みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

1385 満蒙開拓青少年義勇軍

2010-03-25 17:53:55 | 賢治関連
    <Fig.1『土と戦ふ』(復刻版)(菅野正男著、「土と戦ふ」刊行委員会)>

 『菅野正男小伝』(伊藤誠一著)によれば、「満蒙開拓青少年義勇軍」について次のように述べている。
 四 満蒙開拓青少年義勇軍 
 昭和六年(一九三一)九月の満州事変で勝利を収めた日本(関東軍)は、翌七年三月に同盟国満州国を建国しました。
 満州国の建国の理想は民族協和<五族協和・満州族・蒙古族・日本(大和)民族・漢民族・韓族>と王道楽土<有徳の君主が治める平和で楽しい土地>建設で、そのためには「日本人の移住開拓が興亜大業の基本」と国策をすすめました。
   …(中略)…
 義勇軍の役割は「国策移民の完成を助け、将来の移民地を管理し、交通線を確保し、一朝有事の際には現地後方の兵站<食糧・軍需品の供給輸送にあたる>の万全に資する」(昭和十二年十一月、満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書)とあり、満州国の防衛強化と手段開拓の労力不足を補完するものでした。

 さてこのようにして創設された満蒙開拓青少年義勇軍だが、『満蒙開拓青少年義勇軍』(上 笙一郎、中公新書)によれば、新聞や雑誌は争ってこれらを取り上げ、その国策的な意義とすばらしさを書き立て、青少年義勇軍のことを『第二の屯田兵』とか、少年達だけで編成されるところから『昭和の白虎隊と』讃えたという。そのせいか、昭和十三年の第一次募集では定員5,000名に対してその約2倍9,950名の応募があったという。

 その第一次募集に応じた一人に菅野正男がおり、その経緯を後ほど日本に一時帰国して行った現地報告会で彼は次のように述べている。
 私は長男であるから義勇軍を志願しても父が許さなかった。しかし百姓として生きる信念の私には大陸の土に対する愛着と憧憬は深かった。私は三年たったら帰ってくると父を騙して渡満した。義勇軍は忠義となる第一歩である。国の為になることであり将来安定した一家をつくるのであるから、父を一時騙しても結局は孝行にもなる。
    <『菅野正男小伝』(伊藤誠一著)より>
 そして、昭和13年4月に渡満した菅野は最初は嫩江(ノンジャン)訓練所に入所、約1年後哈川(ハセン)訓練所に移ったがその間の体験を手記『土と戦ふ』として著した。
 この執筆に関しては、菅野自身が昭和14年の初春に川口農業補習学校時代の恩師昆野安雄に宛てた手紙の中で次のように述べている。
 実は中隊長の指導によって私は今我らの苦闘の記「土と戦ふ」を書いて居ります。未だ完成しません。題も確定した訳ではありません。私の一人決めです。私は何も書いた事もなくテンデ見当がつきません。書く前に「土と兵隊」「麦と兵隊」を読みました関係で似た様なものの下等なのが出来る様に思えてなりません。どうでも好いから最後まで書ければ此の上もない事と思って居ります。
    <『土と戦ふ』(復刻版)(菅野正男著、「土と戦ふ」刊行委員会)より>
ということであったが、出版したならばたちまち反響を呼び第2回農民文学賞受賞、文部省推薦やそうそうたる人物が推薦したようでかなりの版を重ねたという。

 さてそこで気になっていることの一つだがそれは、この本のタイトル『土と戦ふ』である。あれっ、甚次郎の『土に叫ぶ』のタイトルと”土”がダブッテいるぞと思ったからである。
 直感で、もしかすると菅野は『土と戦ふ』出版以前に『土に叫ぶ』も読んだことがあるのではなかろうかと思ったのである。その本で菅野は甚次郎の一途な生き方と実践を知って共鳴し、それがタイトルに現れたのじゃなかろうかと思ったからである。
 因みにそれぞれの初版の出版時期は
 『土に叫ぶ』:昭和13年5月18日
 『土と戦ふ』:昭和14年6月(満州版)
であるから時間的な矛盾はない。

 一方、以前”松田甚次郎と吉田コト”で触れたように、甚次郎の生活の実践記録『土に叫ぶ』は昭和13(1938)年5月に発売されるやいなや全国の農業青年を中心に熱狂的に受け入れられてたちまちベストセラー、出版から三ヶ月もたたないうちに新国劇でとりあげるところとなり、同8月からは東京有楽座で華々しく上演された。島田省吾、辰巳柳太郎を主役に一ヶ月のロングラン、連日満員御礼を続けた。
 ところが、菅野は1938年4月にはもう渡満しているから日本には居らず、同5月に出版された『土に叫ぶ』が日本国内でベストセラーになっていることや、日本国内で農業青年を中心に熱狂的な支持を受けていることなどは知る由もなかったろう。
 したがって、菅野が『土と戦ふ』を出版する前に既に『土に叫ぶ』を読んでいたということはほぼなかったであろう。

 おそらく、菅野が出版に際して読んだという火野葦平『土と兵隊』(初版は昭和13年)といい、当時出版された『土に叫ぶ』といい何れもタイトルの出だしが『土……』となっている。そういえば、以前吉田コトのことを報告した際にも『土に叫ぶ』のタイトルの候補に『土に生きる』というのがあったということであった。多分、当時は本のタイトルに”土”を着けるが流行っていたのだろう。それが、菅野の手記のタイトルに”土”がついている大きな理由だったのだろう。先ず気になっていたことの一つはこれで得心した。

 しかし、もう一つ気になっていたことがあった。そしてそのことから、菅野は昭和15年2月までには少なくとも『土に叫ぶ』を読んでいたのではなかろうかと思ったのである。

 続きの
 ”菅野正男と『土に叫ぶ』”へ移る。
 前の
 ”『土と戦ふ』菅野正男”に戻る。

 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 1384 裏山報告(3/24その2)  | トップ | 1386 宮澤賢治の「西根山」 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治関連」カテゴリの最新記事