【Tokyo-k】新潟市の西郊に《小針》という地域がある。日本海を隔てる砂丘と、信濃川まで続く水田地帯の一部を、市の中心部からあふれ出た人口がジワジワと浸食して造った住宅地である。その一角に、母が小さな家を建てたのは1962年だった。地方都市にも、マイホーム時代が到来していた。それから50余年。相続後も家と土地を維持して来た私は、売却を決めた。そのことが私を、思いがけない感傷に追い込んだのである。
決済の日、久しぶりに新潟を訪れると、家屋も庭木も庭石も塀も、すべてが消えていた。東京から業者に指示し、そのつど報告を受けていたのだから驚くことはないのだが、余りにあっさりと、何の痕跡も残さず撤去されたことに呆然となった。兄と私が東京に去った後、母は独りでこの家で暮らし、20年前に亡くなった。私の思い出はもちろん、母の記憶がどこかへごっそりと持ち去られたような、妙な気分である。
そうした感情に襲われることは、予想もしていなかった。文字に表せば《喪失感》が最も近いのだろう。庭木1本にも母との思い出が詰まっていたことに気づかされ、それがもはや無いことを思い知らされたのである。私は人生の大半を東京で生きている。しかし自分を東京人だと思ったことはないし思いたくもない。いささかおこがましいと思いつつ「俺は新潟県人だ」と言えたのは、この土地があったからなのだろう。
土地の私有制は、人類の英知の結晶かそれとも滑稽な欲望の産物かはともかく、新潟の土地を売却したことによって、私は目下、地球上に「自分の土地」は一片もなくなった。東京のマンションは近くの寺からの借地である。所有する土地が皆無でも、生きるに不都合はないことは分かっているのだが、「一片も無い」というのは立ち位置が定まらないようで落ち着かない。《喪失感》には、この感覚も含まれているのだろう。
(リビングは近所のお年寄りの茶の間=自治会提供)
近隣の家々に挨拶した。ほとんどが分譲時に移り住んだ家族で、家屋の多くは手が加えられ、敷地いっぱいに増築されている。子供の成長に合わせ、おそらく老後は同居する計画で立て増したのだろう。しかしどの家も子供たちは自立し、残っているのは高齢化した第1世代だけのようである。わが家もその例に漏れず、第2世代の私たちがここに戻ることはない。子育てで賑やかだった住宅地は、超高齢地帯になっている。
(茶室で開催の「ひな祭り」=自治会提供)
団地のほぼ真ん中にある私の家は、自治会の茶の間として自由に使ってもらっていた。お茶を楽しんでいた母が増築した茶室は格好の団欒室になっていたようで、定例の市政トークのほか敬老会や食事会、合唱の日も設けられ、年間900人を超える参加者が楽しんでいると自治会長から丁寧な報告も届いていた。このまま提供していて構わないのだが、離れて暮らしていると家の老朽化が気掛かりで、売却を決断したのだ。
私は本籍を、結婚後も小針に置いたままにしていた。しかし家も土地も無くなった以上、移すことが妥当だろうと区役所で手続きをした。新潟市は合併で規模が増大、政令市になって区制が引かれた。しかし地価の下落は止まらないのだと、私から売却手数料をせしめた不動産屋はこぼす。本籍を移動した後も、新潟が私の郷里であることに変わりはない。懐かしい街が萎んで行くのは、愉快ではないのである。(2015.6.11)
決済の日、久しぶりに新潟を訪れると、家屋も庭木も庭石も塀も、すべてが消えていた。東京から業者に指示し、そのつど報告を受けていたのだから驚くことはないのだが、余りにあっさりと、何の痕跡も残さず撤去されたことに呆然となった。兄と私が東京に去った後、母は独りでこの家で暮らし、20年前に亡くなった。私の思い出はもちろん、母の記憶がどこかへごっそりと持ち去られたような、妙な気分である。
そうした感情に襲われることは、予想もしていなかった。文字に表せば《喪失感》が最も近いのだろう。庭木1本にも母との思い出が詰まっていたことに気づかされ、それがもはや無いことを思い知らされたのである。私は人生の大半を東京で生きている。しかし自分を東京人だと思ったことはないし思いたくもない。いささかおこがましいと思いつつ「俺は新潟県人だ」と言えたのは、この土地があったからなのだろう。
土地の私有制は、人類の英知の結晶かそれとも滑稽な欲望の産物かはともかく、新潟の土地を売却したことによって、私は目下、地球上に「自分の土地」は一片もなくなった。東京のマンションは近くの寺からの借地である。所有する土地が皆無でも、生きるに不都合はないことは分かっているのだが、「一片も無い」というのは立ち位置が定まらないようで落ち着かない。《喪失感》には、この感覚も含まれているのだろう。
(リビングは近所のお年寄りの茶の間=自治会提供)
近隣の家々に挨拶した。ほとんどが分譲時に移り住んだ家族で、家屋の多くは手が加えられ、敷地いっぱいに増築されている。子供の成長に合わせ、おそらく老後は同居する計画で立て増したのだろう。しかしどの家も子供たちは自立し、残っているのは高齢化した第1世代だけのようである。わが家もその例に漏れず、第2世代の私たちがここに戻ることはない。子育てで賑やかだった住宅地は、超高齢地帯になっている。
(茶室で開催の「ひな祭り」=自治会提供)
団地のほぼ真ん中にある私の家は、自治会の茶の間として自由に使ってもらっていた。お茶を楽しんでいた母が増築した茶室は格好の団欒室になっていたようで、定例の市政トークのほか敬老会や食事会、合唱の日も設けられ、年間900人を超える参加者が楽しんでいると自治会長から丁寧な報告も届いていた。このまま提供していて構わないのだが、離れて暮らしていると家の老朽化が気掛かりで、売却を決断したのだ。
私は本籍を、結婚後も小針に置いたままにしていた。しかし家も土地も無くなった以上、移すことが妥当だろうと区役所で手続きをした。新潟市は合併で規模が増大、政令市になって区制が引かれた。しかし地価の下落は止まらないのだと、私から売却手数料をせしめた不動産屋はこぼす。本籍を移動した後も、新潟が私の郷里であることに変わりはない。懐かしい街が萎んで行くのは、愉快ではないのである。(2015.6.11)