たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

鹿を扱う人々

2018-08-16 09:45:13 | 阿波・忌部氏2

<洲本市・由良>

 

日本書紀の「応神紀」の中には、

「応神天皇が淡路島で遊猟をしている最中、

数十頭の鹿が海を泳いでいるのを見て怪しみ、

使者を派遣して調べさせところ、

角をつけ鹿の皮を被った人間だった」

という逸話が載っています。

また、歴代の天皇が淡路島で狩りをした際、

「ここには鹿が多い」などと言った伝承が

あることから考えても、古くから淡路島には、

「鹿」を扱う人々が住んでいたことは確かでしょう。

 

ちなみに、縄文時代の遺跡に描かれているのは、

「猪」の絵がほとんどで、銅鐸の図柄などに

鹿の絵が登場するのは、弥生時代に入ってからだそうです。

一方、鳥に関する信仰は、すでに弥生時代には伝来しており、

鳥葬など鳥に基づく喪葬儀礼が広く行われていたと聞きます。

もちろん、これだけでは正確な判断はできませんが、

日本に「鹿」の部族が渡来してきたときにはすでに、

「鳥」の部族が先住していた可能性もあるのかもしれません。


鹿と海人族

2018-08-15 09:41:58 | 阿波・忌部氏2

<春日大社 かすがたいしゃ>

 

忌部氏の祖神である天太玉命には、

いくつかの「鹿」に関わる伝承が残っていました。

例えば、記紀の岩戸隠れの件で、

天太玉命が天児屋命と共に行った

太占(ふとまに)という儀式は、

鹿の肩甲骨を焼いて吉凶を占ったため、

別名「鹿卜(かぼく)」とも呼ばれています。

 

また、藤原氏のシンボルでもある鹿は、

もともと春日氏(和邇氏)に由来する動物で、

藤原氏は春日氏の配下に属する氏族だった

という話もあるのだとか。

和邇氏など海人族系の氏族は、

鹿が海や川を泳いで渡る習性を利用し、

鹿の追い込み猟を行っていたそうです。

 

つまり、「鹿」という動物は、狩猟民族だけでなく

海人族とのつながりも深かったわけですね。

春日氏の領地であった春日大社の土地や、

物部氏の領地であった鹿島神宮の土地を手に入れ、

自らの氏神とした藤原氏という一族は、

各地の海人族を支配下に組み入れた証として、

「鹿」を自らのトーテムとして掲げたのでしょうか……。


淡路の忌部氏

2018-08-14 09:39:03 | 阿波・忌部氏2

<南あわじ市>

 

南あわじ市に、賀集(かしゅう)という地区があります。

その昔賀集は、「かしお」と呼ばれおり、

「鹿集」あるいは「鹿塩」の文字が当てられていたのだとか。

鹿子西谷、鹿子奥、鹿子北谷など、

賀集地区には「鹿」という字名の地が多く存在し、

さらには「印部」という小字も見られるそうです。

淡路島に関わる史書の中に、「忌部は八幡村の旧名なるべし」

という記述があることからも、賀集八幡という集落の近隣が、

忌部(印部)村と呼ばれていたことは間違いないのでしょう。

 

また以前、賀集地区では「淡路焼き」

という焼き物が造られていたと聞きます。

忌部氏は備前焼で有名な備前国にも進出し、

「伊部」という地名を残していますし、

古代・中世にかけて淡路国の中心地だった

南あわじ市・三條のあたりは、

淡路人形浄瑠璃の発祥地であると同時に、

多くの楽人(雅楽演奏家)を抱えた土地でした。

「焼き物」「雅楽」はともに、

阿波忌部氏が残した功績だと考えると、

この一帯こそが淡路の忌部氏の

拠点だった可能性が見えてきますね。


牛の供犠

2018-08-13 09:29:06 | 阿波・忌部氏2

<石上神宮 いそのかみじんぐう>

 

ひと口に古代イスラエル氏族と言いましても、

「生贄の習俗を持つ部族」と「生贄を禁じる部族」

とに分かれていると聞いたことがあります。

ただし、生贄祭祀(牛の供犠)の形跡が見られるのは、

朝鮮半島南部の新羅が中心だと言われており、

大陸ルートを通り日本にやってきた渡来人の多くが、

朝鮮半島北部の扶余族や狛族だったと仮定すると、

基本的に渡来人のほとんどが、

それらの習俗とは無縁だったはずです。

 

確かにユダヤ民族には生贄に関する記述もありますが、

長い旅の道中、他の狩猟民族などとの関りを持つ中で、

独自の祭祀として進化した部分もあったのでしょう。

主に、古い時代に来日した人たちや、

南の黒潮ルートを選んだ人たちは、

長期間、経由地には留まらずに、

日本に向かった可能性が高いゆえ、

大陸の文化には染まりにくかったと思われます。

 

ちなみに、桓武天皇の時代に、

「牛を殺して漢神をまつるを禁ずる」

というお触れが出されたそうです。

もしかすると、物部のいざなぎ祭文の中の、

天中姫宮といざなぎ大神のやりとりのように、

イスラエルの異なる部族、あるいは同じ部族間でも、

「王道」と「外法」とを巡り、

様々な駆け引きがあったのかもしれません。


鹿と鳥

2018-08-12 09:21:35 | 阿波・忌部氏2

<春日大社 かすがたいしゃ>

 

鹿をシンボルとする藤原氏という氏族が、

同じく鹿をシンボルとしていた

古代中国の扶余族の末裔だったと考えるのは、

ごく自然な流れだと思われます。

同時に、藤原氏の氏神・春日大社の大元が、

物部氏とのつながりも深い

鹿島神宮であることを考慮すると、

物部氏こそが扶余族の出身であったと

捉えるのもまた間違いではないのでしょう。

そしてさらには、「鳥」に象徴される忌部氏も、

「鹿」を重要視していた痕跡が見られるのですね。

 

実は、阿波忌部氏が古代より製作を担ってきた

「麁妙」の「麁」の古い字体は、

鹿という文字が三つ重なってできたもので、

阿波忌部氏が関係する神社のご神宝にも、

鹿の角などが存在するのだとか。

もしかすると、「鹿」をトーテムとした扶余族は、

高句麗(狛族)という新たな国を作ったあと、

さらに「鳥」の逸話を自らの部族の

伝承として加えたのでしょうか……。

恐らく、忌部氏の中には、

「鹿」を神使としていた一派と、

「鳥」を神使としていた一派とが、

混在していた可能性もあるのかもしれません。


供物とトーテム

2018-08-11 09:18:32 | 阿波・忌部氏2

<諏訪大社前宮 すわたいしゃまえみや>

 

「鹿」のトーテムと聞いてまず思い出すのは、

鹿を象徴として崇める藤原氏という氏族です。

現在も、藤原氏の氏神である春日大社をはじめ、

鹿島神宮、厳島神社などでは

鹿を神様のお使いとして大切に扱っており、

境内に鹿が放たれている光景は、

各神社を象徴する代表的な絵面となっています。

 

一方、鹿の頭を神前に供える、

諏訪大社の御頭祭(酉の祭)が示すように、

「鹿」は生贄として扱われる側面もありました。

また、鹿だけでなく鶏などの鳥類も同様に、

神前に捧げる風習が残っていることを考えると、

「供物」の背景にはどことなく

きな臭いが漂ってくるのも確かです。

 

ちなみに、古代ユダヤ教には、

生贄の動物を祭壇上で焼き、供物として差し出す、

燔祭(はんさい)と呼ばれる儀式があったのだとか。

大陸に留まったイスラエル部族の中には、

牛を生贄として捧げる文化を持つ人々も存在し、

忌部氏や賀茂氏が関わったとされる神社にも、

これらの風習が残っているところがあります。


扶余族

2018-08-10 09:12:41 | 阿波・忌部氏2

<春日大社 かすがたいしゃ>

 

古代イスラエル氏族のひとつナフタリ族は、

「鹿」をトーテム(象徴)とした氏族です。

ただし、天皇家とよく似た家系図を持つエフライム族や、

ミカドの語源になったとも言われるガド族などに比べ、

ナフタリ族に関する資料は乏しく、

またナフタリ族が来日したという伝承も、

ほとんどないに等しいのだとか。

唯一、関連が噂されているのが、

中国東北部の満州を拠点とした扶余族(ふよぞく)で、

彼らが神聖視していた動物が「鹿」なのだそうです。

 

彼らはのちに「高句麗」や「百済」を建国し、

日本人とも深い交流を持ったと言われており、

一説には、大陸経由で上陸した渡来人の多くが、

扶余族の人々だったという話もあります。

その後、高句麗に住んでいた人々は、

狛族(高句麗族)と名称を変え、

「鳥」をトーテムに掲げると同時に、

日本の八咫烏の伝承によく似た、

太陽と三本足のカラスの物語を、

自らのルーツとして伝えたのでした。


鹿の紋章

2018-08-09 09:02:35 | 阿波・忌部氏2

<洲本市・小路谷>

 

近年、淡路島のとある場所で、

古代イスラエルとの関連が噂される

「遺跡」が発掘されたそうです。

そこで見つかったのは、ダビデの星と、

鹿らしき動物が彫刻された石の指輪。

鹿のモチーフは、イスラエル12支族のひとつ、

ナフタリ族の紋章であるという説もあり、

ユダヤ人が淡路島にやってきた物証ではないかと、

専門家やマニアの間で話題になっています。

 

「鹿の紋章」という文言を見たとき、

ふいに頭の中に浮かび上がってきたのは、

阿波忌部氏のトーテムに関することでした。

仮に、阿波忌部氏が淡路島に

拠点を設けていたのであれば、

阿波忌部氏が象徴としていた、

「鳥」に関連する何かが発見されるはずです。

しかし、淡路島に残されていたのは「鹿」であり、

鷹や鷲ではありませんでした。

 

数千年前の古代イスラエル氏族の軌跡を、

正確にたどるのは非常に困難ですし、

各部族の紋章や象徴動物などに関しても、

あいまいな部分があるのは確かです。

ただし、淡路島の神社には、阿波にはない

独自の伝承が伝えられていることを考えると、

阿波忌部氏とは別のイスラエル部族が、

淡路島に勢力を張っていた可能性も

否定できないのかもしれません。


異なる風土

2018-08-08 09:42:07 | 阿波・忌部氏2

<洲本市・由良>

 

古代、淡路島に渡来人が上陸し、

日本に様々な文化や産業を伝えたのは、

ほぼ間違いない事実なのでしょう。

彼らは、古代イスラエル氏族の末裔であり、

阿波国に一大拠点を築いた忌部の人々とも、

ごく近しい関係にあったのだと思われます。

気になるのは、彼ら渡来系の人々が、

淡路島をどう認識していたかということですね。

 

ちなみに、私的な印象ではありますが、

北淡と呼ばれる兵庫県寄りの淡路島北部と、

南淡と呼ばれる徳島県寄りの淡路島南部とでは、

明らかに別物のような「風土」を感じるもの。

実際に、淡路島の北と南では 方言なども異なるそうですし、

厳密に分けると、北部・中部・南部ごとに、

交流の深い他の県(地域)が違うとも聞きます。

 

数年前、淡路島北部を観光した際は、

島内にこれほど「山」があるとは想像できず……。

今回、南あわじ市の一帯を車で回りながら、

想像以上に山地が多いことに驚きました。

主に忌部氏の痕跡が残るのも、

徳島県寄りの南あわじのエリアでして、

古代ユダヤとの縁を伺わせる地名が、

淡路島南部のあちこちに散見されます。


ふたつのアワ

2018-08-07 13:37:51 | 阿波・忌部氏2

<南あわじ市>

 

「阿波が先か、淡路が先か……」。

阿波王朝説を唱える人々にとって、

淡路島はあくまでも「阿波への道」であり、

阿波国の一部でしかありません。

一方、淡路島に伝わる数々の神話は、

「日本のへそ」としての地位を証明する、

明確かつ輝かしい痕跡を残しています。

 

「国生みの島」と呼ばれる淡路島は、

日本国土発祥の地であるとともに、

全国の聖地を結ぶレイラインの

中心地に相当する特殊な場所です。

イザナギ・イザナミ神話やおのころ島の伝承など、

記紀の中でもごく初期に登場する日本誕生の物語が、

「阿波」以上の存在感を放っているのは事実でしょう。

 

また、あまたの著名神社を取りまとめるような

太陽軌道の位置関係を考えても、

「淡路島のほうが重要なポジションである」

という意見に、異論は出ないかもしれません。

果たして、淡路島には阿波以上の

何かが潜んでいるのでしょうか……。

「ふたつのアワの物語」を紐解いてみたいと思います。

 

【参考書籍】

鹿と鳥の文化史 平林章仁

 

【参考サイト】

淡路島へようこそ

夢海游 淡路島ブログ

月間ムー公式ウェブ


渡来の姫

2018-08-06 09:26:10 | 阿波・忌部氏2

<高鴨神社 たかかもじんじゃ>

 

奈良の葛城山のふもとに鎮座する高鴨神社は、

葛城の鴨族の重要拠点のひとつです。

全国の「賀茂神社」の総本宮であり、

鴨氏一族の発祥の地とされるこの神社には、

土佐神社のご祭神・味耜高彦根神だけでなく、

古くはその妹神である下照比売神

(したてるひめのみこと)を含めた二柱が、

主祭神としてお祀りされていたと聞きます。

 

「和歌の神様」として知られる

下照比売神は、あかる姫とも呼ばれ、

またの名を高姫、あるいは高比売命

(たかひめのみこと)とも言うそうです。

全国の「倭文神社(しとりじんじゃ)」は、

主に下照比売神をご祭神として祀る神社で、

「倭文織」に従事した倭文氏の氏神でもあります。

 

絹と麻の交織物である倭文織(しづおり)は、

忌部氏が得意としていた技術でして、

被葬者の霊を鎮めるために制作された供物でした。

「和歌」「織物」は紛れもなく呪術であり、

「高」の文字が示すのは「渡来系」ですね。

恐らく、下照比売神という神様は、

忌部氏との強いつながりを持つ、

古代のシャーマンだったのかもしれません。


巨大な集団

2018-08-05 09:24:11 | 阿波・忌部氏2

<鴨都波神社 かもつばじんじゃ>

 

阿波国と長国との関係を考察した記事内で、

キーマンとして登場した事代主神は、

賀茂氏の祖神の一柱であり、

味鋤高彦根神や一言主神とも、

深い縁を持つ神様です。

もともとはスサノオや大国主命とも通じる

古代日本の国津神であったと言われますが、

忌部氏の神と習合したのちに、

賀茂氏の祖神となった可能性もあるのでしょう。

 

これらの古代の神々を、

明確に「仕分け」することは困難でして、

特に忌部氏のように長期間に渡って来日し、

「巨大な集団」を形成した氏族の人々は、

時代背景が変わるとともに、

国津神としての立場を取ったり、

天津神としての立場を取ったりしたため、

複数の神名が与えられ、系統が混乱しました。

 

あるときは、多種多様な術を駆使する、

「金鷲」「金鶏」「金鵄」として、

あるときは、天皇祭祀を補佐する

「八咫烏」という影の一族として、

一言主神、事代主神、天日鷲命、

天石門別神、味鋤高彦根神……等々、

様々な名前を与えられながら、

原住民と天孫族との間を、縦横無尽に

行き来していたのかもしれません。


金鵄八咫烏

2018-08-04 09:21:48 | 阿波・忌部氏2

<上賀茂神社 かみがもじんじゃ>

 

京都の上賀茂神社および下鴨神社では、

金鵄と八咫烏をまとめて「金鵄八咫烏」と呼び、

賀茂建角身命の化身と捉えているのだそうです。

つまり、これらの賀茂氏の言い伝えは、

金鵄が示唆する忌部氏も、

八咫烏が示唆する賀茂氏も、

同じ氏族であることを示唆しているわけですね。

 

ちなみに、上賀茂神社の末社である

半木(なからぎ)神社には、

ご祭神として天太玉命がお祀りされており、

養蚕業に携わる賀茂族と秦族との人々が、

阿波から勧請したとの由緒が伝わっていました。

 

恐らく、山城国の上賀茂神社と

大和国の葛城山の一帯には、

何らかの形で忌部氏が滞在していた

可能性も高いのでしょう。

葛城山の土着神である一言主神が、

「土佐」に流されたという伝承も、

四国の忌部氏とのつながりを示す、

有力な手掛かりとなるのかもしれません。


葛城山の氏族

2018-08-03 09:19:22 | 阿波・忌部氏2

<葛木御歳神社 かつらぎみとしじんじゃ>

 

「八咫烏」の呼び名で知られる

賀茂氏(鴨氏)という古代豪族には、

複数の系統が存在すると言われています。

その中でも特に目にする機会が多いのは、

三輪の大田田根子につながる系譜を持ち、

大和国葛城を本拠地とする葛城系鴨氏と、

下鴨神社のご祭神・賀茂建角身命を始祖とし、

山城国葛野を本拠地とする山城系賀茂氏です。

 

葛城の鴨氏は「地祇系」のカモ族、

山城の賀茂氏は「天神系」のカモ族

などと分類される場合もありますが、

もともと、山城の賀茂建角身命も、

大和の葛城山に居たとされており、

また、同じ山城の賀茂氏でも、

「上賀茂神社と下鴨神社の系統は異なる」

という説があることなどを踏まえると、

詳しい出自を特定するのは困難です。

 

葛城山と言えば、忌部氏同様、

謎多き氏族である「葛城氏」の拠点ですね。

賀茂氏、葛城氏、そして忌部氏の間には、

いったいどのような接点があったのでしょうか……。

ちなみに、葛城山のふもとの神社には、

牛肉を畔の溝口に置いたり、

猪、馬、鶏などの狩猟物を献上したりといった、

神代忌部が持ち込んだとされる、

狩猟の習俗によく似た祭祀が残っているそうです。


賀茂氏の三神

2018-08-02 09:17:01 | 阿波・忌部氏2

<一言主神社 ひとことぬしじんじゃ>

 

土佐神社の伝承には、大和葛城山を舞台にした

雄略天皇と一言主神との物語が残されています。

何でも葛城山で狩りをしていた雄略天皇が、

一言主神(高鴨神)の言動に激怒し、

一言主神を土佐に追いやったことが

神社創建のきっかけだったのだとか。

のちに、賀茂氏の口添えにより、

大和国への帰還を果たしたものの、

一言主神の和魂だけは土佐国に留まり、

以降土佐神社で祀られていると聞きます。

 

ちなみに、土佐神社の主祭神・味鋤高彦根神は、

大国主命と宗像三女神の多紀理毘賣命

との間に生まれた神様でして、

大和葛城の鴨氏の氏神であるだけでなく、

阿波国や長国に縁する「事代主神」

とも同一視される存在です。

また、「一言主神と事代主神とは同神」

という説があることを考えても、

味鋤高彦根神・一言主神・事代主神はともに、

忌部氏との強力な縁を築いていたことがわかるでしょう。