《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 では、昭和2年5月分について賢治の営為と詠んだ詩を『新校本年譜』から以下に抜き出してみよう。
五月一日(日)
〈ドラビダ風〉(→)
五月三日(火)
〈政治家 〉 (→〈〔おい けとばすな〕〉〈〔何と云はれても〕〉〈〔こぶしの咲き〕〉
五月七日(土日)
〈〔秘事念仏の大元締が〕〉〈〔古びた水いろの薄明穹のなかに〕〉
五月九日(月)
〈〔銀のモナドのちら . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》露の生家が気になる
前回最後についつい、
4月に詠んだであろう詩に関して述べたいことがあり、それはその頃の賢治の心の中を大きく占めていたことの一つに高瀬露があったのではなかろうかということであるが…と口走ってしまったのだが、その詩とは次の詩
一〇四二 〔同心町の夜あけがた〕 一九二七、四、二一、
同心町の夜あけがた
一列の淡い . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》距離を埋められずにいる賢治
さて、この4月に賢治が詠んだであろう詩の中で気になったものとして次のようなものもあった。
午 一九二七、四、二〇、
ひるになったので
枯れたよもぎの茎のなかに
長いすねを抱くやうに座って
一ぷくけむりを吹きながら
こっちの方を見てゐるやうす
七十にもなって . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 さてここでは賢治が昭和2年4月に詠んだであろう詩について気になったもののうち、前回取り上げた〔一昨年四月来たときは〕を除いて以下に幾篇か見てみたい。
まずは次の詩である。
一〇三五 〔えい木偶のぼう〕 一九二七、四、十一、
えい木偶のぼう
かげらふに足をさらはれ
桑の枝にひっからまられながら
しゃちほこばっ . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》ますます旺盛な詩嚢
では、昭和2年4月分について賢治の営為と詠んだ詩を『新校本年譜』から以下に抜き出してみよう。
四月一日(金)(→)
四月二日(土)
四月四日(月)
→
四月五日(火)
(→)(→)
四月七日(木)
. . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 一方で賢治は、ここしばらくあまり詠んでいなかった詩を急に沢山詠むようになっていたということは、少なくとも精神的には昂揚していた時期であったであろうということは容易に想像できるし、それはこの3月8日に初めて下根子桜を訪ねてきた松田甚次郎への賢治の対応からも同じような高ぶりが窺える。
松田甚次郎の来訪
かつて賢治から
君達に贈る言葉はこの二つだ――
. . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 ではここではこの3月に詠んだ賢治の詩を見てみることにする。ちなみに、賢治の「下根子桜時代」に詠んだ賢治の詩の数の推移は次の図表
【賢治下根子桜時代の詩創作数推移】
の如くでかなりの数に上るが頑張ってみよう。それにしても、一体この昭和2年3月の急増は何を物語っているのだろうか。
まずはそれらの詩を時系列に従って並べてみよう。
〈〔今 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》昭和2年3月の賢治
では、昭和2年3月分について賢治の営為と詠んだ詩を『新校本年譜』から以下に抜き出してみよう。
三月四日(金) < 〔今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです〕>
二月二七日付案内による「春ノ集リ」が開かれたと見られる。
湯口村堰田の高橋末治の日記によると「組内の人六人宮沢先生に行き地人会を始めたり 我等も会員と相成る」。
三月八(火 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》昭和2年2月の賢治
では今度は、『新校本年譜』の昭和2年2月分から賢治の営為と詠んだ詩を以下に抜き出してみよう。
二月一日(火) 2/1付け岩手日報夕刊に『農村文化の創造に努む』という記事掲載。
二月一〇日(木) 羅須地人協会講義「植物生理学要綱」下部。午前一〇時より午後三時まで。
二月一二日(土)
二月一八日(金) 「岩手日報記事」に2/1付けの記事を . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》昭和2年1月の賢治
ではここで、『新校本年譜』から昭和2年1月分について賢治の営為と詠んだ詩を以下に抜き出してみよう。
一月五日(水) 伊藤熊蔵、竹蔵来訪、中野新佐久往訪
一月七日(金) 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤直美等来訪
一月一〇日(月) 〔講義案内〕による羅須地人協会講義が行われたと見られる。
一月二〇日(木) 羅須地人協会講義。参会 . . . 本文を読む
《『昭和2年の賢治の日記帳(印刷上は「大正十六年日記」)』》 約一ヶ月の滞京を終えて前年末に花巻に戻った賢治は、とりわけ「凶饉」とも言える紫波郡内の惨状等を早速目の当たりにしたであろうが、それに対してどう感じて、どのような救援活動をしたのだろうか。
賢治昭和2年の「一年の計」
年が改まって昭和2年となった賢治は、年頭に当たってどのような「一年の計」を立てたのだろうか。一般に賢治は日記を付けなか . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》昭和2年2月1日付『岩手日報』より
そして、月が変わった2月1日、『岩手日報夕刊』に「農村文化の創造に努む」という報道がなされた、その報道内容は以下のようなものであった。
農村文化の創造に努む
花巻の青年有志が 地人協會を組織し 自然生活に立返る
花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》被害は甚大広がる罹災地
さらには、次のような報道もあった。
【Fig.1 昭和2年1月23日付『岩手日報』】
知事夫人が 旱害罹災者慰問 内務部長夫人と 共に二十五日から
とあり、次の県下各地の旱害罹災地
▲紫波郡赤石、不動村
▲和賀郡中内、谷内村
▲江刺郡羽田村
▲西磐井郡日?村
を訪問するという。このことからは . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》紫波地方一帯は凶歉
では、話を元に戻して続けよう。
昭和2年1月19日付付『岩手日報』によれば、古館村の旱害被害も甚大だったという次のような記事もあった。
【Fig.1 昭和2年1月19日付『岩手日報』】
得能知事が旱害地視察 寒さと飢えになく村民 正視するに忍びない 彼等のドン底生活
紫波郡地方のかん害惨状は日一日と深刻の度を増し行きやがて來 . . . 本文を読む
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 さて、巷間
羅須地人協会時代の賢治は貧しい農民達のために己を犠牲にしながらも献身的に活動した。といわれていると私が今まで思ってきた賢治だったが、シリーズ『大正15年の宮澤賢治』において大正15年の賢治の総体のあらましを調べた限りでは、残念ながら
「羅須地人協会時代」のうちの大正15年をここまで見てきた限りにおいては、それにふさわしいような賢治の活動は殆 . . . 本文を読む