《1↑ 『宮澤賢治研究(宮澤賢治全集別巻)』(草野心平編、筑摩書房) 》
羅須地人協会の会員の一人に高橋光一という人がいたという。
その高橋光一から飛田三郎が聞き取ったという「聞書」の中に次のようなくだりがあった。
學校を止められてから「野菜づくりをはじめたいのだが一つ教えていただきたい。」と云って來られ、以來、すっかり心安すの間柄になり、その後はもはや、何事にせよ「居たっか」(今日は、又はご在宅ですかと云う意味の挨拶)と気輕に訪ねて見えるよになりました。
羅須地人協會を始める時には「まんず、先さたって助けろ。」(とに角、先頭に立って助力してください)と云われて行きました。
島からは私ぐらいのもの、近所の一さんは知っていましたが、ほかは初めての若い人達でした。
<「肥料設計と羅須地人協會(聞書)(飛田三郎著)」(『宮澤賢治研究』、筑摩書房)より>
というわけで、宮澤賢治は羅須地人協会を始めるにあたって少なくともこの高橋光一をすこぶる頼りにしたということなのだろう。
それは、同じく飛田が高橋光一から聞き取った際に語った
先生がまだ農學校に勤めて居られた頃、近郷農村合同の野菜品評會があり、私(島地區、高橋光一氏)の出品した玉菜が一等に入賞しました。
先生はたぶん審査員をなされていたのでしょうが「あまり見事なので譲って下さるわけには参りませんか。」と終了の日に云われました。
あとでお禮にわざわざお出で下さいました。メロンなどのことで、同じ學校の堀籠先生も度々お出でになっていたし、そんなこんなの関係からお交際になりました。
<「肥料設計と羅須地人協會(聞書)(飛田三郎著)」(『宮澤賢治研究』、筑摩書房)より>
ということから推しはかれるように、賢治と光一は以前からかなり懇意だったからであり、信頼関係ができていたからなのであろう。
ところで、この同著の聞書の中にはその光一が次のようなことを証言していたことも載っている。
東京へも何度か行かれました。
「東京さ行ぐ足(旅費)をこさえなけりゃ……。」などと云って、本だのレコードだの他のものもせりにかけるのですが、せりがはずんで金額がのぼると「じゃ、じゃ、そったに競るな!」なんて止めさせてしまうのですから、ひょんたな(變な)「おせり」だったのです。「お土産げ」と云って、はだかの繪(裸體寫真)など下さったのですが、どんなお心算であんなものを配られたのか、わからないで居ります。
<「肥料設計と羅須地人協會(聞書)(飛田三郎著)」(『宮澤賢治研究』、筑摩書房)より>
この証言内容から、この著書こそが前回”滞京費用捻出のため?”において私が
「ものの本(確認中)」によると競売の際に値が上がりすぎると賢治はそれをおし留めたとも書いてあった
と述べた「ものの本(確認中)」そのものであったことが判ったから、これでまずはホッとした。さらには、この光一がここで語っている「おせり」こそあの大正15年11月29日に「協会」で行われた「持ち寄り競売」そのものではなかったのではなろうかと私は受け止めた。
というわけで一安心したしと言えばいいのではあるが、一難去ってまた一難。この高橋光一の証言の後半部分に私は面食らってしまう。しかし、いつかこの賢治の性癖については論じなくてはならないとも考える。
続きの
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羅須地人協会の会員の一人に高橋光一という人がいたという。
その高橋光一から飛田三郎が聞き取ったという「聞書」の中に次のようなくだりがあった。
學校を止められてから「野菜づくりをはじめたいのだが一つ教えていただきたい。」と云って來られ、以來、すっかり心安すの間柄になり、その後はもはや、何事にせよ「居たっか」(今日は、又はご在宅ですかと云う意味の挨拶)と気輕に訪ねて見えるよになりました。
羅須地人協會を始める時には「まんず、先さたって助けろ。」(とに角、先頭に立って助力してください)と云われて行きました。
島からは私ぐらいのもの、近所の一さんは知っていましたが、ほかは初めての若い人達でした。
<「肥料設計と羅須地人協會(聞書)(飛田三郎著)」(『宮澤賢治研究』、筑摩書房)より>
というわけで、宮澤賢治は羅須地人協会を始めるにあたって少なくともこの高橋光一をすこぶる頼りにしたということなのだろう。
それは、同じく飛田が高橋光一から聞き取った際に語った
先生がまだ農學校に勤めて居られた頃、近郷農村合同の野菜品評會があり、私(島地區、高橋光一氏)の出品した玉菜が一等に入賞しました。
先生はたぶん審査員をなされていたのでしょうが「あまり見事なので譲って下さるわけには参りませんか。」と終了の日に云われました。
あとでお禮にわざわざお出で下さいました。メロンなどのことで、同じ學校の堀籠先生も度々お出でになっていたし、そんなこんなの関係からお交際になりました。
<「肥料設計と羅須地人協會(聞書)(飛田三郎著)」(『宮澤賢治研究』、筑摩書房)より>
ということから推しはかれるように、賢治と光一は以前からかなり懇意だったからであり、信頼関係ができていたからなのであろう。
ところで、この同著の聞書の中にはその光一が次のようなことを証言していたことも載っている。
東京へも何度か行かれました。
「東京さ行ぐ足(旅費)をこさえなけりゃ……。」などと云って、本だのレコードだの他のものもせりにかけるのですが、せりがはずんで金額がのぼると「じゃ、じゃ、そったに競るな!」なんて止めさせてしまうのですから、ひょんたな(變な)「おせり」だったのです。「お土産げ」と云って、はだかの繪(裸體寫真)など下さったのですが、どんなお心算であんなものを配られたのか、わからないで居ります。
<「肥料設計と羅須地人協會(聞書)(飛田三郎著)」(『宮澤賢治研究』、筑摩書房)より>
この証言内容から、この著書こそが前回”滞京費用捻出のため?”において私が
「ものの本(確認中)」によると競売の際に値が上がりすぎると賢治はそれをおし留めたとも書いてあった
と述べた「ものの本(確認中)」そのものであったことが判ったから、これでまずはホッとした。さらには、この光一がここで語っている「おせり」こそあの大正15年11月29日に「協会」で行われた「持ち寄り競売」そのものではなかったのではなろうかと私は受け止めた。
というわけで一安心したしと言えばいいのではあるが、一難去ってまた一難。この高橋光一の証言の後半部分に私は面食らってしまう。しかし、いつかこの賢治の性癖については論じなくてはならないとも考える。
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