狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

★カメジローは不屈の人か、それとも卑屈の人か

2021-07-10 14:25:48 | ★改定版集団自決
 

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続・沖縄住民「スパイ容疑虐殺」の真相 沖縄人スパイはいた!2008-12-22 の引用です。

小林よしのり著『新ゴーマニズム宣言SPECIAL沖縄論』で、著者の小林氏が犯した唯一の過ちは、元人民党委員長・瀬長亀次郎氏を、「沖縄の英雄」と祭り上げて書いてしまったこと、である。 小林よしのり『沖縄論』を一読してまず目を引くのは、第19章「亀次郎の戦い」である。

小林氏と思想的にまったく逆の立場の瀬長亀次郎氏を絶賛している内容に誰もが驚くはずだ。

日本共産党の機関誌「赤旗」七月三日付の書評でも、『沖縄論』を肯定的に評価しているくらいだ。

沖縄左翼を取り込む意図があったのだろうが、沖縄左翼のカリスマともいえる瀬長氏を沖縄の英雄に祭り上げてしまったことは、沖縄左翼に媚びるあまり、ミイラ取りがミイラになってしまったの感がある。

瀬長氏は、米軍政府と戦っていた姿勢と、方言交じりで演説する語り口で「カメさん」と呼ばれて年寄りには人気があったが、「沖縄の英雄」は沖縄左翼とマスコミが作り上げた創作物語である。

瀬長氏は共産党が禁じられていた米軍統治下の沖縄で、人民党でカムフラージュした共産党員であり、当時ソ連や日本共産党から密かに資金援助を受けているとの噂があった。

そのため、CICが情報取得の為本人は勿論、長女瞳さんの身辺をかぎまわっていたらしく、沖縄住民にも共産思想が入り込んでくることに神経質になっていた。

瀬長氏が沖縄に残した負の遺産が、現在でも日本共産党、社民党そして地元政党の社大党が沖縄県議会で与党を占める沖縄の特異性である。

瀬長氏は日本復帰と同時に日本共産党に正式入党し、共産党公認で衆議院議員に当選し、日本共産党副委員長も勤めている。

米軍統治下の沖縄では、共産主義は禁じられていた。

だが、人民党という地元政党を隠れ蓑に共産主義者は増殖し続けていた。

1950年の朝鮮戦争や、中華人民共和国の成立等、「ドミノ現象」でアジア地域に共産主義が蔓延するのを恐れた米軍情報部は、

CICを中心に沖縄の共産主義勢力の監視に神経を使っていた。

米本国の政府高官が視察のため沖縄を訪問したとき、空港に出迎えにいったユースカー(在沖統治機関)の幹部が、同行した地元琉球政府の幹部を紹介した。

「こちらが、ミスターセナガです」

遠来の米政府高官に対し、歓迎の意をこめてにこやかに握手を求めて手を出したセナガ氏に対し、高官はアメリカ人らしからぬ奇妙な反応を示した。

「オー、ノー! セナガ」

と叫んだ件の高官、握手の手を引っ込めた。

隠れ共産党の瀬長亀次郎氏の「悪名」は米国本土政府の中にも知れ渡っており、空港に出迎えた「セナガ」氏に思わず握手の手を引っ込めたのだろう。

米政府高官に握手を拒否された哀れな男は、当時の琉球政府副主席・瀬長浩氏の「瀬長違い」であった。

米政府高官が本気で握手拒否をしたのか、それとも握手を求めた男が「セナガ」と聞いて、とっさに思いついたアメリカ人特有のジョークだったのか、今となっては確認出来ない。

だが、とにかく、当時の米軍が共産主義の蔓延に対し、いかに神経過敏だったか知る上で、そしてその指導者としての瀬長亀次郎氏を要注意人物とみなしていたかを知る上で、この逸話は実に興味深い。

厳しい監視、家族まで 瀬長氏の長女にもスパイ
2006年5月31日 
<米国の調査機関が1950年代、元沖縄人民党委員長で那覇市長、衆院議員を務めた故・瀬長亀次郎氏の長女・瞳さん(68)=カナダ在住=の周辺にスパイを送り、瀬長氏の健康状態や日常生活を探っていたことが30日までに、米国国立公文書館が保管する資料で明らかになった。同館は瀬長さんが「人民党事件」(54年10月)で逮捕された後、宮古刑務所に収監されていた55年3月7日、獄中から瞳さんに送った手紙の英語訳も保管。手紙は瞳さんに届いていない。米当局が瀬長さんの家族にまで監視を広げ、詳細な身辺情報を逐一探っていたことがうかがえる。

  瞳さんに関する報告資料は2種類。ともに「極東空軍司令部が報告」と記され、情報源は瞳さん、提供者は「極秘の情報提供者」と記される。
 情報収集日が1958年5月20日の報告は「瞳の情報では、父親は深刻な肝臓病で近く入院する」と記載。31日の報告は「瞳が言うには父親(瀬長さん)は退院して家に帰った。政治の本を書く約束をし、本を売って妻のフミさんを8月の原水爆総決起大会に参加させる資金を稼ぎたいと言っている」と記す。米当局は同年8月、東京・横浜でフミさんを撮影している。
 瞳さんは「父から仕事や政治の話を聞いたことはなく、出版計画も当時は知らなかった。なぜ私が情報源なのか理解できない。スパイをした人が父の復帰闘争を弾圧するために無理に作ったのではないか」と話している。
 瞳さんに届かなかった手紙の英訳には米国のCIC(諜報(ちょうほう)機関)の名称を記述。文面は「刑務所からあなたの活躍を期待と希望を込めて見守っている」と娘への思いが切々とつづられている。
 沖縄テレビは同公文書館から収集した資料も盛り込んだ番組を制作。31日午後4時から55分間、逮捕、投獄、市長追放と時代に翻弄(ほんろう)された瀬長さんと支えた家族のきずなを描く「カメさんの背中」を放映する。>

                   ◇

終戦後の米軍統治下の沖縄でCICが暗躍した様子は、『ナツコ 沖縄密貿易の女王』2005年文芸春秋社 奥野修司著)に、自らCIC要員として働いていた金城良安氏が赤裸々に語っている。 

米軍統治下の沖縄でCICの代理人になった者は、教員、財界人、政治家と多士済々であったという。

CICの活動が目立たなかったのは、MPが制服であったのに対し、CICは私服で活動し、当時の合言葉であった「琉米親善」を口にする善良な民間アメリカ人を演じていたからだという。

沖縄のCICはライカム(Rycom=琉球軍司令部)の管理下にあった。八重山民政府からCICに移った金城良安によれば、「八重山には3人ぐらいしかいませんでした。その下に協力者はたくさんいました。つまり情報提供者です。CICは密貿易そのものには関心がなかったのです。関心があったのは外からはいってくる人物です。スパイは密貿易船を使って移動したりしますからね。たとえば中国大陸から誰が来ているとか、そういうことには神経質になっていました」  ちなみにどんな情報提供者がいたのか、当時の軍政府に勤務したことのある人物に尋ねると、「当時の八重山には30人ぐらいおりましたかな。トップは学校の先生で次は財界人と政治家。なぜ協力したのかって? そりゃ、いろいろ便宜を図ってもらえるからだよ。あの頃の米軍は神様よ。もうほとんど死んだが、あのときCICに協力した者はみな大物になっているよ」  自らすすんで協力する人もすくなくなかったという。 CICは諜報活動はするが、基本的に密貿易の取り締まりはしない。 米兵がからんだ場合はCID(陸軍憲兵隊犯罪捜査部)が民警と一緒に動く。 CICもCIDも基本的には私服である。(『ナツコ 沖縄密貿易の女王』2005年奥野修司)

終戦後、CICに勧誘されて情報提供者になった住民のことは、よく聞く話だが戦時中に勧誘されてスパイになることは一か八かの大きな賭けであった。

 もし、日本軍が勝利をしていたら間違いなくスパイ罪で死刑は免れないからだ。

一方、アメリカの勝利の場合は将来の豊かな生活を保障されていた。

事実南方帰りを自称して住民の中に混じって生活していた者が、戦後米軍服を着用して米軍ジープを乗り回している姿を目撃し、その男はその後ハワイで裕福な生活をしていたといった伝聞談は多い。

だが、自他共に認めるスパイで、戦後も「琉球王」とよばれたスパイの親玉の記事が本人の顔写真付きで、古い「月刊沖縄ダイジェスト」の記事になっている。

米軍のスパイといわれ臨時琉球王

沖縄戦の、4月3日、美里村で捕虜になって以来、米軍に積極的に協力、降伏勧告放送もやり、沖縄本島の東西分断も進言、志喜屋孝信らの諮詢委員会ができるまでは「臨時琉球王」で、日本が勝てばスパイとして処刑確実という男がいた。 その名は首里生まれの多嘉良朝朋(当時70歳)。 米軍はそのお礼として昭和24年、米軍政府のセーファ大佐から、コカコーラの民間への一手販売権を与えるーと口約束されたが、中城公園売店でのコーラ横流し事件が摘発されて、おあずけのまま、不遇のうちに死んだ。>(「沖縄事始・世相史事典」月刊沖縄社)

                   ◇

この「臨時琉球王」は、コカコーラの一手販売権をという美味しい果実を手にする前に悪事が露見して哀れな結末を迎えた。

だが、終戦直後には、通常では考えられないようなアメリカの大会社の製品の一手販売権手にした人が多くいた。

それは戦時中彼らがスパイとして米軍に協力した報酬だという噂を良く聞いたが、それが「火の無いところに煙は立たぬ」だったのか、それとも単なる噂に過ぎなかったのか、今では事情を知る者のほとんどが墓場で眠っており真実を知る術はない

 
■昭和20年3月26日の座間味■
 時は38年前の座間味島にさかのぼる。
 昭和20年3月26日日、米第77歩兵師団は、慶良間諸島の阿嘉島、慶留間島、座間味島へ上陸を開始する。そして逃げ場を失いパニック状態に陥った座間味島の住民172人がその日に集団自決をしている。

 
 3月26日の米軍の動きは実にあわただしいかった。
 先ず米合同遠征部隊第51機動部隊司令官ターナー海軍中将が、南西諸島海軍軍政府首席軍政官に任命され、慶良間諸島に最初の軍政府(陸・海合同)が設置された。
 同じ日に米軍は、チェスター・ニミッツ米海軍元帥の名で米国海軍軍政府布告第一号(いわゆるニミッツ布告)を公布した。この「ニミッツ布告第一号」は沖縄に於ける日本政府の統治権の行使を停止し、その居住民に関するすべての政治及び行政責任が、占領軍司令官、米国海軍元帥であるニミッツの権能に帰属すると宣言するものであった。
 つまり日米両国がまだ交戦中であるにも関わらず、米軍は、「ニミッツ布告第一号」の公布により、沖縄の住民を日本の統治から勝手に分離したことになる。   これは沖縄が日本の一県であるという事実を無視し、結果的に沖縄を日本軍の占領地域として扱ったことになり、沖縄住民を「解放」して“準アメリカ人”として米軍政府の施政権下に置いたことになる。 
 米軍は沖縄攻撃の前から、沖縄は日本軍に侵略された植民地であり、米軍は沖縄にやってきた解放軍であるという姿勢を取っていた。 

■スパイ容疑を生んだニミッツ布告■
 以後ニミッツ布告は「布令」と呼ばれ沖縄の憲法のような存在となり、占領下の沖縄住民の言動を規制し、その影響は後に問題になる『鉄の暴風』(昭和25年刊)にも大きな影を落としてくる。

この布告のため、米軍の指令を受け住民が、山中や壕に隠れている日本兵や住民に投降勧告し、そのためスパイ容疑で処刑されるといった悲劇を生んでいる。 
 交戦中の敵国の住民を、自国の住民として行動するように指示するこの布告に、国際法を知らない島民たちは翻弄されることになる。

米軍側の記録によると、翌4月の初旬には、戦火の被害の少なかった沖縄本島の北部地域では民間人による米兵相手の慰安所が営業を開始している。 
 捕虜になった住民を、食料を対価に「軍作業」を手伝わせたり、投降勧告の使者にさせたりすることは、沖縄県民を日本国民とは看做していない措置であり、ハーグ陸戦条約等に違反していると考えられる。 


 このような米軍の国際法違反と思われる措置がなければ、「スパイ容疑」による住民処刑の悲劇はもっと少なかったのではないか。

 特に「ニミッツ布告」の次の条項は、投降した住民を“準米国民”と規定し、日本軍に「スパイ疑惑」を持たす行為を強いることになった。

三 各居住民は、本官又は部下指揮官の公布するすべての命令を敏速に遵守し、本官下の米国軍に対して敵対行動又は何事を問わず日本軍に有利な援助をせず、且つ不穏行為又はその程度如何を問わず治安に妨害を及ぼす行動に出てはならない。

六 本官または本官の命令によって解除された者を除く全ての官庁、市庁、及び町村又は他の公共事業関係者並びに雇用人は本官又は特定された米国軍士官の命令の下にその職務に従事しなければならない。

 余談だが米占領下の沖縄で育った者にとって、「布令」という言葉は一種の自嘲の響きで記憶に残っている。 
 昭和25年8月、琉球立法院は労働三法を制定するが、米民生府は「布令116号」の発布により基地関連の労働者に労働法の適用は禁止とされ、労働組合の結成も米民政府の許可制となる。

 
 「解放軍アメリカ」という幻想がもろくも打ち砕かれ、民主主義の庇護者と思われた米軍が、実は「布令」という超法規を振りかざす独裁的権力者であるという現実が露呈されるのが、この「布令116号」が発布された昭和28年前後のことである。    
 「布令」により資格を与えられた弁護士や裁判官そして同じく「布令」で設立された琉球大学のことを称して、当時は「布令弁護士」、「布令大学」と自嘲的に呼んでいた。 
 沖縄人を呪縛した「布令」は、昭和20年3月26日、米軍が慶良間上陸と同時に公布された「ニミッツ布告1号」にその根源をたどる。
 当然、『鉄の暴風』の発刊もこの「布令」の呪縛を離れては考えられなかった。

■「参謀長」と呼ばれた男■
 当時、沖縄の最高学府であった師範学校を出た者は村の誇りであり、現在の大学卒などとは比べ物にならないほどの尊敬の的だったが、戦後GHQ が軍国教育の温床として解体の第一の目標にしたのが、師範学校制度だったという。
 師範学校の寮生活は悪名高き陸軍内務班そのままで、その卒業生たちが軍国主義教育の担い手となり、教え子を続々と戦地に送り続けていた。 師範学校は、形式主義、権威主義、など融通のきかない所謂「師範タイプ」を多数排出した。 
 教員は村中の尊敬の的であっが、その一方、軍人より軍人らしい山城安次郎教頭のような教員も多くいた。

 梅澤隊長に「自決するな」と断られた野村村長ら村のリーダー四人は、その後相談の上自分らの判断を「軍の命令」として村内に指示をしたといわれているが、その四人は自らも「自決」を決行し全員死亡した。
 宮平一家に軍刀を振りかざし「殺す」と迫った山城教頭は、当時「参謀長」と呼ばれていた。
 戦後座間味島の語り部となった宮城恒彦氏の著書『潮だまりの魚たち』の中の「教頭先生は参謀長」というくだりで山城教頭のことを述べている。 
 

住民が日本兵が見張りをする水場で飲み水を求めると「参謀長の許可がなければダメだ」と拒否されるが、話し声を聞きつけて現れた「参謀長」と呼ばれる男が水汲みを許可してくれる。 
 警備の日本兵にも「参謀長」と呼ばれ、彼らを顎で指示していた男が山城安次郎教頭であった。


 「参謀長」と呼ばれた教頭先生は銃剣を構えた日本兵より「権力」を持っていた。 当時の沖縄ではこのように軍人より軍人らしい民間人は決して特異な例ではなかった。 
 昭和19年頃の沖縄では毎月数回の「日米戦争決起大会」(県民大会)が開催され、演壇では軍人より過激な民間人が檄を飛ばすことも珍しくはなかった。


■集団の狂気■
 時代が変わっても、人間が集団で行う狂気の行動に変わりはない。

平成17年、沖縄タイムスと琉球新報は、狂気に満ちたキャンペーンを張って、9月29日の「県民大会」(“11万人”集会)の動員に県民を追い込んだ。 地元テレビを含むマスコミは一斉に横並びで、これに反対するものは県民にあらず、といった論調で、職場でも異論を吐くものは、「あいつはヤマトかぶれ」だと、後ろ指を指されるような異常事態だったと知人の一人は当時を振り返る。

以下は評論家篠原章氏の「批評.COM  篠原章」からの引用である。

仲宗根源和と瀬長亀次郎 —カメジローは正義の人だったのか?

仲宗根源和の個性的な琉球独立論

仲宗根源和は、戦中に沖縄県議に当選し、戦後初の沖縄の自治行政機関・沖縄諮詢会の委員を務めた本部出身の人物で、後年「沖縄独立論者」として名を馳せるようになったが、若い頃は東京で教員を務めていた。教員時代には非合法期の日本共産党に参加し、『無産者新聞』の発行人など重要な役割を担っていた。共産党時代の仲間である瀬長亀次郎、徳田球一、野坂参三、佐野学との親交も厚かったという。

仲宗根の痛快なカメジロー批判

痛快なのは、仲宗根の瀬長亀次郎批判だ。仲宗根が描くのは、昨今の「カメジローブーム」の下で知られる過大評価の瀬長像とはまるで違う、共産党員・社会運動家としてもダメダメな亀次郎だ。仲宗根は、「県民・人民のため」ではなく「共産党のため、ロシア(ソ連)のため」に亀次郎は働いているとの認識だった。

仲宗根によれば、カメジローは、初代沖縄副知事で戦前の琉球新報社長だった又吉康和の腰巾着だったようだ。そのおかげで、又吉と諮詢会委員長だった志喜屋孝信(初代沖縄知事・沖縄県立二中校長)、沖縄統治の責任者だったワトキンス少佐(海軍/James Thomas Watkins Ⅳ)との内輪の話し合いで県議にしてもらったとのこと。又吉の工作とちょっとした不正によりカメジローが県議になったことは間違いないところだろう。カメジローはさらに又吉に琉球新報社長の地位を与えられている。琉球新報の前身はうるま新報で、当時はまだ米軍の御用新聞だった。その後、保守派だった又吉とは袂を分かち、カメジローは日本共産党やコミンテルンの意向を受けて人民党を結党して政治家として「成功」する。世間に流布されるカメジロー観からは、こうしたダークな側面が抜け落ちているのは残念だ。

 

 

               ★

■那覇市長を辞任して、大政翼賛会事務局長に就任した當間重剛

個人的にはごく常識的な人物が、一旦なんらかのグループに属すると往々にして狂気に走る。そしてその背後に新聞の扇動がある場合が多いが、60数年前の沖縄も同じような状況にあった。

 米軍が慶良間諸島に殺到して猛攻撃を開始する約二ヶ月前の「沖縄新報」(昭和29年12月8日)に「挺身活動へ 翼壮団長会議」といった見出しが躍っている。
 昭和19年の大詔奉戴日は10月10日の那覇大空襲の後だけに、県庁、県食料営団、県農業会などの各団体主催の決起大会各地で行われ、「軍民一如 叡慮に応え奉らん」、「一人十殺の闘魂」といった勇ましい見出しが紙面を飾っている。
 大詔奉戴日とは日米開戦の日に日本各地の行政機関を中心に行われた開戦記念日のことで、戦争の目的完遂を国民に浸透させるために、毎月8日が記念日とされ決起大会が行われていた。

 沖縄では、これらの戦意高揚運動は、大政翼賛会沖縄県支部を中心に行われ、初代支部長には着任したばかりの早川元知事が努めた
 だが、驚くべきことに、当時の那覇市長であった当間重剛氏が、市長を辞職してこの会の事務局長を務めている。 現在の感覚でいうと那覇市長の方が一民間団体である大政翼賛会沖縄支部の事務局長より、重責であると思うのだが、当時の当間氏は、那覇市長として市民のために働くより、国や県のためになる大政翼賛会に意義を見出したようである。
 当間重剛氏は、戦後、米軍に重用され米軍占領下の琉球政府で、主席(知事に相当)を務めることになり、日本復帰直前の昭和44年には「沖縄人の沖縄をつくる会」を結成して琉球独立党のリーダーになるのだから、人間の運命は分からないものである。
 そして、翌昭和17年には、大政翼賛会の実働部隊として翼賛壮年団が結成され、平良辰雄氏が、初代団長に就任して県民鼓舞のため先頭を切ることになる。  
 平良辰雄氏も戦後米軍に重用され、沖縄群島知事(主席の前)や立法院議員(県会議員に相当)を努めている。 
 GHQは、戦前活躍した有能な人物を公職から追放する「公職追補」という愚策を断行したが、沖縄占領の米軍は、当間重剛氏や平良辰雄氏のように、戦前軍国主義を煽ったと思われる指導者たちを戦後も政財界に重用しており、日本全土を吹き荒れた公職追放は沖縄では行われなかった。

ところが、戦前の大政翼賛会沖縄支部の幹部を務め、県民を戦争に煽った著名人が他にもいた。

しして、その正体を隠したままにしている。

果たしてその正体は?

つづく

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コメント (3)

悪代官も驚く西村発言!酒提供で金融機関要請の方針撤回と官房長官

2021-07-10 00:06:24 | 医学・健康

 

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酒提供で金融機関要請の方針撤回と官房長官

配信

共同通信

山岸久朗 認証済み | 31分前
弁護士
報告
ただでさえ酒類の提供を禁止するだけでも憲法違反の可能性があるのに、金融機関の融資まで介入しようとは、いよいよ憲法訴訟が頻発するのではないかと思っていたところ、撤回されたことはひとまず良かったですが、しかし最近の政府は世論に過敏になり過ぎていて朝令暮改が多すぎる


大濱崎卓真 認証済み | 29分前
選挙コンサルタント・政治アナリスト
報告
法令根拠も無い金融機関からの要請という流れは当然無理筋でした。そもそも新たな対応策を採るのであれば臨時国会を開くなどして立法府としての責任において法令改正をするなどして対応すればいいのに、臨時国会を開催せず(もしくは通常国会を延長せずに)この状況を招いているのもまた与党の責任です。

「西村再生相はそうした趣旨の発言は絶対しないと思っている」と菅首相が発言したことも話題になっていましたが、閣内不一致や閣内連携の無さが目立ってきました。ワクチン供給ラインや酒提供に関しての不一致が閣内での連携不足が問われる原因となっていますが、この一連の流れも秋の臨時国会などで菅下ろしに繋がる可能性があると言われ始めています


DHC******* | 36分前
当然のこと、何を考えてるのか理解に苦しむ
法律上でも根拠もないし忖度させて
銀行から貸し剥がしの脅しをかけろというに等しい
経済再生担当が特定業種にとどめをさすような発言は
即撤回と謝罪すべきだった、個人的には今すぐ辞めて貰いたい


nao***** | 35分前
撤回は当然
西村大臣の発言は正気の沙汰ではない。
迷走ぶりをここまで見せられると絶望しかない

yhi***** | 40分前
こんな無責任発言を勝手気ままにする政権、早く総辞職して下さい。どうせ金融庁から現行法制上難しいとか、何らかの理由で非現実的だとの指摘が入ったに違いない。


rnx***** | 32分前
方針撤回で済む問題じゃない。
事業者からしたら、資金繰りこそ命綱。
そこを断つと平然と言うとか、
この人間は飲食店の苦境などなんとも思ってないのだろう。
そりゃ飲食店いじめ平然とやるわけだ。
大臣どころか国会議員不適格


hit***** | 38分前
保証もまともにしないのに、このような行為を本気でやろうとしていたなら、政府は異常だし、自分らは何でもありと思っているなら勘違いも甚だしい。


sre***** | 42分前
犯罪行為を未然に防げてよかったです。しかし、日本はいつから独裁国家になってしまったのでしょうか?


goo***** | 34分前
金融機関要請はデマかと思ったけど、
撤回するぐらいだから正式な要請だったんだ
うわ、人でなしの政府だな


mar***** | 33分前
それほどまで影響力の大きい方が軽々しく発言してその度に撤回して国民を振り回す。

最悪ですね。


マイネルデスポット | 32分前
宣言により来月の家賃を払えるか綱渡りの飲食店に金融機関から融資打ち止めの圧力要請

でもオリンピックは開催

正気の沙汰じゃない

 

【追記】

「めちゃくちゃ」「本当は閉めたい」 西村発言に怒り

朝日新聞デジタル2294

 西村康稔経済再生相が、休業要請に応じない飲食店に対し、取引金融機関から働きかけるよう求める考えを示した。翌9日に撤回したが、コロナ禍にあえぐ飲食店への締め付けを強めようとする政府の発想に、一斉に疑問の声が上がった。

 
ココがポイント
 
 

ニュースの流れ

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