
《『岩手山麓開拓物語』(黒澤勉著、ツーワンライフ(21Life)出版)の表紙》
過日、友人の黒澤勉氏から『岩手山麓開拓物語』をご恵与いただいた。
同書は、その帯にもその説明があるように、
日本一の開拓地・岩手山麓滝沢市に生きる開拓民の記録集
戦後、満州開拓から岩手山麓開拓民として入植。苦難に充ちたその人生を聞き取り「拓魂」を追求した20人が語る半生の稀有な記録集。
である。戦後、満州開拓から岩手山麓開拓民として入植。苦難に充ちたその人生を聞き取り「拓魂」を追求した20人が語る半生の稀有な記録集。
ページを捲りながらまず目がいったのは、節「2.狼久保に生きる――元北上開拓団、工藤留義さんの半生 」だ。
というのは、以前の投稿〝やはり唱われていたし、それは「玄米三合」だった〟において、
満蒙開拓青少年義勇軍(満州開拓青年義勇隊の隊員だったお方(KT氏)に会いに行った。その方は昭和2年生まれであの柳原昌悦中隊のお一人であった。
と述べた「KT氏」こそがまさに工藤留義さんのことだからだ。そして黒澤氏は、この節で工藤氏の半生を詳しく紹介していた。例えば、
留義の人生で決定的だったのは、14歳で、岡本尋常小学校(浄法寺町)の高等科を卒業するや、満蒙開拓青少年義勇軍に参加し渡満したことと、命からがら大陸から引き揚げて昭和23年、滝沢村狼久保に入植、開拓農民としての道を選んだことである。義勇軍では柳原昌悦中隊長に仕えて金沙地区に「柳原北上開拓団」を結成したものの、敗戦によって満州開拓の夢は挫折した。
〈『岩手山麓開拓物語』(黒澤勉著、ツーワンライフ(21Life)出版)62p〉というように。
もちろんこの「柳原昌悦」とは、賢治の愛弟子のあの柳原昌悦のことである。そこで黒澤氏は、
柳原は賢治を心から尊敬し、義勇軍の青少年に賢治について語って聞かせた。…投稿者略…特に「雨ニモマケズ」の、健康を願い、粗衣、粗食で人のために尽くす、といったような生き方は、義勇軍の人たちが劣悪な待遇を乗り越える精神的支えともなった。それは「欲しがりません、勝つまでは」<*1>という、膨れ上がる軍事費のために国家の財政が危機に面した大日本帝国の軍国主義政策に利用された、という事実も含んでいる。
〈同63p~〉 と論じていた。
すると思い出すのは、小倉豊文が『「雨ニモマケズ手帳」新考』の中でおおよそ次のように、
これが広く一般に知られるに至ったのは昭和11年7月発行の「人類の進歩に尽くした人々」(日本国民少年文庫)に掲載され、更に昭和14年3月に「宮沢賢治名作選」(松田甚次郎編)に収録されそれが版を重ねたことによると思われる。
昭和17年には、軍国主義的独裁政治の国策遂行を目的に組織された「大政翼賛会」の文化部編の「詩歌翼賛」第2輯「常磐樹」の中に採録され、当時の国民とくに農村労働力の強制収奪に利用されることにもなった。
大日本帝国の傀儡政権「満州」でも中国語訳されて同様な目的に利用されていたのは、この詩を軸とする賢治観の対立に象徴的な意味を持つ事実であって、独り農民に関してだけでなく、一般に権力に利用される危険性を持っていたといえよう。
昭和19年9月谷川徹三が東京女子大で「今日の心がまえ」という講演を行ったがそれは「雨ニモマケズ」を中心にした賢治に関するもので、その講演内容は昭和20年6月には当時の国策協力の出版「日本叢書」(生活社)四として「雨ニモマケズ」の書名で初版2万部も発行された。正に「詩歌翼賛」の「常磐樹」への採録と相呼応するものと言えよう。
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)147p>昭和17年には、軍国主義的独裁政治の国策遂行を目的に組織された「大政翼賛会」の文化部編の「詩歌翼賛」第2輯「常磐樹」の中に採録され、当時の国民とくに農村労働力の強制収奪に利用されることにもなった。
大日本帝国の傀儡政権「満州」でも中国語訳されて同様な目的に利用されていたのは、この詩を軸とする賢治観の対立に象徴的な意味を持つ事実であって、独り農民に関してだけでなく、一般に権力に利用される危険性を持っていたといえよう。
昭和19年9月谷川徹三が東京女子大で「今日の心がまえ」という講演を行ったがそれは「雨ニモマケズ」を中心にした賢治に関するもので、その講演内容は昭和20年6月には当時の国策協力の出版「日本叢書」(生活社)四として「雨ニモマケズ」の書名で初版2万部も発行された。正に「詩歌翼賛」の「常磐樹」への採録と相呼応するものと言えよう。
と述べていたことであり、「雨ニモマケズ」が戦意昂揚のために使われ、軍国主義政策に利用されていたということは否定できない「事実」だったということになりそうだ、と私は認識を新たにせざるを得なかった。
あるいはまた、
(工藤留義は)内原で3カ月訓練に励んだ。訓練は厳しく、中には途中で逃げ出す少年もいた。…投稿者略…
内原では、義勇軍の使う教科書の中に宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の詩が載っていて感銘を受けた。また同じ岩手の菅野正男の書いた小説『土と戦ふ』が訓練所で売られていて、それを読んで満州の暮らしを思い描いた。
〈『岩手山麓開拓物語』(黒澤勉著、ツーワンライフ(21Life)出版)74p〉内原では、義勇軍の使う教科書の中に宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の詩が載っていて感銘を受けた。また同じ岩手の菅野正男の書いた小説『土と戦ふ』が訓練所で売られていて、それを読んで満州の暮らしを思い描いた。
ということも紹介されていた。
そうか、「雨ニモマケズ」は内原訓練所でも教科書に載っていたのか。そのことを今まで知らなかった私は、当時戦時下における賢治の位置付けがどのよなものであったのかを、また少し知った。
なお、『岩手山麓開拓物語』には、もちろん工藤留義や柳原昌悦のことのみならず、貴重な証言等が沢山載っておりますので、是非皆さんにもを一度ご覧になってください。
<*1:投稿者註> このようなことは、西田良子氏も、
「雨ニモマケズ」の中の「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」という<忘己><無我>の精神や「慾ハナク」の言葉は戦時下の「滅私奉公」「欲しがりません勝つまでは」のスローガンと結びつけられて訓話に利用されたりした。
<『宮澤賢治論』(西田良子著、桜楓社)166pより>と断じている。

前へ

”みちのくの山野草”のトップに戻る。

森 義真氏の高瀬露についての講演会(ご案内)


※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます