《1 ノダケ》(2023年8月19日撮影)
《2 》(2023年8月19日撮影)
《3 アマニュウ》(2023年8月19日撮影)
《4 》(2023年8月19日撮影)
《5 ウマノミツバ》(2023年8月19日撮影)
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しかも、これらの「推定群⑴~⑺」は、クリスチャンであった高瀬露が信仰を変えて法華信者になってまでして賢治に想いを寄せ、一方賢治はそれを拒むという内容になっている。それ故、この「推定群⑴~⑺」を読んだ人たちは、そこまでもして賢治に取り入ろうとした露はきわめて好ましからざる女性であったという印象を持つであろうことは容易に想像できるので、これらの「推定群」を文字にして公表することは筑摩書房ほどの出版社であれば、きわめて慎重になるはずだ。信仰に関わるし、人権が絡むからであり、世間からの信頼が厚い良心的出版社だからなおのことである。
それはもちろん、このような「推定群」をそのような出版社が活字にすれば世の常で、出版時点ではあくまでも推定であったはずの〔昭和4年露宛賢治書簡下書〕がいつのまにか断定調の「昭和4年露宛賢治書簡下書」に変身したり、はては「下書」の文言がどこかへ吹っ飛んでしまって「昭和4年露宛賢治書簡」となったりしてしまう虞もあるからである。そして同様に、「推定群⑴~⑺」の内容も、延いては、「露は賢治にとってきわめて好ましからざる女性であった」ということまでもが独り歩きしてしまうこともまた、である。
そして実際、この〝「新発見」の賢治書簡下書252c群及び「推定群⑴~⑺」の公表〟(以後、この公表のことを〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟と略記する)後、それまでは一部にしか知られていなかった、賢治にまつわる無名の〈悪女伝説〉が、濡れ衣の可能性が高いのにもかかわらず実名を用いた〈悪女・高瀬露〉に変身して、一気に全国に流布してしまったということを否定出来ない。ちょうど先に紹介した、
例えば、二〇〇七年(平成19年)に出版されたある本では、
一方で、「旧校本年譜」の担当者である堀尾青史は、
それにしても、なぜ『校本全集第十四巻』は、「新発見」とは言い難いのに「新発見の書簡252c」とセンセーショナルな表現をし、さらに、「推定は困難であるが」と言いながらも、その推定を延々と繰り返した「推定群⑴~⑺」を公表したのか。良心的で硬派の出版社だと思っていた筑摩書房が、なぜこのような杜撰(典拠などが不確かで、いい加減)だと見えてしまうようなことをしてしまったのかと、私は釈然としなかった。そしてこのようなことに依って、結果的に〈悪女・高瀬露〉という濡れ衣を着せられてしまったのだと私には思えてならない。しかも、森義真氏も次のようなことを講演会で話して下さったから、私はこれはやはり濡れ衣であるということをさらに確信したのであった。
というのは、森氏は、令和2年3月20日に矢巾町国民保養センターにおいて行った『賢治をめぐる女性たち―高瀬露について―』という講演会において、
と話して下さったからだ。
《2 》(2023年8月19日撮影)
《3 アマニュウ》(2023年8月19日撮影)
《4 》(2023年8月19日撮影)
《5 ウマノミツバ》(2023年8月19日撮影)
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しかも、これらの「推定群⑴~⑺」は、クリスチャンであった高瀬露が信仰を変えて法華信者になってまでして賢治に想いを寄せ、一方賢治はそれを拒むという内容になっている。それ故、この「推定群⑴~⑺」を読んだ人たちは、そこまでもして賢治に取り入ろうとした露はきわめて好ましからざる女性であったという印象を持つであろうことは容易に想像できるので、これらの「推定群」を文字にして公表することは筑摩書房ほどの出版社であれば、きわめて慎重になるはずだ。信仰に関わるし、人権が絡むからであり、世間からの信頼が厚い良心的出版社だからなおのことである。
それはもちろん、このような「推定群」をそのような出版社が活字にすれば世の常で、出版時点ではあくまでも推定であったはずの〔昭和4年露宛賢治書簡下書〕がいつのまにか断定調の「昭和4年露宛賢治書簡下書」に変身したり、はては「下書」の文言がどこかへ吹っ飛んでしまって「昭和4年露宛賢治書簡」となったりしてしまう虞もあるからである。そして同様に、「推定群⑴~⑺」の内容も、延いては、「露は賢治にとってきわめて好ましからざる女性であった」ということまでもが独り歩きしてしまうこともまた、である。
そして実際、この〝「新発見」の賢治書簡下書252c群及び「推定群⑴~⑺」の公表〟(以後、この公表のことを〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟と略記する)後、それまでは一部にしか知られていなかった、賢治にまつわる無名の〈悪女伝説〉が、濡れ衣の可能性が高いのにもかかわらず実名を用いた〈悪女・高瀬露〉に変身して、一気に全国に流布してしまったということを否定出来ない。ちょうど先に紹介した、
賢治の年譜としては最も信頼性が高いとされる『校本』の年譜に記されたことで、それを「説」ではなく「事実」として受け取った人も少なくなかったであろう。
という危惧と同様で、「高瀬露」の名前が登場するこれらの「推定」が『校本全集第十四巻』に公表されたことで、「推定」を「事実」として受け取った人も少なくなかったであろうことに依って、賢治の周辺に〈悪女〉がいたという風説の〈無名の悪女伝説〉が、〈高瀬露悪女伝説〉に変身して一気に全国に広まっていったという蓋然性が高い。例えば、二〇〇七年(平成19年)に出版されたある本では、
感情をむき出しにし、おせっかいと言えるほど積極的に賢治を求めた高瀬露について、賢治研究者や伝記作者たちは手きびしい言及を多く残している。失恋後は賢治の悪口を言って回ったひどい女、ひとり相撲の恋愛を認識できなかったバカ女、感情をあらわにし過ぎた異常者、勘違いおせっかい女……。
とか、はたまた、二〇一〇年(平成22年)に出版された別の本でも、 無邪気なまでに熱情が解放されていた。露は賢治がまだ床の中にいる早朝にもやってきた。夜分にも来た。一日に何度も来ることがあった。露の行動は今風にいえば、ややストーカー性を帯びてきたといってもよい。
というようにである。一方で、「旧校本年譜」の担当者である堀尾青史は、
今回は高瀬露さん宛ての手紙が出ました。ご当人が生きていられた間はご迷惑がかかるかもしれないということもありましたが、もう亡くなられたのでね。〈『國文學 宮沢賢治2月号』(學燈社、昭和53年)177p〉
と境忠一との対談で語っていたし、天沢退二郞氏も、 高瀬露あての252a、252b、252cの三通および252cの下書とみられるもの十五点は、校本全集第十四巻で初めて活字化された。これは、高瀬の存命中その私的事情を慮って公表を憚られていたものである。〈『新修 宮沢賢治全集 第十六巻』(筑摩書房)415p〉
と述べていたから、この二人は共に、高瀬露が亡くなったので公表したと言っているようなものだ。よって、「新発見」の書簡252cとは言い難いことを知った私は、〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟によって露は結果的に濡れ衣を着せられたと言わざるを得ないと今まで考えていた(が、それも間違いだと気付いた。今回のここまでの考察によって事態はもっと深刻だったのだと、考え方を変えつつあるからだ)。それにしても、なぜ『校本全集第十四巻』は、「新発見」とは言い難いのに「新発見の書簡252c」とセンセーショナルな表現をし、さらに、「推定は困難であるが」と言いながらも、その推定を延々と繰り返した「推定群⑴~⑺」を公表したのか。良心的で硬派の出版社だと思っていた筑摩書房が、なぜこのような杜撰(典拠などが不確かで、いい加減)だと見えてしまうようなことをしてしまったのかと、私は釈然としなかった。そしてこのようなことに依って、結果的に〈悪女・高瀬露〉という濡れ衣を着せられてしまったのだと私には思えてならない。しかも、森義真氏も次のようなことを講演会で話して下さったから、私はこれはやはり濡れ衣であるということをさらに確信したのであった。
というのは、森氏は、令和2年3月20日に矢巾町国民保養センターにおいて行った『賢治をめぐる女性たち―高瀬露について―』という講演会において、
そうしたところに、上田さんが発表した。しかし、世間・世の中ではやっぱり〈悪女〉説がすぐ覆るわけではなくて、今でもまだそういう〈悪女〉伝説を信じている人が多くいるんじゃないのかなと。しかしそこにまた石を投げて〈悪女〉ではないと波紋を広げようとしているのが鈴木守さんで、この『宮澤賢治と高瀬露』という冊子と、『本統の賢治と本当の露』という本を読んでいただければ、鈴木さんの主張もはっきりと〈悪女〉ではないということです。はっきり申し上げてそうです。
とか、 時間がまいりましたので結論を言います。冒頭に申し上げましたように、「高瀬露=〈悪女〉」というこれは本当に濡れ衣だと私は言いたい。それについては上田哲さんがまず問題提起をし、それを踏まえて鈴木守さんが主張している。それに私は大いに賛同します、ということです。
〈『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(露草協会編、ツーワンライフ出版)8p~〉と話して下さったからだ。
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