「農民詩人」に対する当時の評価
翌日の昭和2年10月14日付『岩手日報』に引き続き森荘已池の「友へ送る―彼の詩集に就いて―(下)」が掲載されていて、そこには詩集『たんぽぽ』に関して次のようなことなどが述べられている。
▼『お鶴の死とおれの中に』▲
お鶴はおかんとおらの心の中には生きとるけんど
夜おそうまでおかんの肩をひねる
ちつちやい手は消えてしもうた
おら六十のおかんを養ふため働きにゆ . . . 本文を読む
なぜ賢治は『銅鑼』への発表を止めたのか
さて、ここでもう一度前掲の心平の証言を確認したい。それは、
二人の農民詩人が参加したことで、賢治は「銅鑼」に作品を寄せる必要がなくなったという書簡を寄せたことがあるというものであった。
これを素直に受け止めれば、
もともといた「農民詩人」坂本遼に加えて、この度新たに二人の「農民詩人」猪狩満直、三野混沌が同人となったからこれで計3人の農民詩人が『銅鑼』 . . . 本文を読む
『銅鑼』同人
ところで、当時の『銅鑼』にはどのような人達が参加していたのであろうか。昭和3年3月28日付『岩手日報』の「文藝」の記事によれば
・高村光太郎
・宮沢賢治
・高橋新吉
・佐藤八郎
・小野十三郎
・岡本潤
・土方定一
・緒方亀之助
・赤木健介
・坂本遼=「農民詩人」
・手塚武
・草・野心平
・萩原恭二郎
・猪狩満直=「農民詩人」
. . . 本文を読む
前回私は、 下根子桜時代に詠んだ賢治の多くの詩、『春と修羅』第三集の中の多くの詩は「農民詩」のジャンルに入いるのではなかろうか。という意味のことを述べたが、今回もこのことに関連して投稿したい。
「昭和二十年までの賢治評価」より
たまたま『修羅はよみがえった』を見ていたところ、その中に森 三沙氏の論考「昭和二十年までの賢治評価」があり、その中で次のようなことが述べられていた。
「對山漫録(上) . . . 本文を読む
この度、犬田卯のことを知りたくて牛久の住井すゑ記念館を訪ねた訳だが、すぐそばに牛久沼が見えた。かつて犬田が日々悶々として眺めていたり、旅費を稼ぐためにアサリを獲ったりしたであろう沼に違いない。
そこで、牛久沼周辺を少し彷徨いてみた。その際に見ることができた野草の花を以下に少しだけ報告する。私にとっては殆どが初見の花である。
《1 牛久沼》(平成24年9月8日撮影)
《2 〃 》(平成24年 . . . 本文を読む
最初、犬田卯なる人物を知った頃は、まさかその妻が住井すゑ(すみいすえ)であるということ等は全く知らなかった。その住井の記念館が牛久にあると聞いていたので、先日訪ねてみた。もちろん、犬田卯本人の記念館があればそこを先ず訪ねてみたいのだが、残念ながらそんなものは何処にもないのだそうだ。それゆえ、住井の記念館ならば夫である犬田卯に関する新たな情報が何か得られるのではなかろうかと期待したのであった。
. . . 本文を読む
ではここからは、下根子桜時代の賢治と犬田の創作活動における相似性について考えてみたい。
1.下根子桜時代の賢治の詩は農民詩?
さて、「農民詩」について考えているうちに、〝「農民詩」人〟渋谷定輔に話が及び、さらには土田杏村等までに関心が至ってしまって大分回り道をしてしまったのだったが、ここに辿り着くまでの道すがら、下根子桜時代の賢治の詩は農民詩であったのではなかろうかということに思い至った。な . . . 本文を読む
3.犬田卯と農民劇
下根子桜で暮らしていた頃の賢治が農民劇の上演を目論み、松田甚次郎に『農民劇をやれ』と〝訓へ〟ていた頃、一方の犬田卯は農民劇に対してどのように対応していたかを雑誌『家の光』のを通じて確認してみる。
当時の『家の光』を見てみると以下のような記事等が載っている。
【1 昭和2年9月号】農民劇と農民映畫 犬田 卯
【2 昭和2年11月号】農民の實演劇に就て 犬田 卯
また、次 . . . 本文を読む
2.賢治自身の語る農民劇
では一方、教え子ではなくて賢治自身は自分が取り組んでいた演劇を〝農民劇〟ととらえていたかどうか。
(1) 『昭和2年2月1日付岩手日報』では
その一端を知ることができるのがまずは例の『昭和2年2月1日付岩手日報』の報道の中の
…(略)…同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め . . . 本文を読む
前回は思想面における犬田卯と宮澤賢治の相似性などを検討してみたのだが、今回からは農民劇に関しての二人の相似性を考えてみたい。
さて、そもそも農民劇に関して賢治はどんなことを考え、どんなことを関連して言っていたかをまずは調べてみたい。
1.平來作の証言より
『宮沢賢治物語』の中には平來作からの聞き書き「農民劇」が載っており、
何かの折に、
「花巻言葉で、菩提樹の皮の蓑着て、舞台さ、がさが . . . 本文を読む
3.大正末期・昭和初期の犬田の農民文芸
賢治が下根子桜に住んでいた頃、犬田卯は大正15年には『土に生まれて』を、昭和3年には『土にあえぐ』をともに平凡社から、そして『土にひそむ』を昭和4年に不二屋書房から相次いで出版している。
そして、安藤義道氏によれば、
この三つの作品はいわば犬田卯の「土」三部作といえる。主人公はいずれも良一であるが、恐らく犬田卯をモデル化した農村青年であろう。というのは . . . 本文を読む
(今回からは何とか犬田卯に戻れそうです)
『野良に叫ぶ』出版以降
大正15年7月1日に発刊された『野良に叫ぶ』は評判を呼び、7月の下旬に入ると「各方面から『野良に叫ぶ』の礼状や感想が舞い込」んだという。一方で渋谷定輔はこの頃、「農民自治会」運動にも懸命になっていたという(『農民哀史』(渋谷定輔著、勁草書房)所収の年譜より)。
そこで今回は、「農民自治会」等を通して『野良に叫ぶ』が出版されて . . . 本文を読む
【宮澤賢治年譜抜粋 大正15年6月】
より
『農民芸術概論綱要』が書かれた時期
現在、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)の年譜では『農民芸術概論綱要』が書かれた時期については上掲のようになっている。そこで私は以前、〝賢治、家の光、犬田の相似性(#32)〟において、
この時期を〝六月〟としているのは何を根拠にしてそう決めているのだろうか…。という疑問を呈したことがあった。
ところ . . . 本文を読む
さて、『野良に叫ぶ』を出版した渋谷定輔はその前後どうしていたのだろうか。
松永伍一は次のように紹介している。
そのころかれは「家族制度を呪詛し、長男という囚人にひとしい束縛を呪いながら、百姓をやらねばならず、そこで村の小作人を扇動し、県下屈指の有名な三年間無耕作の大小作争議を巻き起こした。その間、私は日本農民組合に加盟したけれど、インテリゲンチュアの中央委員の衒学的優越感に憤激し、しばらくし . . . 本文を読む
ティータイム
面会謝絶に関わって
例の大正15年7月25日の面会謝絶事件に関わる新聞記事が、大正15年7月27日付『岩手毎日新聞』にも載っていた。それは
詩とレコード 白鳥氏の講演
啄木会主催の「詩とレコード」の会はさる廿五日午後七時より市内六日町仏教会館に於て催されたが予て白鳥氏の名声を聴き知つてゐる文学愛好の男女一百名其の中に県勧業課長も打ちまじり仲々の盛会で先づレコードの演奏あり文芸講 . . . 本文を読む