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【Tokyo-k】毎年6月になって鮎釣りが解禁されると、釣りキチはお気に入りの渓流へと飛び出し、友釣りに没入するのだけれど、釣りキチでない私は家に居て、「今年こそ鮎を食べるぞー」と雄叫びを挙げる。そんなことを繰り返して10年余になろうかという今年、とうとう我慢できずに家を飛び出し、寄居の料理旅館にやって来た。世の中、美味しいものはたくさんあるのに、この季節になると、無性に鮎の塩焼きを頬張りたくなるのである。さあ、食べよう!
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渓流にはイワナやヤマメなど、鮎より美味と思われる魚もいる。しかしあのスイカのような香りを漂わせる鮎ほど、「夏は来ぬ」を思わせる魚はいない。塩焼き、洗い、煮浸し、そしてウルカなどなど。かつて群馬で暮らしたころ、利根川の梁場がオープンするといそいそと出かけ、「もう鮎は結構」というほど食べて、翌年になるとまたいそいそと出かけたものだった。それがすっかり遠のいて、「今年こそは」の思いだけを積もらせてきたのである。
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寄居にやってきたのは、荒川のほとりに眺めのいい庭を構える、日に2組だけ宿泊客を受け入れる料理旅館があるからだ。25年も昔になるが、後輩を慰労しようとお昼を食べに来たことがある。庭の手入れは行き届き、その際の記憶とほとんど変わっていない。昭和6年建築の純和風2階屋で、戦前戦後の歌謡界でヒット曲を連発した作曲家が自邸として建てたという。戦時中は宮家に接収され、今は作曲家の縁者が料亭として館を守っている。
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こうした鮎料亭には、釣り師が釣果を持ち込む仕組みがあるようで、「本日は群馬の神流川です」ということだった。妻は「煮浸し、洗い、炊きこみがとっても美味しかった」と言ったものの、塩焼きの香りは私も物足りなかった。ただカジカの骨酒を友にして、10年来の宿願を果たして私はご機嫌である。対岸は戦国時代の鉢形城跡で、昔は子供たちの水浴び場だったという「玉淀」が眼下に広がり、枕もとに荒川の瀬音が静かに響いてくるのだった。
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雨が止んでいるうちにと、食事前に鉢形城跡を訪ねる。上杉・武田・北条が奪い合った要衝で、北面を荒川の断崖に守られた段丘上に、土塁や空堀などを残す広大な城郭である。遺構はよく保存され、国の史跡に指定されている。城跡へは長い橋を渡るが、そのたもとに「神谷茂助翁顕彰碑」が建っている。大正年間に、左岸の寄居町と右岸の鉢形村を結ぶ吊橋を、私財を投じて架けた土地の素封家である。総理大臣の題額と、県知事の撰が彫られている。
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深い渓谷を形成するほどの河は、地域を分断する溝である。おそらく玉淀あたりの荒川も、鉢形村と寄居町の行き来を遮って、鉢形側の右岸は忍藩領から忍県、埼玉県と変遷し、左岸は岩鼻県、群馬県と移ろった後、埼玉県に併合されたようだ。川が県境だったのである。鉢形村が寄居町と合併したのは、戦後10年ほど経てからである。地域を結ぶ橋を架けた先人への感謝は篤く、戦後になってなお、その功績を顕彰する機運は衰えなかったのだろう。
寄居町は秩父往還の宿場町として賑わった街で、昭和初期に鉄道が通じたことから、荒川の清流を求めて東京の文人らが別荘を建てたり移り住んできたのかもしれない。鉄路は八高線、東上線、秩父線と3本も乗り入れ、駅は経営の異なる3線のホームが並行する珍しい構造をしている。人口3万人余の小さな規模だが、城跡での北条祭りや夏の玉淀水天宮祭など賑やかな催しが守り伝えられ、小さいながら存在感を覚える街である。(2023.6.30-7.1)
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渓流にはイワナやヤマメなど、鮎より美味と思われる魚もいる。しかしあのスイカのような香りを漂わせる鮎ほど、「夏は来ぬ」を思わせる魚はいない。塩焼き、洗い、煮浸し、そしてウルカなどなど。かつて群馬で暮らしたころ、利根川の梁場がオープンするといそいそと出かけ、「もう鮎は結構」というほど食べて、翌年になるとまたいそいそと出かけたものだった。それがすっかり遠のいて、「今年こそは」の思いだけを積もらせてきたのである。
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寄居にやってきたのは、荒川のほとりに眺めのいい庭を構える、日に2組だけ宿泊客を受け入れる料理旅館があるからだ。25年も昔になるが、後輩を慰労しようとお昼を食べに来たことがある。庭の手入れは行き届き、その際の記憶とほとんど変わっていない。昭和6年建築の純和風2階屋で、戦前戦後の歌謡界でヒット曲を連発した作曲家が自邸として建てたという。戦時中は宮家に接収され、今は作曲家の縁者が料亭として館を守っている。
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こうした鮎料亭には、釣り師が釣果を持ち込む仕組みがあるようで、「本日は群馬の神流川です」ということだった。妻は「煮浸し、洗い、炊きこみがとっても美味しかった」と言ったものの、塩焼きの香りは私も物足りなかった。ただカジカの骨酒を友にして、10年来の宿願を果たして私はご機嫌である。対岸は戦国時代の鉢形城跡で、昔は子供たちの水浴び場だったという「玉淀」が眼下に広がり、枕もとに荒川の瀬音が静かに響いてくるのだった。
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雨が止んでいるうちにと、食事前に鉢形城跡を訪ねる。上杉・武田・北条が奪い合った要衝で、北面を荒川の断崖に守られた段丘上に、土塁や空堀などを残す広大な城郭である。遺構はよく保存され、国の史跡に指定されている。城跡へは長い橋を渡るが、そのたもとに「神谷茂助翁顕彰碑」が建っている。大正年間に、左岸の寄居町と右岸の鉢形村を結ぶ吊橋を、私財を投じて架けた土地の素封家である。総理大臣の題額と、県知事の撰が彫られている。
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深い渓谷を形成するほどの河は、地域を分断する溝である。おそらく玉淀あたりの荒川も、鉢形村と寄居町の行き来を遮って、鉢形側の右岸は忍藩領から忍県、埼玉県と変遷し、左岸は岩鼻県、群馬県と移ろった後、埼玉県に併合されたようだ。川が県境だったのである。鉢形村が寄居町と合併したのは、戦後10年ほど経てからである。地域を結ぶ橋を架けた先人への感謝は篤く、戦後になってなお、その功績を顕彰する機運は衰えなかったのだろう。
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寄居町は秩父往還の宿場町として賑わった街で、昭和初期に鉄道が通じたことから、荒川の清流を求めて東京の文人らが別荘を建てたり移り住んできたのかもしれない。鉄路は八高線、東上線、秩父線と3本も乗り入れ、駅は経営の異なる3線のホームが並行する珍しい構造をしている。人口3万人余の小さな規模だが、城跡での北条祭りや夏の玉淀水天宮祭など賑やかな催しが守り伝えられ、小さいながら存在感を覚える街である。(2023.6.30-7.1)
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