狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

集団自決、大江・岩波訴訟、現代史家秦郁彦の高裁判決批判

2021-07-02 14:35:21 | ★改定版集団自決
 
 

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現代史家秦郁彦の高裁判決批判

2008-11-19

 

昨日(2008年11月18日)の世界日報に大江・岩波集団自決訴訟に関わった世現代史家秦郁彦氏の「集団自決控訴審判決」に関する、インタビュー記事が掲載された。同紙のご好意により全文参考資料として、掲載します。(強調部分は引用者)

 

沖縄戦集団自決控訴審判決
現代史家 秦 郁彦氏に聞く


 沖縄戦で住民に集団自決を命じたとする虚偽の記述で名誉を傷つけられたとして、元隊長・梅澤裕氏らが「沖縄ノート」の著者、大江健三郎さんらを相手に出版差し止めなどを求めた控訴審で、大阪高裁(小田耕治裁判長)は請求を退けた一審判決を支持、梅澤氏らの控訴を棄却した。判決の評価を、現代史家の秦郁彦氏に聞いた。
(聞き手=編集委員・鴨野 守)
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「判決は暴論で非常識」

 はた・いくひこ 昭和7年、山口県生まれ。東京大学法学部卒。ハーバード大学、コロンビア大学に留学。防衛研修所教官、大蔵省財政史室長、プリンストン大学客員教授、日本大学教授などを歴任。法学博士。平成5年度の菊池寛賞を受賞。著書に『現代史の争点』『昭和史の謎を追う』(上・下)『昭和史20の争点―日本人の常識』『南京事件増補版―「虐殺」の構造』『統帥権と帝国陸海軍の時代』『旧制高校物語』など。
 ――判決の内容をどう見るか。
 裁判の争点は隊長の自決命令があったか否かであるのに、「その有無を断定することはできない」としながら、「総体としての日本軍の強制ないし命令」を認めたもので、「逃げ」の判決だ。名誉毀損があったと認めているが、さまざまな理由で原告側を勝訴させるわけにはいかないという大前提があり、事実上の門前払いをした。

 原告側を勝たせることができない理由の第一は、もしノーベル文学賞作家の作品が出版差し止めとなれば、世界中に報じられ、大騒ぎとなる。これは、日本の国益にマイナスになるという判断だ。

 第二は、沖縄への特別の配慮。昨年九月の県民大会に象徴される、ただならぬ「反対」の気勢を見て、沖縄の世論を敵に回したくないという気持ちがあったのだろう。

 第三に、戦時中の古い話を論議するのは歴史家の仕事であって、これを裁判所に持ってくるな、という考え方。第四に、原告側弁護団のビヘイビア(振る舞い)が、裁判所の心証を悪くしたという面だ。

 ――判決文のどこからそのように判断したのか。

 例えば判決の中に、「このような歴史的事実の認定については……本来、歴史研究の課題であって……司法にこれを求め、仮にも『有権的な』判断を期待するとすれば、いささか、場違いなことであると言わざるを得ない」などという判示は、こんな訴訟をやるな、と言っているに等しい。また、「新しい資料の出現によりある記述の真実性が揺らいだからといって、直ちにそれだけで、当該記述を含む書籍の出版の継続が違法になると解するのは相当でない」という指摘は、ひどい暴論。

 新しい資料、新しい証言が出て、過去の通説に間違いがあると分かれば、そのたびごとに訂正し、修正するというのが常道であり、歴史に対する本来の姿というべきだ。小田判決は、非論理的で、非常識な判決と言わざるを得ない。

 ――原告、被告双方から多くの陳述書や証言が出たが、原告側のものが一審に続き、全くと言ってよいほど評価されなかったが。

 梅澤氏の主張は「到底採用できず」、ニセ命令書を捏造したという照屋昇雄氏の証言も「全く信用できず」、座間味島の宮平秀幸氏の新証言に至っては「明らかに虚言」などと、その信憑性を一切認めないという極端な判断を出したのは極めて珍しい。梅澤氏は原告だが、照屋氏も宮平氏も第三者の立場で全くの別人格なのに。裁判長が意地になっているとしか思えない。

 ――高裁が「明らかに虚言」とした、宮平秀幸氏の証言については、どう評価するか。


 これが単独で出てきたのであれば疑問も出よう。だが、すでに梅澤氏が命令を発しなかったという証言は、宮城初枝さんが語り宮村幸延が詫び状まで書いており、その内容と宮平証言は符合するもので大筋で正確だと私は判断している。裁判長は、過去の発言とブレがあるから信用できない、と指摘するが、時間とともに証言に多少のブレが出てくるのは当然であり、その理由も「村幹部の圧力」に起因するというのは、宮城初枝証言と同様、理解できる。逆に、時間を隔てた証言が全く違わないとなれば、それこそおかしい。

 ――判決は、住民自決命令について「関与」という形で認めたわけだが。

 「関与」という範疇には、「関与しなかった」ということも含まれる曖昧な言葉だ。だが、当時の日本政府も第三二軍も、大方針は「非戦闘員を県内外の安全地帯に避難させる」というもので、これは住民自決とは正反対の指示である。だが、判決はこの流れに沿わない住民殺害など例外的な事件をことさら重視して、自決命令に「関与」したと決め付けており、変な判決と言わざるを得ない。(世界日報 2008年11月18日)

                   ◇

 

再三繰り返しているが、高裁判決を、狼魔人日記風に言わしてもらえば、

小田裁判長は、次のような判決を下したことになる。

原告の元軍人が、命令を出したといえないが、梅澤氏も老い先短いことだし、今さら名誉毀損なんて我慢しなさい。 ノーベル賞作家と大出版社の表現の自由に比べたら、90歳余の老人の名誉なんてどうでも良いではないか、それにもう一人は死んでいるのでしょう。 我慢、我慢」

こんなデタラメな判決が通るなら、日本はとんでもない人権無視の国家であるということを司法が示したことになる。

原告側の証言を一切認めないという裁判長の判断は、被告側の「証言者は嘘つき」という被告側の主張を、そのまま鵜呑みにした恣意的判断である。

原告が軍命を下したという証拠がないので、

被告側は、本裁判とは関係ない別件の「住民虐殺」を持ち出してかく乱作戦を企てた。

裁判長は、この被告側の「印象操作」に取り込まれて、軍の「関与」を全て原告が不利になるようにムリヤリつじつま合わせの判断をした。

>第二は、沖縄への特別の配慮。昨年九月の県民大会に象徴される、ただならぬ「反対」の気勢を見て、沖縄の世論を敵に回したくないという気持ちがあったのだろう。

この点に関して、原告側はマスコミ等の「法廷外闘争」で徹底し、

原告側は沖縄を敵にしている」という印象操作で裁判官にプレッシャーを与える作戦を続けており、結果的に成功している。

今朝の沖縄タイムスは「『集団自決』訴訟 控訴審判決を読む」(村上有慶・沖縄平和ネットワーク代表)というタイトルで連載特集が始まっているが、

その記事の中でも

・・・『正論』や『WILL』などの雑誌上で展開される、沖縄側への口汚い攻撃を見れば明らかである

といったさりげない表現で、

卑劣にも、この裁判が「原告側vs沖縄」の裁判であるかのような印象操作をしている。

いうまでもないが「集団自決訴訟」の被告は大江健三郎と岩波書店であり、沖縄が被告ではない。

原告側が被告側を、口汚いかどうかはさておき,攻撃するのは当然のことであるが、

それがどうして「沖縄側への口汚い攻撃」に摩り替わるのだ。

沖縄タイムスに聞きたいのだが、

いつから沖縄県民が「大江健三郎・岩波書店=沖縄という等式を認めたというのだ!(怒)

こういうところでも勝手に「県民」と言うのは止めて欲しい。

岩波・大江訴訟 県民納得の妥当判決だ (琉球新報)

 

宮城晴美氏の苦悩(3)-かつて「命令はない」と確信

2008-10-16 07:

 
真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から62年 2部 <5>

宮城晴美氏の苦悩(3)-かつて「命令はない」と確信

自らの直感まで否定するのか

 宮城晴美氏(57)は証人尋問を行うに当たって裁判所に提出した陳述書の中で、「(著書『母が遺したもの』に)あえて第四部(母・初枝の遺言―生き残ったものの苦悩)を書いたのは、戦後の梅澤氏の行動が許せなかったからです。当時の守備隊長として、大勢の住民を死に追いやったという自らの責任を反故(ほご)にし、謝罪どころか身の“潔白”を証明するため狡猾(こうかつ)な手段で住民を混乱に陥れた梅澤氏の行動は、裏切り以外の何ものでもありませんでした。私の母も宮村幸延氏も、亡くなるまで梅澤氏の行動に苦しめられ続けたのです」と非難する。

 宮城氏が言う、梅澤氏の「狡猾な手段」というのは、当時の宮里盛秀助役の弟、宮村幸延氏が書いた「詫(わ)び状」に関してである。彼女は、この件について宮村夫妻に取材し、『仕組まれた「詫び状」―宮村氏の名誉回復のために―』(『歴史と実践』第26号 平成十七年七月号)という一文にまとめている。

 その記事で、宮村幸延氏は「(詫び状について)何も覚えていない。自分がこんなことを書く理由もないし、書けるわけもない」と弁明。宮城氏は「梅澤氏が言うように、たとえ宮村氏本人が書いたとしても、この筆跡からは尋常な状態だったとはいえまい。つまり、強いていえば泥酔して書かせられた可能性が高いということである。これが梅澤氏の策略だったのだろう」と厳しい口調で批判。「梅澤氏のとった行動は決して許されるものではない」と難詰する。だが宮城氏は、その直後に「確かに彼は『集団自決』の命令はしなかっただろう」と続けるのである。

 彼女は、この点を『母が遺したもの』の二百六十四ページから二百六十五ページにかけてもっと強い筆致で明記している。昭和五十五年十二月中旬、宮城母娘が座間味島で梅澤氏を案内する場面だ。

 <母としては梅澤氏が住民の「集団自決」を最も気にしていると思い、村の三役や住民が大勢亡くなった農業組合の壕の跡を先に行くつもりだった。しかし、梅澤氏は、部下の誰が、どこで、どんなふうに戦死したのかという質問に終始し、部下が死んだ場所に行くよう急(せ)かせた>

 そして、部下が敵に斬り込んで戦死した場所で、梅澤氏は膝(ひざ)を突いて死んだ部下の名を呼び、詫びる言葉を口にし、号泣した。その帰り道、村の三役と住民の「集団自決」の碑に差し掛かった時のことだ。

 <母が「ここでたくさんの住民が自決しました」と案内すると、梅澤氏は「あ、そうですか。この菊の花を手向けますか」と軽く言い、おもむろに車を降りていった。

 私はそのとき、住民に「玉砕」を命令したのは梅澤氏ではないことを確信した。もし、自分の命令で大勢の住民が死んだとなれば、たとえ“人を殺す”ことを職業とする軍人であれ、気持ちがおだやかであるはずはない。また、敵上陸直前の艦砲射撃のなか、指揮官である戦隊長が非戦闘員(住民)の生死を案ずるほど、ゆとりがあったとも思えない。母が話す住民の話題にはあまり興味を示さず、部下の話になると、たとえささいなことでも必ず反応する梅澤氏を見て、私は住民と梅澤氏の隔たりの大きさを改めて感じた

 記者(鴨野)は、ものを書く人間の大きな“武器”であり“財産”は、直感であると信じる。その人の社会的評価や過去に書いたもの以上に、その人に会っての印象、言葉や態度から自分自身はどう評価するか。目の前に起きている事件は歴史的な出来事か、それとも単なる一過性の事件か――これらの判断基準は、経験ではぐくんだ直感がものをいう。

 宮城晴美氏は、「戦後の梅澤氏の行動が許せなかった」という理由で書いた『母の遺したもの』の第四章の中で、「住民に『玉砕』を命令したのは梅澤氏ではないことを確信した」と書いたのである。梅澤裕という固有名詞を挙げて、彼は卑劣で許せないと人格攻撃をした章の中で、しかし彼は住民に「死ね」とは命じてはいない、と断言した。この記述は、重い。

 法廷で彼女は、『母が遺したもの』の文章に軽率な記述があったなどとして、書き換え中であると明かした。彼女が「確信した」という、この記述まで「間違い」であり、訂正するのだろうか。それはすなわち長年の取材で培ってきたジャーナリストとしての己の直感まで否定することになる。それでは一体、彼女は何を信じて、これから文章を書くというのか。

(編集委員・鴨野 守) 世界日報 平成19年10月27日

 

                  ◇

「贔屓(ひいき)目」という言葉が世にあるように、

いくら公平に物事を判断しようとしても、身内や知人、友人の言動を証言すると、つい贔屓目になる。

これは人間である以上避けられないものである。

刑事事件で身内のアリバイは重要視されないというのも納得できる。 

逆に憎悪を持つ人間が、その相手に有利な証言をするとどうなるか。

「贔屓目」の逆の意味で、その証言は普通の証言より真実味を帯びてくる。

>戦後の梅澤氏の行動が許せなかったからです。当時の守備隊長として、大勢の住民を死に追いやったという自らの責任を反故(ほご)にし、謝罪どころか身の“潔白”を証明するため狡猾(こうかつ)な手段で住民を混乱に陥れた梅澤氏の行動は、裏切り以外の何ものでもありませんでした。私の母も宮村幸延氏も、亡くなるまで梅澤氏の行動に苦しめられ続けたのです」と非難する。

ここに表れているのは宮城晴美氏の梅澤隊長に対する異常なまでの憎悪の念である。

その晴美氏が梅澤氏に関して自著で次のように書いている。

 ≪住民に『玉砕』を命令したのは梅澤氏ではないことを確信した≫

 

晴美氏の心に潜む真実の吐露とも言うべきこの文章を、鴨野記者は次のように表現している。

梅澤裕という固有名詞を挙げて、彼は卑劣で許せないと人格攻撃をした章の中で、しかし彼は住民に「死ね」とは命じてはいない、と断言した。この記述は、重い。

梅澤氏に対して憎悪を露(あらわ)にした晴美氏が書く「梅澤氏は命令していない」という言葉。

ここに真実がある。

極悪複合体は、新しい強請りネタである「八重山マラリア」なる新しい概念を教科書に載せろ、などと理不尽な要求をし始めた。

そして住民の危機を回避するための「疎開」を「強制疎開」や「日本刀を突きつけて」などと悪意の修飾語を塗して読者を誤誘導しよう企んでいると書いた。

現在では馴染みの薄い「疎開」や「軍命」について、再度検証してみたい。

わが国は戦前戦後を通じて憲法を戴く議会制民主主義国家であった。 戦前といえども左翼用語で言う「天皇制」などではなく、憲法を国政の基本とする立憲君主制であった。

従って天皇が直接軍や政府に命令することはなく、軍も又政府に直接命令することはなかった。

軍の命令とはあくまで軍組織の上部から下部組織への命令であり、地方の住民に対しては法的な命令権はなく、何事かを依頼する場合は各地方の県知事を通じて地方の行政府の協力を得なければならなかった。

最近の八重山教科書問題でも明らかなように文部行政の監督省庁である文科省といえども、竹富町の行政指導は県教委を通じて行わなければならないのと全く同じである。 

その意味では戦前の軍の政務官僚は現在の官僚と同じく偏差値エリートであり、帝大より難関といわれた士官学校の卒業の席次が軍官僚としての将来を決めた。 戦前の士官学校卒の軍官僚と現在の霞ヶ関官僚の違いは、軍服か背広の違いだと言うこともできる。

【おまけ】             

明らかな誤解

保革を問わず、知識人と言われる人達の間でも沖縄に関して抱く大きな誤解がある。

 雑誌『正論』の2月号の巻頭文「折節の記」の文中に「戦後、米国は沖縄を自国領に入れた」というくだりが有る。

が、これは明らかな事実誤認である。

沖縄は歴史上一度も米国領になったことはない。

1972年5月15日、沖縄は祖国復帰を果たした。

だが、米国は沖縄の施政権を祖国日本に返還したが、領土の返還ではない。

確かに、米国ドルを使用し、車は左ハンドルの右側通行なので一見米国領土になったような錯覚を覚える国民は多いし、大学進学などで祖国日本に行くときも「パスポート」が必要であったため、当事者の沖縄県民にさえ、この事実誤認に気が付かぬ人も多い。

だが、沖縄は敗戦後米軍の占領下にはあったが、一部にあった英語による学校教育の主張を跳ね除け、一貫して文部省教科書によるによる教育を全うしてきた。当時の教員たちはやがて来る祖国復帰の日に備え、文部省教科書を手分けしてガリ版謄写畿で複製し、粗末なワラ半紙の教科書を徹夜で作製し、「日本国民」の教育に没頭したた。

米ドル使用や車の左ハンドルは米軍の統治のため、また同時に沖縄に対する日本の主権を守るための方便の一つであった。

従って米国は沖縄を領土にはしなかった。 沖縄の統治は、米国高等弁務官による委任統治という形にし、主権は米国ではなくあくまで日本にあった。(潜在主権)

仮に日本が米国に沖縄の領有を認めていたら、沖縄はグアムやサイパンのように現在も米国領土で返還されないままになっていた可能性が大である。

沖縄が米国領のままであれば、「米軍基地の県外撤去」など問題にもならなかったであろう。

米軍が安全保障のため自国領土の沖縄を使用するのに何の問題もないからである。

この「米国の委任統治」についても反米左翼複合体が「昭和天皇が沖縄を米国に売り渡した」というデマの宣伝材料に利用されているが、実際は昭和天皇は「潜在主権」という秘策を使って沖縄に対する主権は守り通したのである。

これについては別の機会に詳述したい。

最後に沖縄が米軍の統治下にはあったが、主権はあくまで日本が所有してという根拠を示しておく。

手元に、筆者が米軍統治時代進学のため祖国日本に渡った時の「パスポート」があるが、正式名称は一種の身分証明書であり「日本渡航証明書」とあり、発行者は米国政府ではなく、高等弁務官である。

また日本の税関の入国ゴムスタンプには、「日本国への入国」ではなく「日本国への帰国」を証する、と記され入国審査官の署名がある。

一方沖縄帰省するときの税関の出国ゴムスタンプには「日本国からの出国」を証する、とある。

わかりにくいが、当時の沖縄人は潜在的には日本国民でありながら、長期の海外旅行をしており、学業や仕事で本土に渡るときは一時帰国していた形になっていた。

ウソのような本当の話である。

「正論」が誤解するのも、むべなるかなである。

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コメント (1)

デニー知事の責任追及、医療専門家がコロナ感染!沖縄県と沖縄県立病院の泥仕合、50人クラスター、16人死亡 「情報を隠した」と沖縄知事を追及 県は否定

2021-07-02 11:04:53 | 医学・健康

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沖縄県の県立中部病院で、50人のコロナクラスターが発生、16人死亡した。

県と中部病院で発表を巡り責任転嫁の泥仕合を展開。

きょうの沖縄タイムスは二面トップと社会面トップはこのドタバタ劇。

■二面トップ

公表遅れ 与野党批判

自民、知事の責任追及

中部病院クラスター

■社会面トップ

クラスター異なる見解

それぞれ記者会見

病院「会見とりやめの連絡」

県側「公表は止めていない

中部病院は新型コロナウイルス患者を受け入れる県の重点医療機関。感染患者の急激な入院増加やクラスター発生などを理由に、公式ホームページで当面の間、外来診療と入院の受け入れを制限する方針を発表していた。

両組織の責任者である玉城デニー知事の説明責任が問われる。

バーベキューパーティなどする暇はなかったはず。

沖縄のコロナ対策と言えば中部病院の高山義浩医師が孤軍奮闘、大活躍している様子がNHKなど大手メディアで報じられていた。

今回の県と病院側のドタバタ劇では、全くその名を見ないが、何処で何しているのだろう。

まさか重症患者として隔離されたわけではないと思うが・・・・

対談:コロナ感染症:青木眞×高山義浩 ... - 沖縄県立中部病院https://chubuweb.hosp.pref.okinawa.jp/covid19/aokitakayamatalk1/

沖縄タイムス紙面掲載記事

クラスター発表遅れで病院と沖縄県が別々に会見 病院「取りやめの連絡あった」 県側「公表は止めていない」

2021年7月2日 07:04

 沖縄県立中部病院で起きた大規模クラスター(感染者集団)の発表遅れを巡り、同院と同院を所管する県病院事業局が1日、それぞれ別に記者会見を開いた。同院の玉城和光院長は「局側に公表の場を設けるよう求めてきたが会見を控えた前日に取りやめの連絡があった」と説明。一方、同局の中矢代真美医療企画監は「決して公表を止めていない。コミュニケーションの問題だ」と釈明した。病院と県側で見解が食い違う異例の展開となった。

 同問題を巡っては県病院事業局の我那覇仁局長が6月30日の県議会一般質問で、県立中部病院で5月24日以降に計50人(入院患者36人、職員14人)の新型コロナウイルスのクラスター(感染者集団)が起きていたと明らかにしたことで発覚。うち30日までに患者17人が死亡した。死亡患者は基礎疾患があり、死亡と感染の関連は調査中。

 同院によると、院内で5人以上の感染が発生した5月末、局側に会見を提案したが、6月1日にこの時点では控えるようメールがあった。7日に局側から会見を打診され11日の開催が決定。院内で準備を進めたが、10日に局側から取りやめと受け取れる趣旨のメールが届き、ホームページの発表にとどめたという。

 橋口幹夫副院長は「県の組織なので指示を仰がなければならず、公表の時機を逸した。非常に反省している」と説明。「患者や家族には院内感染を伝えていた。現場として隠蔽(いんぺい)という感覚は一切ない」と述べた。

 一方で、局の中矢代企画監は1日の会見に同席するつもりで病院に行ったが、病院側に同席を控えるよう求められ、別々に会見を開くことになったという

 中矢代企画監は「病院の会見を隣の部屋で聞いていてかなり驚いた」とし「局も11日に会見する考えだったが、専門家から『公表基準を満たさず、県立病院が公表すれば他の病院に混乱が生じかねない』との意見があった」と説明。病院側には「慎重や注意を要するが、それを踏まえても病院が会見するなら意思は尊重する」と伝えたと述べた。公表を巡る混乱について「県民や医療従事者に不安を与え申し訳ない」と陳謝した

 局は2日に県立病院院長会議を開き、今後の公表の在り方を協議する。クラスター発生は6月30日の県議会質疑で明らかになり、県議から「隠蔽だ」との指摘が上がっていた。

  • gorogro-kun

    やっぱり隠してたんですね。 
    そして、もっと隠してますね?
    毎日の感染者数に比べ死者の数が1人か2人と少なく、
    なんかヘンだなとおもってました。
    玉城デニー県知事さんとその一派の皆様、
    とりあえず、ウソやだましはやめてください。
    あなた方が考えるほど、県民はバカじゃ
    ないです。

     

  • kgg*****

    県の基準=観光業に配慮した黒塗り文章開示、首里城火災の責任の無追及
    これは沖縄県庁の中でしか通用しない基準ですね。

  •  
  • H-K-N

    半年以上に渡る事実とは違う件数を発信続けた罪は大きい
    玉城県知事な真実をお持ちなのでしょうか
    緊急事態宣言下での焼肉パーティ等 物事に直視する気持ちはお持ちなのですか
    単なる数字合わせの7月11日緊急事態宣言終了も目論んだとみられても
    仕方なき施策
    申し訳ないがここまで進めば県民の方がどのように思っているのか問いたい

  •  
  • Mjg

    病院にいらっしゃる多くの方達が
    コロナ感染してしまう!なぜかのか。よく考えるとわからんことだ。人出が止まらない
    東京は感染者が増える、出歩く人が減れば大阪のように減る。ダラダラとやるしかない戦後の強制できない日本なのだ。自分の命は自分で守れ!

  • bee*****

    全国規模のネットアンケートでは知人友人に感染者がいた人の割合が感染者数、感染率に比べて全国的に数字が低いのが気になる

    本当はそんなに感染してないのか、あるいは感染しても知り合いとかには言わない人が結構いるってことなのか

    SNSで匿名で公表して情報を発信する人も若い人にはいるけど、リアルの世界では感染したら
    隠しておかなきゃと思ってしまうのが人間なのかな

【関連記事】

コメント (7)

集団自決、軍は法令上民間に命令できない、軍・行政が住民疎開に尽力 利用された「軍命」

2021-07-02 00:47:54 | ★改定版集団自決

 

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軍・行政が住民疎開に尽力 利用された「軍命」2008-09-27 

沖縄戦を通じて言えること、軍隊(陸軍)と言えども士官クラスは殆どが士官学校出身で戦時法律に精通しており、軍服を着たキャリア官僚と言われるほど頭脳明晰だった。

 

軍事史学会副会長の原剛氏によると、沖縄戦を巡る「戦場地域の行政責任」は次のように説明されている。

実際に、米軍が上陸する二カ月前の1945年1月に軍司令官・参謀長・各部長・幕僚などが集まり、戒厳令に関する検討を行っているが、結局は戒厳令の宣告を大本営へ具申するに至らなかった。

このため、第三十二軍司令官は、戦場地域の住民の避難・保護についての責任を形式的には持たないことになり、あくまで県知事に責任に責任があるという形式が貫かれていた。」(『沖縄戦「集団自決」の謎と真相)

 

沖縄戦に際して、軍は戒厳令について検討はしたが執行はせず、行政責任は最後まで県知事に委ねられた。

 

「沖縄県民斯く戦えり」で有名な太田少将も、軍民の役割分担を充分心得ていた。

太田少将は、沖縄県の実情を報告するのは県の職務だが、「県には既に通信力なく、32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き」、県に代わって「緊急御通知申し上げる」と、自身の「越権行為」の弁明に電文の前半を費やしている。

電文「沖縄県民斯く戦えり」の冒頭部分

 沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せらるべきも、県には既に通信力なく、32軍司令部また通信の余力なしと認めらるるに付き、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急御通知申し上げる

軍隊が民間に命令できるのは、戒厳令が執行されたときであり、沖縄戦当時、戒厳令は執行されていなかった。

太田少将は自決直前の今わの際にも戦場現場の軍と行政の責任分担について峻別していた。

 

               ★

戦時中に、よく言えば「利用」され、悪く言えば「悪用」された言葉に、「軍の命令」という言葉がある。

実際には命令は発せられていなくとも、また軍が命令する権限がない場合でも、沖縄県民は当時の社会風潮から「軍命」と言った方が万事敏速に行動に移す傾向にあった。

例えば「○○へ集合」という場合でも迅速を期す場合「軍命」という言葉が頻繁に悪用された。

県外疎開も実際に住民に命令出来る立場にあったのは行政側であったので、県外疎開を緊急課題と考えた軍は行政に協力を依頼した

初県外疎開に反対の風潮にあった県民に対して行政側は「軍命」を利用した

だが「軍命」も頻繁に利用(悪用?)されると住民側もこれに従わないようになってくる。 オオカミ少年の例えというより、そもそも軍命なんて軍が民間に下すものではないということは一部には知れ渡っていたのだ。

『沖縄県史』第四巻には「集団疎開に対する県民の心境」として次のような記述がある。

≪当時の戦局からして、国家の至上命令としてどうしても疎開しなければならなかったのである。 刻々に迫ってくる戦火への不安、その中で県民は島を守るべき義務を軍部と共に負わされ、生活を軍部の専権にゆだねさせられた。

しかし、このような状況にあって、一家の中堅である男子壮年者は沖縄に留まり、老幼婦女子のみを未知の土地に送るという生活の不安や、肉親の絶ちがたい愛情に加うる、海上の潜水艦の脅威などから、住民は疎開の勧奨に容易に応じようとはしなかった。(略) 

かくして昭和19年7月中旬垂範の意味で県庁、警察の職員家族が疎開し、同8月16日1回目の学童疎開を送り出すまで、学校、部落、隣組などにおける勧奨が燃え上がるなかで隣組の集会などに持ち込まれる流言、戦況に対する信頼と不安の錯そうなどから家族間は賛否の論議を繰り返し疎開を決意したり、取り消したり、荷物をまとめたり、ほぐしたりの状況を続けた。≫

沖縄県史の記述の中にも「命令」を「利用」した当時の緊迫した状況が読み取れる。

学童疎開も「従わなければならない」という意味では軍どころか「国家の至上命令」としておきながらも、「住民は疎開の勧奨に容易に応じようとはしなかった」というくだりでは、命令ではなく勧奨と言葉の使い分けをしている。

>家族間は賛否の論議を繰り返し疎開を決意したり、取り消したり、荷物をまとめたり、ほぐしたりの状況を続けた

軍の命令」が親兄弟の命を奪わねばならないほど厳格なものだったら、賛否の論議の余地はなかっただろうし、疎開命令に対しても絶対服従であり、荷物をまとめたりほぐしたりも出来なかっただろう。

むしろ米軍来襲におびえて、荷物をまとめたりほぐしたりする住民の様子は、米軍上陸を目前にしてパニックになり、「自決すべきか生き延びるべきか」と迷ったあげく、結局グループのリーダーの決断に委ねた座間味、渡嘉敷両村の住民の心境に相通ずるものがあるのではないか。

どちらの場合も一家の主が拒否しようと思えば出来た。

学童疎開を拒否した家族は結局戦火に巻き込まれ多くの被害者をだし、集団自決を拒否した家族は戦火を生き延びた

軍命という言葉は、戦時中は行政側や一部民間団体に利用され、戦後は左翼勢力によって悪用されている。

以下は世界日報の引用です。

真実の攻防 沖縄戦「集団自決」から63年 3部<13>

 

軍・行政が住民疎開に尽力

「南西諸島守備大綱」で詳細な指示

picture 今年6月23日の「慰霊の日」、沖縄県南部にある摩文仁の丘の「平和の礎(いしじ)」に刻まれた戦没者の前で手を合わせる遺族(敷田耕造撮影)
 沖縄の地で米軍を迎え撃つ日本軍は、敵の圧倒的な攻撃力をいかに封じ込め、反撃するかに心を砕くとともに、沖縄県民の疎開にも配慮した。

 

 軍が沖縄県庁と疎開計画を立案したのは昭和十九年の夏ごろから。重点を置いた島外疎開については、戦闘開始までに沖縄本島約十万人、八重山群島約三万人が九州・台湾に避難できた。

 一方で、疎開住民を輸送する船舶の不足、疎開先の受け入れの限界などの事情から、軍は島内疎開も視野に入れていた。この一環として十九年暮れに策定されたのが「南西諸島警備要領」。その特徴と経緯を、沖縄守備隊第32軍高級参謀、八原博通・元陸軍大佐の著書『沖縄決戦』(読売新聞社、昭和四十八年)から、紹介する。

 〈本要領中、最も注意すべきは、住民を当然敵手にはいるべき本島北部に移すことであった。一億玉砕の精神が、全国土に横溢(おういつ)していた当時、これは重大な決断であった。私は、軍司令官に相談申し上げた。「サイパンでは、在留日本人の多くが玉砕精神に従って、軍とともに悲惨な最期を遂げた。しかし沖縄においては、非戦闘員を同じ運命を辿(たど)らせるべきでない。アメリカ軍も文明国の軍隊である。よもやわが非戦闘員を虐殺するようなことはあるまい。もし島民を、主戦場となるべき島の南部に留めておけば剣電弾雨の間を彷徨(ほうこう)する惨状を呈するに至るべく、しかも軍の作戦行動の足手纏(まと)いになる」といった主旨を述べた。こういうと、一見語勢が強いようだが実はそうではなく、私も内心軍司令官のお叱りを受けるのではないかと、声をひそめて申し上げたのであった。ところが、軍司令官は、よく言ってくれたとばかり、直ちに裁断を下されたのである〉

 戦闘に参加・協力できる県民を除いて六十歳以上の老人、国民学校以下の児童とその世話をする女子は十数万人と、八原参謀は読んだ。だが、米軍の日増しに激しくなる空襲や家族がバラバラになることを嫌い、北部疎開は思うように進まなかった。結局、五万人ほどが北部に疎開した

 着任して間もない島田叡知事は沖縄県民の食料確保のために、わざわざ台湾総督府に出掛け談判した。結果、台湾米約十万袋を獲得し、この海上輸送にも成功した。

 六月上旬、東京・目黒の防衛省防衛研究所の戦史資料室を訪ねて、「軍命」「沖縄戦」「第32軍」の中から、三十点余りの資料を閲覧した。八原参謀の『沖縄決戦』の下書きとなったノートのコピーや、米国から戻された作戦資料などもあったが、南西諸島警備要領そのものはなかった。

 ただ、沖縄のジャーナリスト、上原正稔氏が翻訳・編集した『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』(三一書房、昭和六十一年)に掲載されている「南西諸島守備大綱」が、この南西諸島警備要領と同一のものと推定される。

 タイトルが違うのは、米軍が押収した日本軍機密文書の英訳を上原氏が日本語に直したものだからだ。『沖縄戦アメリカ軍戦時記録』によれば、極秘扱いのこの文書は、「閣議決定による国家総動員法の要旨に基づき、球一六一六部隊(第三十二軍司令部)牛島満司令官及び、沖縄県知事、鹿児島県知事の命令により、次の付属文書を提出する」という文から始まっている。その内容は、八原参謀の手記と重複するものだが、「南西諸島守備大綱」の方がより住民の疎開について詳細な指示がなされている。日本軍が駐屯した島の島民への指示も記載されている。

 「船舶の事情により、予期される戦闘地区から事前に疎開できず、しかも、軍隊のいる島の島民は、敵軍の砲撃の被害を少なくするために、それぞれ身を守るための壕(ごう)を掘らねばならない

 また、「(住民の)混乱を避け、被害を少なくするために、島民を適当な場所に疎開、あるいは、離島に疎開させること」とも記している。

 専門家によれば、避難壕を造ることや安全な場所に島民を誘導するという仕事は、村長、助役ら行政担当者と、戦闘部隊を後方から支援する基地隊が中心になって行うという。つまり、軍も行政も住民保護に心を砕いたのである

 こうした事実を踏まえれば、精神的に限界状況にあった住民が集団自決に踏み切ったことを取り上げて、「日本軍は住民を守らない」などという左翼の主張がいかに的外れで、「反日運動のために捏造(ねつぞう)されたスローガン」にすぎないかが明白になる。

 実際は、全国各地から召集された日本人がわずかな武器を手にして、日本を、そして沖縄を守るために貴い命をささげたのである。もし、日本軍が沖縄に一兵士も送らなかったならば、果たしてどうなっていただろうか。北方領土や樺太がソ連領になったように、沖縄もまた米国の一部になっていたかもしれない。

(編集委員・鴨野 守)(世界日報掲載:6月29日)

 

【おまけ】

下記動画、「you cube で見る」をクリックすると再生できます。

 

最初に「北山(ニシヤマ)に集合」と言ったのは安里巡査の相談を受けた赤松隊長の助言であり、少なくとも「命令」ではない。 それが最終的に赤松隊長の自決命令に)変化していく過程は、まるで伝言ゲームのようである。(伝言ゲームで自決命令など出すはずはなく、それを実行する人もいない)

上記動画で「巡査」というのは、安里巡査のこと。

島外の出身で渡嘉敷島に新しく赴任した安里巡査(戦後比嘉家の養子となり比嘉喜順と改姓)は、島民に避難場所を指示するほど島の地形に精通していなかった。

本島から渡嘉敷島に赴任したばかりの若いおまわりさんが、島を取り囲んだ米軍の「鉄の暴風」に遭遇し、住民を避難させるため悪戦苦闘する。 

安里氏は渡嘉敷島の「集団自決」当時、島に駐在した警察官だが、「鉄の暴風」の著者の太田良博記者は、安里氏が戦後沖縄に在住していたにもかかわらず、何故か安里氏には一度も取材をしていない。

 

渡嘉敷島の駐在であった安里巡査は、集団自決の現場を目撃した生き残り証人として最重要証人であり、曽野綾子氏の『集団自決の真相』には登場する。

改めて安里氏の証言を読むと、『集団自決の真相』やその他の文献で断片的に得た知識が一つの線となって繋がってくる。

下記に『集団自決の真相』に登場する安里喜順氏の関連部分を抜書きしておく。

渡嘉敷島「集団自決」の真相を解く鍵は安里喜順氏の証言の中にある。

曽野さんが、当時の渡嘉敷村村長だった古波蔵惟好氏に取材した時の様子を次のように記している。(『集団自決の真相』より抜粋)

安里(巡査)さんは」と古波蔵氏は言う。

「あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯が食える。まあ、警察官だから当然国家に尽したい気持もあったでしょうけど。軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」

安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということほないんですか」

「ありません」

「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」

「そうです」

「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」

「私へ来るんです」

「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」

「はい、ずっとです」

「じゃ、安里さんが一番よくご存じなんですか」

「はい。ですから、あの人は口を閉して何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」

古波蔵村長が軍から直接命令を受けることはない、と言い、あらゆる命令は安里氏を通じて受け取ることになっていた、と言明する以上、私は当然、元駐在巡査の安里喜順氏を訪ねねばならなかった。赤松隊から、問題の自決命令が出されたかどうかを、最もはっきりと知っているのは安里喜順氏だということになるからである。

曽野氏は、『鉄の暴風』(昭和25年初版)の著者が安里氏に一度の取材もなく記事を書いた様子を次のように書いている。

おもしろいことに、赤松大尉の副官であった知念朝睦氏の場合と同じように、安塁喜順氏に対しても、地元のジャーナリズムは、昭和四十五年三月以前に訪ねていないことがわかったのである。問題の鍵を握る安里氏を最初に訪ねて、赤松隊が命令を出したか出さないかについて初歩的なことを訊き質したのは、例の週刊朝日の中西記者が最初であった、と安里氏は言明したのである。

一方、地元マスコミだけでなく、本土新聞でも取り上げる証言者に安里氏の名前は出てこない。

小さな島の唯1人の警察官で、不幸にも「集団自決」に遭遇した最重要証人である安里氏を主題する地元マスコミは一社もない。

安里氏の証言は地元マスコミでは無視されている照屋昇雄さんや金城武徳さんの証言とはほぼ完全に一致している。

地元マスコミが避ける証言者の言葉に、真実がある。

沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行
第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 

比嘉 喜順(旧姓・安里、当時 那覇署渡嘉敷駐在所)

安里喜順氏の証言-2

赤松隊長に面会
 艦砲が激しくなって渡嘉敷の山は焼けてシイジャー(しいの木)だけが残っていた。
 阿嘉島にも水上特攻隊が駐屯していた。
 その頃渡嘉敷島には招集された防衛隊員がいたが、小さい島なので招集されても家族のことが心配になり、自宅に帰って家族の面倒を見ながらやっていた。
 防衛隊員は軍と一緒に仕事していたので情報はよく知っていた。その防衛隊員の人たちが敵は阿波連に上陸して次は渡嘉敷島に上陸して来ると言うので、私は慌ててしまった。
 赴任してまだ間がなく現地の情勢も良く分からない頃だったので、米軍が上陸して来たら自分一人で村民をどのようにしてどこに避難誘導をしようかと考えたが、一人ではどうする事もできないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。
 赤松部隊の隊長は民家を借りていたが、昼は海岸の方に行っていた。その海岸は秘密地帯になっていたらしく、私は行ったことはなかった。
 赤松部隊は特攻を出す準備をしていたが艦砲が激しくなって出せなくなり、船を壊して山に登ったと言うことであったので、私は赤松隊長に会って相談しようと思いその部隊を探すため初めて山に登った。
 その時は大雨でしかも道も分からず一晩中かかってやっと赤松隊に着いた。その時、赤松部隊は銃剣で土を掘ったりして陣地を作っていた。私はそこで初めて赤松隊長に会った。

住民の避難誘導の相談


 このような状況の中で私は赤松隊長に会った。
 「これから戦争が始まるが、私達にとっては初めてのことである。それで部落の住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか」と相談した。すると赤松隊長は、「私達も今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか靜かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐ部落に引き返した。
 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、「なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう」と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。部落から避難して行くときは大雨であった。
 私が本島にいた時もそうであったが、その頃は艦砲や空襲に備えてそれぞれ防空壕や避難小屋を作っていた。私が渡嘉敷に赴任する前から渡嘉敷島の人たちは、恩納河原に立派な避難小屋を作ってあった。
 私は恩納河原にこんな立派な避難小屋があることを知らなかった。避難して行ったところは恩納河原の避難小屋の所ではなく、そこよりはずっと上の方で、赤松部隊の陣地の東側であった。部落を出発したのは夜で、しかも大雨であった。真っ暗闇の中を歩いてそこに着いたときには夜が明けていた。その時部落の人たちのほとんどが着いて来ていたと思う。避難して来た人たちの中には防衛隊員も一緒にいた。

渡嘉敷島の玉砕
 私は住民の命を守るために赤松大尉とも相談して、住民を避難誘導させたが、住民は平常心を失っていた
 空襲や艦砲が激しくなってから避難しているので、部落を出発する時からもう平常心ではない。
 集まった防衛隊員達が、「もうこの戦争はだめだから、このまま敵の手にかかって死ぬより潔よく自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい」と言い出して、村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようという事になった。
 私は住民を玉砕させる為にそこまで連れて来たのではないし、戦争は今始まったばかりだから玉砕することを当局としては認めるわけにはいかないと言った。しかし、当時の教育は、「生きて虜囚の辱めを受けず」だったので、言っても聞かなかった。
 そこで「じゃあそれを決行するのはまだ早いから、一応部隊長の所に連絡をとってからその返事を待って、それからでも遅くないのではないか」と言って部隊長の所へ伝令を出した。
 だがその伝令が帰って来ないうちに住民が避難している近くに迫撃砲か何かが落ちて、急に撃ち合いが激しくなった。
 そしたら住民は友軍の総攻撃が始まったものと勘違いして、方々で「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」と始まった。その時、防衛隊員は全員が敵に遭遇した時の武器として、手榴弾を持っていたと思う。
 その手榴弾を使って玉砕したが、幸か不幸かこの手榴弾は不発が多く玉砕する事ができない人たちがいた。
 玉砕できなかった人たちが集まって、友軍の陣地に行って機関銃を借りて自決しようと言うことになって、自分たちで歩けるものは一緒に友軍の陣地に行ったが、友軍はそれを貸すはずがない。そこでガヤガヤしているうちにまた迫撃砲か何かが撃ち込まれ、多くの人たちがやられた。
 その時友軍に、「危険だから向こうに行け」と言われて、元の場所に帰ってきた。
 その頃は全員の頭がボーとして何も考える事ができず、死のうが生きようがどうでもいいと言う気持ちで近くの広場で寝ていた。
 その時自決するチャンスを失ってしまってそのままになった住民も多かった。

避難生活
 あの広場で玉砕してから2、3日は飲まず食わずでいたと思う。それから段々と集まってきた場所が、あの避難小屋を作ってあった恩納河原であった。
 それからは避難小屋での生活が始まった。山の畑を耕したり、芋を作ったり、ソテツで澱粉を作った りして食いつないでいたが、小さい離島なので、持っていた食料も底を尽き、山のソテツも取り尽くしてしまい、食料を探すのに必死だった。その頃船  が沈められて、海岸にはよくメリケン粉や缶詰などが流れ着いていたので、それを拾って食べたこともあった。
 渡嘉敷港の近くに友軍の食糧を積んであったので、私が赤松隊長に相談して防衛隊員などから力のある人を集め、その食糧を取ってきて友軍と民間で分けたこともあった。
 赤松隊長は、「私たちは兵隊で戦って死ねばいいが、皆さんは生きられるだけ生きて下さい」と言って、自分たちの味噌や米を住民に分けてあげたりしていたこともあった。
 米軍が上陸してからは、本島との連絡は全くできないので、私は赤松隊に行って情報を取りそれを住民に伝えていた。
 七、八月頃になったら米軍からビラがばら撒かれた。それには「もう戦争は終わったから山から降りてきなさい」と書いてあった。

 渡嘉敷島の住民の中にも、伊江島の住民の捕虜から情報を聞いて早く投降した人たちもいた。
 そのとき私も軍と一緒に投降した。(沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行 第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 P768)

(昭和63年2月8日採話)

                     ◇

この証言記録は戦後43年を経過した昭和63年に採話されている。

改めて説明するまでもなく、赤松隊長が自決命令を出したという主張が真っ赤な嘘であるということが、この証言からわかる。

何よりも、仮に、軍の命令による自決なら、自決に失敗した住民は当然「命令違反」で処刑の対象であったはずだ。 

ところが、7、8月ごろまで赤松隊長と食料の分け合いをしていた事実や、情報交換をしていた事実から、軍の命令による自決が、嘘であることは自明である。 

軍命説は、後年になってからの援護金申請のための方便であることが証明されているが、それを証明したのが、軍命説派である石原昌家沖国大名誉教授の調査によるというのは、いかにも皮肉である。

安里巡査の証言が、最重要だという理由は、安里巡査の当時の年齢と職務にある。

「集団自決」の生き残りは老人と子供が多かったため、既に物故した人が多かったり、当時幼かったため後の証言が他人の影響を受け信憑性に欠ける点が指摘され、それが真相解明の大きな妨げになっている。

更に問題を複雑にしているのは、「集団自決」の関係者が血縁・地縁で何らかの繋がりがありそれが証言者の口を重くしているという点である。

それに援護金支給の問題が絡むと、今でも黙して語らないお年寄りが多数いると聞く。

その点、当時渡嘉敷島の巡査であった比嘉さんは信憑性のある証言者としての条件を全て具備していた。

安里(比嘉)巡査は本島から赴任したばかりで渡嘉敷島の血縁社会には無縁の「よそ者」であり、、島の血縁・地縁社会とはつながりの無い新任の警察官だった。 従って安里巡査に地域共同体の呪縛はない。

安里巡査は、親族に「集団自決」のいない証言者であり、赴任当時29歳という年齢的にも、村の指導的立場の警察官という立場からいっても、生存者の中で最も信頼のできる証言者のはずだった。

これだけの証言者としての条件を具備していながら、しかも戦後一貫して沖縄に在住しているのにもかかわらず、地元マスコミで比嘉(安里)さんに取材したものは1人もいないというのも不可解である。

その理由は?

比嘉さんが渡嘉敷島で起きた集団自決の「不都合な真実」を知っていたからである。

 

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