すずめ通信

すずめの街の舌切雀。Tokyo,Nagano,Mie, Chiba & Niigata Sparrows

第1377号 田上の湯に浸かって蒲原平野を想う

2015-06-20 15:17:35 | Tokyo-k Report
【Tokyo-k】友人が運転するSUVは、信濃川に沿って南へ下っている。久しぶりに新潟に帰郷した私を、田上町にある温泉宿へ案内してくれようというのだ。川は田植えを終えた平野を潤して、なお豊かに黒々と河口へと向かっている。時おり堤の下に現れる集落は、水面より低いのではないだろうか。大河の恵みと恐ろしさのなかで、愚直に米作りを続けて来た蒲原の農民たち。私の先祖も、その中の一群れであったに違いない。



私は高校卒業まで新潟市で育ったのだが、子供の見聞はやはり狭い。信越線のどこかに「田上」という駅があることは知っていたものの、新潟市からはずいぶん遠い、他国のような印象を抱いていた。しかし友人は、まるで郊外のショッピングモールに出掛けるような気軽さで私を誘った。道路の整備が進んで車での移動が常識となり、バスやローカル列車を乗り継ぐ昔の地図が頭の中で停止している私は戸惑うばかりだ。

(西蒲原に保存されている「ハザ木」の列。背景は弥彦山)

堤防から見晴るかす稲田の風景こそ変わりないものの、しかしどこにも「ハザ木」が見当たらないのは味気ない。田は整然と無機質に区画され、刈り取った稲を干すために、田に沿ってヒョロヒョロと並んでいたハザ木の列は今や無用になったのだろう。フナを釣り、蝉を追ってカエルをいじめた遊び場はもはやない。遠くに弥彦の連山が霞んでいるから、もちろんここは蒲原なのであり、私が齢を重ねただけなのである。

(蒲原平野の隅を走り回っていたころの私=右。兄=左=が小学校に入学した際の写真だから昭和24年ころか。私も兄のような帽子が欲しいとだだをこね、ようやく親が見つけてくれた帽子を載せてご満悦な4歳の春)

蒲原はひたすら稲作に適した、彩りの薄い大地だ。それでも私は、この原を眺めると気持ちが安らぐ。幼い日々の幸せが、抜き難く身体に染み込んでいるのだろう。しかし同時に、蒲原の人々の生活が決して平穏ではなかったことも知っている。横田切れ、角兵衛獅子、毒消し売り、小作争議と、涙をたっぷり含んだ大地でもある。哀しい言葉「川流れオジ」もあった。だから私の気持ちは、安らいでも弾むほどではない。



そうした蒲原平野を憶うと、私の内に決まって「アルビノーニのアダージョ」が響き始める。すると私は弥彦の山頂からふわりと空中へ浮遊し、平野上空を滑空する。青々とした田と点在する集落。凡々とした原で飽かず繰り返される人生が、実はドラマチックな愛憎に満ちたものであるように、アダージョはクライマックスへと高まっていく。東京都とほぼ同じ面積の蒲原平野(越後平野)は、2000平方キロある。



その中央部を北上して流れるのが信濃川で、会津から西行して来た阿賀野川と一緒になって潟の街・新潟を造り日本海に注ぐ。周囲の平野は北・東・中・西・南の5郡に分けられ、私は西蒲原で生まれた。田上は南蒲原郡の、平野の東を縁取る丘陵の麓に広がる街だが、詳しくは知らない。凡庸な風景ながら護摩堂山という、近在の子供たちの遠足コースの丘陵山麓に温泉が湧き、湯治場が営まれた。湯田上温泉だ。

(新潟は「杉と男は育たない」と言われるようだが、湯田上温泉・ 東龍寺参道の「東龍寺杉」は樹齢700年の巨木。根元は厚いコケに覆われている。杉も男も育つのが新潟なのである)

宿の浴場に明治期の「諸国温泉一覧」が掲げられている。東の大関は草津、西のそれは有馬である。そして一番下の隅に、小さく「越後田上の湯」と確認できる。露天風呂で、爺さんが「昔は数十軒の宿が並んでいたんだが、今は5軒だけになった」と言った。そのディープな越後弁を十分に聞き取れないことに、故郷が遠くなったことを知る。湯から遠望する蒲原は、山の端からわずかに覗く霞の中だった。(2015.6.10)






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