<石上神宮 いそのかみじんぐう>
ひと口に古代イスラエル氏族と言いましても、
「生贄の習俗を持つ部族」と「生贄を禁じる部族」
とに分かれていると聞いたことがあります。
ただし、生贄祭祀(牛の供犠)の形跡が見られるのは、
朝鮮半島南部の新羅が中心だと言われており、
大陸ルートを通り日本にやってきた渡来人の多くが、
朝鮮半島北部の扶余族や狛族だったと仮定すると、
基本的に渡来人のほとんどが、
それらの習俗とは無縁だったはずです。
確かにユダヤ民族には生贄に関する記述もありますが、
長い旅の道中、他の狩猟民族などとの関りを持つ中で、
独自の祭祀として進化した部分もあったのでしょう。
主に、古い時代に来日した人たちや、
南の黒潮ルートを選んだ人たちは、
長期間、経由地には留まらずに、
日本に向かった可能性が高いゆえ、
大陸の文化には染まりにくかったと思われます。
ちなみに、桓武天皇の時代に、
「牛を殺して漢神をまつるを禁ずる」
というお触れが出されたそうです。
もしかすると、物部のいざなぎ祭文の中の、
天中姫宮といざなぎ大神のやりとりのように、
イスラエルの異なる部族、あるいは同じ部族間でも、
「王道」と「外法」とを巡り、
様々な駆け引きがあったのかもしれません。