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世界日報の引用です。
【連載】沖縄戦「集団自決」から62年 真実の攻防 6
「集団自決、軍が命令」/沖縄タイムス『鉄の暴風』が最初
渡嘉敷島、座間味島で起きた集団自決が「軍命令」であったと最初に報じたのは、地元の沖縄タイムスの『鉄の暴風』である。牧港篤三、伊佐良博(りょうはく、のちに太田良博と改める)両氏が執筆、豊平良顕氏が監修し、昭和二十五年八月に単行本として朝日新聞社から発行されている。
記事の特徴は、<軍の作戦上の動きを捉えるのがこの記録の目的ではない。飽くまで、住民の動きに重点をおき、沖縄住民が、この戦争において、いかに苦しんだか、また、戦争がもたらしたものは、何であったかを、有りのままに、うったえたいのである>とする。
渡嘉敷島を守る赤松隊長が、自決を命じる件(くだり)は次のようなものだ。
<恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。「こと、ここにいたっては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する」というのである。(中略)住民たちは死場所を選んで、各親族同志が一塊り塊り(原文のママ)になって、集まった。手榴弾を手にした族長や、家長が「みんな、笑って死のう」と悲壮な声を絞って叫んだ。一発の手榴弾の周囲に、二、三十人が集まった。
住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。
手榴弾は、あちこちで爆発した。轟然(ごうぜん)たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして、――男、女、老人、子供、嬰児(えいじ)――の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻(あび)叫喚の光景が、くりひろげられた。死にそこなった者は、互いに棍棒で、うち合ったり、剃刀で、自らの頚部(けいぶ)を切ったり、鍬(くわ)で、親しいものの頭を、叩き割ったりして、世にも恐ろしい状景が、あっちの集団でも、こっちの集団でも、同時に起り、恩納河原の谷川の水は、ために血にそまっていた>
この集団自決で亡くなった人は三百二十九人と記している。
『鉄の暴風』は、その前日の二十七日の赤松隊の様子にも触れている。
<地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は「持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間の死を要求している」ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、慟哭(どうこく)し、軍籍にある身を痛嘆した>
渡嘉敷島の記述が九㌻に対し、座間味島の記述は一㌻しかない。
<米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民を集め、玉砕を命じた。しかし、住民が広場に集まってきた、ちょうど、その時、附近に艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。その数五十二人である。
この自決のほか、砲弾の犠牲になったり、パイ(スパイの誤植)の嫌疑をかけられた日本兵に殺されたりしたものを合せて、座間味島の犠牲者は約二百人である。(略)最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降、隊長梅沢少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した>
さらに、この「集団自決」の章では、降伏勧告状を持参した伊江島住民六人が殺される場面や、住民を激しく怒鳴りつける赤松隊長の様子などが書かれている。
ここから浮かび上がる日本軍像とは何か。それは、住民を守るどころか、彼らの命も食糧までも奪う鬼のような軍人たちの姿である。その一方で「最後の一兵まで戦いたい」と豪語しながら、結局は米軍に十分な痛手を負わすこともなく、すごすごと降伏し、命乞いをする情けない光景である。
沖縄戦における日本軍の姿を決定付けたのが、沖縄タイムス編『鉄の暴風』と言っても過言ではない。
(編集委員・鴨野 守)