みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

おわりに(テキスト形式)

2024-03-29 12:00:00 | 本統の賢治と本当の露
  おわりに
 それでは、「仮説検証型研究」という手法等によって、「羅須地人協会時代」を中心にして今まで研究し続けてきて辿り着いた私の結論を、以下に少しく述べてそろそろ終わりにしたい。
 まず、私のかつての賢治像はどのようして出来上がったのだろうか。それは、「賢治年譜」や賢治の「定説」そして「通説」等を少しも疑わずに信じ、信じ続けてきたことによってであり、賢治は、「貧しい農民たちのために自分の命を犠牲にしてまでも献身しようとした、類い稀な天才詩人であり童話作家である」だった。そして、「やまなし」「おきなぐさ」「なめとこ山の熊」あるいは「原体剣舞連」「稲作挿話」「和風は河谷いっぱいに吹く」「野の師父」は私の大好きな作品だった。
 ところが、定年を期に私はやっと時間的余裕ができたので、ずっと気になっていた恩師の岩田純蔵教授(賢治の甥)の嘆きに応えようとして、今まで約10年をかけて「羅須地人協会時代」を中心にして検証作業等を続けてきたのだがその結果は、常識的に考えておかしいと思ったところはほぼ皆おかしかった。つまり、現「賢治年譜」は歴史的事実等には忠実ではなくて、正反対なものや果ては嘘のもあるということを明らかにできて、幾つかの隠されてきた真実や新たな真実を、延いては本統の賢治を明らかにできた。
 そこで譬えてみれば、「賢治年譜」は賢治像の基底、いわば地盤だが、そこにはかなりの液状化現象が起こっているのでその像は今真っ直ぐに建っていないと言える。当然、それを眺める私たちの足元は不安定だから、それを的確に捉えることは難しい。まして、皆で同じ地面に立ってそれを眺めることはなおさら困難だから、各自の目に映るそれは同一のものとは言い難い。したがって、「賢治研究」をさらに発展させるためには、皆が同じ地面に立ててしかも安定して賢治像を眺められるようにせねばならないのだから、まずは今起こっている液状化現象を解消せねばならない。
 そう思って私は、常識的に考えてみて現「賢治年譜」でおかしい個所が、とりわけそれは「羅須地人協会時代」に少なからずありますので、それらのいわば液状化現象を起こしている個所を一度再検証してみることが不可避だと思います、というようなことを今年の春先に「賢治学会」の幹部に話した。ところがそのせいだろうか、同学会の幹部から私は「学会に反対する人物」と昨今言われているそうだ。あくまでも「仮説検証型研究」等の手法に拠って検証した結果を私は伝えたに過ぎずないのに。残念だ。もし私に対して異議があるならば感情レベルではなく論理で迫ってほしい。ただ一つでいい、反例を突きつけて下さい。そして反例が提示されたならば喜んで仮説を棄却します。そうすることによって、研究は発展していくからです。言い換えれば、反例を提示すること以外に、検証できた私の仮説を葬り去ることはできません。
 というわけで残念なことだが、その学会の幹部の方にして斯くの如しだから、私の一連の主張が世間から受け容れてもらえることは今しばらくは難しいであろうことを充分承知している。それは、このような主張は私如きが申すまでもなく、少なからぬ人たちが既に気付いているはずであるのにも拘わらず、このような液状化現象が長年放置され続けてきたことがいみじくも示唆していると私は考えているからでもある。おそらく、そこには構造的な理由や原因があったし、あるのであろう。それゆえ、私の主張が受け容れられるためにはまだまだ時間がかかるであろうから、私は時が来るのを俟っていてもいいと思っている。つまり、第一章の〝2.〟の㈠~㈥等の評価がどう定まるかは歴史の判断に委ねていいと思っている。
 だが一つだけ、決して俟っているだけではだめなものがある。それは、濡れ衣、あるいは冤罪とさえも言える〈悪女・高瀬露〉、いわゆる〈高瀬露悪女伝説〉の流布を長年に亘って放置してきたことを私たちはまず露に詫び、それを晴らすために今後最大限の努力をし、一刻も早く露の名誉を回復してやることを、である。もしそれが早急に果たされることもなく、今までの状態が今後も続くということになれば、それは「賢治伝記」に最大の瑕疵があり続けるということになるから、今の時代は特に避けねばならないはずだ。なぜなら、このことは他でもない、人権に関わる重大問題だからである。それ故、「賢治伝記」に関わるこの瑕疵を今までどおり看過し続けていたり、等閑視を続けていたりするならば、「賢治を愛し、あるいは崇敬している方々であるはずなのに、人権に対する認識があまりにも欠如しているのではないですか」と、私たち一般読者までもが世間から揶揄や指弾をされかねない。
 一方で露本人はといえば、
 彼女は生涯一言の弁解もしなかった。この問題について口が重く、事実でないことが語り継がれている、とはっきり言ったほか、多くを語らなかった。
〈『図説宮沢賢治』(上田哲、関山房兵、大矢邦宣、池野正樹共著、河出書房新社)93p~〉
というではないか。あまりにも見事でストイックな生き方だったと言うしかない。がしかし、私たちはこのことに甘え続けていてはいけない。それは、あるクリスチャンの方が、
 敬虔なクリスチャンであればあるほど弁解をしないものなのです。
ということを私に教えてくれたからだ。ならば尚のこと、理不尽にも着せられた露の濡れ衣を私は一刻も早く晴らしてやりたいし、そのことはもちろん多くの方々も願うところであろう。
 まして、天国にいる賢治がこの理不尽を知らないわけがない。少なくともある一定期間賢治とはオープンでとてもよい関係にあり、しかもいろいろと世話になった露が今までずっと濡れ衣を着せ続けられてきたことを、賢治はさぞかし忸怩たる想いで嘆き悲しんでいるに違いない。それは、結果的に賢治は「恩を仇で返した」ことになってしまったからなおさらにだ。だから、「いわれなき〈悪女〉という濡れ衣を露さんが着せられ、人格が貶められ、尊厳が傷つけられていることをこの私が喜んでいるとでも思うのか」と、賢治は私たちに厳しく問うているはずだ。そこで私は、露の名誉回復のためであることはもちろんだが、賢治のためにも、今後も焦らず慌てずしかし諦めずに露の濡れ衣をいくらかでも晴らすために地道に努力し続けてゆきたい。
 それからまた、かつてはいたく感動していた「稲作挿話」や「和風は河谷いっぱいに吹く」等に、予期もせぬ客観的事実についての虚構等があったことを識って、私はもはやこれらの詩には殆ど感動しなくなったから、正直一時期は裏切られたという思いを禁じ得なかった。そこで、こんな嫌な経験をこれからの若者たちにはもうさせたくはないという願いも私の中では強い。本書がそのための一助になれば嬉しい。
 以上が、ここ約10年をかけて「羅須地人協会時代」を中心にして検証作業等を続けてきた結果、私が辿り着いたことのほぼ全てだ。幸い、賢治に関しての、今まで隠されてきた真実や新たな真実の幾つかを、延いては本統の賢治を私は明らかにできた。そこで、それらの一つ一つが恩師岩田教授が嘆いたあの「いろいろなこと」に当たっているだと私は得心し、これでほんの少しだが恩師に恩返しができたものと思って今は正直ほっとしている。
 また、「〈悪女〉にされた高瀬露」というテーマで初めて公的に露のことを論じた上田哲の論文は何故か未完だったので、それを承けて私ここまで調べてきたつもりだが、その任も少しは果たせたと思っている。
 というわけで、本書では、本統の賢治は実はこんな人だったのだということを前半では幾つか浮き彫りにし、後半では、露の濡れ衣をいくらかでも晴らしたいという一念から露の本当の姿に迫ってみようとしたのだが、さて如何だったでしょうか。
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 最後になりましたが、ご指導やご助言そしてご協力を賜りました阿部弥之氏、安藤勝夫氏、伊藤博美氏、入沢康夫氏、故岩田有史氏、岩手日報社様、岩渕信男氏、牛崎敏哉氏、大内秀明氏、鎌田豊佐氏、菊池忠一郎氏、菊池忠二氏、工藤留義氏、佐藤誠輔氏、澤里裕氏、新庄ふるさと歴史センター様、平國友氏、高橋カヨ氏、高橋征穂氏、故千葉益夫氏、千葉滿夫氏、日本現代詩歌文学館様、花巻市立図書館様、望月善次氏、遊佐栄一氏、そしてお世話になりました多くの皆様方に深く感謝し、厚く御礼申し上げます。
 また、ツ―ワンライフ出版 細矢定雄社長には、私如き老骨の原稿をこのような一冊の本にして出版していだきましたことに改めて御礼申し上げます。大変ありがとうございました。
 平成29年12月29日
著者
 資料一 「羅須地人協会時代」の花巻の天候(稲作期間)


 
  資料二 賢治に関連して新たにわかったこと
 今まで「賢治研究」という観点からは公になっていなかったことで、多分私が初めて公に指摘したり、明らかにしたりしたと思われる主な項目は以下のとおり。
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・賢治の甥であり、私の恩師でもある岩田純蔵教授が、「賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった」という意味のことを述べていた。
・賢治と一緒に暮らしたことのある千葉恭の出身地は真城村折居(現奥州市水沢区真城折居)である。
・恭は大正15年6月22日付で穀物検査所花巻出張所を辞職、昭和7年3月31日に同宮守派出所に正式に復職。
・『宮澤賢治』(佐藤隆房著、昭和26)には松田甚次郎が大正15年12月25日に「下根子桜」を訪れたとあるが、甚次郎の日記によればそれは誤りで、当日は旱魃罹災した赤石村を慰問している。
・同日記によれば、甚次郎が「下根子桜」の賢治の許を訪れたのは昭和2年3月8日と同年8月8日の計二回だけである。
・大正15年紫波郡内の赤石村・不動村・志和村・古館村等は大旱魃罹災によって飢饉寸前の惨状にあること、この惨状を知って全国から陸続と救援の手が差し伸べられているということなどが連日のように新聞報道されていた。
・「日照りに不作なし」という言い伝えがあるが、大正15年の紫波郡内の大干魃による惨憺たるこの凶作から、「日照りでも不作あり」という事実を容易に知ることができる。
・和田文雄氏は、「ヒドリ」は南部藩では公用語として使われていて、「ヒドリ」は「日用取」と書かれていたと主張しているが、その典拠としている肝心の森嘉兵衛著『南部藩百姓一揆の研究』にはそのようなことは書かれていない。
・菊池忠二氏は柳原昌悦本人から、「一般には澤里一人ということになっているが、あの時(大正15年12月の上京の折のこと)は俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども」という証言を直接得ている。
・石川博久氏所蔵の、賢治が直接甚次郎に贈ったであろう『春と修羅』の外箱には、
       草刈
 寝(ママ)いのに刈れと云ふのか/冷いのに刈れと云ふのか
という短い詩が手書きされている(甚次郎によればこれは賢治が詠んだ詩だという)。
・千葉恭は甚次郎を下根子桜の別宅で直に見たと言っているが、それが事実ならば昭和2年3月8日のことである。
・千葉恭は賢治から実家の田圃の〔施肥表A〕〔一一〕等を設計してもらった。
・千葉恭の三男滿夫氏は次のことを証言している。
*穀物検査所は上司とのトラブルで辞めたと父は言っていた。
*父は穀物検査所を辞めたが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないので賢治のところへ転がり込んで居候したようだ。
*賢治は泥田に入ってやったというほどのことではなかったとも父は言っていた。
*昭和8年当時父は宮守で勤めていて、賢治が亡くなった時に電報をもらったのだが弔問に行けなかったとも言っていた。
*父はマンドリンを持っていた。
*父(千葉恭)の出身地は水沢の真城折居である。
*賢治から父恭に宛てた書簡等もあったそうだが昭和20年の久慈大火の際に焼失してしまったと父は言っていた。
・千葉恭の長男益夫氏は次のことを証言している。
*父は上司との折り合いが悪くて穀物検査所を辞めた。
*父はマンドリンを持っていた。
*父はトマトがとても嫌いだった。
*真城の実家の近くに〝町下〟という場所があり、そこに田圃がありました。その広さ(8反)から言っても実家の田圃に間違いない。
・千葉恭の長男益夫氏の夫人が次のようなことを証言している。
*美味しそうに盛り合わせてトマトを食卓に出してもどういうわけかお義父さん(恭)は全然食べなかった。その理由が後で分かった。お義父さんが宮澤賢治と一緒に暮らしていた頃、他に食べるものがない時に朝から晩までトマトだけを食わされたことがあったからだった、ということでした。
*お義父さんは羅須地人協会に7~8ヶ月くらい居たんでしょう。
・阿部弥之氏が直接平來作本人に取材した際に、千葉恭も一緒にあの楽団でたまにマンドリンを弾いていた、と平は証言した。
・阿部晁の『家政日誌』からは「羅須地人協会時代」等の花巻の天気や気温等を知ることができる。例えば、
*昭和3年7月5日:本日ヨリ暫ク天気快晴
*同年9月18日:七月十八日以来六十日有二日間殆ント雨ラシキ雨フラズ土用後温度却ッテ下ラズ 今朝初メテノ雨今度ハ晴レ相モナシ 稲作モ畑作モ大弱リ
・高瀬露の生家のあった場所は〔同心町の夜あけがた〕に詠まれている「向ふの坂の下り口」(向小路の北端)だった。
・露が当時勤務していた旧寶閑小学校は、現「山居公民館」の東側にあった。
・寶閑小学校勤務当時の露は、交通事情が悪かったので現『鍋倉ふれあい交流センター』の近くに下宿。それも、賄いがつかなかったので自炊の下宿だった。
・当時の鉛電鉄の時刻表等によれば、露の下宿から下根子桜の宮澤家別宅まで行くための往復所要時間は最短でも約4時間だった。
・森荘已池が「下根子桜」を訪ねた際に露とすれ違ったのは「通説では昭和2年の秋」となっているが、森本人はそんなことは言ってはおらず、『宮澤賢治追悼』『宮澤賢治研究』『宮澤賢治と三人の女性』『宮沢賢治の肖像』『宮沢賢治 ふれあいの人々』のいずれにおいても昭和2年以外の年としている。
・『宮澤賢治と三人の女性』の中で、森が露とすれ違ったのは「一九二八年の秋の日、私は下根子…」となっているが、同書で西暦が使われているのはこの個所だけで、その他の38個所は皆和暦である。
・最近、伊藤七雄・ちゑ兄妹が花巻を訪れた時期は「昭和3年の春」という説が独り歩きし始めているがそれはほぼ間違いで、正しくは昭和2年の秋10月であることが、ある著名な賢治研究家が直接訊いた清六の証言及び藤原嘉藤治宛ちゑ書簡から判断できる。奇しくもそれは、ちょうど露が「下根子桜」訪問を遠慮し出したという昭和2年夏の直後のことになる。
・二葉保育園の責任者の一人が、「基本的には当時の本園の保母はクリスチャンでしたから、伊藤ちゑもそうだったと思います」と証言(平成28年10月22日筆者聞き取り)。
・昭和3年9月23日付澤里武治宛書簡(243)中の、「演習が終るころはまた根子へ戻って…」の「演習」とは同年10月に岩手県で行われた「陸軍大演習」のことである。
・昭和3年10月4日付『岩手日報』によれば、同年10月に花巻でも行われたこの「陸軍大演習」の際に、第三旅団長が賢治の母の実家「宮善」に泊まっていた。
・「ある時、「下ノ畑」の傍で賢治と二人で小屋を造っている人を見たことがある。その人は、そこに農園のようなものを開いていた鍛冶町のけんじであった」という証言があり、この「鍛冶町のけんじ」とは八重樫賢師のことであると判断できる。
・賢師に関してはその他に、
*昭和3年10月の「陸軍大演習」を前にして行われた警察の取り締まりから逃れるために、その8月頃に函館に奔った。
*函館の五稜郭の近くに親戚がおり、そこに身を寄せたが、2年後の昭和5年8月、享年23歳で亡くなった。
*花巻農学校の傍で生徒みたいなこともしていた。
*頭も良くて、人間的にも立派だった。
*賢治の使い走りのようなことをさせられていた。
*昭和3年当時、賢師の家の周りを特務機関の方がウロウロしていたということを賢師の隣人が言っていた。
などという縁者の証言がある(なお、賢師はあの『岩手国民高等学校』の聴講生でもあったという)。
・『岩手日報』に連載された関登久也の「宮澤賢治物語(49)セロ(一)」における澤里の証言が、それが単行本化された(昭和32年、つまり関登久也及び父政次郎が亡くなった頃)際に著者以外の何者かによってある改竄がなされた。
・同じ昭和32年頃を境にして、かつての「宮澤賢治年譜」におしなべてあった、
*昭和2年:九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
*昭和3年:一月 この頃より、過勞と自炊に依る榮養不足にて漸次身體衰弱す。
という記述が年譜からなぜか突如消え去ってしまった。
・高瀬露が次女に対して「〔昭和7年に〕賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがある」と言っていたと、その次女が露の教え子の妹に話している。
・高瀬露の上郷小学校の勤務形態は
  昭和7年3月31日 上郷高等尋常高等小学校訓導
  昭和8年3月31日 休職
  昭和9年3月31日 復職
  昭和9年3月31日 達曽部尋常高等小学校訓導
であり、露の上郷小学校勤務は昭和8年~9年の2年間だが、昭和8年度は休職しているし、昭和9年度には復職しているが同日に達曽部小学校に異動しているから、実質的な勤務は一年間だけだった。おのずからこの頃に分校勤務をしたこともないと判断できる。
・平成15年に発見されたという関徳弥の『昭和五年 短歌日記』には露に関する記述があるが、その当該日付欄の「曜日」が何者かによって消されている。
 なお、この『短歌日記』の所蔵者(静岡県沼津在住)から私はその閲覧許可をもらって当地に向かっていたならば、本日は都合が悪いという電話が入ってドタキャンされた。
 四ヶ月後再度沼津を訪ねたならば、今度は、同日記は何処にしまったか現在不明で見つからないということだった(因みにこの『短歌日記』は三桁以上の値段で売られたものである)。
・関登久也の「澤里武治氏聞書」や「女人」の生原稿等が日本現代詩歌文学館に所蔵されている。
・平成27年10月11日、私は盛岡でのとある会合で賢治血縁の方と同席できたので、「賢治の出した手紙はお父さん(政次郎)宛を含め、下書まで公になっているのに、賢治に来た書簡は一切公になっていない。賢治研究の発展のために、しかも来年は賢治生誕百二十年でもあり、そろそろ公にしていただきい」とお願いしたところ、
 来簡は焼けてしまったが、全くないわけではない。例えば、最後の手紙となった柳原昌悦宛書簡に対応する柳原からの書簡はございます。
という返事だった。やはり、賢治宛来簡はないわけではなかった。
・澤里武治が74歳頃に書いた自筆の資料の中の〝(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」〟には、
 大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり。
ということなどが、〝(その三)「附記」〟には、
 関徳弥氏の来訪を受けて 先生について語り写真と書簡を貸し与えたのは昭和十八年と記憶しているが昭和三十一年二月 岩手日報紙上で氏の「宮沢賢治物語」が掲載されその中で大正十五年十二月十二日付上京中の先生からお手紙があったことを知り得たのであったが 今手許には無い。
ということなどが書かれている。   〈以上〉

  資料三 あまり世に知られていない証言等
・賢治が花巻農学校を辞めた際に、退任式等が行われたことを裏付ける資料や証言は何一つ見つからない。
・賢治は大正15年6月7日頃、五百二十円もの退職金を支給された。〈平成11年11月1日付『岩手日報』〉
・賢治、宮澤安太郎(賢治の従兄弟)、佐伯慎一(郁郎)、深沢省三、石川準十郎は皆「(東京)啄木会」の会員であった。〈『新校本全集第十六巻(下)補遺・伝記資料篇』〉
・佐伯郁郎は宮澤安太郎を介して賢治から『春と修羅』を贈られた。〈昭和7年6月24日付『岩手毎日新聞』〉なお同書は現在『人首文庫』に所蔵されている。
・石川準十郎は、賢治さんは「私が夏休みで帰盛するとときどきヒョッコリと私を油町のきたない家にたずねてくれた」とか「牧民会に出入りしていた」と証言している。〈昭和44年8月21日付『岩手日報』〉
・千葉恭は下根子桜での寄寓解消後、真城村折居の実家に戻って帰農し、地元の青年32名を誘って「研郷會」を組織した。甚次郎の「最上共働村塾」と似たようものであり、農村の隆盛と農業技術の向上により理想の農村を創ろうとした。甚次郎同様、「賢治精神」を実践しようと腐心したといえる。〈「宮澤先生を追つて㈡」〉
・あの「ライスカレー事件」が起こった時期は昭和2年の「雪消えた五月初めのころ」のことだという。〈『賢治研究6号』(宮沢賢治研究会)27pの高橋慶舟の証言)〉
・伊藤ちゑは大正13年から、スラム街の貧しい子女のために慈善の保育活動をしていた『二葉保育園』に勤めていた。〈『二葉保育園八十五年史』〉
・ちゑは賢治との見合いについて、「私ヘ××コ詩人とお見合いしたのよ」と深沢紅子等に漏らしていたという。
・ある年の10月29日付藤原嘉藤治宛伊藤ちゑ書簡が存在していて、そこには賢治と結びつけられることを拒絶するちゑの懇願も書かれている。
・『イーハトーヴォ第四號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會)に載ってる、「賢治先生の靈に捧ぐ」と題した、
*君逝きて七度迎ふるこの冬は早池の峯に思ひこそ積め
*ポラーノの廣場に咲けるつめくさの早池の峯に吾は求めむ
*粉々のこの日雪を身に浴びつ君が德の香によひて居り
等を含む五首の作者「露草」は高瀬露であると判断できる。
・『校本全集第十四巻』は「新発見の書簡252c(その下書群をも含む)とかなり関連があるとみられるので」と断定的に、しかもさらりと述べている。ところが、それは「新発見」ということではなく、露の帰天を待ってしたことだというようなことを、堀尾青史や天沢退二郎氏が後に話している(本文132p参照)。
・菊池忠二著『私の賢治散歩 下巻』によれば次の通り。
 私が意外に思ったのは、隣人として、また協会員としての伊藤(忠一)さんが、賢治のところへ気軽に出入りすることができなかったということである。
「賢治さんから遊びに来いと言われた時は、あたりまえの様子でニコニコしてあんしたが、それ以外の時は、めったになれなれしくなど近づけるような人ではながんした。」というのである。
 同じような事実は、その後高橋慶吾さんや伊藤克己さんからもたびたび聞かされた。
「とても気持ちの変化のはげしい人だった」という。
 これと似たようなことは千葉恭も追想していて、「自分も徹底的にいじめられた」「松田甚次郎も大きな声でどやされた」〈『イーハトーヴォ』復刊2号〉ということだから、賢治は怒りっぽい面もあったと言えそうだ。
・賢治の教え子小原忠は、昭和2年の6月頃賢治の許を訪れた際に、「いま、それどころの話ではないんだ。私は警察に引っ張られるかもしれない」と賢治が語ったと言っている。〈『賢治研究』39号〉
・昭和7年6月1日付〔森佐一宛〕書簡下書によれば、「羅須地人協会時代」の賢治は「玄米食」ではなかったことが判る。
・中舘武左エ門は佐藤金治(賢治小学校時代の担任八木英三のクラスの三人の秀才「三治」のうちの一人で、その中で一番成績のよかった級長)ととても親しかったと言っている。〈大正15年8月22日付『岩手日報』〉
・昭和3年夏に賢治が実家に戻った時になって、政次郎は賢治がチェロを持っていることを初めて知った。〈『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽の友社)〉
・賢治歿後に遺稿浄書、「宮沢賢治蔵書目録」作成、『歌と随筆』(賢治の『圖書館幻想』掲載)を発行した飛田三郎は、かつて高瀬露が勤務した寶閑小学校の教頭を勤めたことがある。〈『寶閑小学校創立九十一年』〉
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『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』(制作鳥山敏子等)によれば以下の通り。
《朝倉六朗》(大正12年入学)の証言
 教科書以外の授業を10分間ぐらい時たまやる先生だった。あれ、余ってるんじゃなかったと思うんですよ。計画的に先生がそういうことをやったと思うんですよ。必ず本を読み出すと、その本の感想なんかを始終、こういう本の中にこういうことがあったということを、よく言われる人だったんですよ。
 これに対して鳥山が「覚えているのがありますか」と訊くと朝倉は、
 はっきり覚えてはいないけど、よくレーニンの話をしたんです。レーニンはこう言った。本当のレーニンの思想は今スターリンに引き継いでいないと。レーニンを尊敬したようなことを言って、本当はスターリンというのはレーニンの思想を本当に引き継いでいないというようなことを、あとちょっと聞いた気がしますね。だからあの頃の私にとっては、ずいぶん過激な話をするものだなと。
と答えていた。
《長坂俊雄》(大正11年入学)の証言
 ざまあみろ、というのは日本で一番悪いところ。人の不幸を喜ぶという。それを賢治は、社会主義者賢治がストップしてるもの。
というように、長坂はわざわざ「社会主義者賢治が」と言い直して、賢治が「社会主義者」と唐突に言っていた。
 したがって、教え子二人が似たような事を言っているし、しかも早坂の仕事は警察畑または検察畑だったから、この時強調した「社会主義者賢治が」については重く受け止めねばならないだろうし、信憑性が高いと推断できる。賢治本人がどうだったかはさて措き、賢治は周りの一部から、熱心で過激な「社会主義思想の持ち主」だと見られていたと言える。
《高橋謙一》(寶閑小学校、昭和3年3月卒)の証言
 1時から農事講演会をやるかって、この人が先に立ってやっても、田舎のことだからほれ、1時だってぱっとみんな集まらなかったんだもの。
 そこで小学校の教師だった高瀬露さんが時間がもったいないからと、宮澤先生にお願いして子どもたちにお話しを語ってもらうことにしました。
 花巻から来て、したらね、高瀬露先生、ほれ宮澤賢治先生と同じ豊沢町で、若い時から知っていたでしょう。露先生がもったいないって、ほれ学校で先生たちで話して。1時からだって、1時半から2時にならなければ農家の人たちは集まらなかったんだもの。それで宮澤先生は童話やってるからみんな集まる前に30分ぐらい子どもたちさ童話聞かせてもらったものな。
 私は、1年生から5年生か6年生まで、毎年農事講話で頼んだもんだから、それで宮澤先生のことを尋常小学校終わるまで、ほれ農事講演で来た時に、みんな集まるまで30分かそこら、1年生から6年生まで講堂に150~160人集まって。1年に3回~4回も来たっけ。
 まずみんな講堂に集まれば、右から左までニコッと笑って、子どもたちの顔を見て、今日は何の話をしようかなって、右から左まで子どもたちの顔を見て、ニッコリ笑って、自分が寶閑小学校へ行ったとか、この何月に行ったとか、こげな話したとか手帳さ書いてあったんだものな。
 高橋謙一は昭和3年卒だから、賢治と露はその5~6年前から既に直接話し合える間柄にあったということになりそうだ。高橋慶吾が露を羅須地人協会に連れて行った時がその始まりだという説もあるが、そうとも限らないということか。
《梅野健造》の証言
 この梅野とはどんな人かというと、大正15年18歳の時羅須地人協会を訪ね、主宰していた雑誌「聖燈」「無名作家」に寄稿してもらい、それ以降賢治とは深い交流が続いたという人だ。
 鳥山敏子の「昭和3年4月10日、労農党本部・全国支部が政府から解散命令を受けたが、その時に羅須地人協会の賢治も取り調べを受けたのか」という問いに対して、梅野は「2回ほど花巻の警察にね」と答え、続けて以下の如く答えていた。
 私(梅野)は花巻警察署留置所に40何日間程入った。私はいろいろ読んだり書いたり、やったりしたもんだからね、警察にすっかり睨まれてしまってな、警察からいえば重要人物だ私は。警察からいえばな。それで2~3日で帰される人も多かったんだけどもね。私は別に共産党員でもなければ共産主義者でもないんだよ。ないけども警察はだね危険人物と見たんだろう 私をね。別に何も調べもせずに40何日というものを暮らしたわけだ留置所で。
 だからそういう事件で宮澤さんも2~3日警察に呼ばれてね。それは労農党の支部にねいろいろな面倒を見たという風なこともあるわけだよ。警察にね睨まれたいうのもそんなわけだよ。
 労農党というのはね、農村の救済ということをね緊急政策としてね発表したもんだからね。とてもひどかったんだ、その当時の不景気でね。それに対して労農党が緊急政策を出し、農村の救済というかな、主張したもんだから、だから宮澤さんは大いにそれに期待したわけだな。そこで労農党に対していろいろな援助をしていたというのもその辺にあるわけだよ。
 羅須地人協会に青年たちを集めてねいろいろ話をしたりすること以外にね、そういうことをやったもんだからね睨まれてしまったわけだな。2回か3回、3回だろうな、呼ばれた。そういう関係で羅須地人協会も解散したわけだ。 
 私が45日入れられて帰ってきたら、その時宮澤さんは病気だったわな。そして豊沢町の自宅でね病気療養中だったんだ。だけれどもね私を訪ねてくれたよ。夜、私のところに。私が出てきてから何日かたった12月だったな、12月半ば頃だったろうかな、宮澤さんが訪ねてきたの。病気療養中のところをね、夜。そして玄関先で5~6分ねお話をして別れた。大変でしたねって、私にね労りの言葉を述べられてね、そしてお金をいくらか、お金をもらったな。
 さて、この45日間にも及ぶ拘留は昭和3年に為されたものと、またそこを出たのは12月だったと判断できるから、この長期間の拘留理由はこの年10月に行われた陸軍大演習に関わるものであり、その夏に行われた凄まじい「アカ狩り」によってでったあったと判断できる。そしてこの梅野の証言によって、賢治はその際に警察に呼ばれたということもほぼ確かな事となった。
《照井保志(昭和3年3月卒)》の証言によれば、
 向こうの方から来たね、今お嫁さんに来て、今もう77~78ですよね、その人が言ってましたよ、 来た頃の賢治先生はさっぱり評判もなにも良くないんだって。立派な宮澤家にとついで来たのに、宮澤先生は気の毒だな、あれでは 宮澤家ダメになるダメになると、こう言われたんですよ。
 いや私は、ここのところから来た私は嫁なんですが、よそから来た私たちに、本当に宮澤家というあんな立派なところから、宝息子だね、本当にバカ息子が生まれて、まったく気の毒だ気の毒だとみんなが言っとたというけど、本当に言ってましたよ。
ということだが、第一五八回直木賞を受賞した門井慶喜氏は、受賞作品『銀河鉄道の父』について、
 誰もが知る賢治を扱うのは「固定観念との闘い」だった。世間の〝聖人伝説〟に「通俗的な人間だ」と異議申し立てをした。〈平成30年1月7日付『岩手日報』の「時の人」欄〉
と述べていたし、この『銀河鉄道の父』(講談社)の帯には「賢治はダメ息子!」とでかでかと印刷されていた。これでやっと、照井保志の語っていた「宝息子だね、本当にバカ息子が生まれて」というようなことが、世に憚ることなく言える時代になったと言えそうだ。 〈以上〉
 《註》
〈註一34p〉この「猫村」はもちろん「根子村」の間違いであり、地元の関がこの村名を間違うはずもない。しかもこの「猫村」の筆跡は武治の筆跡でもないと子息の裕氏は言っているので、この聞き取りの際、第三の人物が最初の部分を記録したと判断できる。
〈註二40p〉このことは、上京時期に関しての武治の措辞が最初は「確か」であり、次の段階では、「どう考えても」であることからも窺える。
〈註三41p〉「定説」といえども所詮一つの仮説に過ぎないのだから、反例が一つあればそれだけで即刻棄却せねばならない。
〈註四48p〉昭和3年1月22日付『岩手日報』によれば、昭和2年当時の5年平均反当収量は 1.9609石である。
〈註五67p〉福井規矩三発行の『岩手県気象年報』に基づいて大正15年~昭和3年の稲作期間の気温をグラフ化してみると次頁の《図1 花巻の稲作期間気温》のようになるので、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて」とは言えず、これは福井の誤認であったことが一目瞭然である。
  そもそも大正15年も昭和3年も共にヒデリ傾向の年であり、しかもこの両年のデータと昭和2年のそれとを比べてみれば昭和2年の夏はその中では一番気温の高いことがわかるので、「昭和二年はまた非常な寒い氣候」ということはあり得ない。言い換えれば、福井自身発行の著書が福井の先の証言は彼の単なる記憶違いであったということを教えている。
〈註六67p〉次頁の《図2 岩手県米実収高》は岩手県産米の大正11年~昭和6年の実収高(『岩手日報』(大正15,1,28、昭和2,1,25、同3,1,22、同7,1,23より)であり、昭和2年の反収は約1.93石だから、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」などということも決してあり得ない。







〈註七67p〉《表7 昭和2年稻作期間豊凶氣溫》は盛岡測候所が、昭和2年9月7日付『岩手日報』に発表したものであり、「繁殖期間(つゞき)」においても、「出穂期間」においても偏差平均が高いから、昭和2年の夏は例年よりも気温が高かったことになる。したがって、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて」とは言えそうにない。
 当時福井規矩三は盛岡測候所の所長だったのだから、なおさらのこと間違うわけはないと私は思うのだが、福井は《表7 昭和2年稻作期間豊凶氣溫》等を確認せぬままに、「昭和二年はまた非常な寒い氣候が續いて、ひどい凶作であつた」と「測候所と宮澤君」に書いてしまったことになりそうだ。
〈註八70p〉例えば『岩手県の百年』によれば、
 大正末期から「早生大野」と「陸羽一三二号」が台頭し、昭和期にはいって「陸羽一三二号」が過半数から昭和十年代の七割前後と、完全に首位の座を奪ったかたちとなった。これは収量の安定性、品質良好によるもので、おりしも硫安などの化学肥料の導入にも対応していた。しかし、肥料に適合する品種改良という、逆転した対応をせまられることになって、農業生産の独占資本への従属のステップともなった。反面、耐冷性・耐病性が弱く、またもや冷害・大凶作をよぶことになった。(『岩手県農業史』、『岩手県近代百年史』) <『岩手県の百年』(長江好道等著、山川出版)124p>
〈註九70p〉大島丈志氏によれば、
 陸羽一三二号は、近代化学肥料によって育成されたため、多肥性の品種であり、多くの購入肥料=金肥の投下が必要であった。…(筆者略)…これらの肥料の購入は自給自足的であった農村を急速に商品経済に組み込むこととなった。しかし、肥料商から金肥を買い、金肥を投下して豊作となっても、米価の下落で、豊作貧乏となり、肥料購入費が負債となることによって小作などの貧しい農家は困窮することになった。<『宮沢賢治の農業と文学』(大島丈志著、蒼丘書林)223p>
ということで、殆どこの指摘のとおりだと私も思う。 ただし、最後の「小作などの貧しい農家は困窮することになった」についてははたして如何なものだろうか。それは、私には次のように考えられるからだ。
 もともと、お金がなければ購入できない金肥を必要とする賢治の稲作指導法は、困窮していた貧しい自小作や小作等のいわば小農にとってはそもそもふさわしいものではなかっただけでなく、出来高の半分以上も「搾取されるような」当時の小作料であれば、

小作する農家はこの農法に意欲が湧かなかったことは当然であろう。そして注意すべきは、当時米価は年々急激に下がっていったから、金肥を購入して陸羽一三二号に頼って増産を図ろうとした中農がシェーレ現象に見舞われたであろうということである。そのせいで、その頃に中農から自小作あるいは小作になっていった例も少なくないはずだ。実際上掲の《図3》から、年々「自作」の割合は漸減し、逆に「自小作+小作」の割合が漸増していることが読み取れるので、そのことが裏付けられる。
 したがって、この稲作方法によって最も困窮することになったのはもともとそうだった「小作などの貧しい農家」ではなく、それまで比較的恵まれていた中農ともいえる自作農家だったのではなかろうか。
〈註十79p〉昭和七年419 六月一日〔森佐一あて〕書簡下書には、
 いままで三年玄米食(七分搗)をうちぢゅうやり
ました。母のさとから宣伝されたので、私はそれがじつにつらく何べんも下痢しましたが去年の秋までそれがいゝ加減の玄米食によることを気付きませんでした。気付いてももう寝てゐて食物のことなどかれこれ云へない仕儀です。最近盲腸炎(あらのため)を義弟がやったのでやっとやめて貰ひました。学者なんどが半分の研究でほうたうの生活へ物を云ふことじつに生意気です。<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)399p~>
と書かれているから、「いままで三年玄米食(七分搗)をうちぢゅうやりました」に注目すれば、この書簡の日付は昭和7年6月1日だから、大雑把に言えば、賢治は昭和4年6月~昭和7年6月の3年間玄米食を摂っていたということになる。ということは当然、「羅須地人協会時代」の賢治は玄米食をしていなかったという蓋然性が頗る高い。まして、同時代に玄米食をしていたとすれば、「玄米食によることに気付きませんでした」ということはあり得ないからである。
〈註十一95p〉この書簡は、平成19年4月21日第6回「水沢・賢治を語る集い「イサドの会」」 における千葉嘉彦氏の発表「伊藤ちゑの手紙について―藤原嘉藤治の書簡より」の資料として公にされたものでもある。
〈註十二95p〉伊藤七雄・ちゑ兄妹が花巻を訪れた時期は「昭和3年の春」という説が最近独り歩きしつつあるが、この書簡による限り、「昭和3年」でもないし「春」でもない。昭和3年より前の年の秋である。
〈註十三100p〉森荘已池によれば、
 「私は結婚するかもしれません――」と盛岡にきて私に語つたのは昭和六年七月で、東北碎石工場の技師となり、その製造を直接に指導し、出來た炭酸石灰を販賣して歩いていた。さいごの健康な時代であつた。<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)104p>
ということである。
〈註十四101p〉現時点ではこの発言を活字にする事は憚られるので一部伏せ字にした。
  なおこの『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』については、私は二人の人から違うルートで聞いている(そのうちの一人は佐藤紅歌の血縁者で平成26年1月3日に、もう一人は関東の宮澤賢治研究家である(ただしその時期はそれ以前なのだがそれが何時だったかは失念した))。
〈註十五102p〉ちゑが森に宛てた昭和16年1月29日付書簡の中の次のような一節がある。
 皆樣が人間の最高峰として仰ぎ敬愛して居られますあの御方に、御逝去後八年も過ぎた今頃になつて、何の爲に、私如き卑しい者の関りが必要で御座居ませうか。あなた樣のお叱りは良く判りますけれど、どうしてもあの方にふさわしくない罪深い者は、やはりそつと遠くの方から、皆樣の陰にかくれて靜かに仰いで居り度う御座居ます。あんまり火焙りの刑は苦しいから今こそ申し上げますが、この決心はすでに大島でお別れ申し上げた時、あの方のお帰りになる後姿に向つて、一人ひそかにお誓ひ申し上げた事(あの頃私の家ではあの方を私の結婚の対象として問題視してをりました)約丸一日大島の兄の家で御一緒いたしましたが、到底私如き凡人が御生涯を御相手するにはあんまりあの人は巨き過ぎ、立派でゐらつしやいました。<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)157p>
〈註十六102p〉同じく、2月17日付森宛ちゑ書簡中に、
ちゑこを無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪惡とさへ申し上げたい。
とある。<同164p>
〈註十七103p〉高瀬露絡みの幾つかの賢治の奇矯な行為としては、
  ・「本日不在」の札を門口に貼つた。
 ・顔に墨を塗つて露と会つた。
 ・座敷の奥の押入の中に隱れていた。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著)73p~>
 ・「私はレプラです」(と露に言った。) <同92p~>
ということが述べられている。
〈註十八104p〉〔聖女のさまして近づけるもの〕の中に、
乞ひて弟子の礼とれる
とあるからということで、この「弟子」とは羅須地人協会に出入りした者であり、その点からもこのモデルは露だという人もあるようだがそれは安易である。いかな賢治の詩〔聖女のさまして近づけるもの〕と雖も、安直には還元できない。もしこの弟子が露のことを指すというのであれば、それは裏付けされた場合とか、検証できた場合に初めて論ずる意味がある。まして、詩に書かれていることを元にして安易に推測し、それをそのまま事実とすることなどは問題外であろう。
〈註十九105p〉「〔あすこの田はねえ〕」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」の三篇は、農民の献身者としての生き甲斐やよろこびが明るくうたいあげられているように見える。しかし、「野の師父」はさらなる改稿を受けるにつれて、茫然とした空虚な表情へとうつろいを見せ、「和風は……」の下書稿はまだ七月の、台風襲来以前の段階で発想されており、最終形と同日付の「〔もうはたらくな〕」は、ごらんの通り、失意の底の暗い怒りの詩である。これら、一見リアルな、生活体験に発想したとみえる詩篇もまた、単純な実生活還元をゆるさない、屹立した〝心象スケッチ〟であることがわかる。<『新編 宮沢賢治賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)414p~>
〈註二十111p〉内田康子とは高瀬露の仮名であることが知られている。
〈註二十一129p〉そもそもこの「新発見の書簡252c」という表記からしておかしいのであり、ここはあくまでも「新発見の書簡下書252c」とすべきものだと私は思う。なぜならば、それは相手に届いたものではなく、いわゆる反古に過ぎないはずだからだ。
〈註二十二132p〉例えば境忠一は、
 賢治が高瀬露にあてた事がはっきりしている下書きの中から問題の点だけをしぼってここに紹介してみたい。 <『宮沢賢治の愛』(境忠一著、主婦の友社)156p>
あるいは澤口たまみ氏は、
 けれども露とのつき合いは、それだけでは終わりませんでした。昭和四年には手紙のやりとりがあり、そのなかには結婚についての記述もあります。
 書簡集に紹介されているのは賢治の手紙のみで、いずれも下書きですが、以下に一部を抜粋してみましょう。
「お手紙拝見いたしました。
法華をご信仰なさうですがいまの時勢ではまことにできがたいことだと存じます。どうかおしまひまで通して進まれるやうに祈りあげます」
 露はクリスチャンでしたが、このときは「法華経を信仰する」と言って、何とか賢治と会おうとしていたようです。<『宮沢賢治 愛のうた』(澤口たまみ著、もりおか文庫)269p~>
というように断じている。
 しかし、米田利昭は冷静で、
 ひょっとするとこの手紙の相手は、高瀬としたのは全集の誤りで、別の女性か。(愛について語っているのだから男性ということはない。当時男は愛などは口にしなかった。)それに高瀬はクリスチャンなのに、ここは<法華をご信仰>とある。以上疑問として提示しておく。<『宮沢賢治の手紙』(米田利昭著、大修館書店)223p>
と疑問を投げかけている。
〈註二十三135p〉上田哲との共著『宮澤賢治と高瀬露』 所収の拙論「聖女の如き高瀬露」を参照されたい。
 《参考図書等》
『浅沼稲次郎』(浅沼稲次郎著、日本図書センター)
『阿部晁の家政日誌』(阿部晁著)
『イーハトーヴォ創刊号』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會、昭和14年)
『イーハトーヴォ第四号』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會、昭和15年)
『イーハトーヴォ復刊2号』(菊池暁輝編、宮澤賢治の會、昭和30年)
『イーハトーヴォ復刊5号』(菊池暁輝編、宮澤賢治の會、昭和30年)
『イーハトーヴの植物学』(伊藤光弥著、洋々社)
『岩手県気象年報』(岩手県盛岡・宮古測候所、福井規矩三発行人)
『岩手県災異年表』(中央気象台盛岡支台、昭和13年)
『巖手縣全圖』(大正7年、東京雄文館藏版)
『岩手県農業史』(森嘉兵衛監修、岩手県)
『岩手県の百年』(長江好道等著、山川出版)
『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)
『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房)
『極光のかげに』(高杉一郎著、岩波文庫)
『銀河鉄道の父』(門井慶喜著、講談社)
『賢治学 第四輯』(岩手大学宮澤賢治センター編、法政大学出版部、平成29年)
『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)
『賢治詩歌の宙を読む』(関口厚光著、岩手復興書店、平成27年)
『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)
『賢治の学校 宮澤賢治の教え子たち DVD 全十一巻』(制作鳥山敏子等)
『現代詩手帖 '63・6』(思潮社)
『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)
『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)
『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)
『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)
『國文學 宮沢賢治2月号』(學燈社、昭和53年)
『新校本宮澤賢治全集第六巻詩Ⅴ校異篇』(筑摩書房)
『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・本文篇』(筑摩書房)
『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・校異篇』(筑摩書房)
『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)
『新修 宮沢賢治全集 第十六巻』(筑摩書房)
『新潮日本文学アルバム 宮沢賢治』(新潮社)
『新編銀河鉄道の夜』(新潮文庫)
『図説宮沢賢治』(上田哲、関山房兵、大矢邦宣、池野正樹共著、河出書房新社)
関登久也の『原稿ノート』(日本現代詩歌文学館所蔵)
『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)
『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)
『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)
『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)
『塔建つるもの―宮沢賢治の信仰』(理崎啓著、哲山堂)
『遠野物語研究第7号』(遠野物語研究所)
『七尾論叢11号』(七尾短期大学)
『年譜宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社、昭和41年)
『花巻市文化財調査報告書第一集』(花巻市教育委員会)
『花巻電鉄鉛線 列車時刻表』(花巻温泉電氣鉄道、大正15年8月15日発行)
『光ほのかなれど―二葉保育園と徳永恕』(上笙一郎・山崎朋子著、教養文庫)
『評伝宮澤賢治』(境忠一著、桜楓社、昭43年)
『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)
『二葉保育園八十五年史』(二葉保育園)
『ふるさとケセン67号』(平成14年3月発行)
「平成26年度教養学部学位記伝達式式辞」(東大教養学部長石井洋二郎、                      「東大大学院総合文化研究科・教養学部」HP総合情報)
『寶閑小学校創立九十一年』(寶閑小学校)
『北農 第75巻第2号』(北農会2008.4)所収「宮沢賢治小私考―賢治「農聖伝説」考―」
『北農 第75巻第4号』(北農会2008.10)所収「宮沢賢治小私考―賢治「農聖伝説」考―」
『北農 第76巻第1号』(北農会2009.1)所収「宮沢賢治小私考―賢治「農聖伝説」考―」
『松田甚次郎の日記』(松田甚次郎著)
『水沢市史 四』(水沢市史編纂委員会編)
『宮澤賢治追悼』(草野心平編輯、次郎社、昭和9年)
『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和14年)
『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)
『宮澤賢治素描』(関登久也著、協榮出版、昭和18年)
『宮澤賢治の手帳 研究』(小倉豊文著、創元社、昭和27年)
『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房、昭和24年)
『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年)
『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房、昭和44年)
『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局、昭和45年)
『宮沢賢治その愛と性』(儀府成一著、芸術生活社、昭和47年)
『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房、昭和49年)
『宮沢賢治の愛』(境忠一著、主婦の友社、昭和53年)
『宮沢賢治序説』(菅谷規矩雄著、大和書房、昭和55年)
『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社、昭和56年)
『宮沢賢治 第6号』(洋々社、昭和61年)
『宮沢賢治 ふれあいの人々』(森荘已池著、熊谷印刷出版部、昭和63年)
『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社、平成6年)
『宮沢賢治の手紙』(米田利昭著、大修館書店、平成7年)
『宮沢賢治 その独自性と時代性』(西田良子著、翰林書房、平成7年)
『宮沢賢治の東京』(佐藤竜一著、日本地域社会研究所、平成7年)
『宮澤賢治東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社、平成12年)
『宮沢賢治 愛のうた』(澤口たまみ著、もりおか文庫、平成22年)
『宮沢賢治の「羅須地人協会」 賢治とモリスの館十周年を迎えて』
             (仙台・羅須地人協会代表大内秀明、平成26年)
『宮沢賢治の農業と文学』(大島丈志著、蒼丘書林、平成26年)
『宮沢賢治とクリスチャン花巻編』(雑賀信行著、雑賀編集工房、平成27年)
『宮野目小史』(花巻市宮野目地域振興協議会)
『森荘已池年譜』(浦田敬三編、熊谷印刷出版部)
『ヤマセと冷害』(卜藏建治著、成山堂書店)
『四次元5号』(佐藤寛編輯、宮澤賢治友の會)
『四次元7号』(佐藤寛編輯、宮澤賢治友の會)
『四次元50号』(佐藤寛編輯、宮沢賢治友の会)
『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)
『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』(鈴木守著、平成23年)
『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』(鈴木守著、平成25年)
『羅須地人協会の終焉―その真実―』(鈴木守著、平成25年)
『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲・鈴木守共著、平成27年)
『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(鈴木守著、平成28年)
『「羅須地人協会時代」再検証―「賢治研究」の更なる発展のために―』(鈴木守著、平成29年)
『賢治の真実と露の濡れ衣』(鈴木守著、平成29年)
大正15年9月26日付『岩手日報』
大正15年10月27日付『岩手日報』
大正15年11月9日付『岩手日報』
大正15年12月7日付『岩手日報』
大正15年12月15日付『岩手日報』
大正15年12月22日付『岩手日報』
昭和2年1月9日付『岩手日報』
昭和2年1月25日付『岩手日報』
昭和2年6月5日付『岩手日報』
昭和2年9月7日付『岩手日報』
昭和3年1月22日付『岩手日報』
昭和3年8月25日付『岩手日報』
昭和3年10月3日付『岩手日報』
昭和3年10月4日付『岩手日報』
昭和4年1月23日付『岩手日報』
昭和7年1月23日付『岩手日報』
昭和31年2月22日付『岩手日報』
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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813



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