《1 アオミズ》(2023年9月10日撮影)
《2 イノコズチ》(2023年9月10日撮影)
《3 カタバミ》(2023年9月10日撮影)
《4 ミズヒキ》(2023年9月10日撮影)
《5 ミツモトソウ?》(2023年9月10日撮影)
《6 トモエソウ》(2023年9月10日撮影)
《7 》(2023年9月10日撮影)
《8 アカネ》(2023年9月10日撮影)
《9 カナムグラ》(2023年9月10日撮影)
《10 アカソ》(2023年9月10日撮影)
《11 ウド》(2023年9月10日撮影)
《12 アブラガヤ》(2023年9月10日撮影)
《13 ヤマハッカ》(2023年9月10日撮影)
《14 ツユクサ》(2023年9月10日撮影)
続きへ。
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さて、この度の拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』
のタイトルに、なぜ私は「杜撰」を用いたのか。
そして私はふと立ち止まった。谷川は具体的にはどのようにして「聖人としての賢治像を子どもに与えようと」していたのか、いまひとつ見えてこなかったからだ。それは、「雨ニモマケズ」の詩や「グスコーブドリの伝記」では、小学生の子どもたちに「聖人としての賢治像」を育むことは容易いことではないと私には思えたからだ。
そしてその時思い出したのが、先ほどの私の直感「谷川はあの賢治終焉前日の面談を戦後になってからもとても重視していた」である。それと、茅野氏の論文中にあった、「なくなる2ー3日前のようすは、賢治のひとがらを、もっともよくもの語っております。」というこの面談についての記述もだ。
そこで一度前に戻ってみた。すると、谷川があの講演「今日の心がまえ」で語った先の〝▲〟であれば、「賢治は農民のために自分の命まで犠牲にして尽くした立派な人だった」ということは小学生でも読み取ることが出来て、やがて、聖人・賢治像を育むようになるであろうと気付いた。ちょうどかつての私がそうであったように。
ただしこの際にひっかかったのが、この講演において、谷川ははしなくも、
《2 イノコズチ》(2023年9月10日撮影)
《3 カタバミ》(2023年9月10日撮影)
《4 ミズヒキ》(2023年9月10日撮影)
《5 ミツモトソウ?》(2023年9月10日撮影)
《6 トモエソウ》(2023年9月10日撮影)
《7 》(2023年9月10日撮影)
《8 アカネ》(2023年9月10日撮影)
《9 カナムグラ》(2023年9月10日撮影)
《10 アカソ》(2023年9月10日撮影)
《11 ウド》(2023年9月10日撮影)
《12 アブラガヤ》(2023年9月10日撮影)
《13 ヤマハッカ》(2023年9月10日撮影)
《14 ツユクサ》(2023年9月10日撮影)
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さて、この度の拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』
のタイトルに、なぜ私は「杜撰」を用いたのか。
そして私はふと立ち止まった。谷川は具体的にはどのようにして「聖人としての賢治像を子どもに与えようと」していたのか、いまひとつ見えてこなかったからだ。それは、「雨ニモマケズ」の詩や「グスコーブドリの伝記」では、小学生の子どもたちに「聖人としての賢治像」を育むことは容易いことではないと私には思えたからだ。
そしてその時思い出したのが、先ほどの私の直感「谷川はあの賢治終焉前日の面談を戦後になってからもとても重視していた」である。それと、茅野氏の論文中にあった、「なくなる2ー3日前のようすは、賢治のひとがらを、もっともよくもの語っております。」というこの面談についての記述もだ。
そこで一度前に戻ってみた。すると、谷川があの講演「今日の心がまえ」で語った先の〝▲〟であれば、「賢治は農民のために自分の命まで犠牲にして尽くした立派な人だった」ということは小学生でも読み取ることが出来て、やがて、聖人・賢治像を育むようになるであろうと気付いた。ちょうどかつての私がそうであったように。
ただしこの際にひっかかったのが、この講演において、谷川ははしなくも、
その最後の時の様子を序でにもう少しくわしくお話しして置きましょう。
これは佐藤隆房という賢治の主治医であった人が、賢治の家の人から聞いたところを記しているものによっているのでありますが、二十日に愈々容態が悪くなった。〈『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)15p~〉
と述べていたことだ。つまり、その典拠は、〈賢治の家の人→佐藤隆房→隆房の記述〉というルートの伝聞に拠っているのであり、谷川はその出来事を目の当たりにしていたわけでもなければ、実証的な裏付けがあるというものでもないことを知ることが出来た。逆に言えば、典拠が確かなのだろうかという不安が私には生じた。これは佐藤隆房という賢治の主治医であった人が、賢治の家の人から聞いたところを記しているものによっているのでありますが、二十日に愈々容態が悪くなった。〈『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)15p~〉
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