《創られた賢治から愛すべき賢治に》
同資料によれば今野賢三及び金子洋文については次のように紹介されている。今野賢三
明治26年8月26日~昭和44年10月18日
南秋田郡土崎港(現秋田市)肴町19番地に今野長治郎、カ子の長男として生まれる。本名は賢藏。明治33年土崎尋常小学校入学。明治41年土崎小学校高等科を卒業。様々な仕事をし、映画弁士として活躍。
大正10年、『種蒔く人』(土崎版)創刊に際し、土崎港清水町の寺林印刷所に交渉し印刷、良く11年に上京して『種蒔く人』(東京版)6号から編集発行人となる。『種蒔く人』創刊時から小牧近江、金子洋文に協力して奔走し運動を支える。小説のほか、英画批評、文芸批評などを精力的に執筆、一方、労農派の立場から数々の争議支援に奔走、秋田の農民運動に多くの足跡を残す。
特に、「帝都震災号外」大正13年10月1日執筆では、戒厳令をしかれている当時の状況で命がけの告発をし、素晴らしいルポルタージュだといわれている。
《『種蒔く人』の東京版(右上)、土崎版(左下)の表紙》明治26年8月26日~昭和44年10月18日
南秋田郡土崎港(現秋田市)肴町19番地に今野長治郎、カ子の長男として生まれる。本名は賢藏。明治33年土崎尋常小学校入学。明治41年土崎小学校高等科を卒業。様々な仕事をし、映画弁士として活躍。
大正10年、『種蒔く人』(土崎版)創刊に際し、土崎港清水町の寺林印刷所に交渉し印刷、良く11年に上京して『種蒔く人』(東京版)6号から編集発行人となる。『種蒔く人』創刊時から小牧近江、金子洋文に協力して奔走し運動を支える。小説のほか、英画批評、文芸批評などを精力的に執筆、一方、労農派の立場から数々の争議支援に奔走、秋田の農民運動に多くの足跡を残す。
特に、「帝都震災号外」大正13年10月1日執筆では、戒厳令をしかれている当時の状況で命がけの告発をし、素晴らしいルポルタージュだといわれている。
<『「種蒔く人」とその運動-解説書-』(「種蒔く人」顕彰会)より>
一方
金子洋文
明治27年4月8日~昭和60年3月21日
南秋田郡土崎港町(現秋田市)古川町雄物川岸2番地に金子子之松とヨシの五男として生まれる。本名は吉太郎。明治33年土崎尋常小学校入学に入学。明治41年高等学校卒業後上京、山本電営社に勤務。一年あまりののち帰郷、秋田市立秋田工業学校に入学、土崎小学校の代用教員となる。雑誌『白樺』を愛読、大正5年文学を志して再び上京、翌年、武者小路実篤に寄寓、志賀直哉、柳宗悦らと交わる。
フランスから帰国した小牧近江と再会、思想的に共鳴し、雑誌の発行を計画、誌名の『種蒔く人』と表紙にミレーの絵「種まく人」をとりいれた。
東京版『種蒔く人』に小説を発表し、文壇デビュー。大正12年関東大震災における亀戸労働者の虐殺に抗議して執筆した「種蒔き雑記」は、不朽のルポルタージュとされる。
とあった。明治27年4月8日~昭和60年3月21日
南秋田郡土崎港町(現秋田市)古川町雄物川岸2番地に金子子之松とヨシの五男として生まれる。本名は吉太郎。明治33年土崎尋常小学校入学に入学。明治41年高等学校卒業後上京、山本電営社に勤務。一年あまりののち帰郷、秋田市立秋田工業学校に入学、土崎小学校の代用教員となる。雑誌『白樺』を愛読、大正5年文学を志して再び上京、翌年、武者小路実篤に寄寓、志賀直哉、柳宗悦らと交わる。
フランスから帰国した小牧近江と再会、思想的に共鳴し、雑誌の発行を計画、誌名の『種蒔く人』と表紙にミレーの絵「種まく人」をとりいれた。
東京版『種蒔く人』に小説を発表し、文壇デビュー。大正12年関東大震災における亀戸労働者の虐殺に抗議して執筆した「種蒔き雑記」は、不朽のルポルタージュとされる。
なお、金子洋文は『種蒔く人伝』(労大新書)を著しているが、その中にもこの「種蒔き雑記」が所収されている。
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『賢治が一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』
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