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《↑『宮澤賢治研究』(古谷綱武著、日本社)表紙》
以前”『宮澤賢治名作選』出来”において、生前全国的には無名だった宮澤賢治を広く世に知らしめることが出来たのは松田甚次郎に依るところが多いと思う、というようなことを述べたつもりだった。また、吉本隆明が宮澤賢治に関心を持ち始めた切っ掛けは松田甚次郎編集の『宮澤賢治名作選』だったということは以前”『吉本・甚次郎・賢治』”で述べたとおりである。宮澤賢治を世に知らしめたという点で松田甚次郎の役割・貢献度は大きかったはずである。
ところが現在、残念ながらその松田甚次郎の大いなる貢献は世の中からはほぼ忘れ去られ、あるいは軽んじられているような気がしてならない。一方、その役割は第一義的には草野心平や高村光太郎に依るところが多いと思われいるような気がするこの頃である。
実際例えば、『修羅はよみがえった』((財)宮澤賢治記念会)の「宮澤賢治全集の道程」には時系列で、
1.書物展望社 宮澤賢治全集全六巻 (未刊行)
2.文圃堂版 宮澤賢治全集全三巻 (昭和9年10月~10年9月)
3.十字屋書店版 宮澤賢治全六巻、別巻一 (昭和14年6月~19年2月)
4.日本読書組合版 宮澤賢治文庫全十一冊… (昭和21年12月~)
5.(以下略)…
の順にゴシックで項立てされてそれぞれ詳述されているが、このように取り扱われ方がされていれば自ずから草野心平や高村光太郎の貢献度がまずは大となってくるはずである。まして、松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』(羽田書店、昭和14年3月)はすっぽりと抜け落ちているからそれは尚更であろう。
もしかするとここにそれが抜け落ちているのは、タイトルが『宮澤賢治名作選』であって『…全集』と銘打っていないせいかもしれない。しかし、この『宮澤賢治名作選』には文圃堂版には未収録であった作品も収録されているし、全作品の主要なものも選択収録されているわけだから、当時にすれば少なくとも文圃堂版に優るとも劣らなかったはず。
したがって当時とすれば『宮澤賢治名作選』は実質的には『…全集』であり、「宮澤賢治全集」のカテゴリーに入れてもよかったのではなかろうか、なにしろ未刊行の全集さえここでは扱われているくらいなのだから。さらには、文圃堂版にしろ十字屋版にしろその発行部数は2,000部も越えていないはずだが、『…名作選』の方は幾度も版を重ね、少なくとも11版も重ねているくらいだからその発行部数は比較にならなず、極めて多くの人に読まれたはずだからである。
実際当時の松田甚次郎の功績が如何ほどのものであったか、松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』が広く読まれていたかをということを如実に推し量れるある資料があったので報告する。それは、『宮澤賢治研究』(古谷綱武著、日本社)である。
古谷綱武は昭和16年9月20日に盛岡の岩山で行われた「賢治の祭り」に出席しているが、それに関して次のようなことをそこに書いている。
その案内状が、また實に、よい文章であつた。その案内状のなかで、私が今でもまだはつきりとおぼえていることは、會の次第を書いた最後に、持参すべきものとして、賢治名作選とかお辨當とか懐中電燈とか、そのようなものの名前の書いてあるいちばん終わりに、「くれぐれも厚着を忘れぬこと」という一行のあつたことである。
そしてその案内状は以下のようなものであったともいう。
賢治の祭りの案内
二十一日は賢治さんの九度目の御命日です。…(略)…わざわざお出で下すつた古谷氏の賢治についてのお話をどんなにか私たちを歡ばすことでせうし、賢治子供會の歌や紙芝居や踊りの至純さは、まこと天のものです。一同の所感は聖なるわれらの賢治の想ひにつらなつて、明日への決意を新たに心を呼び起こすでせう。十時惜しくも會は閉ぢられ、この悠久なる自然にしみじみ打たれ乍ら歡喜し山を下るわけであります。
一、持参すべきもの、賢治名作選、電池、お辨當、湯呑、手帳、鉛筆、ジャケツ、それに会費五十銭御用意下さい。厚着はくれぐれも忘れぬこと。…(以下略)
<『宮澤賢治研究』(古谷綱武著、日本社)より>
このことから次のようなことが言えよう。
1.昭和16年当時、松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』が少なからぬ家庭に蔵されたいたということ。
2. 〃 、賢治の作品集としては既に『宮澤賢治全集』(文圃堂版、十字屋版)が発行されてはいたが、それらよりこの『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、羽田書店)の方が広く知られていたということ。
したがって、これらの点からだけでも宮澤賢治の存在を世に知らしめたという点では松田甚次郎が果たした役割は大きい。とりわけ『宮澤賢治名作選』で初めて賢治の作品に接したという人が多かったであろうから松田甚次郎の貢献度は極めて大であり、その当時一部の人には評価されてはいたものの、岩手の一隅にまだ埋もれていただけだったといっていい宝石箱(宮澤賢治の作品)を全国に開けて見せてくれたのが松田甚次郎と言えるのではなかろうか。
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以前”『宮澤賢治名作選』出来”において、生前全国的には無名だった宮澤賢治を広く世に知らしめることが出来たのは松田甚次郎に依るところが多いと思う、というようなことを述べたつもりだった。また、吉本隆明が宮澤賢治に関心を持ち始めた切っ掛けは松田甚次郎編集の『宮澤賢治名作選』だったということは以前”『吉本・甚次郎・賢治』”で述べたとおりである。宮澤賢治を世に知らしめたという点で松田甚次郎の役割・貢献度は大きかったはずである。
ところが現在、残念ながらその松田甚次郎の大いなる貢献は世の中からはほぼ忘れ去られ、あるいは軽んじられているような気がしてならない。一方、その役割は第一義的には草野心平や高村光太郎に依るところが多いと思われいるような気がするこの頃である。
実際例えば、『修羅はよみがえった』((財)宮澤賢治記念会)の「宮澤賢治全集の道程」には時系列で、
1.書物展望社 宮澤賢治全集全六巻 (未刊行)
2.文圃堂版 宮澤賢治全集全三巻 (昭和9年10月~10年9月)
3.十字屋書店版 宮澤賢治全六巻、別巻一 (昭和14年6月~19年2月)
4.日本読書組合版 宮澤賢治文庫全十一冊… (昭和21年12月~)
5.(以下略)…
の順にゴシックで項立てされてそれぞれ詳述されているが、このように取り扱われ方がされていれば自ずから草野心平や高村光太郎の貢献度がまずは大となってくるはずである。まして、松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』(羽田書店、昭和14年3月)はすっぽりと抜け落ちているからそれは尚更であろう。
もしかするとここにそれが抜け落ちているのは、タイトルが『宮澤賢治名作選』であって『…全集』と銘打っていないせいかもしれない。しかし、この『宮澤賢治名作選』には文圃堂版には未収録であった作品も収録されているし、全作品の主要なものも選択収録されているわけだから、当時にすれば少なくとも文圃堂版に優るとも劣らなかったはず。
したがって当時とすれば『宮澤賢治名作選』は実質的には『…全集』であり、「宮澤賢治全集」のカテゴリーに入れてもよかったのではなかろうか、なにしろ未刊行の全集さえここでは扱われているくらいなのだから。さらには、文圃堂版にしろ十字屋版にしろその発行部数は2,000部も越えていないはずだが、『…名作選』の方は幾度も版を重ね、少なくとも11版も重ねているくらいだからその発行部数は比較にならなず、極めて多くの人に読まれたはずだからである。
実際当時の松田甚次郎の功績が如何ほどのものであったか、松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』が広く読まれていたかをということを如実に推し量れるある資料があったので報告する。それは、『宮澤賢治研究』(古谷綱武著、日本社)である。
古谷綱武は昭和16年9月20日に盛岡の岩山で行われた「賢治の祭り」に出席しているが、それに関して次のようなことをそこに書いている。
その案内状が、また實に、よい文章であつた。その案内状のなかで、私が今でもまだはつきりとおぼえていることは、會の次第を書いた最後に、持参すべきものとして、賢治名作選とかお辨當とか懐中電燈とか、そのようなものの名前の書いてあるいちばん終わりに、「くれぐれも厚着を忘れぬこと」という一行のあつたことである。
そしてその案内状は以下のようなものであったともいう。
賢治の祭りの案内
二十一日は賢治さんの九度目の御命日です。…(略)…わざわざお出で下すつた古谷氏の賢治についてのお話をどんなにか私たちを歡ばすことでせうし、賢治子供會の歌や紙芝居や踊りの至純さは、まこと天のものです。一同の所感は聖なるわれらの賢治の想ひにつらなつて、明日への決意を新たに心を呼び起こすでせう。十時惜しくも會は閉ぢられ、この悠久なる自然にしみじみ打たれ乍ら歡喜し山を下るわけであります。
一、持参すべきもの、賢治名作選、電池、お辨當、湯呑、手帳、鉛筆、ジャケツ、それに会費五十銭御用意下さい。厚着はくれぐれも忘れぬこと。…(以下略)
<『宮澤賢治研究』(古谷綱武著、日本社)より>
このことから次のようなことが言えよう。
1.昭和16年当時、松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』が少なからぬ家庭に蔵されたいたということ。
2. 〃 、賢治の作品集としては既に『宮澤賢治全集』(文圃堂版、十字屋版)が発行されてはいたが、それらよりこの『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、羽田書店)の方が広く知られていたということ。
したがって、これらの点からだけでも宮澤賢治の存在を世に知らしめたという点では松田甚次郎が果たした役割は大きい。とりわけ『宮澤賢治名作選』で初めて賢治の作品に接したという人が多かったであろうから松田甚次郎の貢献度は極めて大であり、その当時一部の人には評価されてはいたものの、岩手の一隅にまだ埋もれていただけだったといっていい宝石箱(宮澤賢治の作品)を全国に開けて見せてくれたのが松田甚次郎と言えるのではなかろうか。
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