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現代史家秦郁彦の高裁判決批判
昨日(2008年11月18日)の世界日報に大江・岩波集団自決訴訟に関わった世現代史家秦郁彦氏の「集団自決控訴審判決」に関する、インタビュー記事が掲載された。同紙のご好意により全文参考資料として、掲載します。(強調部分は引用者)
沖縄戦集団自決控訴審判決
現代史家 秦 郁彦氏に聞く
沖縄戦で住民に集団自決を命じたとする虚偽の記述で名誉を傷つけられたとして、元隊長・梅澤裕氏らが「沖縄ノート」の著者、大江健三郎さんらを相手に出版差し止めなどを求めた控訴審で、大阪高裁(小田耕治裁判長)は請求を退けた一審判決を支持、梅澤氏らの控訴を棄却した。判決の評価を、現代史家の秦郁彦氏に聞いた。
(聞き手=編集委員・鴨野 守)
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「判決は暴論で非常識」
はた・いくひこ 昭和7年、山口県生まれ。東京大学法学部卒。ハーバード大学、コロンビア大学に留学。防衛研修所教官、大蔵省財政史室長、プリンストン大学客員教授、日本大学教授などを歴任。法学博士。平成5年度の菊池寛賞を受賞。著書に『現代史の争点』『昭和史の謎を追う』(上・下)『昭和史20の争点―日本人の常識』『南京事件増補版―「虐殺」の構造』『統帥権と帝国陸海軍の時代』『旧制高校物語』など。
――判決の内容をどう見るか。
裁判の争点は隊長の自決命令があったか否かであるのに、「その有無を断定することはできない」としながら、「総体としての日本軍の強制ないし命令」を認めたもので、「逃げ」の判決だ。名誉毀損があったと認めているが、さまざまな理由で原告側を勝訴させるわけにはいかないという大前提があり、事実上の門前払いをした。
原告側を勝たせることができない理由の第一は、もしノーベル文学賞作家の作品が出版差し止めとなれば、世界中に報じられ、大騒ぎとなる。これは、日本の国益にマイナスになるという判断だ。
第二は、沖縄への特別の配慮。昨年九月の県民大会に象徴される、ただならぬ「反対」の気勢を見て、沖縄の世論を敵に回したくないという気持ちがあったのだろう。
第三に、戦時中の古い話を論議するのは歴史家の仕事であって、これを裁判所に持ってくるな、という考え方。第四に、原告側弁護団のビヘイビア(振る舞い)が、裁判所の心証を悪くしたという面だ。
――判決文のどこからそのように判断したのか。
例えば判決の中に、「このような歴史的事実の認定については……本来、歴史研究の課題であって……司法にこれを求め、仮にも『有権的な』判断を期待するとすれば、いささか、場違いなことであると言わざるを得ない」などという判示は、こんな訴訟をやるな、と言っているに等しい。また、「新しい資料の出現によりある記述の真実性が揺らいだからといって、直ちにそれだけで、当該記述を含む書籍の出版の継続が違法になると解するのは相当でない」という指摘は、ひどい暴論。
新しい資料、新しい証言が出て、過去の通説に間違いがあると分かれば、そのたびごとに訂正し、修正するというのが常道であり、歴史に対する本来の姿というべきだ。小田判決は、非論理的で、非常識な判決と言わざるを得ない。
――原告、被告双方から多くの陳述書や証言が出たが、原告側のものが一審に続き、全くと言ってよいほど評価されなかったが。
梅澤氏の主張は「到底採用できず」、ニセ命令書を捏造したという照屋昇雄氏の証言も「全く信用できず」、座間味島の宮平秀幸氏の新証言に至っては「明らかに虚言」などと、その信憑性を一切認めないという極端な判断を出したのは極めて珍しい。梅澤氏は原告だが、照屋氏も宮平氏も第三者の立場で全くの別人格なのに。裁判長が意地になっているとしか思えない。
――高裁が「明らかに虚言」とした、宮平秀幸氏の証言については、どう評価するか。
これが単独で出てきたのであれば疑問も出よう。だが、すでに梅澤氏が命令を発しなかったという証言は、宮城初枝さんが語り、宮村幸延が詫び状まで書いており、その内容と宮平証言は符合するもので大筋で正確だと私は判断している。裁判長は、過去の発言とブレがあるから信用できない、と指摘するが、時間とともに証言に多少のブレが出てくるのは当然であり、その理由も「村幹部の圧力」に起因するというのは、宮城初枝証言と同様、理解できる。逆に、時間を隔てた証言が全く違わないとなれば、それこそおかしい。
――判決は、住民自決命令について「関与」という形で認めたわけだが。
「関与」という範疇には、「関与しなかった」ということも含まれる曖昧な言葉だ。だが、当時の日本政府も第三二軍も、大方針は「非戦闘員を県内外の安全地帯に避難させる」というもので、これは住民自決とは正反対の指示である。だが、判決はこの流れに沿わない住民殺害など例外的な事件をことさら重視して、自決命令に「関与」したと決め付けており、変な判決と言わざるを得ない。(世界日報 2008年11月18日)
◇
再三繰り返しているが、高裁判決を、狼魔人日記風に言わしてもらえば、
小田裁判長は、次のような判決を下したことになる。
「原告の元軍人が、命令を出したといえないが、梅澤氏も老い先短いことだし、今さら名誉毀損なんて我慢しなさい。 ノーベル賞作家と大出版社の表現の自由に比べたら、90歳余の老人の名誉なんてどうでも良いではないか、それにもう一人は死んでいるのでしょう。 我慢、我慢」
こんなデタラメな判決が通るなら、日本はとんでもない人権無視の国家であるということを司法が示したことになる。
原告側の証言を一切認めないという裁判長の判断は、被告側の「証言者は嘘つき」という被告側の主張を、そのまま鵜呑みにした恣意的判断である。
原告が軍命を下したという証拠がないので、
被告側は、本裁判とは関係ない別件の「住民虐殺」を持ち出してかく乱作戦を企てた。
裁判長は、この被告側の「印象操作」に取り込まれて、軍の「関与」を全て原告が不利になるようにムリヤリつじつま合わせの判断をした。
>第二は、沖縄への特別の配慮。昨年九月の県民大会に象徴される、ただならぬ「反対」の気勢を見て、沖縄の世論を敵に回したくないという気持ちがあったのだろう。
この点に関して、原告側はマスコミ等の「法廷外闘争」で徹底し、
「原告側は沖縄を敵にしている」という印象操作で裁判官にプレッシャーを与える作戦を続けており、結果的に成功している。
今朝の沖縄タイムスは「『集団自決』訴訟 控訴審判決を読む」(村上有慶・沖縄平和ネットワーク代表)というタイトルで連載特集が始まっているが、
その記事の中でも
「・・・『正論』や『WILL』などの雑誌上で展開される、沖縄側への口汚い攻撃を見れば明らかである」
といったさりげない表現で、
卑劣にも、この裁判が「原告側vs沖縄」の裁判であるかのような印象操作をしている。
いうまでもないが「集団自決訴訟」の被告は大江健三郎と岩波書店であり、沖縄が被告ではない。
原告側が被告側を、口汚いかどうかはさておき,攻撃するのは当然のことであるが、
それがどうして「沖縄側への口汚い攻撃」に摩り替わるのだ。
沖縄タイムスに聞きたいのだが、
いつから沖縄県民が「大江健三郎・岩波書店=沖縄」という等式を認めたというのだ!(怒)
こういうところでも勝手に「県民」と言うのは止めて欲しい。
⇒岩波・大江訴訟 県民納得の妥当判決だ (琉球新報)
宮城晴美氏の苦悩(3)-かつて「命令はない」と確信
宮城晴美氏の苦悩(3)-かつて「命令はない」と確信
自らの直感まで否定するのか
宮城晴美氏(57)は証人尋問を行うに当たって裁判所に提出した陳述書の中で、「(著書『母が遺したもの』に)あえて第四部(母・初枝の遺言―生き残ったものの苦悩)を書いたのは、戦後の梅澤氏の行動が許せなかったからです。当時の守備隊長として、大勢の住民を死に追いやったという自らの責任を反故(ほご)にし、謝罪どころか身の“潔白”を証明するため狡猾(こうかつ)な手段で住民を混乱に陥れた梅澤氏の行動は、裏切り以外の何ものでもありませんでした。私の母も宮村幸延氏も、亡くなるまで梅澤氏の行動に苦しめられ続けたのです」と非難する。
宮城氏が言う、梅澤氏の「狡猾な手段」というのは、当時の宮里盛秀助役の弟、宮村幸延氏が書いた「詫(わ)び状」に関してである。彼女は、この件について宮村夫妻に取材し、『仕組まれた「詫び状」―宮村氏の名誉回復のために―』(『歴史と実践』第26号 平成十七年七月号)という一文にまとめている。
その記事で、宮村幸延氏は「(詫び状について)何も覚えていない。自分がこんなことを書く理由もないし、書けるわけもない」と弁明。宮城氏は「梅澤氏が言うように、たとえ宮村氏本人が書いたとしても、この筆跡からは尋常な状態だったとはいえまい。つまり、強いていえば泥酔して書かせられた可能性が高いということである。これが梅澤氏の策略だったのだろう」と厳しい口調で批判。「梅澤氏のとった行動は決して許されるものではない」と難詰する。だが宮城氏は、その直後に「確かに彼は『集団自決』の命令はしなかっただろう」と続けるのである。
彼女は、この点を『母が遺したもの』の二百六十四ページから二百六十五ページにかけてもっと強い筆致で明記している。昭和五十五年十二月中旬、宮城母娘が座間味島で梅澤氏を案内する場面だ。
<母としては梅澤氏が住民の「集団自決」を最も気にしていると思い、村の三役や住民が大勢亡くなった農業組合の壕の跡を先に行くつもりだった。しかし、梅澤氏は、部下の誰が、どこで、どんなふうに戦死したのかという質問に終始し、部下が死んだ場所に行くよう急(せ)かせた>
そして、部下が敵に斬り込んで戦死した場所で、梅澤氏は膝(ひざ)を突いて死んだ部下の名を呼び、詫びる言葉を口にし、号泣した。その帰り道、村の三役と住民の「集団自決」の碑に差し掛かった時のことだ。
<母が「ここでたくさんの住民が自決しました」と案内すると、梅澤氏は「あ、そうですか。この菊の花を手向けますか」と軽く言い、おもむろに車を降りていった。
私はそのとき、住民に「玉砕」を命令したのは梅澤氏ではないことを確信した。もし、自分の命令で大勢の住民が死んだとなれば、たとえ“人を殺す”ことを職業とする軍人であれ、気持ちがおだやかであるはずはない。また、敵上陸直前の艦砲射撃のなか、指揮官である戦隊長が非戦闘員(住民)の生死を案ずるほど、ゆとりがあったとも思えない。母が話す住民の話題にはあまり興味を示さず、部下の話になると、たとえささいなことでも必ず反応する梅澤氏を見て、私は住民と梅澤氏の隔たりの大きさを改めて感じた>
記者(鴨野)は、ものを書く人間の大きな“武器”であり“財産”は、直感であると信じる。その人の社会的評価や過去に書いたもの以上に、その人に会っての印象、言葉や態度から自分自身はどう評価するか。目の前に起きている事件は歴史的な出来事か、それとも単なる一過性の事件か――これらの判断基準は、経験ではぐくんだ直感がものをいう。
宮城晴美氏は、「戦後の梅澤氏の行動が許せなかった」という理由で書いた『母の遺したもの』の第四章の中で、「住民に『玉砕』を命令したのは梅澤氏ではないことを確信した」と書いたのである。梅澤裕という固有名詞を挙げて、彼は卑劣で許せないと人格攻撃をした章の中で、しかし彼は住民に「死ね」とは命じてはいない、と断言した。この記述は、重い。
法廷で彼女は、『母が遺したもの』の文章に軽率な記述があったなどとして、書き換え中であると明かした。彼女が「確信した」という、この記述まで「間違い」であり、訂正するのだろうか。それはすなわち長年の取材で培ってきたジャーナリストとしての己の直感まで否定することになる。それでは一体、彼女は何を信じて、これから文章を書くというのか。
(編集委員・鴨野 守) 世界日報 平成19年10月27日
◇
「贔屓(ひいき)目」という言葉が世にあるように、
いくら公平に物事を判断しようとしても、身内や知人、友人の言動を証言すると、つい贔屓目になる。
これは人間である以上避けられないものである。
刑事事件で身内のアリバイは重要視されないというのも納得できる。
逆に憎悪を持つ人間が、その相手に有利な証言をするとどうなるか。
「贔屓目」の逆の意味で、その証言は普通の証言より真実味を帯びてくる。
>戦後の梅澤氏の行動が許せなかったからです。当時の守備隊長として、大勢の住民を死に追いやったという自らの責任を反故(ほご)にし、謝罪どころか身の“潔白”を証明するため狡猾(こうかつ)な手段で住民を混乱に陥れた梅澤氏の行動は、裏切り以外の何ものでもありませんでした。私の母も宮村幸延氏も、亡くなるまで梅澤氏の行動に苦しめられ続けたのです」と非難する。
ここに表れているのは宮城晴美氏の梅澤隊長に対する異常なまでの憎悪の念である。
その晴美氏が梅澤氏に関して自著で次のように書いている。
≪住民に『玉砕』を命令したのは梅澤氏ではないことを確信した≫
晴美氏の心に潜む真実の吐露とも言うべきこの文章を、鴨野記者は次のように表現している。
≪梅澤裕という固有名詞を挙げて、彼は卑劣で許せないと人格攻撃をした章の中で、しかし彼は住民に「死ね」とは命じてはいない、と断言した。この記述は、重い。 ≫
梅澤氏に対して憎悪を露(あらわ)にした晴美氏が書く「梅澤氏は命令していない」という言葉。
ここに真実がある。
極悪複合体は、新しい強請りネタである「八重山マラリア」なる新しい概念を教科書に載せろ、などと理不尽な要求をし始めた。
そして住民の危機を回避するための「疎開」を「強制疎開」や「日本刀を突きつけて」などと悪意の修飾語を塗して読者を誤誘導しよう企んでいると書いた。
現在では馴染みの薄い「疎開」や「軍命」について、再度検証してみたい。
わが国は戦前戦後を通じて憲法を戴く議会制民主主義国家であった。 戦前といえども左翼用語で言う「天皇制」などではなく、憲法を国政の基本とする立憲君主制であった。
従って天皇が直接軍や政府に命令することはなく、軍も又政府に直接命令することはなかった。
軍の命令とはあくまで軍組織の上部から下部組織への命令であり、地方の住民に対しては法的な命令権はなく、何事かを依頼する場合は各地方の県知事を通じて地方の行政府の協力を得なければならなかった。
最近の八重山教科書問題でも明らかなように文部行政の監督省庁である文科省といえども、竹富町の行政指導は県教委を通じて行わなければならないのと全く同じである。
その意味では戦前の軍の政務官僚は現在の官僚と同じく偏差値エリートであり、帝大より難関といわれた士官学校の卒業の席次が軍官僚としての将来を決めた。 戦前の士官学校卒の軍官僚と現在の霞ヶ関官僚の違いは、軍服か背広の違いだと言うこともできる。
【おまけ】
明らかな誤解
保革を問わず、知識人と言われる人達の間でも沖縄に関して抱く大きな誤解がある。
雑誌『正論』の2月号の巻頭文「折節の記」の文中に「戦後、米国は沖縄を自国領に入れた」というくだりが有る。
が、これは明らかな事実誤認である。
沖縄は歴史上一度も米国領になったことはない。
1972年5月15日、沖縄は祖国復帰を果たした。
だが、米国は沖縄の施政権を祖国日本に返還したが、領土の返還ではない。
確かに、米国ドルを使用し、車は左ハンドルの右側通行なので一見米国領土になったような錯覚を覚える国民は多いし、大学進学などで祖国日本に行くときも「パスポート」が必要であったため、当事者の沖縄県民にさえ、この事実誤認に気が付かぬ人も多い。
だが、沖縄は敗戦後米軍の占領下にはあったが、一部にあった英語による学校教育の主張を跳ね除け、一貫して文部省教科書によるによる教育を全うしてきた。当時の教員たちはやがて来る祖国復帰の日に備え、文部省教科書を手分けしてガリ版謄写畿で複製し、粗末なワラ半紙の教科書を徹夜で作製し、「日本国民」の教育に没頭したた。
米ドル使用や車の左ハンドルは米軍の統治のため、また同時に沖縄に対する日本の主権を守るための方便の一つであった。
従って米国は沖縄を領土にはしなかった。 沖縄の統治は、米国高等弁務官による委任統治という形にし、主権は米国ではなくあくまで日本にあった。(潜在主権)
仮に日本が米国に沖縄の領有を認めていたら、沖縄はグアムやサイパンのように現在も米国領土で返還されないままになっていた可能性が大である。
沖縄が米国領のままであれば、「米軍基地の県外撤去」など問題にもならなかったであろう。
米軍が安全保障のため自国領土の沖縄を使用するのに何の問題もないからである。
この「米国の委任統治」についても反米左翼複合体が「昭和天皇が沖縄を米国に売り渡した」というデマの宣伝材料に利用されているが、実際は昭和天皇は「潜在主権」という秘策を使って沖縄に対する主権は守り通したのである。
これについては別の機会に詳述したい。
最後に沖縄が米軍の統治下にはあったが、主権はあくまで日本が所有してという根拠を示しておく。
手元に、筆者が米軍統治時代進学のため祖国日本に渡った時の「パスポート」があるが、正式名称は一種の身分証明書であり「日本渡航証明書」とあり、発行者は米国政府ではなく、高等弁務官である。
また日本の税関の入国ゴムスタンプには、「日本国への入国」ではなく「日本国への帰国」を証する、と記され入国審査官の署名がある。
一方沖縄帰省するときの税関の出国ゴムスタンプには「日本国からの出国」を証する、とある。
わかりにくいが、当時の沖縄人は潜在的には日本国民でありながら、長期の海外旅行をしており、学業や仕事で本土に渡るときは一時帰国していた形になっていた。
ウソのような本当の話である。
「正論」が誤解するのも、むべなるかなである。