みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

紫波町山屋(9/10、キク科)

2023-09-18 12:00:00 | 盛岡・紫波周辺
《1 ヤクシソウ》(2023年9月10日撮影)

《2 ヤマニガナ》(2023年9月10日撮影)

《3 ニガナ》(2023年9月10日撮影)

《4 アキノキリンソウ》(2023年9月10日撮影)

《5 アキノノゲシ》(2023年9月10日撮影)

《6 ハンゴンソウ》(2023年9月10日撮影)

《7 ヤブタバコ》(2023年9月10日撮影)

《8 何?ガンクビソウ?》(2023年9月10日撮影)

《9 タマブキ》(2023年9月10日撮影)

《10 ヒメジョオン》(2023年9月10日撮影)

《11 シラヤマギク》(2023年9月10日撮影)

《12 》(2023年9月10日撮影)

《13 ゴマナ》(2023年9月10日撮影)

《14 シロヨメナだろう》(2023年9月10日撮影)

《15 ユウガギク》(2023年9月10日撮影)

《16 ノコンギク》(2023年9月10日撮影)


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 さて、この度の拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

のタイトルに、なぜ私は「杜撰」を用いたのか。

 例えば、次のような論文によって、谷川徹三は戦後の国語教科書作成にかなり関わっていたことを私は知った。
 ① 葛西まり子「国語教科書の中の「宮沢賢治」―「伝記教材」を視点として―」
 ② 久保田 治助・木村 陽子「第二次世界大戦後の国語教科書における〈宮沢賢治〉像―理想的人間像の変容―」
 ③ 茅野 政徳「戦後小学校国語検定教科書における宮沢賢治の伝記教材の変遷」
 さて、この〝①〟においては、「1 昭和二十年代~昭和五十二年」という項で、谷川が当時の教科書作成に関わった事例として次のようなことを挙げていた。
 学校図書の『中学校国語二上新版』(昭和二十九年)と『中学校国語二上』(昭和三十五年)で掲載された谷川徹三による「宮沢賢治」という教材がある。…投稿者略…
 (昭和三十五年版の)本文前半における生涯の簡単な紹介の後、後半では「なくなる二―三日前のようすは、家の人たちによって伝えられていますが、これは、賢治の人がらを、もっともよくもの語っています。」として、死の前日に尋ねてきた村人の肥料相談にまつわるエピソードが中心に紹介されている。
 その夜七時ごろ、見知らぬ村人がたずねてきました。肥料のことでききたいことがあるというのです。家族は賢治の容態を知っているのでこまりましたが、とにかくとりつぎました。すると、賢治は、そういう人なら、どうしても会わなければならないと言って起きあがり、衣服を改めて、客に会いました。客は、賢治がそんなに重態だとは知らず、ゆっくり話しこみました。それを、賢治は、きちんとすわったまま、ていねいに聞き、一つ一つ指導してやったのです。家族は、気が気でありませんが、どうすることもできません。一時間ほどして、やっと客が帰ると、賢治はぐったりととこにつきました。
〈『慶応義塾大学学術情報リポジトリ 2005」所収〉
 よって、この論文に従えば、谷川はあの賢治終焉前日の面談を戦後になってからもとても重視していたと感じた。すると思い出すことは、谷川はあの講演「今日の心がまえ」でも、
 父親にそういう風に言ったその夕方七時頃、近くの村の人が一人、賢治を訪ねて来ました。肥料のことでお聞きしたいことがあると言うのであります。重態の病人でありますから家人は躊躇しましたが、とにかく、その旨を賢治に伝えますと、そういう人ならどうしても会わなければならないと、直ぐ床から起きて、着物を着かえて玄関に出て、そうとは知らぬ村の人のゆっくりした話を、少しも厭な顔をしないで聞いて、そうして肥料の設計に就いてのくわしい指示を与えてかえした。───▲ 〈『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)16p~〉
と同じようなことを聴衆に語っていたことをだ。よって、谷川は「今日の心がまえ」において戦意昂揚を訴えった際に語ったこの〝▲〟とほぼ同じことを、戦後の教科書にも載せていたということになるから、光太郎のようには戦争協力を悔いてはいなかったようだ。逆に、賢治を戦意昂揚に使えたという経験から、戦後でも賢治は使えると思ったのだろうか。それとも、それは自己弁護だったのだろうか。
 次に私は、論文〝③ 「戦後小学校国語検定教科書における宮沢賢治の伝記教材の変遷」〟によって、戦後宮澤賢治の教材が多用され続けてきたということも知った。
 そして、この「多用」については、論文〝② 「第二次世界大戦後の国語教科書における〈宮沢賢治〉像―理想的人間像の変容―」〟に掲載されている、「「雨ニモマケズ」関連テクストの採択率」の表からも端的に示唆された。
 また、この茅野氏の同論文には、賢治伝記教材の一覧表が載っていて、
 昭和20~30年代に掲載された伝記教材(古谷綱武の「伝記を読みましょう」や谷川徹三の「宮沢賢治」等)を分析すると、聖人・賢人・善意の人としての賢治像が強調されていることがわかる。
と述べていた。このことは、それぞれの執筆者からも示唆される。それは、谷川徹三とその谷川に師事した古谷綱武だからである。そして谷川だが、あの講演「今日の心がまえ」の始めの方で「雨ニモマケズ」を朗読し、「この詩を私は、明治以来の日本人の作った凡ゆる詩の中で、最高の詩であると思っています」とか「宮沢賢治の文学が賢者の文学としての性格を顕著に持っておる」と褒めちぎったことも周知のとおりである。
 さらに、茅野氏は「4-2 学校図書「宮沢賢治」」という項で谷川執筆の教材「宮沢賢治」について、次のように論を、
 「ただの詩人ではありませんでした。」と、詩人以外の面を打ち出すことを読者に知らせる。その上で、「実行の人」という側面を提出し、聖人・賢人としての賢治像を描く。…投稿者略…「賢治の死を、ブドリの死にたとえることはできないでしょうか」と、賢治の生き方を「ブドリ」と重ね合わせるのが執筆者である谷川の賢治観であり、その後長らく影響を残す。作家としての賢治よりも聖人としての賢治を描くため、「かれの創作が、美しいばかりでなく、何か特別に人の心を動かすものをもっているのも、かれの生活態度がその作品に現れているからです。」や、「なくなる2ー3日前のようすは、賢治の人がらを、もっともよくもの語っております。」として、訪ねてきた農民に「一つ一つ指導してや」る姿を描き、後半は「ねてもさめても、農民たちのことを考えていた、賢治の精神を表す童話」として「グスコーブドリの伝記」を載せる。…投稿者略…
と展開し、同氏は最後に、
 詩人、作家としての賢治の業績や価値は二の次であり、聖人としての賢治像を子どもに与えようとしているのである。
と断じていたことも知った。そこで、やはり谷川は「聖人としての賢治像を子どもに与えようと」していたのだと私は改めて確信した。
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