狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

★カメジローは不屈の人か、それとも卑屈の人か

2021-07-10 14:25:48 | ★改定版集団自決
 

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続・沖縄住民「スパイ容疑虐殺」の真相 沖縄人スパイはいた!2008-12-22 の引用です。

小林よしのり著『新ゴーマニズム宣言SPECIAL沖縄論』で、著者の小林氏が犯した唯一の過ちは、元人民党委員長・瀬長亀次郎氏を、「沖縄の英雄」と祭り上げて書いてしまったこと、である。 小林よしのり『沖縄論』を一読してまず目を引くのは、第19章「亀次郎の戦い」である。

小林氏と思想的にまったく逆の立場の瀬長亀次郎氏を絶賛している内容に誰もが驚くはずだ。

日本共産党の機関誌「赤旗」七月三日付の書評でも、『沖縄論』を肯定的に評価しているくらいだ。

沖縄左翼を取り込む意図があったのだろうが、沖縄左翼のカリスマともいえる瀬長氏を沖縄の英雄に祭り上げてしまったことは、沖縄左翼に媚びるあまり、ミイラ取りがミイラになってしまったの感がある。

瀬長氏は、米軍政府と戦っていた姿勢と、方言交じりで演説する語り口で「カメさん」と呼ばれて年寄りには人気があったが、「沖縄の英雄」は沖縄左翼とマスコミが作り上げた創作物語である。

瀬長氏は共産党が禁じられていた米軍統治下の沖縄で、人民党でカムフラージュした共産党員であり、当時ソ連や日本共産党から密かに資金援助を受けているとの噂があった。

そのため、CICが情報取得の為本人は勿論、長女瞳さんの身辺をかぎまわっていたらしく、沖縄住民にも共産思想が入り込んでくることに神経質になっていた。

瀬長氏が沖縄に残した負の遺産が、現在でも日本共産党、社民党そして地元政党の社大党が沖縄県議会で与党を占める沖縄の特異性である。

瀬長氏は日本復帰と同時に日本共産党に正式入党し、共産党公認で衆議院議員に当選し、日本共産党副委員長も勤めている。

米軍統治下の沖縄では、共産主義は禁じられていた。

だが、人民党という地元政党を隠れ蓑に共産主義者は増殖し続けていた。

1950年の朝鮮戦争や、中華人民共和国の成立等、「ドミノ現象」でアジア地域に共産主義が蔓延するのを恐れた米軍情報部は、

CICを中心に沖縄の共産主義勢力の監視に神経を使っていた。

米本国の政府高官が視察のため沖縄を訪問したとき、空港に出迎えにいったユースカー(在沖統治機関)の幹部が、同行した地元琉球政府の幹部を紹介した。

「こちらが、ミスターセナガです」

遠来の米政府高官に対し、歓迎の意をこめてにこやかに握手を求めて手を出したセナガ氏に対し、高官はアメリカ人らしからぬ奇妙な反応を示した。

「オー、ノー! セナガ」

と叫んだ件の高官、握手の手を引っ込めた。

隠れ共産党の瀬長亀次郎氏の「悪名」は米国本土政府の中にも知れ渡っており、空港に出迎えた「セナガ」氏に思わず握手の手を引っ込めたのだろう。

米政府高官に握手を拒否された哀れな男は、当時の琉球政府副主席・瀬長浩氏の「瀬長違い」であった。

米政府高官が本気で握手拒否をしたのか、それとも握手を求めた男が「セナガ」と聞いて、とっさに思いついたアメリカ人特有のジョークだったのか、今となっては確認出来ない。

だが、とにかく、当時の米軍が共産主義の蔓延に対し、いかに神経過敏だったか知る上で、そしてその指導者としての瀬長亀次郎氏を要注意人物とみなしていたかを知る上で、この逸話は実に興味深い。

厳しい監視、家族まで 瀬長氏の長女にもスパイ
2006年5月31日 
<米国の調査機関が1950年代、元沖縄人民党委員長で那覇市長、衆院議員を務めた故・瀬長亀次郎氏の長女・瞳さん(68)=カナダ在住=の周辺にスパイを送り、瀬長氏の健康状態や日常生活を探っていたことが30日までに、米国国立公文書館が保管する資料で明らかになった。同館は瀬長さんが「人民党事件」(54年10月)で逮捕された後、宮古刑務所に収監されていた55年3月7日、獄中から瞳さんに送った手紙の英語訳も保管。手紙は瞳さんに届いていない。米当局が瀬長さんの家族にまで監視を広げ、詳細な身辺情報を逐一探っていたことがうかがえる。

  瞳さんに関する報告資料は2種類。ともに「極東空軍司令部が報告」と記され、情報源は瞳さん、提供者は「極秘の情報提供者」と記される。
 情報収集日が1958年5月20日の報告は「瞳の情報では、父親は深刻な肝臓病で近く入院する」と記載。31日の報告は「瞳が言うには父親(瀬長さん)は退院して家に帰った。政治の本を書く約束をし、本を売って妻のフミさんを8月の原水爆総決起大会に参加させる資金を稼ぎたいと言っている」と記す。米当局は同年8月、東京・横浜でフミさんを撮影している。
 瞳さんは「父から仕事や政治の話を聞いたことはなく、出版計画も当時は知らなかった。なぜ私が情報源なのか理解できない。スパイをした人が父の復帰闘争を弾圧するために無理に作ったのではないか」と話している。
 瞳さんに届かなかった手紙の英訳には米国のCIC(諜報(ちょうほう)機関)の名称を記述。文面は「刑務所からあなたの活躍を期待と希望を込めて見守っている」と娘への思いが切々とつづられている。
 沖縄テレビは同公文書館から収集した資料も盛り込んだ番組を制作。31日午後4時から55分間、逮捕、投獄、市長追放と時代に翻弄(ほんろう)された瀬長さんと支えた家族のきずなを描く「カメさんの背中」を放映する。>

                   ◇

終戦後の米軍統治下の沖縄でCICが暗躍した様子は、『ナツコ 沖縄密貿易の女王』2005年文芸春秋社 奥野修司著)に、自らCIC要員として働いていた金城良安氏が赤裸々に語っている。 

米軍統治下の沖縄でCICの代理人になった者は、教員、財界人、政治家と多士済々であったという。

CICの活動が目立たなかったのは、MPが制服であったのに対し、CICは私服で活動し、当時の合言葉であった「琉米親善」を口にする善良な民間アメリカ人を演じていたからだという。

沖縄のCICはライカム(Rycom=琉球軍司令部)の管理下にあった。八重山民政府からCICに移った金城良安によれば、「八重山には3人ぐらいしかいませんでした。その下に協力者はたくさんいました。つまり情報提供者です。CICは密貿易そのものには関心がなかったのです。関心があったのは外からはいってくる人物です。スパイは密貿易船を使って移動したりしますからね。たとえば中国大陸から誰が来ているとか、そういうことには神経質になっていました」  ちなみにどんな情報提供者がいたのか、当時の軍政府に勤務したことのある人物に尋ねると、「当時の八重山には30人ぐらいおりましたかな。トップは学校の先生で次は財界人と政治家。なぜ協力したのかって? そりゃ、いろいろ便宜を図ってもらえるからだよ。あの頃の米軍は神様よ。もうほとんど死んだが、あのときCICに協力した者はみな大物になっているよ」  自らすすんで協力する人もすくなくなかったという。 CICは諜報活動はするが、基本的に密貿易の取り締まりはしない。 米兵がからんだ場合はCID(陸軍憲兵隊犯罪捜査部)が民警と一緒に動く。 CICもCIDも基本的には私服である。(『ナツコ 沖縄密貿易の女王』2005年奥野修司)

終戦後、CICに勧誘されて情報提供者になった住民のことは、よく聞く話だが戦時中に勧誘されてスパイになることは一か八かの大きな賭けであった。

 もし、日本軍が勝利をしていたら間違いなくスパイ罪で死刑は免れないからだ。

一方、アメリカの勝利の場合は将来の豊かな生活を保障されていた。

事実南方帰りを自称して住民の中に混じって生活していた者が、戦後米軍服を着用して米軍ジープを乗り回している姿を目撃し、その男はその後ハワイで裕福な生活をしていたといった伝聞談は多い。

だが、自他共に認めるスパイで、戦後も「琉球王」とよばれたスパイの親玉の記事が本人の顔写真付きで、古い「月刊沖縄ダイジェスト」の記事になっている。

米軍のスパイといわれ臨時琉球王

沖縄戦の、4月3日、美里村で捕虜になって以来、米軍に積極的に協力、降伏勧告放送もやり、沖縄本島の東西分断も進言、志喜屋孝信らの諮詢委員会ができるまでは「臨時琉球王」で、日本が勝てばスパイとして処刑確実という男がいた。 その名は首里生まれの多嘉良朝朋(当時70歳)。 米軍はそのお礼として昭和24年、米軍政府のセーファ大佐から、コカコーラの民間への一手販売権を与えるーと口約束されたが、中城公園売店でのコーラ横流し事件が摘発されて、おあずけのまま、不遇のうちに死んだ。>(「沖縄事始・世相史事典」月刊沖縄社)

                   ◇

この「臨時琉球王」は、コカコーラの一手販売権をという美味しい果実を手にする前に悪事が露見して哀れな結末を迎えた。

だが、終戦直後には、通常では考えられないようなアメリカの大会社の製品の一手販売権手にした人が多くいた。

それは戦時中彼らがスパイとして米軍に協力した報酬だという噂を良く聞いたが、それが「火の無いところに煙は立たぬ」だったのか、それとも単なる噂に過ぎなかったのか、今では事情を知る者のほとんどが墓場で眠っており真実を知る術はない

 
■昭和20年3月26日の座間味■
 時は38年前の座間味島にさかのぼる。
 昭和20年3月26日日、米第77歩兵師団は、慶良間諸島の阿嘉島、慶留間島、座間味島へ上陸を開始する。そして逃げ場を失いパニック状態に陥った座間味島の住民172人がその日に集団自決をしている。

 
 3月26日の米軍の動きは実にあわただしいかった。
 先ず米合同遠征部隊第51機動部隊司令官ターナー海軍中将が、南西諸島海軍軍政府首席軍政官に任命され、慶良間諸島に最初の軍政府(陸・海合同)が設置された。
 同じ日に米軍は、チェスター・ニミッツ米海軍元帥の名で米国海軍軍政府布告第一号(いわゆるニミッツ布告)を公布した。この「ニミッツ布告第一号」は沖縄に於ける日本政府の統治権の行使を停止し、その居住民に関するすべての政治及び行政責任が、占領軍司令官、米国海軍元帥であるニミッツの権能に帰属すると宣言するものであった。
 つまり日米両国がまだ交戦中であるにも関わらず、米軍は、「ニミッツ布告第一号」の公布により、沖縄の住民を日本の統治から勝手に分離したことになる。   これは沖縄が日本の一県であるという事実を無視し、結果的に沖縄を日本軍の占領地域として扱ったことになり、沖縄住民を「解放」して“準アメリカ人”として米軍政府の施政権下に置いたことになる。 
 米軍は沖縄攻撃の前から、沖縄は日本軍に侵略された植民地であり、米軍は沖縄にやってきた解放軍であるという姿勢を取っていた。 

■スパイ容疑を生んだニミッツ布告■
 以後ニミッツ布告は「布令」と呼ばれ沖縄の憲法のような存在となり、占領下の沖縄住民の言動を規制し、その影響は後に問題になる『鉄の暴風』(昭和25年刊)にも大きな影を落としてくる。

この布告のため、米軍の指令を受け住民が、山中や壕に隠れている日本兵や住民に投降勧告し、そのためスパイ容疑で処刑されるといった悲劇を生んでいる。 
 交戦中の敵国の住民を、自国の住民として行動するように指示するこの布告に、国際法を知らない島民たちは翻弄されることになる。

米軍側の記録によると、翌4月の初旬には、戦火の被害の少なかった沖縄本島の北部地域では民間人による米兵相手の慰安所が営業を開始している。 
 捕虜になった住民を、食料を対価に「軍作業」を手伝わせたり、投降勧告の使者にさせたりすることは、沖縄県民を日本国民とは看做していない措置であり、ハーグ陸戦条約等に違反していると考えられる。 


 このような米軍の国際法違反と思われる措置がなければ、「スパイ容疑」による住民処刑の悲劇はもっと少なかったのではないか。

 特に「ニミッツ布告」の次の条項は、投降した住民を“準米国民”と規定し、日本軍に「スパイ疑惑」を持たす行為を強いることになった。

三 各居住民は、本官又は部下指揮官の公布するすべての命令を敏速に遵守し、本官下の米国軍に対して敵対行動又は何事を問わず日本軍に有利な援助をせず、且つ不穏行為又はその程度如何を問わず治安に妨害を及ぼす行動に出てはならない。

六 本官または本官の命令によって解除された者を除く全ての官庁、市庁、及び町村又は他の公共事業関係者並びに雇用人は本官又は特定された米国軍士官の命令の下にその職務に従事しなければならない。

 余談だが米占領下の沖縄で育った者にとって、「布令」という言葉は一種の自嘲の響きで記憶に残っている。 
 昭和25年8月、琉球立法院は労働三法を制定するが、米民生府は「布令116号」の発布により基地関連の労働者に労働法の適用は禁止とされ、労働組合の結成も米民政府の許可制となる。

 
 「解放軍アメリカ」という幻想がもろくも打ち砕かれ、民主主義の庇護者と思われた米軍が、実は「布令」という超法規を振りかざす独裁的権力者であるという現実が露呈されるのが、この「布令116号」が発布された昭和28年前後のことである。    
 「布令」により資格を与えられた弁護士や裁判官そして同じく「布令」で設立された琉球大学のことを称して、当時は「布令弁護士」、「布令大学」と自嘲的に呼んでいた。 
 沖縄人を呪縛した「布令」は、昭和20年3月26日、米軍が慶良間上陸と同時に公布された「ニミッツ布告1号」にその根源をたどる。
 当然、『鉄の暴風』の発刊もこの「布令」の呪縛を離れては考えられなかった。

■「参謀長」と呼ばれた男■
 当時、沖縄の最高学府であった師範学校を出た者は村の誇りであり、現在の大学卒などとは比べ物にならないほどの尊敬の的だったが、戦後GHQ が軍国教育の温床として解体の第一の目標にしたのが、師範学校制度だったという。
 師範学校の寮生活は悪名高き陸軍内務班そのままで、その卒業生たちが軍国主義教育の担い手となり、教え子を続々と戦地に送り続けていた。 師範学校は、形式主義、権威主義、など融通のきかない所謂「師範タイプ」を多数排出した。 
 教員は村中の尊敬の的であっが、その一方、軍人より軍人らしい山城安次郎教頭のような教員も多くいた。

 梅澤隊長に「自決するな」と断られた野村村長ら村のリーダー四人は、その後相談の上自分らの判断を「軍の命令」として村内に指示をしたといわれているが、その四人は自らも「自決」を決行し全員死亡した。
 宮平一家に軍刀を振りかざし「殺す」と迫った山城教頭は、当時「参謀長」と呼ばれていた。
 戦後座間味島の語り部となった宮城恒彦氏の著書『潮だまりの魚たち』の中の「教頭先生は参謀長」というくだりで山城教頭のことを述べている。 
 

住民が日本兵が見張りをする水場で飲み水を求めると「参謀長の許可がなければダメだ」と拒否されるが、話し声を聞きつけて現れた「参謀長」と呼ばれる男が水汲みを許可してくれる。 
 警備の日本兵にも「参謀長」と呼ばれ、彼らを顎で指示していた男が山城安次郎教頭であった。


 「参謀長」と呼ばれた教頭先生は銃剣を構えた日本兵より「権力」を持っていた。 当時の沖縄ではこのように軍人より軍人らしい民間人は決して特異な例ではなかった。 
 昭和19年頃の沖縄では毎月数回の「日米戦争決起大会」(県民大会)が開催され、演壇では軍人より過激な民間人が檄を飛ばすことも珍しくはなかった。


■集団の狂気■
 時代が変わっても、人間が集団で行う狂気の行動に変わりはない。

平成17年、沖縄タイムスと琉球新報は、狂気に満ちたキャンペーンを張って、9月29日の「県民大会」(“11万人”集会)の動員に県民を追い込んだ。 地元テレビを含むマスコミは一斉に横並びで、これに反対するものは県民にあらず、といった論調で、職場でも異論を吐くものは、「あいつはヤマトかぶれ」だと、後ろ指を指されるような異常事態だったと知人の一人は当時を振り返る。

以下は評論家篠原章氏の「批評.COM  篠原章」からの引用である。

仲宗根源和と瀬長亀次郎 —カメジローは正義の人だったのか?

仲宗根源和の個性的な琉球独立論

仲宗根源和は、戦中に沖縄県議に当選し、戦後初の沖縄の自治行政機関・沖縄諮詢会の委員を務めた本部出身の人物で、後年「沖縄独立論者」として名を馳せるようになったが、若い頃は東京で教員を務めていた。教員時代には非合法期の日本共産党に参加し、『無産者新聞』の発行人など重要な役割を担っていた。共産党時代の仲間である瀬長亀次郎、徳田球一、野坂参三、佐野学との親交も厚かったという。

仲宗根の痛快なカメジロー批判

痛快なのは、仲宗根の瀬長亀次郎批判だ。仲宗根が描くのは、昨今の「カメジローブーム」の下で知られる過大評価の瀬長像とはまるで違う、共産党員・社会運動家としてもダメダメな亀次郎だ。仲宗根は、「県民・人民のため」ではなく「共産党のため、ロシア(ソ連)のため」に亀次郎は働いているとの認識だった。

仲宗根によれば、カメジローは、初代沖縄副知事で戦前の琉球新報社長だった又吉康和の腰巾着だったようだ。そのおかげで、又吉と諮詢会委員長だった志喜屋孝信(初代沖縄知事・沖縄県立二中校長)、沖縄統治の責任者だったワトキンス少佐(海軍/James Thomas Watkins Ⅳ)との内輪の話し合いで県議にしてもらったとのこと。又吉の工作とちょっとした不正によりカメジローが県議になったことは間違いないところだろう。カメジローはさらに又吉に琉球新報社長の地位を与えられている。琉球新報の前身はうるま新報で、当時はまだ米軍の御用新聞だった。その後、保守派だった又吉とは袂を分かち、カメジローは日本共産党やコミンテルンの意向を受けて人民党を結党して政治家として「成功」する。世間に流布されるカメジロー観からは、こうしたダークな側面が抜け落ちているのは残念だ。

 

 

               ★

■那覇市長を辞任して、大政翼賛会事務局長に就任した當間重剛

個人的にはごく常識的な人物が、一旦なんらかのグループに属すると往々にして狂気に走る。そしてその背後に新聞の扇動がある場合が多いが、60数年前の沖縄も同じような状況にあった。

 米軍が慶良間諸島に殺到して猛攻撃を開始する約二ヶ月前の「沖縄新報」(昭和29年12月8日)に「挺身活動へ 翼壮団長会議」といった見出しが躍っている。
 昭和19年の大詔奉戴日は10月10日の那覇大空襲の後だけに、県庁、県食料営団、県農業会などの各団体主催の決起大会各地で行われ、「軍民一如 叡慮に応え奉らん」、「一人十殺の闘魂」といった勇ましい見出しが紙面を飾っている。
 大詔奉戴日とは日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことで、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされ決起大会が行われていた。

 沖縄では、これらの戦意高揚運動は、大政翼賛会沖縄県支部を中心に行われ、初代支部長には着任したばかりの早川元知事が努めた
 だが、驚くべきことに、当時の那覇市長であった当間重剛氏が、市長を辞職してこの会の事務局長を務めている。 現在の感覚でいうと那覇市長の方が一民間団体である大政翼賛会沖縄支部の事務局長より、重責であると思うのだが、当時の当間氏は、那覇市長として市民のために働くより、国や県のためになる大政翼賛会に意義を見出したようである。
 当間重剛氏は、戦後、米軍に重用され米軍占領下の琉球政府で、主席(知事に相当)を務めることになり、日本復帰直前の昭和44年には「沖縄人の沖縄をつくる会」を結成して琉球独立党のリーダーになるのだから、人間の運命は分からないものである。
 そして、翌昭和17年には、大政翼賛会の実働部隊として翼賛壮年団が結成され、平良辰雄氏が、初代団長に就任して県民鼓舞のため先頭を切ることになる。  
 平良辰雄氏も戦後米軍に重用され、沖縄群島知事(主席の前)や立法院議員(県会議員に相当)を努めている。 
 GHQは、戦前活躍した有能な人物を公職から追放する「公職追補」という愚策を断行したが、沖縄占領の米軍は、当間重剛氏や平良辰雄氏のように、戦前軍国主義を煽ったと思われる指導者たちを戦後も政財界に重用しており、日本全土を吹き荒れた公職追放は沖縄では行われなかった。

ところが、戦前の大政翼賛会沖縄支部の幹部を務め、県民を戦争に煽った著名人が他にもいた。

しして、その正体を隠したままにしている。

果たしてその正体は?

つづく

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コメント (3)

知事は「不屈」だったのか

2021-07-10 09:36:00 | トンデモ検事の糾弾

 

 
 
 
 

「翁長県政」を検証する(上)「公約貫く」は本当か

2018年08月16日 | 沖縄・翁長・辺野古・...

     

 人の評価はもともと主観的なもので、その当否を問うことにあまり意味はありませんが、政治家の政治活動に対する評価はそうはいきません。それが正当な評価かどうかは、事実に基づいて検証される必要があります。なぜなら、その評価が「歴史的事実」として後世に残るからです。

  亡くなった翁長雄志沖縄県知事に対し、「最後まで公約貫く」(9日付琉球新報)、「沖縄の自治と民主主義を守るために政府と対峙し続けた」(9日付沖縄タイムス)などの賛辞が送られています。その評価ははたして事実に基づいているでしょうか。
 翁長県政の最大の課題だった新基地建設(辺野古・高江)に限って、翁長氏の「公約」と「実際の行動」を比べてみましょう。

 <翁長氏の公約> 

〇「新しい知事は埋め立て承認撤回を求める県民の声を尊重し、辺野古新基地は造らせません」(2014年9月13日、出馬表明時に支援団体と交わした「沖縄県知事選にのぞむ基本姿勢および組織協定」、写真左) 

〇「今回の知事選は仲井真さんの承認に対する県民のみなさんの意思をはっきり示すことだと思っている。県民はおそらく、取り消しも撤回もぜひやってほしいと思っている」(2014年9月13日、出馬表明時の記者会見。同2014年9月14日付沖縄タイムス) 

〇「撤回は、法的な瑕疵がなくても、その後の新たな事象で撤回するということですが、知事の埋め立て承認に対して、県民がノーという意思を強く示すことが、新たな事象になると思います」(2014年10月21日、政策発表時の記者会見。同10月22日付しんぶん赤旗)

〇「(高江のヘリパッド建設について)オスプレイ配備撤回を求めていく中で、連動して反対することになる」(同、政策発表時の記者会見)

〇「私が知事になれば、承認にいたった過程を検証します。…瑕疵が見つからない場合には、新たな事象から…承認撤回の選択肢が出てきます。新たな事象とは、辺野古新基地に反対する私が知事選に勝つということです」(公示直前のインタビュー。2014年10月29日付しんぶん赤旗)

〇「法的瑕疵がない場合も、私が勝利したならば承認撤回の条件になる」(知事選中の新聞インタビュー。2014年11月12日付琉球新報)

〇「法的に瑕疵があれば取り消し、そうでなければ新たな事情の変化で撤回につながっていく」「知事選で示された民意は埋め立て承認を撤回する事由になると思う」(2014年12月17日、当選後の初の議会答弁。同12月18日付琉球新報)

〇「県の有するあらゆる手段を用いて、公約実現に取り組む」(2015年2月25日、2月定例議会答弁。同2月26日付琉球新報)

<翁長知事の実際の行動>

●2015年3月5日 埋立工事のためのブロック設置によるボーリング調査を事実上容認
 「翁長知事は新たなブロック設置について見解を問われ『事実確認できていない』と言葉少なに話した。政府の出方をうかがいつつ、自身の言動に慎重になっている」(同3月6日付琉球新報)

●2015年11月17日 大型ブロック投入による岩礁破砕を黙認
 「岩礁破砕がなされたかについては残念ながら判断することはできない」(2015年11月17日の記者会見。同11月18日付沖縄タイムス)

●2016年3月4日 3つの訴訟をめぐり、安倍政権と「和解」(写真中)。
 安倍首相は同年3月4日の記者会見で、「現状のように国と沖縄県双方が延々と訴訟合戦を繰り広げている…そんなことは誰も望んでいない、との裁判所の意向に沿って和解を決断した」(同5日付琉球新報)とし、「自民党沖縄県連幹事長の具志孝助県議は『訴訟合戦が延々と続くよりは、結果として(移設への)早道かもしれない』と指摘」(同5日付朝日新聞)。

●2016年8月31日 政府との作業部会で辺野古の陸上工事を容認
 沖縄平和運動センターの山城博治議長は、「『新基地建設のために兵舎を移す。埋め立てだけが新基地建設ではない』と強調。県の姿勢には納得できないとし、『現場にいる立場としては大きな疑問が残る』と不快感をあらわにした」(同9月1日付沖縄タイムス)

●2016年11月28日 記者会見で「高江ヘリパッド容認」
 「知事ヘリパッド容認 事実上の公約撤回」(2016年11月29日付琉球新報1面トップの見出し、写真右)

●2016年12月26日 「承認取り消し」を自ら取り消し
 「承認取り消しを取り消すならば、同時に撤回に踏み切るべきだ。…撤回まで踏み切らなければ、これまで知事を支えてきた県民への明白な裏切りだ」(仲宗根勇・うるま市具志川九条の会共同代表。同12月27日付沖縄タイムス)

●2017年11月3日 埋立石材搬入のため、奥港の使用を許可していた(9月)ことが判明(同日付沖縄タイムス)。その後、本部港、中城湾港の使用を相次いで許可
 「これまで知事を正面から批判したことはないが、今回の件(奥港の使用許可―引用者)を受け、覚悟を決めて翁長県政と向き合う必要が出てくる。…あらゆる手法で建設を阻止すると知事はこれまで主張してきた。それは一体何だったのか。これでは工事を止めることはできない」(山城博治氏。同11月11日付琉球新報)

●2018年1月 沖縄タイムスが「県、辺野古代替案に着手」(1日付)、琉球新報も「知事、代替案提示へ」(4日付)。
 「翁長雄志知事はこれまで『(辺野古移設が)嫌なら代替案を出せというのは理不尽だ。日本の政治の堕落だ』と県による代替案の提示には消極的だった」(1月4日付琉球新報)

●2018年7月13日 土砂投入前の「サンゴ移植」を容認
 「移植されれば工事が進み、知事の承認撤回の方針に『逆行する』との批判の声も上がっている。…県が許可の判断を防衛局に伝えた13日、工事に反対する市民が県庁を訪れ、約5時間にわたって県水産課に抗議した」(7月14日付琉球新報)
 「そもそも移植がうまくいかないのは分かりきっており、移植自体が免罪符にしかならない。…知事は埋め立て承認を撤回すると宣言し、まだしない状況で許可した。県民は疑問に思うのではないか」(桜井国俊沖縄大名誉教授、同琉球新報) 

●2018年7月27日 「撤回」へ向けた聴聞開始を表明当選から3年8カ月。まだ「撤回」されていません。

 付け加えるなら、新基地反対の市民を「本土から来た機動隊員」と対比して「知事は沖縄の自治権、民主主義を繰り返し問うた」とする翁長氏への賛辞がありますが(9日付沖縄タイムス)、「本土」から機動隊を呼ぶのは県公安委員長で、その任免権を持つのは知事です。翁長氏には公安委員長を通じて「本土」からの機動隊派遣を止めさせる権限(「あらゆる権限」の1つ)があります。
 にもかかわらず、そして市民から強く要求されたにもかかわらず、翁長氏は一貫して辺野古・高江の機動隊派遣に反対せず黙認してきました。

 2016年8月25日、翁長氏は定例記者会見で、「500人とも800人ともいわれる機動隊の数は過剰な警備であることは間違いない」(同26日付沖縄タイムス)としながら、「県外の機動隊員が、翁長知事が任命権を持つ県公安委員会の要請で派遣されている点について、『その意味では大変忸怩たるものがある』と述べた」(同26日付琉球新報)だけで、容認したのです。

 「辺野古新基地反対の公約を貫いた」といわれますが、「新基地反対」はスローガンであり、肝心なのはそのスローガンを実践するための具体的な方策(政策)です。政治家が公約を守ったかどうかが問われるのはスローガンではなく実際の行動ではないでしょうか。

 上記の「公約」と「実際の行動」を比較して、これでも「最後まで公約を貫いた」「政府と対峙し続けた」と言えるでしょうか。
 こうした事実を捨象して、「闘う知事」(9日付沖縄タイムス)と賛美することが公正な報道といえるでしょうか。

                 ★

知事は「不屈」だったのか

 米軍基地問題を全国に発信した功績は大きい。だが、普天間飛行場の辺野古移設を進める安倍政権と対峙し「不屈を貫いた」という評価は妥当なのか。翁長雄志知事の死という感情を揺さぶられる出来事の直後だからこそ、翁長県政の3年8カ月を冷静に振り返ることも大切だ。


 辺野古移設阻止を公約に掲げる翁長知事の就任後、安倍政権は沖縄振興予算を減額し、上京した翁長知事と首相の面会を拒否するなど、翁長氏を「冷遇」したと一部で批判されている。

翁長氏の「不屈」という評価は、そうした安倍政権との関係性から導き出されたようだ。
 しかし沖縄振興予算をめぐっては2013年、安倍首相が仲井真弘多前知事に対し、翌年度から8年間、3千億円台を維持することを約束した。翁長氏の就任後も、その約束は守られている。翁長県政になって予算が減額されたのは、自由度の高い「一括交付金」の執行率が低かったことなどが理由とされており、翁長氏への個人的な報復ではない。


 現在の沖縄を見ると観光が絶好調で、求人倍率も復帰後最高を記録するなど、好景気に沸いている。安倍政権は、仲井真前知事時代に要請を受けた那覇空港の第二滑走路建設をはじめ、石垣島の港湾整備など、観光インフラの整備を着実に進めている。こうした事実は、県政がどうあれ政権として沖縄振興を重視している姿勢の表れだ。


 首相が翁長知事の就任当初、面会を拒んだとされる件に関しては、そもそも知事と首相が頻繁に会合を重ねること自体が異例だという事実を指摘すれば足りるのではないか。

実際にはさまざまな場で、両者の会談は何度が行われている。沖縄担当相や外相らは来県するたびに知事を訪問、意見交換しており、政権として翁長氏を無視したということもない。


 国策である辺野古移設に反対することが、翁長氏にとって大きなプレッシャーであったことは容易に想像できる。公約のために「命を削った」と形容されるのはそのためだ。だが翁長氏が「不屈さ」を賞賛されるほど、政権から耐え難い圧力を受け続けたということがあるのだろうか。埋め立て承認取り消しをめぐる訴訟で勝訴し、司法判断を得た政権が移設作業を粛々と進めることは、いじめでも圧力でもないだろう。


 辺野古移設に反対する姿勢を取り続けることで、翁長氏は反対派から称賛され、沖縄ではむしろ支持基盤を強化できた。政権に抵抗することはデメリットばかりではなかったはずだ。


 沖縄で「不屈」の政治家として知られるのは米軍統治下での那覇市長や衆院議員などを務めた瀬長亀次郎氏(1907~2001)だが、瀬長氏の場合は投獄や、市長時代の財政的圧迫などを経験している。


 普天間飛行場の移設が実現できなければ、宜野湾市民は危険な状況にさらされ続ける。日米同盟に亀裂が走る懸念もある。そうした問題の最終的な責任を負わなくてはならないのは安倍首相であり、翁長知事ではなかった。辺野古移設は翁長氏にとって一米軍基地の位置をめぐる問題だったが、安倍政権に対しては、東アジアや日本全体の安全保障も問われていた。両者の責任は質も重みも違う。単純に両者を「対峙」させるだけでは本質を見失う。


 翁長氏が歴史に名を刻む政治家であったことは間違いない。沖縄の政治家として、支持者の意思を体現し、辺野古移設阻止という公約の実現に邁進(まいしん)した。その真摯な努力には敬意を表したい。しかし視野や視点を変えれば、また違う評価があることも事実である

コメント

マッカーサーと会見した沖タイの座安専務

2021-07-10 07:49:43 | ★改定版集団自決

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■良書紹介

「自立自尊であれ」

著者:OXメンバー

本書の著者名は「ОⅩメンバー」とする。

メンバーは沖縄県庁のОBとマスコミ関係者あわせて5人。「ОⅩ」は沖縄伝統闘牛の牡牛をイメージした。元沖縄県知事仲井真弘多の人物像と、仲井真県政の仕事を読者に伝えるのが主眼。チームとして2年半かけて取材し、苦闘した本に完成した共同作品である。

従って、個々人の筆名よりもチームであることを優先して編著とした。すべては事実に基づき書かれた。

 

元沖縄県知事仲井真弘多が語る沖縄振興の現実

普天間基地移設問題、自立経済の確立

教科書では学べない、沖縄のリアリティがここにある。

自立自尊であれ

定価 880円

目次

第一章 奇跡の成果

第二章 理の人 情の人

第三章 強くやさしい自立型社会

第四章 基地問題の「解」

    1 普天間飛行場の危険性除去

    2 マスコミ不信

    3 返還地後利用推進法

    4 安全保障環境と防衛

               ★

世界日報「真実の攻防」から、沖縄タイムスの古い記事の紹介です。

沖縄タイムス1998年1月6日 朝刊 6面>

忘れ得ぬあの取材
比嘉敬さん
岸・高嶺会談
写真撮影に没頭 メモ忘れた
 入社したのは一九五〇年。新聞広告を見て応募したが、正直言って、新聞社なのかどうか、よく分からずに応募した。比嘉博さんら採用予定枠の二人はすでに決まっていたので、どうなるのか分からなかった。そこへたまたま通りかかった専務の座安盛徳さんが私の兄をよく知っているということで、机の上にあった紙に簡単な略歴を書かされて「あしたからすぐ来い」と言われた。

 翌日、座安さんと一緒に『鉄の暴風』の出版許可をもらいにライカムへ行ったことを覚えている。

 入社三年ほどで東京勤務になった。五七年六月十一日、日本規格協会理事長の高嶺明達さんを介して、訪米前の岸信介首相と本社の高嶺朝光社長の対談を企画することができた。明達さんは岸首相のブレーンの一人だった。

 取材では、写真が肝心といわれていたので、頭には写真のことしかなかった。フラッシュをたかずにバチバチやっていたら、岸首相が「そこは逆光だから、こっちにいらっしゃい」と明達さんを明るいところへ呼ぶなど、気を使ってくださった。

 写真撮影に一生懸命なあまり、メモを取ってなかったので、対談の内容はほとんど覚えてなかった。あとで「どんな話でしたかねえ」と社長に聞いたら、「君は取材に来て、メモも取らないのか」とこっぴどく怒られた。(談)(元沖縄タイムス社長・現琉球朝日放送社長)

                   ◇

上記記事で有黙すべきは、「鉄の暴風』の出版許可をもらいにライカムへ行った」というくだり。

『鉄の暴風』が沖縄タイムス独自の企画ではなく、米軍の企画を沖縄タイムスが代行したという情景がよみがえる。

発行権を有するシーツ司令長官は『鉄の暴風』は読み物とは面白いと周囲に購読を勧めるが、結局発刊を拒否する。

そこで座安専務一行は上京してマッカーサーの発行許可のお墨付きを得て、初版は朝日新聞から発行される。

発刊後、シーツ長官は病気を理由に沖縄司令長官を辞任し、米本土で軍関係の私立学校の校長などを務めるが、シーツ長官が『鉄の暴風』の発刊を拒否した理由は不明である。

 

<1998年5月26日 朝刊 6面>

人物列伝 沖縄 戦後新聞の足跡(21)

マッカーサー元師と会見
座安盛徳(10)
特ダネで現地米軍けん制
活字印刷にもめどつける
 ガリ版刷りでスタートした沖縄タイムスが活字印刷に移行したのは、創刊一周年を目前に控えた一九四九(昭和二十四)年六月五日の第五十六号から。ガリ版刷りでは六千部までが限界で、それ以上は原紙が切れたり、写りが悪くなったりするので、新たに原紙を切らなければならない。活字印刷への移行は避けられない状況だった。
 この活字印刷移行にめどをつけたのも座安盛徳だった。その年の五月、奄美大島名瀬市の印刷会社「自由社」を営む重江国雄が、沖縄で一旗揚げたいと活字と印刷機を持参した。その話を聞いた座安は「場所は提供するから機材を利用させてくれ」と申し入れ、沖縄タイムス社屋内に印刷所を設け、共同経営するという方向で話をまとめた。

 平版印刷機二台と活字八万個が持ち込まれ、創刊一年もしないうちに紙面を一新したのである。

 こうして次々と設備を充実させる中、翌五〇(二十五)年五月二日、座安は東京で米極東軍司令官マッカーサー元帥への会見に成功する。同年五月六日の沖縄タイムスは特ダネとして一面で大々的に報道、社説でも扱っている。随行記者などいないから、記事を書いたのはもちろん当時専務の座安自身である。

 その日の紙面によると、沖縄新聞界代表の座安は、日本本土への視察旅行中、一週間前から申し込んでいた会見が許可され、約一カ月も前から交渉していた北部琉球代表の笠井大島副知事、有村大島産業社長、久保井大島農業会長の三人とともに五月二日午後七時から三十分間、第一相互ビル六階の総司令部司令官室で沖縄人として初めてマッカーサーに会見した。通訳は田上中尉。

 (座安特派員発)というクレジットの付いた本記で座安は次のように書いている。

 「田上中尉に導かれて司令官室に入ると、マッカーサー元帥は身軽く椅子(いす)を立って急ぎ足に一行を迎え温顔をほころばせ一人々々とかたい握手を交わし遠来の労をねぎらいながら椅子をすすめた。かくてマ元帥は会見劈頭(へきとう)『沖縄復興はどうなっているか』と質問したが、これに対し一行から『シーツ長官赴任以来希望をとり戻して明るい気持で復興にまい進している』旨答えると、如何(いか)にも満足の態でアイシーを連発し『米国及び米国民は琉球の復興と平和と経済的独立を希望し多大の関心を有(も)っている』と語り、更(さら)に語をついで、食糧事情はどうか? 被服、住家はどんな状態か…、六カ月前とはどうか…、戦前とはどうか…、日本の経済事情との比較は…生活物資はどちらが多いか…、等々…矢継ぎ早に質問を発した」

 さらに座安は、自分が見たマッカーサーの素顔を次のような雑感記事にまとめている。

 「あたかも遠方の不遇な息子の安否を気づかう慈父のような態度に一行はすっかり気をよくして歯に衣を着せないで実情を訴えた。記者が『終戦以来太平洋の悲劇は沖縄人だけで背負った形で前途頗(すこぶ)る悲観していた、今日ではゼネラルシーツの赴任によって希望をとり戻し明るく復興にまい進している、この際元帥のメセージを』と云えば『君は僕と話しているから、それを書けば一片の紙切れにすぎないメッセージなど、どうでもよいではないか』と軽く打込んで一本参らすなど、すっかり父親の意地悪にベソをかかされた形で、いよいよ思い切り甘えてみたくなった

 かつて鹿児島で一人何役もこなしながら、発行していた郷土雑誌『沖縄』で見せたあの語り口そのままの文章ではないか。沖縄朝日に入社後四年で新聞記者から営業、経営者に転身した座安が記者として、その文章を見せた極めて珍しい例だろう。その行間に本来は、やはり経営者よりも活字人間を目指していたと見るのは、読みすぎだろうか。

 記事の最後に座安はこう書いている。

 「尚(なお)別れに際して元帥は是非一度は沖縄にも行きたい、有力者が上京の際には訪ねてもらい度(た)い等と語り、グッドバイ、グッドバイを連呼して握手を交わし部屋の入口まで一行を見送った」

 その言葉の通り、マッカーサーはその年の暮れには、いわゆるスキャップ指令(琉球列島米国民政府に関する指令)で改称された米国民政府の民政長官を兼任、沖縄を訪れている。

 このマッカーサーとの会見。実は座安にとっては、ほかの所用を兼ねた上京だった。四九年五月に編集プランが立てられて以来、牧港篤三、大田良博が取材、執筆、十一月に脱稿した沖縄戦記『鉄の暴風』の出版を朝日新聞に依頼しようと上京したのだった。

 前年の末に沖縄と本土間の正式渡航が開始されたばかりで、それも沖縄の米軍政府と在日米軍への面倒な手続きを必要とした。新聞社員の本土派遣は認められず、座安の渡航申請も「印刷業代表の本土視察」という名目でパスしたのだった。

 ところが座安の上京はこれだけでもなかった。出版の協力依頼のほかに本土で輪転機を探してこようという魂胆があり、事実年内に北海タイムスからマリノニー式輪転機を購入するめどをつけたのだった。一度の上京で三つも大きな仕事をこなし、一線記者並みに記事も書いたのである。

 座安のマッカーサー会見について高嶺朝光は『新聞五十年』(沖縄タイムス社)で次のように振り返っている。

 「マ元帥が会見に応じたのは、沖縄からはるばるやってきた業界代表と聞いて、宣撫(せんぶ)工作にでも利用できると思ったのだろう。また、座安君が会見によるプラス…たとえば沖縄現地米軍へのけん制…を計算に入れていたのは間違いない。それから数日後、私は米軍政府に呼び出され、係官の質問を受けた。『ほかの新聞から抗議が来ている。新聞代表でもないのに、座安氏がマ元帥と会ったのはけしからんと言っている。本当に新聞代表として上京したのか』。私が『代表などとは言っていない。単なる印刷業の視察だ』と答えると『そうだろうな』と係官、はじめてホッとした顔色を見せた。ほかの新聞社から抗議をうけたのは、座安君を新聞代表として渡航を許可したミス…と係官は思ったのかもしれない。それ以上に座安君のマ元帥との会見で一番驚いたのは沖縄現地米軍で、座安君が何か告げ口でもしなかったかと、あわてたようだった」(敬称略)(編集委員・真久田巧)

 

『鉄の暴風』が裏付け調査のないデタラメな噂話の類で埋められていることは多くの研究者によって明らかにされているが、そのデタラメな取材の証言者を米軍の協力でかき集め、執筆者に引き合わせる大きな役割りを果たしたのが沖縄タイムス創業者の一人である座安盛徳氏だと言われている。

沖縄タイムス専務の座安盛徳氏は、後に琉球放送の社長もなるマスコミ人だが、そのユニークな性格は文筆で活躍するというより、巧みな交渉力で絶対的権力を持っていた米軍上層部の信頼を一手に集め、不足していた新聞用紙やその他の物資の調達に力を発揮していた。

上記引用文にもあるとおり、米軍との交渉は全て座安氏が仕切り、当然『鉄の暴風』の出版、執筆にも大きく関わっていた。

『鉄の暴風』は豊平良顕氏が監修で、執筆は牧港篤三、太田良博となっているが執筆のほとんどは、戦前からのベテラン記者である豊平、牧港の両記者を差し置いて、入社したての記者としては素人同然の太田氏が行っている。

『鉄の暴風』の執筆には執筆者が自ら取材することはなく、会社側、つまり専務で米軍の信頼の厚い座安氏が米軍を通じてかき集めてきた話をそのまま面白おかしく書き綴ればよかったのだ。

ここで『鉄の暴風』のデタラメさを端的に示すのが太田良博記者による山城安次郎氏の取材である。

     

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コメント (1)

悪代官も驚く西村発言!酒提供で金融機関要請の方針撤回と官房長官

2021-07-10 00:06:24 | 医学・健康

 

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酒提供で金融機関要請の方針撤回と官房長官

配信

共同通信

山岸久朗 認証済み | 31分前
弁護士
報告
ただでさえ酒類の提供を禁止するだけでも憲法違反の可能性があるのに、金融機関の融資まで介入しようとは、いよいよ憲法訴訟が頻発するのではないかと思っていたところ、撤回されたことはひとまず良かったですが、しかし最近の政府は世論に過敏になり過ぎていて朝令暮改が多すぎる


大濱崎卓真 認証済み | 29分前
選挙コンサルタント・政治アナリスト
報告
法令根拠も無い金融機関からの要請という流れは当然無理筋でした。そもそも新たな対応策を採るのであれば臨時国会を開くなどして立法府としての責任において法令改正をするなどして対応すればいいのに、臨時国会を開催せず(もしくは通常国会を延長せずに)この状況を招いているのもまた与党の責任です。

「西村再生相はそうした趣旨の発言は絶対しないと思っている」と菅首相が発言したことも話題になっていましたが、閣内不一致や閣内連携の無さが目立ってきました。ワクチン供給ラインや酒提供に関しての不一致が閣内での連携不足が問われる原因となっていますが、この一連の流れも秋の臨時国会などで菅下ろしに繋がる可能性があると言われ始めています


DHC******* | 36分前
当然のこと、何を考えてるのか理解に苦しむ
法律上でも根拠もないし忖度させて
銀行から貸し剥がしの脅しをかけろというに等しい
経済再生担当が特定業種にとどめをさすような発言は
即撤回と謝罪すべきだった、個人的には今すぐ辞めて貰いたい


nao***** | 35分前
撤回は当然
西村大臣の発言は正気の沙汰ではない。
迷走ぶりをここまで見せられると絶望しかない

yhi***** | 40分前
こんな無責任発言を勝手気ままにする政権、早く総辞職して下さい。どうせ金融庁から現行法制上難しいとか、何らかの理由で非現実的だとの指摘が入ったに違いない。


rnx***** | 32分前
方針撤回で済む問題じゃない。
事業者からしたら、資金繰りこそ命綱。
そこを断つと平然と言うとか、
この人間は飲食店の苦境などなんとも思ってないのだろう。
そりゃ飲食店いじめ平然とやるわけだ。
大臣どころか国会議員不適格


hit***** | 38分前
保証もまともにしないのに、このような行為を本気でやろうとしていたなら、政府は異常だし、自分らは何でもありと思っているなら勘違いも甚だしい。


sre***** | 42分前
犯罪行為を未然に防げてよかったです。しかし、日本はいつから独裁国家になってしまったのでしょうか?


goo***** | 34分前
金融機関要請はデマかと思ったけど、
撤回するぐらいだから正式な要請だったんだ
うわ、人でなしの政府だな


mar***** | 33分前
それほどまで影響力の大きい方が軽々しく発言してその度に撤回して国民を振り回す。

最悪ですね。


マイネルデスポット | 32分前
宣言により来月の家賃を払えるか綱渡りの飲食店に金融機関から融資打ち止めの圧力要請

でもオリンピックは開催

正気の沙汰じゃない

 

【追記】

「めちゃくちゃ」「本当は閉めたい」 西村発言に怒り

朝日新聞デジタル2294

 西村康稔経済再生相が、休業要請に応じない飲食店に対し、取引金融機関から働きかけるよう求める考えを示した。翌9日に撤回したが、コロナ禍にあえぐ飲食店への締め付けを強めようとする政府の発想に、一斉に疑問の声が上がった。

 
ココがポイント
 
 

ニュースの流れ

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