みちのくの山野草

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1063 『土に叫ぶ』(その5)

2009-07-30 08:01:37 | Weblog
 <写真は「八幡神社の境内につくった土舞台」(『宮澤賢治精神の実践』(安藤玉治著、農文協)より)>
 さらに賢治は続けて「農民劇をやれ」ということに関して説明したと『土に叫ぶ』は語る。
 「次に農民芝居をやれといふことだ。これは単に農村に娯楽を与へよ、という様な小さなことではないのだ。我等人間として美を求め美を好む以上、そこに必ず芸術生活が生まれる。殊に農業者は天然の現象にその絶大なる芸術を感得し、更らに自らの農耕に、生活行事に、芸術を実現しつゝあるのだ。たゞそれを本当に感激せず、これを纏めずに散じてゐる。これを磨きこれを生かすことが大事なのである。若しこれが美事に成果した暁には、農村も農家もどんなにか楽しい、美しい日々を送り得ることであろうか──と想ふ。そこから社会教育も、農村の娯楽も、農民啓蒙も、婦人解放も、個人主義打開も、実現されてくる。村の天才、これは何処にも居る。歌作りの上手な人、歌を唄うことの上手な人、踊りの上手な人、雄弁家の青年、滑稽の上手な人等々、数限りもなく居るのだ。これを一致させ、結び綜合し、統制して一つの芝居をやれば、生命を持って来るのだ。その生命こそあらゆる事業をも誕生せしめ、実現させて行くことになるのである。喜び乍ら、さんざめき乍ら、村の経済も、文化も向上して行く姿が見えるではないか。
 そしてこれをやるには、何も金を使はずとも出来る。山の側に土舞台でも作り、脚本は村の生活をそのまゝすればよい。唯、常に教化ということゝ、熱烈さと、純情さと、美を没却してはいけない。あく迄も芸術の大業であることを忘れてはならいないと懇々教えられた上、小山内氏の『演劇と脚本』といふ本をくださった。そしてこれをよく研究して、青年達を一団としてやる様にと、事こまごまとさとされた。つい時の過るのを忘れ、恩師の温情と真心溢るゝ教訓に、首を垂れたものであった。
 考へて見れば本当に今の農村の指導者は、一人として小作人に成り切つた心持でやつて居る者はない。農民劇など考へもつかぬ。歌や俳句ばかりが、唯一の芸術と考へるのが一般の認識だ。十年先のことを明察して居られる恩師の偉大さが、故人となられて一入深く感ぜられ、愛慕の念にかられるのである。

 そして、松田甚次郎は賢治の訓えのとおりに故郷鳥越村に帰って小作人となり、村社の八幡神社境内に土舞台を作ってそこで農民劇を行ったりしたという。
【上演中の舞台】

  <『宮澤賢治精神の実践』(安藤玉治著、農文協)より>

 具体的には以下のとおりである。
昭和2年4月25日   鳥越倶楽部を結成する
  〃 9月10日   農村劇「水涸れ」公演
昭和4年       農村劇「酒造り」公演
昭和5年9月15日   農村劇(移民劇)公演
昭和6年9月     農村劇「壁が崩れた」公演
昭和7年2月     農村劇「国境の夜」公演
昭和8年2月     農村劇「佐倉宗吾」公演
昭和9年       農村喜劇「結婚後の一日」公演
昭和10年12月     「ベニスの商人」公演
  〃  暮 選挙粛正劇「ある村の出来事」公演
昭和11年4月    農村劇「故郷の人々」「乃木将軍と渡守」公演
昭和12年1月10日  「農村劇と映画の夕」公開
           (実家の都合により塾一時閉鎖)
(昭和13年5月18日   「土に叫ぶ」出版)
昭和13年      農村劇「永遠の師父」公演
昭和14年8月15日  農村劇「双子星」公演
昭和15年      二千六百年奉祝の舞踏と奉祝歌公演
昭和17年2月    農村劇「勇士愛」公演
昭和18年3月21日  「種山ヶ原」「一握の種子」公演
昭和18年8月4日  松田甚次郎逝去(享年35歳)
  
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