すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1429号 登呂人も仰ぎ見ていた富士の嶺

2016-02-24 11:51:51 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】復元された竪穴式住居の前で、古代の火おこし体験会が開かれている。参加者は1家族だけだが、博物館員の指導を受けながら、顔を紅潮させて「はずみ車」を回転させているお母さんは真剣だ。コートを脱いで本気で取り組んでいるのだが、摩擦熱による着火は一向に成功しない。しっかり体得したのは古代人の苦労と器用さのようだ。静岡市南部の登呂遺跡。住宅地の向こうに銀嶺が聳えている。登呂人も富士山を眺めていたわけか。



国の特別史跡・登呂遺跡は、弥生時代後期(1世紀ころ)の集落跡だ。住居や井戸の跡が確認され、火おこし器などの生活用具もたくさん出土した。それ以上にこの遺跡が貴重なのは、広大な水田の痕跡が確認されたことだ。低地定住が進み、水路と畔で区画された水田が登場したころの、列島の暮らしがそっくり丸ごと発掘されたのだ。そして本格的学術調査や文化財保護への道筋をつけた遺跡としても、記念碑的重要性を帯びている。



22年前、静岡に赴任して最初に出かけたのがこの遺跡だった。すでに発掘・整備は進んでいて、博物館もあった。それ以来の再訪の今回、驚いたのは周辺の環境変化だ。市の中心部からは狭い街道が一筋通じていたが、それが数倍にも拡幅されて新たな市街地を形成している。さらに遺跡の周りは小綺麗な住宅が立ち並び、復元住居と奇妙なコントラストを見せている。変わらないのは富士山で、登呂人はどんな気分で眺めていたかと思う。



現代生活に囲まれた遺跡地を歩いて、面白いことに気が付いた。それは2000年の時を隔てた暮らしが、根本ではさほど違っていないということだ。住居は円形と四角形の違いこそあるものの、屋根を葺いてその下で生活することは同じだ。水田も1枚の大きさは差があるけれど、水を引き、畔で区切って耕作するのは現在の農法に通じる。最大の違いは使用するエネルギーかもしれないが、火おこしは弥生人の方がずっと上手だったろう。



登呂ムラは水害で放棄されたらしく、その歴史はさほど長くないようだ。だからこの地の弥生文化がその後の静岡文化と通じているなど、こじつけは言わない方がいいけれど、遺跡公園の一角に芹沢介美術館があるのは暗示的である。私は芹沢介という染織家の作品に、いつも「静岡的」なるものを感じている。それは静岡で2年間暮らして、この街が徳川の武家的痕跡以上に、今川の公家文化を色濃く残していると感じるからだ。



芹沢の生み出す造形は、どれも繊細で美しい。暴力的な激しさを忌避する体質だったのだろう。棟方志功と「釈迦十大弟子」で作風を比較するとわかりいい。同じテーマでありながら「静と動」「品と生」の差異は甚だしい。棟方の生まれた青森は、登呂の時代に先立つ縄文文化が、列島で最も充実した地である。方や静岡には、登呂や伊場(浜松)など、弥生時代の集落遺跡が多い。「縄文的棟方と弥生的芹沢」と言ってみたい誘惑にかられる。



帰宅して「静岡市立登呂博物館」のホームページを開いた。遺跡の発見から発掘調査の経緯が詳しく記述されている。感心したのは関わった人々の労にしっかり報いていることだ。遺物を保管した軍需工場の工事担当者、その価値を見抜いた在野の研究者、そして発見をいち早く伝え、保存の機運を高めた毎日新聞静岡支局の記者。功名争いが見苦しい考古学の世界で、功績のあった民間人を明記していることは、あっぱれである。(2016.2.16)









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