ガスであるわけがなく、こんなに開けた地形でしかもこちらがこれから渡河して攻撃する場合に前方に毒ガスなど使うわけがない、と言った。そして間もなく朝日自身がこれは間違いだったということを承認した例がある。いやしくもジャーナリズムにかかわる人が、新聞は間違えないものだとなどという、素人のたわごとのようなことを言うべきではない。 >
★
『うらそえ文藝』の集団自決特集の対談で、「一フィート運動」の創始者である上原正稔氏が「沖縄タイムス恐喝事件」を暴露したことが話題になった。
当時富村順一氏の恐喝に50万円を脅し取られた沖縄タイムス編集局長新川明氏(後に社長)は、定年退社後も極左評論家として健筆を振るっている。当日記には何度も登場した沖縄タイムスOBである。
新川明
新川明氏は、米軍が写したフィルムの中に、偶々写っていた白旗を持つ少女の映像を発見し、絵本という形で子供たちに「悪逆非道な日本兵」を教え込む平和教育教材を作った。
少女は当時7歳の比嘉富子さんであった。
手製の白旗を掲げ投降する少女の姿は、男服を作り変えたと思われるボロボロのもんぺに裸足のみすぼらしい姿で、健気にも白旗を右手に、左手でカメラのレンズから顔を隠しているように見え、見る者の心を打った。(映画版を見るとカメラに手を振っている様子)
後の調査によると、少女を写したカメラマンは二人いて、一人が記録映画、もう一人がスチル写真を撮影した。
以後白旗の少女の写真は多くの沖縄戦記出版物に転載され見るもの全てを圧倒的感動の渦に巻き込んでいく。
白旗の少女の発掘は、『写真記録「これが沖縄だ」』(1977年)の初版発行の7年後になるので、同書掲載の写真は1987年の改訂版で新たに掲載したのだろう。
■新川明が白旗の少女を捏造ー卑劣な日本兵を創作
白旗の少女が公開されたその翌年の6月には、左翼ジャーナリスト新川明氏(元沖縄タイムス社長)と画家・儀間比呂志氏がコンビを組んで『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』という絵本が出版され、同書を原作にしたアニメ映画まで製作されている。
白旗の少女が教科書に載ったり、修学旅行生に紹介され、写真やフィルムを見た多くの人々がその場面に衝撃を受けるのは、白旗を手に投降する少女のけなげな姿にあったのではない。
読者が衝撃を受けたのは、「平和教育」のため、歪曲され、捏造された醜悪な日本兵の姿である。
米軍が提供する沖縄戦の写真を歴史教育に使用するのは異存はない。
だが、事実を捻じ曲げ日本兵貶めるとなると話は別だ。
記録写真を見た「識者」の色メガネを通して、歴史が捏造される典型的例が「白旗の少女」だ。
新川明著『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』には、少女(りゅう子)が白旗を掲げて銃剣を構える米兵に投降する場面(先頭のりゅう子の後ろには両手を上げた多くの日本兵が追随している版画絵)で、少女は日本兵と住民が雑居する壕にもぐりこむが、壕を取り囲む米軍に投降勧告をされ、誰が最初に壕をでるかで日本兵達が醜く言い争う。
■卑劣な日本兵
そのクライマックス・シーンで次のようなくだりがある。
兵隊たちがいいあらそいをはじめました。
「おとなしく出れば殺さないはずだよ」
「では、だれがさいしょに出るのか」
「こういうときは、兵隊さんがさきだよ」
ほかの人たちもいいあらそっています。
「あなたたちは、そんなに死ぬのがこわいのか!」
りゅう子をガマに入れまいとした女の人が叫び出すと
隊長はあわてて雑のう(ものをいれるもの)から白い布をとりだしていいました。
「ためしに子どもをさきに出してみよう!」
ゆっくりと目をあけると
すきとおるひかりのむこうに
アメリカ兵のすがたがみえました。
戦車のかげで鉄砲をかまえたまま
白い歯をみせてわらっています。
ふりかえると、日本兵たちが
両手をあげてついてきました。
おじいさんや女の人も
よろよろとつづいていました。
そのむこうに、ガマが黒い口をあけていました。
同書の「あとがき」には次のように書かれている。
<さる太平洋戦争では中国をはじめたくさんの国の人たちが犠牲になりました。日本の国民もヒロシマやナガサキに代表される大きな被害をうけました。しかし、沖縄戦は、ほかにみられない軍隊の姿をさらけ出しました
本来、軍隊は国土と国民を守ることをタテマエにしていますが、究極的には自国の国土の中でさえ、自国の国民に銃口を向けて食糧を奪い、無闇に住民を殺す存在でしかないことを明らかにしたのです。それが、戦争であることを沖縄戦は教えました。 >
<私たちはこの絵本作りで、沖縄戦世を追体験しました。
はじめに、沖縄一フィート運動の会が入手した米軍の沖縄戦記録フィルムに、爆砕された山の石ころ道を、白旗をかかげて米軍に近づいてくる少女がありました。おかっぱ頭で、モンぺはずたずたに裂け、焦土を踏む素足が痛々しい。
さらに映像は、ロングになり、少女の約十メートル後から、両手をあげて、ついてくる日本兵たちの醜い姿まで写していました。それは、わずか数秒のカットでしたが、見ている私たちにあたえた衝撃は小さくありませんでした。 >
日本軍への憎悪を掻き立てるような文章を書いた新川明氏は、元沖縄タイムス社長で、沖縄紙の論壇からから保守論客を放逐した左翼ジャーナリスト。
また、版画絵を担当した儀間比呂志氏は、沖縄ではよく知られた文化人で、このコンビで作られた絵本は読者に大きなインパクトを与えた。
絵本が糾弾するのは、白旗を持った少女を盾に米兵に命乞いする日本兵の卑劣な姿であった。
■実際はどうであったのかー比嘉富子さんの証言
記録映画版の映像で動画を見ると、虚脱したようにゾロゾロ歩く避難民の列の中に少女を見たカメラマンが、その姿に興味を持ってカメラの焦点を合わせ、気が付いた少女がカメラに手を振ったという印象である。
それを示す他の角度の写真には少女の背景に反対方向に向かって歩く日本兵らしき人(防衛隊という民間人の可能性も)のリュックを背負った姿も映っており、「識者」たちが主張する少女を盾にした卑劣な日本兵という雰囲気は画面からは読み取れない。
1985年、新川明氏が創作した『沖縄いくさものがたり りゅう子の白い旗』の発刊で、「卑劣な日本兵」という神話が一人歩きを始めた。
それを見たご本人の比嘉富子さんが、1987年「白旗の少女は私です」と名乗り出て話題を呼んだ。
そして1989年、今度は比嘉さん自著による『白旗の少女』(講談社)が刊行される。
比嘉さんは当初名乗り出ることも、自著を出版することも躊躇していたと記されている。
そして比嘉さんが、あえて自筆による出版に踏み切った動機を次のように書いている。
<・・・ところで、沖縄戦の記録映画が公開されて以来、あの映画のなかで、白旗をもって投降するわたしのうしろから歩いてくる兵隊さんたちが、わたしを盾にしてついてきたかのようにごかいされてているのは、大変残念なことです。
この兵隊さんたちは、わたしの歩いてきた道とは別の道を歩いてきて、偶然、一本道でわたしと合流した人たちです。 そして、私のほうが先に一本道には入ったため、あたかも白旗をもった私を弾よけにして、あとからついてきたかのように見えるのです。
したがって、わたしと、背後から歩いてくる兵隊さんとは、いっさい関係がなかったのです。 このことは、事実として書き加えておかなければなりません。(204、205頁)>
比嘉富子さん、よくぞ無事で生きておられて、よくぞ真実を告白してくださいました。
不幸にして比嘉さんが生きてはおられず、また生きてはいても何かの都合で名乗り出ることなく沈黙を守っていたら、どうなっていたか。
「少女を盾にした卑劣な日本兵」は歴史として永久に沖縄戦の歴史に刻まれていた語であろう。
ここで登場する日本兵は名も顔も知られぬ無名兵士ゆえ、梅澤、赤松両隊長のように名前を特定されることはない。
だが、日本軍の代表として「醜悪な日本兵」の印象が沖縄戦史に刻まれていたであろう。
記録映画を見た観客は、真実をそのまま写すカメラの目を通して事実を見る。
だが、新川明氏や儀間比呂志氏のような「識者」の文や絵を通して伝えられるものは真実とは遠くかけ離れたものである。
では、「白旗の少女」のご本人である比嘉富子さんが、名乗り出て真実を告白したため「白旗の少女」の神話は崩れ去ったのか。
いや、そうではない。
相も変わらず「卑劣な日本兵」を断罪する『りゅう子の白い旗 沖縄いくさものがたり』は一行の訂正もされず発売されているし、全県の図書館で読むことが出来る。 そして子どもたちへの「平和教育」では「悪逆非道」のイデオロギーで日本軍を貶め続けている。
デタラメな記事を満載しながら、今でも発売し続ける『鉄の暴風』と同じ構図である。
●沖縄タイムスの書評(1988年6月22日)=「琉子」は沖縄戦を描いた絵本「りゅう子の白い旗」を映画化したもの。主人公・琉子の体験を通して、日本軍の住民に対する残虐な行為など戦争の悲惨な実態を描いたもの。対照的に沖縄の自然や情景を織り交ぜた美しい映像で、命の尊さを訴えている
■白旗フンドシの老人
沖縄戦終結後77年を経過し、沖縄タイムスによる「残虐非道な日本軍」という歪曲報道はそろそろ色あせてきたと思ったが、実はそうではない。
2022年6月6日付沖縄タイムスオピニオン面のコラムに、宜野湾市にお住いのN(85)さんが「白旗フンドシ」の老人という記事を書いている。 Nさんが沖縄戦の体験調査をしているとき白いフンドシを掲げて投降する老人の次のような例を聞き取った。
≪摩文仁での証言者によると、棒の先にフンドシを掲げて米軍に向かって投稿すると米軍は捕虜にするが、背後のアダンの陰から銃を向けて狙い撃ちするのは日本軍だったようだ。敵の米軍より浅ましい日本軍の行動は、見た人は激しい憤りを感じたという。≫
執筆したNサンは、取材相手が語った通り記録したのだろが、それが事実か虚偽かを判別する術を知らなかった。しかし、『鉄の暴風』の影響を受けていることは容易に想像できる。
『鉄の暴風』が目論む「本土と沖縄の対立分断」という合言葉が上記コラムの「人道的な米軍に対する残虐非道な日本軍」と見事に重なっている。
事実をないがしろにした議論ほど無益で虚しいものはない。 それは混乱を生み出すだけだ。解釈はいろいろあってよい。 しかし、事実は一つなのだ。
:::::::::::::::::::::::::::::
■白旗の軍曹「きけわだつみの声』
その文章を書いた人物が、保守的思想かリベラル思想の持主かを判別するには、その筆者のブログや小冊子を読めばよい。 筆者の場合、筆者を保守論者と判断する者は誰もいだろう。少なくとも筆者が共産党やリベラル思想の持主を「カッコよい」と考えることは、まず考えられない。
ところが現在保守を自称する筆者が、2度だけ「リベラル思想」に「カッコよい」と憬れ、危うく共産党員に所属する危機に遭遇した時期があった。
日本で初めての反戦がといわれた『きけわだ つみのこえ』を観て、同劇中伊豆肇が演じる大卒の軍曹が掲げた白旗を見たときである。
■すべては『鉄の暴風』に始まる。
筆者が『鉄の暴風』を読んで、『鉄の暴風』に登場する「悪鬼のような隊長」と、『きけわだ罪の声、』に登場する大隊長や副隊長のイメージがあまりにも重なるので、次に筆者が「リベラル思想」に「カッコいい」と憬れたの同じ時期に沖縄で上映された『きけわだつみの声』と、ほぼ同じ時期に発刊された『鉄の暴風』に登場する「悪鬼のような隊長」を批判する『鉄の暴風』を「カッコよい」と考えても仕方なかった。
■誰がこんな戦争をしたのだ
敵の米軍の姿より味方の日本軍の大隊長や中隊長に徹底的いじめられた大学卒のリベラル思想の軍曹が「誰がこんな戦争をしたのだ」白い旗を掲げながら、米軍が空爆する破片と煙の中に消えていく。
もう一人「共産党がカッコいい」と思う場面があった。大隊長と副隊長が自分達の食事はふんだんに食し、一方軍曹以下の一般兵隊は、食事も補給されず弱り切ったて戦争どころではない。この情景を見かねた学生時代ビラ配りなどをしていた学徒兵(河野秋武)が、大隊長専用の乗馬用の馬肉を一般の兵隊に配給する。一般の兵隊が大隊長の虐めを恐れ隠している中、自分が配給したと名乗り出る。この時筆者はリベラル思想の学徒兵を「カッコよい」と思ったが、最終的にこの学徒兵は、副隊長に殺害される。
■戦前からのベテラン記者牧港篤三氏を差し置いて、直前まで米軍民政府職員を務めた素人同然の太田良博が『鉄の暴風』を執筆したことはよく知られた事実である。
敗戦直後の昭和24年。
交通手段も通信設備もすべて米軍により破壊された沖縄で出版された『鉄の暴風』には、数々のウソを含んでいる。
■全ては『鉄の暴風』に始まる
米民政府職員・太田良博氏を、『鉄の暴風』に抜擢した理由
先ず、第一の疑問(大ウソ)は、これだ。
何故素人同然の、米民政府職員の太田記者に『鉄の暴風』の執筆という重責を委ねたのか。
沖縄タイムス社が、交通も通信もままならぬ当時の沖縄で、現在の新聞社のような機動力をもって短期間で「(集団自決の)体験者」を集めることが出来た理由は何故か。
そんな中太田記者はドキュメンタリー作品の基本である裏取材に関しては、何の苦労もすることもなく、米軍筋を通してかき集められた「情報提供者」達を取材した。 そして、想像で味付けして書きまくればよかったのだ。
「取材」は沖縄タイムスの創刊にも関わった座安盛徳氏(後に琉球放送社長)が、米軍とのコネを利用して、国際通りの国映館の近くの旅館に「情報提供者」を集め、太田氏はそれをまとめて取材したと述べている。
三ヶ月という短期間の取材で『鉄の暴風』を書くことができたという太田氏の話も米軍の協力を考えれば、納得できる話である。
住民の交通事情をを考えても、その当時米軍の支援なくしての『鉄の暴風』の取材、や執筆は不可能である。
■『鉄の暴風』と反戦映画『きけわだつみの声』との関係
日本で放映された初めての反戦映画といわれる『きけわだつみのこえ』は、1949年に出版されて以来、その原作は「平和教育」のバイブルとして今も読み継がれている。
しかし、過去には「編集意図が公平さに欠けている」として、一部の遺族から抗議もあった。
■悪鬼のような隊長、『鉄の暴風』と「きけ、わだつみのこえ」
昭和25年に製作の戦争映画「きけ、わだつみのこえ」は娯楽性は排除し徹底的に「日本軍の悪」の部分に焦点をあてた反戦映画である。
やはり、『鉄の暴風』と同様に製作者の脳裏にGHQや中国の視線を感じていることが画面に伺える。
「きけ、わだつみのこえ」にも登場する隊長は、空腹でやせ細った部下を尻目に、自分だけたらふく食べて慰安婦を従えて安全な壕に潜んでいる・・・まるで『鉄の暴風』に登場する「悪鬼のような隊長」を彷彿とさせる。
■白旗の軍曹「こんな戦争 誰がした」
ちなみに『鉄の暴風』も昭和25年の発刊であり、ほとんど同時期に著者の大田記者が同映画を見た可能性はある。
「可能性は充分ある」と想像するその理由は、次の5点で『鉄の暴風』と『きけ わだつみのこえ」は共通点が多いからだ
■『鉄の暴風』と『きけ わだつみのこえ』
➀『鉄の暴風』の執筆者⇒戦前からのベテラン記者である牧港篤三を差し置いて、直前まで米民政府の職員だった素人同然の『鉄の暴風』の執筆を委託した。
②牧港氏が執筆前「戦記物」を熟読して執筆に備えたのに対し、太田記者は、トルストイの『戦争と平和』を読んだり、小説を書くような文学青年だった。
③昭和25年に製作の戦争映画「きけ、わだつみのこえ」が上映されたころ、新聞や学校などで話題になり、当時10歳前後の筆者も観っていた。
■『鉄の暴風』の執筆者は、「きけ、わだつみのこえ」を実際観ていた可能性が高い。」
さて、上記に羅列した条項はあくまでも筆者の想像であったが、その後の調査によると『鉄の暴風』の執筆者太田良博記者は「想像」ではなく実際に観ていたのだ。
国際劇場のすぐ隣に日本映画専門の平和館が新築され、『鉄の暴風』の牧港記者と太田記者はそのこけら落としに招待されていたのだ。
■全ては『鉄の暴風』の大ウソから始まった
■悪の権化、枢軸国、日本軍
このように太田記者の経験、取材手段そして沖縄タイムス創立の経緯や、当時の米軍の沖縄統治の施策を考えると『鉄の暴風』は、米軍が沖縄を永久占領下に置くために、日本軍の「悪逆非道」を沖縄人に広報するため、戦記の形を借りたプロパガンダ本だということが出来る。
『鉄の暴風』の出版意図を探る意味で、昭和25年8月に朝日新聞より発刊された初版本の「前書き」の一部を引用しておく。
≪なお、この動乱を通じ、われわれ沖縄人として、おそらく終生忘れることができないことは、米軍の高いヒューマニズムであった。国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は、生命を保護され、あらゆる支援を与えられ、更正第一歩踏み出すことができたことを特記しておきたい≫
米軍のプロパガンダとして発刊されたと考えれば、『鉄の暴風』が終始「米軍は人道的」で「日本軍は残虐」だという論調で貫かれていることも理解できる。
実際、沖縄戦において米軍は人道的であったのか。
彼らの「非人道的行為」は勝者の特権として報道される事はなく、すくなくとも敗者の目に触れることはない。
■GHQ職員ヘレンミアーズの米軍論
ところが、当時GHQに勤務していたアメリカ人ヘレン・ミアーズが書いた『アメリカの鏡・日本』は、米軍の沖縄戦での残虐行為に触れている。
米軍に攻撃された沖縄人によって書かれた『鉄の暴風』が米軍の人道性を褒め称えている事実に、この本の欺瞞性がことさら目立ってくる。
沖縄戦で米軍兵士が犯した残虐行為をアメリカ人ヘレン・ミアーズが同書の中で次のように記述している。
≪戦争は非人間的状況である。自分の命を守るために戦っているものに対して、文明人らしく振る舞え、とは誰もいえない。ほとんどのアメリカ人が沖縄の戦闘をニュース映画で見ていると思うが、あそこでは、火炎放射器で武装し、おびえきった若い米兵が、日本兵のあとに続いて洞窟から飛び出してくる住民を火だるまにしていた。あの若い米兵たちは残忍だったのか? もちろん、そうではない。自分で選んだわけでもない非人間的状況に投げ込まれ、そこから生きて出られるかどうかわからない中で、おびえきっている人間なのである。戦闘状態における個々の「残虐行為」を語るのは、問題の本質を見失わせ、戦争の根本原因を見えなくするという意味で悪である。結局それが残虐行為を避けがたいものにしているのだ。≫(ヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本」)
お『鉄の暴風』が発刊される二年前、昭和23年に『アメリカの鏡・日本』は出版された。
著者のヘレン・ミアーズは日本や支那での滞在経験のある東洋学の研究者。
昭和21年、GHQに設置された労働局諮問委員会のメンバーとして来日し、労働基本法の策定に参加。アメリカに帰国した後、同書を書き上げた。
だが、占領下の日本では、GHQにより同書の日本語の翻訳出版が禁止され、占領が終了した1953(昭和28)年になって、ようやく出版されることとなった。
沖縄人を攻撃したアメリカ人が書いた本がアメリカ軍に発禁され、攻撃された沖縄人が書いた『鉄の暴風』がアメリカ軍の推薦を受ける。これは歴史の皮肉である。
)
。
0★★❶沖縄を歪めた戦後史の大ウソ、
■第一章 『日本軍は沖縄県民を虐殺した』
沖縄タイムスは言うまでもなく、ほとんどの沖縄メディアでは、現在でも『鉄の暴風』といわれる苛烈な米軍の住民虐殺が語り継がれている。これについては、昨年上梓した拙著『沖縄「集団自決」の大ウソ』でも詳しく検証した。
しかし、これら戦後史は同書伝える検証した通り、ほとんどの沖縄メディアが大ウソで塗り固めている。その結果、多くの読者は言うまでもなく、沖縄県民ですら騙されている。
沖縄メディアが報じる大ウソ報道とは、「日本軍は沖縄県民を虐殺に来た」というイデオロギーに塗れた報道だ。
だが、経済面から沖縄戦について語る者は少ない。
沖縄のように戦前から本土復帰まで三度の通貨切り替えを体験した県は、歴史上稀有である。沖縄の経済に大変動を巻き起こした通貨の切り換えは次の通りだ。
➀戦前⇒日本円
②戦後(米軍統治下前半)⇒米軍軍票
③戦後(米軍統治下後半)⇒米ドル
④戦後⇒日本円
まさに事実は小説より奇、である。
祖国復帰を目前にして「通貨切り替え」と言えば「米ドルから円への切換え」が話題になる。
だが、米軍占領下の沖縄でもう一件の通貨切り替えがあった。「米軍票から米ドル」への通貨切り換えである。
この通貨切り換えは、米軍の広報紙として創刊された沖縄タイムスの創刊と深く関わっている。
沖縄を統治する米軍は広報紙を作成し県民を洗脳するため、沖縄タイムスの創刊を目論んだ。
沖縄タイムスの創刊日が、1948年7月1日になっているのは、創刊号発行三日前の6月29日、米軍占領下の軍票(B円)への通貨切り替えのスクープを号外で出し、これが実質的な創刊となったからだ。
米軍票と米ドルの交換というスクープ情報と米軍広報紙発刊を交換条件に沖縄タイムスを創刊した。
創刊日より号外発刊が先という世にも珍しい創刊号であった。
■ガリ版刷りの沖縄タイムス創刊号
1945年から1958年9月までの米軍占領時代、米軍占領下の沖縄や奄美群島で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍用通貨(軍票)B円の存在を知る県民は少ない。
軍票は米軍占領下の地域においては、1948年から1958年まで唯一の法定通貨だった。
琉球列島米国軍政府による正式名はB型軍票である。正確には連合国の共通軍票であるAMC(Allied Military Currency)軍票の1種であり他の連合国にも発行権があった。
だが、日本に駐留した占領軍はマッカ―サー率いるアメリカ軍が主体だったため、他の連合国の軍による円建ての軍票は発行されなかった。
当初のB円はアメリカ国内で印刷されたが、1958年9月16日に琉球列島米国民政府高等弁務官布令第14号「通貨」によって廃止され、米ドルに切り換えられた。
軍票(B円)を日本円ではなく米国ドルに切り換えた理由は、ただ一つしかない。
マッカーサーは将来沖縄をグアムやプエルトリコのように米国の領土に組み込む予定であったからだ。
当時日本円は1ドル=360円の固定相場であったため、1B円=120円で計算され、定価300円の日本書籍は3分の一の120B円で計算された。( レートは1ドル = 120B円)
■松本清張の西郷札
なお、これ以前に日本国内で流通した軍票には、西南戦争で西郷軍が発行した通称西郷札がある。
『西郷札』(さいごうさつ)は、松本清張氏の短編歴史小説で、『週刊朝日』が主催した新人コンクール「百万人の小説」の第三席に入選した作品で、松本清張の処女作と位置づけられ第25回直木賞の候補作となった。
松本清張氏のような推理作家が沖縄にいたら、軍票から米ドルへの切り換えという歴史的事実を題材に小説を書いていただろう。西郷札のように・・・。
ところが事実は小説以上の展開を見せた。
■公職追放に逆らった男
沖縄出身のその男・宮里辰彦氏はGHQが支配する円経済の日本を後にして、ドル経済の沖縄行きの輸送船の甲板に立っていた。 宮里氏はマッカーサーの「公職追放」という歴史の流れに逆らった。彼は、非常に優秀で(国費制度が実施される以前の)戦前の東京帝国大学を卒業後、官僚となり軍需省に勤務した。彼は軍需省の生産課長として兵器の生産体制の整備に努めた。
さらに宮里氏は軍需次官として、日本の戦時経済の運営に辣腕を振るった。兵器の生産体制の整備や資源の確保など、日本の戦時経済の基盤を固めたのは宮里氏の功績である。また、宮里氏は戦時経済の運営において、民間企業との連携を重視した。民間企業の生産力を活用することで、日本の戦時経済の強化を図った。
日本を戦前のような「軍国主義国」にさせないため、「公職追放」を実行したマッカーサーにとって、宮里氏は「公職追放」の絶好の標的であった。
■公職追放のない沖縄へ転進
優秀で目先の利く宮里氏は、戦前日本の軍需省に勤務して戦争を煽ったのだから、GHQがいる限り日本では職にありつけない、と素早く判断した。そして米軍占領下の沖縄への「転進」を実行した。
占領下の日本では「公職追放」で、戦前・戦中の優秀な人材を震え上がらせたGHQだが、沖縄では「公職追放」は、行われなかった。 いやそれどころか、むしろ占領軍の手先として優秀な人材の登用を目論んだ。
宮里氏は、1945年(昭和20年)にアメリカ軍が沖縄を占領した後に設置された沖縄民政府で通訳官として、アメリカ軍との交渉や沖縄住民の生活支援などに尽力した。
敗戦直後の沖縄では、英語が話せることは一種の特種技能であった。
元英語教師の比嘉秀平氏は、英語に堪能で米軍幹部と意志の疎通ができるという理由で琉球政府の初代主席を務めている。
「公職追放」という歴史の流れに逆行し、沖縄に転進した宮里は思わぬ幸運に遭遇する。
英語ができる上、東京帝国大学卒という優秀な頭脳を持つ宮里氏にとって、人材不足の米軍民政府は渡りに舟であった。
1950年(昭和25年)に琉球列島貿易庁が設立されると、宮里は琉球列島貿易庁の総裁に就任した。琉球列島貿易庁は、沖縄の貿易振興を目的とした機関であり、宮里氏は琉球列島貿易庁の総裁として、沖縄の経済復興に尽力し、1959年(昭和34年)に琉球列島貿易庁総裁を辞任し、その後は実業家として活躍した。
軍需省の幹部として「公職追放」の標的になるはずの宮里氏は、軍占領下の米軍民政府の貿易庁長官という沖縄経済の重要事項を一手に引き受ける米軍幹部にのし上がったのである。
■戦果とヤミ船
そして宮里氏にとってもう一つの行幸は、戦後米政府が実施したマーシャルプランの恩恵を受けた沖縄の好景気である。
戦争は儲かる産業(「産軍複合体」)と、米大統領アイゼンハウアーをして言わしめる程当時の沖縄は米国の好景気の影響を受けた。 例えばペニシリンの普及、脱脂粉乳の学校給食や、スパム(ポークランチョンミート)コーンビーフ等当時の平均的日本人には到底享受できない米国の豊富な食糧の恩恵に浴した。
祖国日本では食糧不足で餓死者が続出した当時、沖縄では餓死者出た話はあまりない。米軍統治下の沖縄では、米軍の食料提供の他「戦果」「ヤミ船」などが沖縄の経済を支えた。
沖縄戦の終結後、生活基盤を失った多くの沖縄住民はアメリカ軍からの配給に頼っていたが、必ずしも十分な質と量の物資が供給されていたわけではなかった。そんな中、アメリカ軍の倉庫に忍び込んで食料を中心とする物資を盗み出したり、軍雇用員が備品などをこっそり持ち出したりすることが横行し、人々はこれを「戦果」と呼んだ。「戦果」は困窮する人々に無償あるいは安価で分け与えられたため、住民から英雄視される例もあったとされる。厳密にいうと「戦果を挙げる者」を戦果アギヤーと称した一種の窃盗行為である。
だが、米軍当局は警備を強化したものの、民警察(後の琉球警察)は積極的に取り締まらなかったため、略奪行為は徐々に大胆となり、その数も増加の一途を辿った。
沖縄を歪めた戦後史の大ウソ
~『沖縄「集団自決」の大ウソ』~発刊をめぐり~
沖縄の祖国復帰以来、約半世紀経過したが依然として沖縄には、二つのタブーがある。「米軍基地問題」と「沖縄戦」だ。
この二つのタブーは、いずれも「沖縄を歪めた戦後史の大ウソ」に関連している。
そこで、本稿では、「集団自決」を巡る最高裁判決で被告の大江健三郎・岩波書店側が勝訴して以来、一件落着と思われている沖縄戦の「集団自決」問題について検証して見る。
大江健三郎・岩波書店「集団自決裁判」(以後、大江・岩波訴訟)とは、元沖縄戦戦隊長および遺族が、大江健三郎・岩波書店を名誉毀損で訴えた裁判のことである。
沖縄戦の集団自決について、事実関係はこうだ。
ノーベル賞作家大江健三郎(岩波書店:1970年)の著書『沖縄ノート』に、当時の座間味島での日本軍指揮官梅澤裕元少佐および渡嘉敷島での指揮官赤松嘉次元大尉が住民に自決を強いたと記述され、名誉を毀損したとして梅澤裕氏および赤松秀一氏(赤松嘉次の弟)が、名誉毀損による損害賠償、出版差し止め、謝罪広告の掲載を求めて訴訟を起こした。本訴訟は最高裁に縺れ込んだが結局、2011年4月21日、最高裁は上告を却下。被告大江側の勝訴が確定した。
■沖縄タイムスの印象操作
沖縄には約20数年前の最高裁判決を盾に巧みに印象操作し続けている新聞がある。 その新聞こそ、「集団自決軍命説」の発端となった『鉄の暴風』の出版元沖縄タイムスである。
印象操作報道の一例として、2023年5月29日付沖縄タイムスは大江・岩波「集団自決」訴訟の最高裁判決について次のように報じている。
《沖縄戦時に慶良間諸島にいた日本軍の元戦隊長と遺族らが当時、住民に「集団自決」するよう命令はしていないとして、住民に命令を出したとする『沖縄ノート』などの本を出版した岩波書店と著者の大江健三郎さんに対する「集団自決」訴訟を大阪地方裁判所に起こした。国が07年の教科書検定で、日本軍により「自決」を強制されたという表現を削らせきっかけになる。11年4月に最高裁への訴えが退けられ、元戦隊長側の主張が認められないことに決まった。(敗訴が確定)》
沖縄タイムスの主張を要約すれば、「『集団自決』は軍の命令ではないと主張する元軍人側の主張は、最高裁で否定され、被告大江・岩波側の『集団自決は軍命による』という主張が最高裁で確定した」ということだ。
沖縄タイムスは、戦後5年米軍票から米ドルに通貨を切り替えるという米軍提供の特ダネと交換条件で、1950年に米軍の広報紙として発行された。
以後同紙編著の『鉄の暴風』は沖縄戦のバイブルとされ、同書を出典として数え切れない引用や孫引き本が出版され続けてきた。
しかし残念ながら元軍人らによる大江岩波集団自決訴訟は敗訴が確定し、集団自決問題は国民・県民の記憶から遠ざかりつつある。
このように、大江岩波訴訟で被告大江岩波側の勝訴が確定し国民の「集団自決」問題が一件落着した思われている昨年の9月、筆者は『沖縄「集団自決」の大嘘』と題する書籍を出版した。
さて、すでに決着済みと思われている沖縄戦「集団自決問題」に今さら本書を世に問う理由は何か。
確かに沖縄の集団自決問題は大江岩波訴訟の結果すでに決着済みと思われている。
この現実を見たら、多くの国民や沖縄県民は、集団自決論争は終焉したと考えても不思議ではない。
■軍命の有無と損害賠償は異なる
岩波大江訴訟で確定したのは、「軍命の有無」ではない。最高裁判決は大江健三郎と岩波書店に対する名誉棄損の「損害賠償請求の免責」という極めて平凡な民事訴訟の勝訴に過ぎない。
肝心の「軍命の有無」については、一審、二審を通じて被告大江側が「両隊長が軍命を出した」と立証することはできなかった。
ほとんどの国民が集団自決問題を忘れた頃の2022年7月10日付沖縄タイムスは、こんな記事を掲載している。
《「軍命」記述を議論 9・29実現させる会 教科書巡り、2022年7月10日
沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」を巡り、歴史教科書への「軍強制」記述の復活を求める「9・29県民大会決議を実現させる会」(仲西春雅会長)の定例会合が4日、那覇市の教育福祉会館であった。3月の検定で国語の教科書に「日本軍の強制」の明記がされたことについて意見を交換。社会科の教科書で記述の復活がないことから、今後も活動を継続していく意見が相次いだ。》
■歴史は「県民大会」が決めるものではない
『沖縄「集団自決」の大ウソ』を世に問う第一の目的は、沖縄タイムス編著の『鉄の暴風』が歪曲した沖縄戦歴史を正し、「残酷非道な日本軍」を喧伝する沖縄タイム史観の教科書記述を阻止することである。最高裁による確定後、歴史の是正を巡る状況はさらに新たな展開があった。
『鉄の暴風』が主張する「軍命論」を粉砕する決定的証拠が出てきたのだ。 仮にこの証拠が大江岩波訴訟の前に登場していたら、裁判の判決も逆だった可能性すらある。
これまで「軍命論争」には、「手りゅう弾説」~大江健三郎の「タテの構造説」など数多くの証拠、証言が論じられた。その中で「援護法による軍命説」は、法廷では一つの推論に過ぎず決定的ではないと言われ、証拠として採用されなかった。
■「援護法のカラクリ」が暴く軍命の大ウソ
「戦闘参加者概況表」(裏の手引書)
ところが「援護法と軍命のカラクリ」を一番熟知する沖縄戦遺族会から決定的証拠を提供していただいた。 「軍命が捏造であることを示す」県発行の「戦闘参加者概況表」(裏の手引書)である。
この証拠を事前に入手していた「軍命派」の研究者達が、「軍命を捏造した」と白状し、さらに証拠の捏造に「恥を感じる」とまで言い切っている。これ以上の決着はないだろう。この一件こそが本書を世に問う最大の目的である。
次に「『沖縄集団自決』の大ウソ」を出版するもう一つの目的を述べておこう。
本書に収録の記事のほとんどは、約20年間ブログ『狼魔人日記』で書き綴った記事を編集したものである。だが、何事にも終りがある。
ブログ『狼魔人日記』の継続に終りが来た時、収録されて記事は広いネット空間に放り出される。 そして、そのほとんどが人の眼に触れる機会もないだろう。
古来、歴史とは文字に書かれ事物・事象が歴史として刻まれるという。 その伝で言えば、ネット上の記録など歴史としては一顧だにされないだろう。
ネット上の記録を紙に書いた記録にする。これが本書出版のもう一つの目的である。
誤った歴史が教科書に載ることはあってはならない。読者の皆様は印象操作に惑わされず、事実を追求して欲しい。拙著がその一助になることを願っている。
沖縄県は、令和4年5月15日に本土復帰50周年を迎える。
この大きな節目において、島々の鼓動、人々の輝き、限りない可能性を存分に引き出し、国内外に向けて、「新時代沖縄の到来」を発信していくため、復帰50周年事業として様々な事業を実施することを予定しております。
この中で、1事業につきましては、次世代を担う子どもたちの興味・関心を取り入れ、魅力ある事業を構築することを目的に、復帰50周年記念事業案を広く募集します。
公職追放(こうしょくついほう)は、政府の要職や民間企業の要職につくことを禁止すること。狭義には、日本が太平洋戦争に降伏後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の指令により、特定の関係者が公職に就くことを禁止された占領政策をいい、本項で扱う。
「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令」を参照
日本政府が1945年(昭和20年)9月2日に「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する」とあるポツダム宣言第6項の宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書に調印し、同年9月22日にアメリカ政府が「降伏後におけるアメリカの初期対日方針」を発表し、第一部「究極の目的」を達成するための主要な手段の一つとして「軍国主義者の権力と軍国主義の影響力は日本の政治・経済及び社会生活により一掃されなければならない」とし、第三部「政治」と第四部「経済」の中でそれぞれ「軍国主義的又は極端な国家主義的指導者の追放」を規定していた。
同年10月4日のGHQの「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」で警察首脳陣と特高警察官吏の追放を指令し、同年10月22日の「日本の教育制度の行政に関する覚書」及び同年10月30日の「教職員の調査、精選、資格決定に関する覚書」で軍国主義的又は極端な国家主義的な教職員の追放を指令した。
1946年(昭和21年)1月4日附連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」により、以下の「公職に適せざる者」を追放することとなった。
戦争犯罪人
陸海軍の職業軍人
超国家主義団体等の有力分子
大政翼賛会等の政治団体の有力指導者
海外の金融機関や開発組織の役員
満州・台湾・朝鮮等の占領地の行政長官
その他の軍国主義者・超国家主義者
上記の連合国最高司令官覚書を受け、同年に「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」(公職追放令、昭和21年勅令第109号)が勅令形式で公布・施行され、戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会関係者がその職場を追われた。この勅令は翌年の「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令」(昭和22年勅令第1号)で改正され、公職の範囲が広げられて戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象になった。その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となった。
公職追放者は公職追放令の条項を遵守しているかどうかを確かめるために動静について政府から観察されていた。
一方、異議申立に対処するために1947年3月に公職資格訴願審査委員会が設置され(1948年3月に廃止、内閣が一時担当した後に1949年2月復置)、1948年に楢橋渡、保利茂、棚橋小虎ら148名の追放処分取消と犬養健ら4名の追放解除が認められた。
公職追放によって政財界の重鎮が急遽引退し、中堅層に代替わりすること(当時、三等重役と呼ばれた)によって日本の中枢部が一気に若返った。しかし、この追放により各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、学校やマスコミ、言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、労働組合員などいわゆる「左派」勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因になった。これは当初のアメリカの日本の戦後処分の方針であるハード・ピース路線として行われた。
逆に、官僚に対する追放は不徹底で、裁判官などは旧来の保守人脈がかなりの程度温存され、特別高等警察の場合も、多くは公安警察として程なく復帰した。また、政治家は衆議院議員の8割が追放されたが、世襲候補[注釈 3]や秘書など身内を身代わりで擁立し、保守勢力の議席を守ったケースも多い。
GHQ下で長期政権を務めた吉田内閣時代は、名目は別にして実質としては吉田茂首相とソリが合わなかったために公職追放になったと思われた事例について、公職追放の該当理由がA項からG項までに区分されていたことになぞらえ、吉田のイニシャルをとってY項パージと揶揄された。
その後、二・一ゼネスト計画などの労働運動が激化し、さらに大陸では国共内戦や朝鮮戦争などで共産主義勢力が伸張するなどの社会情勢の変化が起こり、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策が転換(逆コース)され、追放指定者は日本共産党員や共産主義者とそのシンパへと変わった(レッドパージ)。
また、講和が近づいた1949年、再び公職資格訴願審査委員会が設置。32089人の申請が受理されたが、1950年10月に発表された第一次追放解除者は10090人に留まった[1]この際、石井光次郎・安藤正純・平野力三ら政治家及び旧軍人らの一部も解除されている。翌1951年5月1日にマシュー・リッジウェイ司令官は、行き過ぎた占領政策の見直しの一環として、日本政府に対し公職追放の緩和・及び復帰に関する権限を認めた。これによって同年には25万人以上の追放解除が行われた。公職追放令はサンフランシスコ平和条約発効(1952年)と同時に施行された「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」(公職追放令廃止法。昭和27年法律第94号)により廃止された(なお、この直前に岡田啓介・宇垣一成・重光葵ら元閣僚級の追放も解除されており、同法施行まで追放状態に置かれていたのは、岸信介ら約5,500名程であった)。
小林よしのり著『新ゴーマニズム宣言SPECIAL沖縄論』で、著者の小林氏が犯した唯一の過ちは、元人民党委員長・瀬長亀次郎氏を、「沖縄の英雄」と祭り上げて書いてしまったこと、である。 小林よしのり『沖縄論』を一読してまず目を引くのは、第19章「亀次郎の戦い」である。
小林氏と思想的にまったく逆の立場の瀬長亀次郎氏を絶賛している内容に誰もが驚くはずだ。
日本共産党の機関誌「赤旗」七月三日付の書評でも、『沖縄論』を肯定的に評価しているくらいだ。
小林よしのりには沖縄左翼を取り込む意図があったのだろう。
だが、沖縄左翼のカリスマともいえる瀬長氏を沖縄の英雄に祭り上げてしまったことは、沖縄左翼に媚びるあまり、ミイラ取りがミイラになってしまったの感がある。
瀬長氏は、米軍政府と戦っていた姿勢と、方言交じりで演説する語り口で「カメさん」と呼ばれて年寄りには人気があったが、「沖縄の英雄」は沖縄左翼とマスコミが作り上げた神話である。
瀬長氏は共産党が禁じられていた米軍統治下の沖縄で、人民党でカムフラージュした共産党員であり、当時ソ連や日本共産党から密かに資金援助を受けているとの噂があった。
そのため、CICが情報取得の為本人は勿論、長女瞳さんの身辺をかぎまわっていたらしく、沖縄住民にも共産思想が入り込んでくることに神経質になっていた。
瀬長氏が沖縄に残した負の遺産が、現在でも日本共産党、社民党そして地元政党の社大党が沖縄県議会で与党を占める沖縄の特異性である。
瀬長氏は日本復帰と同時に日本共産党に正式入党し、共産党公認で衆議院議員に当選し、日本共産党副委員長も勤めている。
★
米軍統治下の沖縄では、共産主義は禁じられていた。
だが、人民党という地元政党を隠れ蓑に共産主義者は増殖し続けていた。
1950年の朝鮮戦争や、中華人民共和国の成立等、「ドミノ現象」でアジア地域に共産主義が蔓延するのを恐れた米軍情報部は、CICを中心に沖縄の共産主義勢力の監視に神経を使っていた。
だが、とにかく、当時の米軍が共産主義の蔓延に対し、いかに神経過敏だったか知る上で、そしてその指導者としての瀬長亀次郎氏を要注意人物とみなしていたかを知る上で、この逸話は実に興味深い。
厳しい監視、家族まで 瀬長氏の長女にもスパイ
2006年5月31日
<米国の調査機関が1950年代、元沖縄人民党委員長で那覇市長、衆院議員を務めた故・瀬長亀次郎氏の長女・瞳さん(68)=カナダ在住=の周辺にスパイを送り、瀬長氏の健康状態や日常生活を探っていたことが30日までに、米国国立公文書館が保管する資料で明らかになった。同館は瀬長さんが「人民党事件」(54年10月)で逮捕された後、宮古刑務所に収監されていた55年3月7日、獄中から瞳さんに送った手紙の英語訳も保管。手紙は瞳さんに届いていない。米当局が瀬長さんの家族にまで監視を広げ、詳細な身辺情報を逐一探っていたことがうかがえる。
瞳さんに関する報告資料は2種類。ともに「極東空軍司令部が報告」と記され、情報源は瞳さん、提供者は「極秘の情報提供者」と記される。
情報収集日が1958年5月20日の報告は「瞳の情報では、父親は深刻な肝臓病で近く入院する」と記載。31日の報告は「瞳が言うには父親(瀬長さん)は退院して家に帰った。政治の本を書く約束をし、本を売って妻のフミさんを8月の原水爆総決起大会に参加させる資金を稼ぎたいと言っている」と記す。米当局は同年8月、東京・横浜でフミさんを撮影している。
瞳さんは「父から仕事や政治の話を聞いたことはなく、出版計画も当時は知らなかった。なぜ私が情報源なのか理解できない。スパイをした人が父の復帰闘争を弾圧するために無理に作ったのではないか」と話している。
瞳さんに届かなかった手紙の英訳には米国のCIC(諜報(ちょうほう)機関)の名称を記述。文面は「刑務所からあなたの活躍を期待と希望を込めて見守っている」と娘への思いが切々とつづられている。
沖縄テレビは同公文書館から収集した資料も盛り込んだ番組を制作。31日午後4時から55分間、逮捕、投獄、市長追放と時代に翻弄(ほんろう)された瀬長さんと支えた家族のきずなを描く「カメさんの背中」を放映する。>
◇
この「臨時琉球王」は、コカコーラの一手販売権をという美味しい果実を手にする前に悪事が露見して哀れな結末を迎えた。
だが、終戦直後には、通常では考えられないようなアメリカの大会社の製品の一手販売権手にした人が多くいた。
それは戦時中彼らがスパイとして米軍に協力した報酬だという噂を良く聞いたが、それが「火の無いところに煙は立たぬ」だったのか、それとも単なる噂に過ぎなかったのか、今では事情を知る者のほとんどが墓場で眠っており真実を知る術はない
■昭和20年3月26日の座間味■
時は38年前の座間味島にさかのぼる。
昭和20年3月26日日、米第77歩兵師団は、慶良間諸島の阿嘉島、慶留間島、座間味島へ上陸を開始する。そして逃げ場を失いパニック状態に陥った座間味島の住民172人がその日に集団自決をしている。
■集団の狂気■
時代が変わっても、人間が集団で行う狂気の行動に変わりはない。
平成17年、沖縄タイムスと琉球新報は、狂気に満ちたキャンペーンを張って、9月29日の「県民大会」(“11万人”集会)の動員に県民を追い込んだ。 地元テレビを含むマスコミは一斉に横並びで、これに反対するものは県民にあらず、といった論調で、職場でも異論を吐くものは、「あいつはヤマトかぶれ」だと、後ろ指を指されるような異常事態だったと知人の一人は当時を振り返る。
以下は評論家篠原章氏の「批評.COM 篠原章」からの引用である。
仲宗根源和は、戦中に沖縄県議に当選し、戦後初の沖縄の自治行政機関・沖縄諮詢会の委員を務めた本部出身の人物で、後年「沖縄独立論者」として名を馳せるようになったが、若い頃は東京で教員を務めていた。教員時代には非合法期の日本共産党に参加し、『無産者新聞』の発行人など重要な役割を担っていた。共産党時代の仲間である瀬長亀次郎、徳田球一、野坂参三、佐野学との親交も厚かったという。
痛快なのは、仲宗根氏の瀬長亀次郎批判だ。仲宗根が描くのは、昨今の「カメジローブーム」の下で知られる過大評価の瀬長像とはまるで違う、共産党員・社会運動家としてもダメダメな亀次郎だ。仲宗根は、「県民・人民のため」ではなく「共産党のため、ロシア(ソ連)のため」に亀次郎は働いているとの認識だった。
仲宗根によれば、カメジローは、初代沖縄副知事で戦前の琉球新報社長だった又吉康和の腰巾着だったようだ。そのおかげで、又吉と諮詢会委員長だった志喜屋孝信(初代沖縄知事・沖縄県立二中校長)、沖縄統治の責任者だったワトキンス少佐(海軍/James Thomas Watkins Ⅳ)との内輪の話し合いで県議にしてもらったとのこと。又吉の工作とちょっとした不正によりカメジローが県議になったことは間違いないところだろう。カメジローはさらに又吉に琉球新報社長の地位を与えられている。琉球新報の前身はうるま新報で、当時はまだ米軍の御用新聞だった。その後、保守派だった又吉とは袂を分かち、カメジローは日本共産党やコミンテルンの意向を受けて人民党を結党して政治家として「成功」する。世間に流布されるカメジロー観からは、こうしたダークな側面が抜け落ちているのは残念だ。
★
■那覇市長を辞任して、大政翼賛会事務局長に就任した當間重剛氏
個人的には、ごく常識的な人物が、一旦なんらかのグループに属すると往々にして狂気に走る。そしてその背後に新聞の扇動がある場合が多いが、60数年前の沖縄も同じような状況にあった。
米軍が慶良間諸島に殺到して猛攻撃を開始する約二ヶ月前の「沖縄新報」(昭和29年12月8日)に「挺身活動へ 翼壮団長会議」といった見出しが躍っている。
昭和19年の大詔奉戴日は10月10日の那覇大空襲の後だけに、県庁、県食料営団、県農業会などの各団体主催の決起大会各地で行われ、「軍民一如 叡慮に応え奉らん」、「一人十殺の闘魂」といった勇ましい見出しが紙面を飾っている。
大詔奉戴日とは日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことで、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされ決起大会が行われていた。
沖縄では、これらの戦意高揚運動は、大政翼賛会沖縄県支部を中心に行われ、初代支部長には着任したばかりの早川元知事が努めた。
だが、驚くべきことに、当時の那覇市長であった当間重剛氏が、市長を辞職してこの会の事務局長を務めている。 現在の感覚でいうと那覇市長の方が一民間団体である大政翼賛会沖縄支部の事務局長より、重責であると思うのだが、当時の当間氏は、那覇市長として市民のために働くより、国や県のためになる大政翼賛会に意義を見出したようである。
当間重剛氏は、戦後、米軍に重用され米軍占領下の琉球政府で、主席(知事に相当)を務めることになり、日本復帰直前の昭和44年には「沖縄人の沖縄をつくる会」を結成して琉球独立党のリーダーになるのだから、人間の運命は分からないものである。
そして、翌昭和17年には、大政翼賛会の実働部隊として翼賛壮年団が結成され、平良辰雄氏が、初代団長に就任して県民鼓舞のため先頭を切ることになる。
平良辰雄氏も戦後米軍に重用され、沖縄群島知事(主席の前)や立法院議員(県会議員に相当)を努めている。
GHQは、戦前活躍した有能な人物を公職から追放する「公職追補」という愚策を断行したが、沖縄占領の米軍は、当間重剛氏や平良辰雄氏のように、戦前軍国主義を煽ったと思われる指導者たちを戦後も政財界に重用しており、日本全土を吹き荒れた公職追放は沖縄では行われなかった。
ところが、戦前の大政翼賛会沖縄支部の幹部を務め、県民を戦争に煽った著名人が他にもいた。
しして、その正体を隠したままにしている。
■瀬長亀次郎の正体、果たしてその正体は?
主義・主張が対立る議論を展開すする場合、前提が間違っていたら、その後の議論は全て空虚である。これは論理学を少しかじった者なら周知の事実である。
被告の大江健三郎は沖縄タイムス編著の『鉄の暴風』や一連のタイムス記事に作家として空想力を刺激され、『沖縄ノート』で原告の元軍人を誹謗中傷し、原告の名誉を著しく棄損した。 大江氏が『沖縄ノート』を書く際、根拠としたのが「ある前提」だった。 つまり『鉄の暴風』の内容はすべて正しいという前提だ。ところが裁判の審議の過程で、『鉄の暴風』内容が間違いだらけであることが判明した。
しかし、「戦後民主主義」の信者と思われる裁判長は「大江被告が、当時の沖縄戦の研究レベルでは『鉄の暴風』の内容を真実と考えても仕方なかった」という「真実相当性」という強引な解釈で大江被告の名誉棄損を免責にして大江勝訴が確定した。
結局、大江被告は名誉棄損は免責されたが、大江が前提にした「軍命による集団自決」は立証できなかった。
大江被告が『沖縄ノート』を書いた間違った前提は概略次の2点だ。
➀集団自決命令が事実である(p.169-17)
②渡嘉敷島の戦隊長・赤松嘉次大尉の(沖縄を再訪する際の)気持ちを、赤松氏に取材もせず、また彼が書いた又は語った一つの実在資料も示さず、「想像」・「推測」していること。(p.208)
★
2022年6月30日付沖縄タイムス16面トップに次の見出しが躍っている。
沖縄戦法的な戦争責任問う
32軍に住民処罰権無し 渡名喜守太沖縄国際大学非常勤講師
ハーグ・ILО条約にも違反
内容を一部引用しよう。
《■天皇大権を干犯
沖縄戦において日本軍の沖縄人に対する加害行為の法的問題について考える場合、国内法と国際法の観点から考察できる。
国内法上の問題について考えるにあたって、当時の沖縄の法制上の位置づけを確認し、そこから日本軍に与えられた権限の範囲を確認しておきたい。
沖縄は日本の一県で日本の憲法や法律が施行、適用される日本の法域だった。行政官庁である沖縄県が置かれ、中央から内務官僚である知事が派遣され統治されていた。軍事的には1937年に改正された軍機保護法における特殊地域に指定されていた。昨年成立した土地利用規制法の「注視区域」に沖縄全体が指定された場合、当時の状況に一気に近づく。
沖縄戦当時は米軍の包囲を受けており、第32軍の作戦地、国内戦場であった。これは典型的な合意地境であり、戒厳令を施行する条件を満たしていた。》
執筆者の渡名守太沖縄国際大学非常勤講師がこの記事で言いたいことは、概略こうだ。
「沖縄戦の際、沖縄では戒厳令は発令されていなかったので、第32軍が民間人に軍命を出す法的権限は無かった。」
ここまで読むと、『鉄の暴風』に書かれている「軍命」は越権行為であり、実際軍命による集団自決はあり得ない、と「軍命否定論」に繋がってしまう。
ところが、ここから渡名喜氏の論旨は暴走を始める。 そして急転直下「32軍の沖縄住民虐殺があったのはハーグ条約違反」と主張する。
渡名喜先生の論理の粗雑さに笑ってしまった。
さすがの『鉄の暴風』の発刊者沖縄タイムスも渡名喜氏の論理破綻に気が付いたのか、同紙のネット版からは削除されている。
「軍命による住民虐殺(集団自決)」は、大江岩波訴訟の審議でも立証できなかった。 しかし渡名喜氏は「軍命があった」という間違った前提で、新聞の四分の一を駄文で埋めている。
ちなみみに「ハーグ陸戦条約」とは、いわゆる戦時国際法の一つで、1899年のハーグ平和会議で制定された多国間条約。
本条約では、「戦闘員・非戦闘員の区別」「使用してはならない戦術・兵器」「宣戦布告・降伏・休戦」など、戦争における義務と権利が具体的に規定されている。
渡名喜氏は本条約が禁止する「軍隊による民間人虐殺」を見て小躍りして喜んだのだろう。 そして強引に「32軍の民間人虐殺」に結びつけたのだろう。これこそが大江岩波集団自決訴訟でも立証できなかった「間違った前提」である。
1944年10月10日、米軍は10・10那覇空襲で「民間人の大量虐殺」を行っているが、これこそハーグ条約違反そのものであり、慶良間島集団自決が始まった翌年3月26日は、島を囲む大量の米軍艦で海が黒くなるほど海を埋めつくしていたという。 戦う術も逃げ場もない島の住民に雨あられと艦砲射撃で攻撃し「島民のジェノサイド」をしていた。 ついでに言うと1945年3月26日、米軍は座間味島上陸と同時にニミッツ布告1号を発令し、全沖縄を米軍統治下に置いた。 自分(米軍)が「占領統治下」に置いた民間人に艦砲射撃で攻撃し住民をパニックに陥れた。
これこそが渡名喜先生が批判する「ハーグ条約」違反ではないのか。
ニミッツ布告1号
最後に繰り返す。
昭和19(1944)年10月10日早朝、米海軍航空母艦・巡洋艦など100隻余りが沖縄本島東の海上約280kmの地点に到達し、艦載機が那覇を目指して飛び立った。いわゆる10・10空襲である。米軍の攻撃は、小禄飛行場や那覇港など軍事拠点を皮切りに、午前7時前から午後3時過ぎまで5次にわたり行われ、のべ1,396機が出撃した。午後からの市街地への攻撃では、試験的に焼夷弾が多用された。
那覇市の市街地はコンクリートの建物を除くほとんどの家屋が焼失し、その被害は死者225人、負傷者358人で、全市域の90%近くが焼失した。この日より、多くの那覇市民が本島北部などへ疎開し、那覇は復興する間もなく米軍上陸を迎えた。
「戦前の那覇市上空」(那覇市歴史博物館提供)
「攻撃を受けた船舶(左下)と那覇市街」(那覇市歴史博物館提供)
「10・10空襲とその後の市街地戦で壊滅した那覇」(那覇市歴史博物館提供)
沖縄タイムス著・発行『鉄の暴風』のもう一人の執筆者・牧港篤三氏の談話
関連エントリー⇒星雅彦氏の疑義!『鉄の暴風』と地裁判決へ
今回これに加えて、張本人の沖縄タイムスが自社の出版物で、しかも『鉄の暴風』のもう一人の執筆者・牧港篤三氏の談話として米軍の圧力について語っている記述を発見した。
沖縄タイムス発行の『沖縄の証言』(上巻)(沖縄タイムス編 1971年)が、『鉄の暴風』発刊の裏話を7頁にわたって掲載し、「米軍の“重圧”の中で」「三カ月かけて全琉から資料を集める」「書けなかった、ある一面」などの小見出しの下に、米軍の監視のもとに書かざるを得なかった執筆の内幕を書いている。
1971年といえば沖縄が返還される一年前。
まさかその30数年後に『鉄の暴風』が原因となる裁判沙汰が起きようなどとは夢想もせずに、二人の執筆者は気軽に本音を吐いていたのだろう。
関連部分を一部抜粋する。
<原稿は、翁長俊郎(元琉大教授)に翻訳を依頼し、英文の原稿を米軍司令部へ提出した。 当時の軍政長官シーツ少将が、感嘆久しくした、といううわさも伝わった。 にもかかわらず、しばらく反応はなかった。 あとでわかったのだが、米軍司令部で関係者が目をとおしたのち、「オレにもよませろ」と、ほかにも希望者が続出して許可が遅れたのだという。 米側にも好評だったわけである。>『沖縄の証言』(上巻)(303頁)
脱稿後翻訳して米軍に出版の許可を仰いでいることはこの記述で明らか。
<「鉄の暴風」(初版)の序文には、米軍のヒューマニズムが賞賛されている。 「この動乱を通し、われわれが、おそらく終生忘れ得ないのは、米軍の高いヒューマニズムであった。 国境と民族を超えた彼らの人類愛によって、生き残りの沖縄人は生命を保護され、あらゆる支援を与えられて、更生第一歩を踏み出すことができた。 このことを特筆しておきたい」。 たしかに、戦場の各所で、多くの住民が米軍に救出され、米軍に暖かいイメージを抱いたとしても不思議ではない。 沖縄住民は日本に見離され、米国の被保護者に転落していたのだから。
しかし、「鉄の暴風」が米軍のヒューマニズムを強調したのは、そこに出版の許可条件を満たすための配慮もなされていた、という時代的な制約を見落としてはならないだろう。>(304頁)
太字強調部分は多くの研究者が言及していたが、沖縄タイムス自らがこれを認めた記事は珍しい。
<1949年5月、具志川村栄野比で戦後のラジオ放送の第一声を放った琉球放送(AKAR)は、翌年10月1日の午後7時45分から、毎晩きまった時期に「鉄の暴風」-全文433ページを朗読放送した。 朗読担当者は川平朝清アナウンサー。 クラシックの音楽をバックに流して効果を出したという。>(305頁)
「鉄の暴風」のラジオ放送は、1945年(昭20)12月9日からNHKで放送された、ラジオ番組「真相はこうだ」を明らかに意識していた。
「真相はこうだ」は、NHKの独自番組のように放送されたが、実際は脚本・演出までGHQの民間情報教育局が担当した。
内容は満州事変以来の軍国主義の実態を暴露するドキュメンタリーで、アメリカの都合で故意に歪曲された部分も少なくなかった。
ちなみに沖縄版「真相はこうだ」ともいえる「鉄の暴風」のラジオ朗読をした川平朝清アナウンサーは、ディスク・ジョッキーのジョン・カビラ、元日本マクドナルドマーケティング本部長の川平謙慈、そして俳優の川平慈英という3人の父親である。
<苦しかった執筆条件
牧港篤三談(執筆者の一人ー引用者注)
戦記執筆前に日本の戦記出版類をたいてい読み、太田君もトルストイの「戦争と平和」を精読したと言うことでした>(307頁)
「鉄の暴雨風」の問題の箇所「集団自決」を執筆した太田良博氏は、沖縄タイムス入社直前まで米民政府に勤務する文学愛好家であった。
戦前からのベテラン記者であった牧港篤三氏が執筆の前に準備として目を通したのが日本の戦記物だったのに対し、文学青年の太田氏が精読したのは戦記の類ではなく、トルストイの「戦争と平和」であったという事実は「鉄の暴風」の性格を知る上で興味深いものがある。
<米軍占領下の重ぐるしい時代でしたから、米軍関係のことをリアルに書けば、アメリカさんは歓迎すまい、といった、いま考えると、つまらぬ思惑があったのも事実です。 タイムリーな企画ではあったが、書く条件は苦しかった。>(307頁)
「戦後民主主義」の呪縛に取り込まれた深見裁判長が、必死になって大江健三郎と岩波書店を守るための根拠となる『鉄の暴風』に誤った評価を与えても、執筆者の太田良博氏や、牧港篤三氏がその遺稿や談話で「『鉄の暴風』はウワサで書いた」とか「米軍重圧の思惑のもとに書いた」と吐露している以上、『鉄の暴風』に資料的価値を求める深見裁判長の判断は、逆説的意味で正しいという皮肉な結果になる。
つまり、書かれた昭和24年当時の沖縄が、戦記を書くにはウワサで書くのもやむえなかった時代であり、米軍のいやがることは書けなかった時代であったという歴史を知るために、『鉄の暴風』の資料的価値は充分にあるということになる。
今でも『鉄の暴風』を沖縄戦記のバイブルと狂信する方々は、二人の執筆者の正直な告白には「三匹の猿」のマネをし続けるのだろうか。
見ザル、聞かザル言わザル
【追記】
太田良博記者が『鉄の暴風』を書いたとき、米軍の顔色伺いながら書いたと、吐露する場面が『ある神話の背景』に描かれている。 以下は『沖縄戦「集団自決」の謎と真実』(秦郁彦編)よりの引用です。
曽野綾子は『ある神話の背景』の取材で太田にあったときから、すでに太田の記者としての危うさを察知していた。 曽野は、逆説的に“玄人”という表現を使って、米軍と『鉄の暴風』の関係について、同書の中で次のように述べている。
《太田氏は、この戦記について、まことに玄人らしい分析を試みている。「太田氏によれば、この戦記は当時の空気を反映しているという。 当時の社会事情は、アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。 太田氏はそれを私情をまじえずに書き留める側にあった。 「述べて作らず」である。 とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその儘、記録することもまた、筆者としての当然の義務の一つであったと思われる。
「時代が違うと見方が違う」
と太田氏はいう。 最近沖縄県史の編纂所あたりでは、又見方が違うという。 違うのは間違いなのか自然なのか。」(「ある神話の背景」)》
驚いたことに太田氏は『鉄の暴風』を執筆したとき、その当時の米軍の思惑を自著に反映させて「アメリカ軍をヒューマニスティックに扱い、日本軍閥の旧悪をあばく」といった論旨で書いたことを正直に吐露していたのである。
このとき太田は後年曽野と論争することになるとは夢にも思わず、『鉄の暴風」を書いた本音をつい洩らしてしまったのだろう。(『沖縄戦「集団自決」の謎と真実」(183頁、184頁)
【資料保管庫】
下記引用の琉球新報記事は、タイトルは「歴史を政府が書き換えた、不実の記録」となっているが、実際は政府が援護法認定のために「軍命令があった」と申請すれば良いと示唆した内容である。
結局、存在しなかった「軍命令」を政府が無理やりでっち上げて「援護法」の対象にしたというのだから、そもそも軍命令はなかったという証明にもなっている。
なお執筆者の石原昌家教授は「集団自決」の「軍命あり派」の1人である。
学者の良心とイデオロギーの狭間に立たされる悩ましい論文ではある。
◇
琉球新報 2006年12月7日(水)文化面
問われる「沖縄戦認識」 4 石原昌家 沖縄国際大学教授
不実の記録 政府が書き換え指導 援護法認定、「軍命」基準に
「援護法社会」の沖縄では、日本政府が琉球政府を介在して、沖縄戦体験者に「不実の記録」を指導していた。その構図は、「援護課」資料が浮き彫りにしている。
「援護法」適用にのためという日本政府の「善意の外形」によって、一般住民の沖縄戦体験は「軍民一体の戦闘」という「靖国の視点」による沖縄戦認識として決定付けられることになった。「援護法」で一般住民を「戦闘参加者」として認定するにあたって、日本政府は軍命があったか否かを決め手にしていた。それでは沖縄県公文書館の「援護課」資料で、日本政府の「沖縄戦書き換えの指導」を具体的に見ていきたい。
▼軍命と積極的戦闘協力
1957年8月以降、一般住民の「戦闘参加者の申立書」の提出業務が開始されるや、「援護課」は、58年12月までには38,700件を受付して、厚生省に進達した。その後、5万件受付した段階で、那覇日本政府南方連絡所から61年6月30日で受付業務を締め切るよう通達を受けた。それで「援護課」としては4ヵ年で52、682件を受付処理したが、保留してあるのが12、241件にのぼった(61年7月14日援護課「沖縄戦関係戦闘参加者の処理について」)。
これらの援護業務の記録である「援護課」資料の1960年「戦闘参加者に関する資書類」の中に以下のような具体的「書き換え」指導文書が含まれている。
それは昭和34年10月12日付けで、厚生省引揚援護局未帰還調査部第4調査室長から、琉球政府社会局援護課長殿という宛書きで、「戦闘協力により死亡したものの現認証明について」というタイトルの文書である。
その内容は「別紙記載の戦闘協力者に対し、遺族より弔慰金の請求をされましたが、戦闘協力の内容が消極的に失すると審査課より返却されましたので、死亡者は、要請(指示)事項のみに終始したのではなく、当時の戦況から判断して現認証明事項の如きこともあったものと推定されるので、其の旨、審査課に回答した処、死亡の原因が回答のような積極的戦闘協力によるものであれば現認証明書を添付されたいとのことですが、現認欄記載の如き事項は、当時何人かが現認していると思われるがそうであったら然るべく御とりはからい願います」とある。ここで注目すべき点は、積極的戦闘協力が認定基準になっている、と窺われることである。
更に、62年1月、「戦闘参加者に関する書類綴」(援護課調査係)には、「戦闘参加者の申立書」に対して、厚生省から琉球政府への「要調査事項」として「昭20・5・10食料を求めるため部隊に行ったのは軍命令か、申立書の記述ではその点が不明確であるから解明されたい」と、軍命令の有無を重視している。その点については、「現認証明書を要する戦闘協力者氏名」の一覧表ではより明確な文言が記されている。
当時50歳の県庁職員が、「壕生活の指導並びに避難誘導のため麻文仁村に派遣された」が、「麻文村麻文仁で難民誘導の任務遂行中砲弾の破片により胸部に受傷戦死」したという現認証明に対して、「上記の理由では積極的戦闘協力とは認めがたいとの審査課の意見であるが、積極的戦闘協力の事実はないか 例えば軍命令により弾薬運搬又は食料の輸送の指導若しくは陣地構築の指導等の如きものとか、公務遂行中殉(職)というが、公務の内容はなにか 軍の命令により何か積極的戦闘協力はしたのか」などと具体的に書き方を指導しているのである。
▼0歳児の「準軍属」決定
同じく戦闘参加者についての申立書で未認定の当時9歳の学童のケースとして「壕」提供の記述例をあげよう。日本軍による住民に対する一般的な「壕追い出し」行為は、「艦砲弾が激しいため殆どの壕が破壊されたので作戦上壕を提供せよと命じられたので、軍に協力して他に避難場所を探し求めて彷徨している際、敵の小銃弾で頭部を撃たれ治療も出来ず出血多量で数時間後に死亡した」という表現パターンで、「壕提供」ということに書き換えが行われていった。
62年の同書類綴には、援護法の認定が保留になっていた座間味村の明治9年生が昭20年3月28日、「隊長命令による自決」という内容で「戦闘参加者」として認定されている。さらに66年「援護関係表彰綴」には、宮村幸延座間味村総務課長の「功績調書」に、「1957年8月、慶良間戦における集団自決補償のため上京す 1963年10月 集団自決6歳未満から0歳児まで(148名)準軍属に決定」と記されている。
「援護法で」で一般一般住民を「戦闘参加者」として認定し、「準軍属」扱いするには、6歳以上のもの対して「軍命令」によって「積極的戦闘協力」したものに限られていた。しかし、この「援護課」資料によれば、例外的に軍の命令を聞き分けられないと判断した6歳未満児でも、63年以降確定することになったようである。しかし、それは6歳未満への適用が一般化されるのが81年以降であるので、「戦闘参加概況表」の⑮集団自決に該当するケースのみであった。
かくて、集団自決と認定されると、沖縄戦では0歳児でも「準軍属」扱いされ、軍人同様に「靖国神社」に祭神に祀られることになったのである。
◇
台湾で生まれた筆者は、台湾から与那国、石垣市と島伝に父の生まれ故郷である福岡県に行途中、米軍の輸送船LSTの輸送日程を待つ間の空白である。
その間父は「ヤミ船」で一旦国境の福岡に渡ったが「とても商売が出来る場所」ではないと判断し、物資の豊富な沖縄で仕事をする決意をした。
日本では戦後食糧不足で、餓死する人の話を良く聞いたが、豊富な食糧物資が市場に溢れていた沖縄では、「ヤミ船」「戦果」を挙げるが、これに代替した。
時々父が米軍の配給で、リュック一杯の缶詰を持ち帰ることがあった。これはトマトの缶詰であった。ところが、沖縄には「トマトジュース」を飲む習慣がなくい。したがってトマトジュースは人間の血液という噂がまん延し、トマトジュースを廃棄する者が多かった。また炭酸の強いコカ・コーラ炭酸に中毒になる人もいた。
さて夏休み中、友人たちが二学期に出席しているあいだ。筆者は何をして暇ししていたか・マトジュース、コカ・コーラの他に大きな下水道伝に海岸に出て、海老やカニを取るのが趣味であった。
しかし大きな水道管は石垣市の生活用水が紛れ込んでいた。近所の内科医にそうだんしたらどうやら破傷風のに罹患したらしい。
症状は高熱が出て、一晩中痙攣が起きて、そのまま放置したら痙攣で舌を食いちぎって窒息の恐れもあると、医者の見立て。
そこで登場したが、米軍支給のペニシリン。
最終的には米軍支給の
➀ペニシリン、トマトジュース、コカ・コーラで命を救われ、米軍のlstで沖縄本島に着いたときは通信簿が空白だったという次第。
ちなみに石垣市の市役所が火事になり、水浸しのレーズンが放置されいたのも我が家の食料となり、炭酸水といえば、サイダー水とラムネくらいで、炭酸の強力なコカ・コーラなど人間の呑むものではないと放棄されていた
つまり筆者は石垣島で(ペニシリン、トマトジュース、レーズン、コカ・コーラなどに良い命を救われた。
684
。
10107 1723d